第9話



 時計は7時を打っていた。遅い時間に朝ごはん(というより昼食)をとったので、夕食は食べず、シャワー室でシャワーを浴びることにした。先ほどの看護師に聞いて、自分の分の肌着を一箱もらった。スウェーデン語と思われるロゴが印刷された生理用品の袋と、質素だけれども清潔な綿の肌着、歯ブラシと歯磨き粉、そして替えの寝巻きが入っていて、一週間は持ちそうだった。服を脱ぎ、洗面台の横に積み上げられた白いタオルを二枚とって、シャワー室に入る。

 浴室には誰もいない。

 ボイラーの音がかすかに聞こえてくるほど静まり返っている。電気をつけてもどこか薄暗いそこは、冷え冷えとした空気で満ちていて、タイルの冷たさは氷のように、裸足の足の裏を一瞬で凍てつかせそうだ。

 内と外の温度差に、軽くめまいがする。



『お父さんも一緒に入っていいかな?』



 ぞくりと、また、冷える。タイルを踏みながら歩いていけば、幻聴と幻覚で脳が凍てつく。シャワー室の光景が、古い家の記憶と、ダブって見える。逃げ場がない。狭い空間。閉塞。反射的に頷いて、体が強張って、波が立って、ずぶりと水位が増える。ぬるくなる湯船のお湯。照明の眩さ。逆上せる。肌に不快にまとわりつく温水。温かい笑みの、猛獣じみた歯列の、紡ぐ言葉の冷えた響き。湯気を吸うたび肺が冷え、白く曇る。渦巻く靄で目の前が覆い尽くされる前に、私は急いでシャワーのノズルをひねった。


「……大丈、夫」


 温、かい。

 大丈夫、ちゃんと……温かい。

 清潔な湯の雫が、指の間を伝って流れ落ちる。透明で、綺麗で、淀みない。湯気はきちんと上に上がり、無意味に速度を上げることはない。少し熱かったけれど、待っていられなくて、足元にシャワーを当ててから、それから上の方をゆっくりと時間をかけて洗い流した。もう、大丈夫。大丈夫、だから。もう一度自分に、そう言い聞かせる。もう、忘れろ。忘れるしかない。だって覚えていたって、あんなこと意味もない。ただ、寒さで、調子が狂っただけ。単なる体の不調。これは、全て、ただの。


 幸せなことを、考える。


 でもそのすべてに、もうそばにいない人の影がちらついて、頭にまた違う靄がかかった。シャワーに打たれながら、ぼうっと考える。ユウは一体、今度はどこに行ってしまったのだろう? ……まあ、ユウが理由も伝えず何かすることなんて、今に始まったことではないから、あまり考える必要もないけれど。私の存在なんて、ユウの中では別に大きくもないのだろうし、たとえ大きかったとしても、それは結局間違っている。私は誰の期待にも応えられないし、誰のことも、幸せにしてあげることなんてできない。

 だから、どちらにせよ、ユウは正しかったのだ。非凡で有能な彼は早々にいなくなるべきだった。そして無価値で非力な私は、彼と過ごした穏やかな日々を、楽しかった記憶として頭の隅に残して、それで生涯満足すべきなのだ。きっと。



 寝巻きに着替えて、洗面台で髪を乾かしていると、誰かが後ろから近づいてくるのがわかった。サラサラした桃色の髪が鏡の中に映り、やがて、ほっそりとしたミランダの姿が現れた。暖かそうな厚い高級寝具に身を包んではいても、彼女のスタイルが良いことは一目でよくわかる。

「これを届けに来た。夜は特に冷えるから、だそうだ」

「あ……ありがとう」

 彼女の腕のなかにあったのは、小さな湯たんぽだった。手触りのいいウールの布に包まれたそれを受け取ると、まるで生まれたての子猫を抱いているかのように感じた。

「あ、それと、なんだけどな」

「うん」

「もしそうしたければ、私が一緒に、寝てやってもいいからな」

「……うん?」

 曖昧に濁して微笑むと、ミランダはふいっと背を向けて、去ってしまった。私は鏡に向き直り、髪をとかしながら、小さく呟いた。


「別に、要らないけど」

 




 


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