第11話
始末を終えてからシノと食堂に降りると、朝食を食べているペーテルの背中が見えた。でもその佇まいは、昨夜とはまるで違っていた。今更驚くまでもなかったけれど、きっとあれはペーテルではないのだろう。
「誰かいるね」
「昨日会ったよ。あれはペーテル。でも今は違うかもしれない」
「なるほど、そういう人ね」
背筋がピンと伸びて、カップを持つ手の形が美しい。昨夜の子供っぽい雰囲気とは打って変わって、今朝はまるで紳士のような風格さえ感じられる。
「おはよう。私のこと、知ってる?」
声を掛けると、彼はカップをソーサーにゆっくりと置き、微笑みをたたえてこちらを振り向いた。
「まあまあ、可愛らしいお二人さん。ペーテルから聞いているわ。あなたが新入りのリアさんね。そちらの男の子は……彼氏さんかしら?」
やんわりと否定の言葉を述べてから、そそくさとシノが朝食をもらいに行き、私はペーテルではない誰かの向かいの椅子に座った。
「あまりここで女の子と話すことなんてないから、少し嬉しいわ。でもこんな小さいうちから、大変な目にあっている女の子がいると思うと、あまり手放しでは喜べないけれど」
「職員さんとは話さないの? 女の人ばかりに見えますけど」
「女性と少女って、全然違う生き物よ。それにあの人たちは……いえ、なんでもない。ところでリアさん、あなた、ペーテル以外の私と話した?」
「いいえ。どうして?」
「私は、この体の中にいる人格の中では、結構新顔なの。だからというか、他のみんなはもう気にも留めないそうだけど、私はどうしても他の人格があなたにひどいことをしていないか、気になってしまって。いくら私に記憶がないと言っても、自分の片割れがしたことだと思うと、曲がりなりにも責任があると思って。ほら、精神分析的には、人格はもともと一つだったと言うでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
「何もなかったならいいの。自己紹介がまだだったわね。私はドロテーア。ドロテーア・カールフェルトよ。よろしくね」
握手を求められ、応じる。ハンドクリームの花の香りがする。
「よろしく。こっちは友達のシノ。暁シノ」
シノがちょうど朝食のトレーを二人分持って戻ってきたので、合わせて紹介をする。
「はい、リアちゃん」
「ありがとう。ごめんね」
「いいよ」
トレーが前に置かれる。クラッカーのような薄いパン、紫キャベツとハムのサラダ、玉ねぎのスープ。バターとジャムの蓋付瓶がいくつか。
「あなたたちはどういう知り合いなの?」
「えーっと……」
「友達」
音を立ててパンを割りながら、シノは思いの外はっきりとした調子で言う。
「それはわかったけど、幼馴染とか、そういうのなのかしら?」
「だから、友達だよ。それだけで十分でしょ」
よほどお腹が空いていたのか、はたまた別の理由なのか、とにかくシノはきっぱりそう言うとすばやくパンにかじりつき、驚いた顔になる。
「これ、美味しい。見たことないパンだけど」
「クネッケブロートというのよ。スウェーデンに古くから伝わるパンで、昔は生地に気泡を含ませるために、氷を混ぜてつくっていたらしいわ」
「詳しいんですね」
「ええ。私は、いえ、私たちはスウェーデン生まれなの。この吹雪も、寒さも、もう慣れっこ。一時期はフランスにいたこともあるけれど、もうだいぶ前のことね」
「そう……」
スープにフォークを刺し入れて、具を突く。人参やジャガイモなど、ごろごろした野菜がたくさん入った、コンソメベースの透き通ったスープだ。カレールーを入れたらカレーになりそうだな、などと思いながら、玉ねぎを一口かじる。でもそれは玉ねぎとは少し風味が違った。
「あ、これ、玉ねぎじゃない……」
「日本ではフェンネルをあまり食べないのかしら?」
「フェンネル? 聞いたことないです」
「草花の一種で、種と葉は、スパイスやハーブになるのよ。球根はこんな風にスープに入れたり、サラダにしたりして食べるわ。不眠や不安の改善にも効果がある」
「へえ……じゃあ、私のようなのは、たくさん食べないと」
ふふ、と笑ってみたが、あまり受けなかった。自虐ネタは、スウェーデン人の笑いのツボにはいまいち入らないのかもしれない。話題を逸らそうと私はシノの方を見る。
「そういえば、ミランダは?」
「あの人は、朝ごはんいつも食べないから」
「そうなんだ」
「何か胃に入れるとしても、お茶一杯だけとか、そんな感じだよ」
「へえ。だからあんなスタイルいいのかな」
「かもね。ていうか、だからいつもあんなイライラしてるんだよ。糖分とかカルシウムとか、足りてないんだよ、色々と」
そう言うと、スープの皿に口をつけて、ごくごくと飲み干す。シノの悪態は、手紙でもそうだったけれど、聞いていて正直心地が良かった。嫌悪の響きこそあれ、憎悪とか、そこまでの熱はあまり感じない。殴られ、命令され、軟禁され、ペット扱いされて、決していい思いなんてしていないだろうに、シノの言葉にはどこか、悪態を吐くことそのものを楽しんでいる節があった。まるで初めて言葉を覚えた赤ん坊が、世界のあらゆる動物に対して「ワンワン」と言って回る時のような、そんな感じだ。
「ミランダって、あなたたちと一緒に来た女の人のこと?」
「はい」
「へえ……あの人、本っ当に綺麗よねえ。すらっとしてて、気品があって。女神様みたい」
「女神なんて。アレは悪魔ですよ。だよね?」
シノが苦笑する。私も一応友人と話を合わせるべく、頷いた。
「あなたたちって歳の割に、本当に英語が堪能よね? 誰かに習ったの?」
「ボクはミランダから習って……ま、『人間に教える』ってより、『オウムに覚えさせる』って感じに近かったけど。間違えると怖かったので死ぬ気で覚えました」
「そうなの。リアさんは?」
「私は……学校で、少し」
「え、それだけで? まだ13か、14歳にしか見えないのに……てっきり帰国子女なのかと思ったわ」
「いや、多分……それなりに、厳しい学校だった、から?」
言葉を濁すと、ドロテーアはふうん、といった顔でティーカップに口をつける。
「どこの国も、学校ってそんなものなのかしらね」
「そう、かもね……」
クネッケブロートにマーマレードを塗りながら、ふと、私は目を上げて部屋の壁を見た。厚いガラスの嵌った窓。温度差で白く曇った窓の向こう側に、吹雪と木々の黒い影が見える。南京錠。まるでクリスマスツリーの飾りかのように、小さなそれが、窓の中央部に重たくぶら下がっている。
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