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「これはまた久しぶりですね。その後、具合の方はいかがです」


 ロビーに入ると、顔見知りの教授が私の姿を見つけ、人混みを縫って近づいてきた。最後に会った時から約一年が経過していたが、彼の小太りな体型と肉付きの良い顔立ち、そして眼鏡の奥の子羊のような瞳は、ほとんど変化していなかった。

「やあ。久しぶりだね、猪井教授。おかげさまで、毎日すこぶる調子がいい」

「それは良かった。ではぜひまた、一緒に観光旅行でも」

「ああ、それはもちろん」

 話しながら、それとなく腕時計に目を落とす。午後二時、五分前。程なくシンポジウムが始まる時刻だ。

「日本には朝に到着されると聞いてましたが、今までどちらに?」

「大したことはしてないさ。気忙しいのは苦手でね。ホテル近くの公園で、ゆっくり暇を潰していたよ」

「そうでしたか……。言ってくだされば、こちらで何かご用意しましたのに」

「いやいや、気にしないでくれ。そういえば今日は、君も何か発表するのかい?」

「ええ、今日は人格心理学についての新しい——」

 そのとき、ポケットで電話が鳴った。

「ああ、すまない。ちょっと失礼するよ。先に行っててくれ」

 会釈して、人の少ない廊下へ移動する。電話を耳に当てると、軽やかな青年の声がスピーカーから流れ出した。

「やっほー。てか、国際電話とか久々すぎて怖いんだけど。ちゃんとこっちの声、聞こえてる? もっしもーし?」

「ちゃんと聞こえているよ。今、どこなんだい」

「パリ。花の都。でもここの景色はあんまり良くないかな。薄暗くって、おまけに狭苦しくて。変な匂いもするし」

「それで目的は果たせたのかな」

「えーえー、そりゃもうばっちしです。代わりましょーか?」

 こちらが返事をするより前に、向こうの声が遠くなり、すぐにまた近くで聞こえてくる。とは言っても、先ほどの明瞭な声色とは打って変わり、虫の息同然のかすれ声しか聞こえない。

「やあ。久しぶりだね」

「……あなた、は」

「君は僕を知ってるね。僕らは直接会ったことはないが、君が今なぜそうなっているのか、僕はちゃんと知っている」

 そう告げると、掠れた声は俄然、必死さを帯びて切に語り始めた。

「ねえ、私、あんなことにはなったけれど、ちゃんとやったのよ。あなただって、わかってるでしょう? この世の中、女一人であれほど準備するのは、とても骨の折れることなのよ。でも、私はやった。結果はあんなことになってはしまったけれど、でも、全力は尽くした。ああなってしまったのは、こんなこと言いたくないけれど、でも相手が化け物だっただけなのよ。だから、お願い、お願いだから……あの子だけは……あの子の場所だけは、」

「フェリス」

「お願いよヘンリー、私はどうなってもいい。私のことなどどうとでもすればいい。でもどうか、これだけは誓って頂戴……あの子は、あの子だけは、」

「わかっているね?」

 それだけ告げると、懇願の声がぴたりと止む。残ったのは「あ、あ……あ……」という声にならない呻きだけで、ほどなく声の主が変わる物音がする。

「えっとぉ。満足しましたぁ?」

「……」

「で、いつこっちに帰ってくるんですか。こっちもこっちで、あんまり時間がないというか、なんというか。とにかく、できるだけサクサク事を進められたらいいな、って思ってるんですけど」

「残念だけれど、君の都合に合わせてあげる筋合いは、こちらには特にないのでね」

「あーら、言ってくれるじゃないですか。誰のせいでこっちがこんなことになってるのか、まだお分かりになられてないようで」

 深く、呼吸をし、腹の底に感情を抑える。

「……そのことについては、全て君の自業自得ではないのかな」

「あれ? もしかして怒らせちゃいました? ごめんなちゃーい。でもヘンリーたんって相変わらずわかりやすくて面白いねー!」

「呑気なものだね。君のご所望のものが、私の帰るまで五体満足ならいいのだが」

「五体なんて」

 鼻で笑い、煙草の煙を吐き出す音が聞こえた。

「今更なこと言わないでよ、ご主人様。流石に萎えるわ」

 ブツッ。

 一方的に切られた電話をしまい、私はシンポジウム会場へと向かった。腕時計を見ると、もう開始時刻を過ぎてしまっているようだった。

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