第12話
朝食が済んだ後、ミランダとチェスをすることになった。
シノがエレミヤに呼ばれて、軽い健康診断のようなものを受けに行ったので、食堂でお茶を飲んでいたところ、身支度を済ませたミランダがふらりとやって来た。彼女は娯楽室から持ち出したらしい古いチェスセットを持っていて、「チェスはできるか?」と尋ねられたので、私は頷いた。
「唐突に言うことでもないんだが、お前は何か……感じないか?」
チェス盤に駒を並べながら、ミランダが言う。
「何かって、何?」
「だってここは、その、なんというか酷く窮屈じゃないか?」
「……」
元々、ロンドンでユウと一緒に暮らしていたアパートだって、そんなに広いものではなかった。掃除や洗濯を分担でしていたのに比べれば、ここは何もしなくていいから楽だし、個室の広さだって十分なものに思えた。きっとミランダはもっと広い、お屋敷のような家に住んでいたのだろう。
私は曖昧に返事を濁して、自陣側の駒を並べ終える。
「チェスにしても、何にしてもだが」
ミランダはどうやら、純粋にチェスで戦いたいというのではなく、お喋りついでの手慰みにチェスをしようとしているように見えた。私は自分のポーンを動かし、彼女の手番が終わるのを待つ。
「お前の人生には、何かこう、一つでもいい。大事なものは何かあるのか?」
「さぁ……。ミランダにはある?」
「私、は、音楽だな。たぶん」
「でももう、お客さんの前では演奏しないんでしょ? シノが言ってた」
ふ、と唇の隙間から息を漏らすように、静かにミランダが笑う。
「音楽っていうのは、そういうものではないんだ」
「そういうって?」
「音楽は客がいるからやる、客がいないからやらない、みたいなものじゃない。少なくとも私にとっては、だが」
「でも賞を取らなきゃ、認められなきゃ意味がないって、前は言ってた」
「私の話はもういいよ。お前の話が聞きたいんだ」
そんなことを言われたことは(ユウと話す時でさえ)全くなかったので、つい面食らって、駒を動かす手が止まる。どういう意図なのかがいまいち掴めない。
「……なんで?」
適当な場所にルークを置いて、そう聞いてみると、ミランダは答える。
「だってお前は、いつも冷静だろ。多少驚いたり憤ったりしても、どこか暗い湖の底のように落ち着いている。私は正反対だ。情けないことだがね。煮えたぎるマグマの上に張った薄氷を歩くような心地がいつもする。全て諦めてしまえばいいとわかってはいるが、どうしてもできない。だから少し教えてほしかったんだ。話したくないなら、別にそれで構わない」
「え、いや……私は別に、落ち着いてなんかない」
なるほど、日本人だからか、と私は少しだけ理解する。東洋の神秘というか、禅の思想というか、きっとそんなイメージが湧くのだろう。私の黒い髪や茶色い目を見ていると。
「感情なんて外に出しても、どうしようも無いって、諦めてるだけ。だからきっとこんなことになっちゃったんだと思うよ」
そう答えたものの、ミランダは腑に落ちない表情のままだったので、何か付け加えなくてはいけない気がして、私は言葉を続けた。
「たとえば駒は、駒自身が何を考えていようと、指し手が賢ければ勝つし、愚かなら死ぬ。それだけでしょ?」
「でもお前も誰も皆、駒ではないだろ」
「まあ、厳密にはそうだけど。でも駒とみることもできるでしょ。チェスの駒よりほんの少しだけ自由で、不完全で、汚れた、扱いにくい駒。人はみんなそう。自由に見えても、それはその人が、
「でもチェスの駒は、指し手がいなくなってもただちに消えるわけじゃない。命のない駒は死なないが、指し手はいつかいなくなる。だから駒と指し手は無関係だ。所詮その場限りの関係に過ぎない。そうだろ?」
「消えるよ。駒は動けなくなった瞬間に死ぬの。人はそんなに自由じゃないし。自由だって思い込ませてものを買わせる社会だから、仕方ないの。でも本当は……」
その時、指の間からビショップが滑り落ちて、床に転がった。拾おうとして椅子から立ち上がると、ふと、食堂の入り口のあたりに人影があるのに気づいた。看護師の女性。白い服と青いガウンを着ているからおそらくそうだ。けれど彼女の目を見て背筋に悪寒が走る。無。それだけだった。ただ瞳に映像を焼き付けているだけの、疲労にぼうっとしている眼とは明らかに違う、システマティックな無の視線。それがこちらに向いていた。私は一瞬で目を逸らし、駒を拾う。
「じゃあもし殺されそうになったら、お前は黙って殺されるのか?」
ミランダは気づいていないようだった。当然だ。音も影もなく、気配もない。そんな存在に気付けるわけがない。よほど偶然周りを見回したりしない限り。
「ううん、殺されたりなんてしないよ」
幸い、声が震えたりはしなかった。ただ指が少しこわばって、駒を盤面に置いた時にカツンとひときわ高い音が鳴った。
「どうして? 仕方ないんじゃないのか」
「だって、苦しいのは嫌だから。他人の利益や快楽のためにいたぶられて死ぬのなら、他人に利用されながら不自由に生きるのだって、それとさして変わらないでしょ。だったら、できれば、痛くないほうがいいし」
「なるほどな」
ミランダは感心した様子で顎に手を当てる。
「お前は頭がいいな」
「そんなことないよ。学校ではビリの方だったよ」
「いや、成績云々というより、お前は思ったよりもちゃんと自分の頭でものを考えているんだなと思ったんだ。私はテストの点は悪くなかったが、全部鵜呑みにして覚えるだけだったから、教えられたことがどういう意味かなんてろくに考えたことはない。だけどお前は、人の話や知識を真正面から受け止めるというか、自分の思考にうまく組み入れてる」
「そ、そんなことはないと思う……あっ」
そう言いながら、私は気づく。あの看護師がいなくなっていることと、あと二手後、自分がチェックされることに。
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