第14話



「じゃあ、次はカウンセリングだね」


 バウムテストに使った道具一式をしまうと、彼はテーブルに身を乗り出す。

「とはいえ、僕は誰の心でも開かせる名カウンセラーというわけじゃないからね。雑談の相手くらいにしかなれないかもしれないけど。そこのとこは、最初に謝っておくよ。ごめんね。まあとにかく、何か僕に話したいことや相談したいことはある? なんでもいいよ、話したいことを話してみて?」

「え、っと……」

 なんという、スウェーデン式無茶振り。

 流石にここは苦笑しても許されるだろうと、私は少し困ったように笑ってみせた。まあエレミヤは、実際スウェーデン人ではないのかもしれないが。

「……」

 彼はにこやかに広げていた白衣の両の袖口を、笑顔のまま弱々しく戻し、祈りをするように組むと、顔を垂れる。地獄まで届きそうなため息をつく。

「あ、あの……すいません。そんなつもりじゃ」

「いや、いいんだ。謝らないで。僕が勝手に、己の会話能力のなさに落ち込んでいるだけだから……」

「はぁ……」

 悪いことをしたかな。そう思いながら、質問を考える。

「あの、聞いてもいいですか?」

「もちろん。どうぞ」

「ここにいる多重人格者は、私以外には、ドロテーアたち一人だけなんですか?」

「ああ、今はそうだね。少し前まではもう一人いたんだけど、行き場所が見つかったみたいだから、そっちに移ったよ」

「行き場って……例えば、家族のところ?」

「いいや。恋人と一緒に住むらしい」

「恋、人?」

 思わず、声が裏返る。

「ん? どうしたの?」

「あ、いえ……なんでもないです。ごめんなさい」

「まあ、確かに珍しいケースだからね。驚くのも無理はない。多重人格……医学的には解離性人格障害というんだけれど、こういった人格障害を持った人が、他者と安定したつながりを持つのは難しい、と一般には言われている。まして恋人なんて、そこまで親密な関係性を持てるのは、結構珍しいパターンでもあるね。まあ、人によっては新たな関係自体は簡単に持てても、とても不安定だったり、それを維持することがほとんどできなかったりすることもままあるけれど。君は、その辺どう?」

「え、どうって?」

「日本で暮らしていた時、友達や恋人はいたの?」

 今度は別の意味で、私は苦笑する。

「いた……と思います?」

「さあ。でも、決めつけてかかるのは何事も良くない。特に君は、物腰が優しいから。友達の一人や二人いたって全く不思議はない、と僕は思う」

「……正直、あまり覚えていません」

 本当に記憶がなかった。まるでそこだけぽっかり穴が空いてしまったかのように。でも、もし学校で親しい友達や恋人なんかがいたとしたら、こんなにすぐ忘れてしまうはずがない。だから、きっと初めから誰もいなかったのだろう。

「仲良くしてくれた子は、いたかもしれませんけど。私はぼうっとしてるから。授業についていけるよう色々手助けしてくれたりとか、そういう親切な子はいたのかも。でも、それは親切なクラスメイトっていうだけで、友達ではなかったのかなって。きっと向こうにとっては、なおさら」

「君にとって、じゃあ、友達ってどういう人なのかな?」

「よく……わかりません。私とは縁遠いものだろう、ってことくらいしか」

 エレミヤは小さく頷きながら、さらさらとバインダーの上でペンを走らせる。窓の外で、風が悲鳴のような甲高い音を立てる。ガラスがわずかにかたかたと震える。

「君は確か……お家で、なんというかとても『酷い扱い』を受けていたんだったね」

「さぁ」

 シノではないけれど、私もどうやら飽きてきたらしかった。机の下で指を組んで、秘かに手遊びをする。カウンセリングという心理療法は、日本でもきっと割とポピュラーなものだったはずだけれど、こんな退屈な対話をするだけで何か人生が変わるだなんて、私にはとても思えなかった。

「君にはあまり詳しい記憶が残ってない、ということは聞いている。そういうことは、まま有ることだ。人の心というのは基本的に、トラウマなどの辛い記憶を意識の奥底に閉じ込めて、体よく忘れ去る仕組みになっているからね。もっとも、そのせいでみんな色々な病気になるわけだけれど。それで、君は、その記憶を思い出したいと思うことはあるかな?」

「まあ……思い出して、何かいいことがあるのなら」

「なるほど。メリットがないのなら思い出したところで意味がない、と思っているんだね。そして、辛いトラウマを思い出すことで、逆に当人にとって良いことが起こる可能性があるということも、君はすでに知識として知っているわけだ」

 少しだけ、引っかかる言い方をエレミヤがする。私は少し顔を上げる。

「トラウマを思い出すことで何かいいことがあるかどうかについて、詳しく知りたいかい?」

「え……別に、わからなければわからないでいいです」

「あ、そうなの。ねえリア、今ふと思ったんだけど、君は『極力何も知りたくない』というスタンスをとることが日頃から多いのかな?」

 エレミヤがにわかに興味に目を輝かせてこちらを見る。その光に気後れして、私はまた視線を下げる。

「さ、さあ……わかりません。すみません」

「ほら、やっぱり!」

 そんなしてやったりとでもいうような声を上げられても。困る。

「あ、失礼。不躾な言い方だったね。でもさ、少しだけでいい、顔を上げてくれないかい?」

「……」

 私はほんの少し迷って、でも結局顔を上げる。エレミヤの誠実そうな青の瞳と視線が合う。

「ありがとう。僕はね、リア。出しゃばった言い方かもしれないけれど、それでも君には幸せに生きてほしいと思っているんだ。君だけじゃなく、この結社の全ての多重人格の人たちにもね。だから、一つだけアドバイスさせてほしい」

「アドバイス?」

「ああ。君がもし、この先の人生を幸せに生きていきたいと思うのなら、君は一刻も早く記憶を取り戻したほうがいい。過去を見つめ、受け入れるんだ。それがどれだけ辛いことでも」

「なぜ?」

「見て見ぬ振りをしても、過去は存在し続けるからさ。現に君は、知るべきことを知らなかったことで、あんな苦痛を味わわされたんじゃないか?」

「苦痛?」

「驚いたな。もう忘れてしまったの? 僕が言ってるのは、オリビアのことだよ」

 不意に手が伸びてきて、私が反応する一瞬前に、エレミヤは私の頬に触れた。

「自分に無関心になってはいけないよ、リア。君だって、鏡で顔を見るたびに、思い出していたはずだ。この傷だって……手当てして、だいぶ薄く目立たないようにはできたけれど、一生治らないんだ。君がこのことをどう思っているにしてもだ、少なくとも僕もここのスタッフも、君にこれ以上こんな酷い目に遭ってほしくないと強く思っているんだよ」

「……」

 顔に傷がついた、というだけのことだ。それなのに、どうしてこの人はこんなに深刻そうに言葉を紡ぐのだろう。私にはやはりわからなかった。

「あれは確かに、痛かったけど。私が過去に無関心だから、あれが起こったの? もっと色々自分のこととか、知っていたら、ああはならなかったっていうこと?」

「ああ。少なくとも僕はそう思う」

「それなら、きっと知った方がいいんだろうね」

「なんだか気が乗らなそうな言い方なのが気になるけれど?」

 こういう風に——ユウといるときもシノといるときも、両親や親類のときはなおさらだったが、とにかく誰かに「自分を大事にしろ」というようなことを言われるのが、私は本当に苦手だった。大事にした方がいい、というからにはそうした方がいいのだろう。頭ではそう確かにわかっていても、どうしてもあまり乗り気になれない。

「私が幸せになったって、意味なんてある?」

「無理に、とは言わないよ。でも、意味がないなんてことはないだろう?」

「どうして?」

「理由はたくさんあるけれど、一つには、君が幸せになれば、君を大事に思っている人も幸せになれるからさ。すごく意味のあることだよ」

 ああ、もう、いいや。

「そんな人はいないよ、エレミヤ」

 そう言って私は、頬の手をゆっくりとどかす。

「それに周りの人は、私が幸せになろうが不幸になろうが、誰も別に、何にも思わないよ」

「おや、そうかい? どうしてそう言い切れるの?」

「それは、だって……そうじゃなかったら、例えばどうだっていうの?」

 物を落としたら下に落ちる、水を熱したら沸騰する。

 そういうのと同じくらいに、私にとってはそれは不変の事実だったので、理由など聞かれてもなにも答えられない。もし私が幸せになったら、周りの人など、せいぜい妬むくらいが関の山だ。

「でもまあ、だったら、こう考えてみてもいい。君が無駄に傷つくことが減れば、その分、他の誰かを助けることができるようになる。病院だって、病床がいっぱいになったら全員を治療することができないよね? もし君が完全に治れば、今度はまた、助けが必要な人にベッドを譲ることができるようになる。君が自分を大事にすることは、回り回って、人を助けることにも繋がるんだ」

 教科書通り。

 そんな言葉だと思った。どうしてそう思ったのかは、自分でもわからない。

「……エレミヤは、そうするのが普通だと思う?」

「普通、って?」

「自分が頑張ることで他人が助かるなら、そうするべきだって、思う?」

 青い目が虚をつかれたように丸くなり、やがて何かを思い出すような色になる。

「ああ。そうだね。僕はそう思うよ。だってそうだろ? 自分があの時、もっとちゃんと努力していたら、あの人は助かったかもしれない、なんて——そんな後悔は生涯ないに越したことはないさ」

「知らなければいいんじゃない? 知らなければ、後悔することもないよ」

「それはそうかもね。でも、そういう考え方はよくない」

「そういうものなの?」

 そう問うと、ふふ、とエレミヤは目に慈愛を滲ませる。

「リア。君は賢いから、少し堅苦しい言い方をしよう。あるアメリカの哲学者はこう言った。『歴史を知らない人は、歴史を繰り返す運命にある』ってね」

 頬に当てた手で、今度は私の頭を優しく撫で、「今日はこれでおしまいにしよう」と彼は言う。私は黙って頷いた。診察室を出るとき、少し、くらりと目が回るような感じがしたが、エレミヤはそれには気づかない様子で手を振っていた。

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