第8話
二人がいなくなって、手持ち無沙汰になってしまったので、共用スペースに行くことにした。長いこと眠っていたので、もう少し体を動かしたいし、それにあの大きな窓から、外の景色をもっとよく見たくなった。それに一人だけで部屋にいるのは、なんだか心細い気がした。
暗い階段を注意して降り、廊下を歩く。
いつの間にか天井のランプが灯っていて、オレンジの柔い光がぼんやりと暗い通路を照らしている。さっきよりも入ってくる日の光が少なくなっているように思える。日が暮れるのがとても早い場所のようだ。看護師たちの声はしない。あまり声が響くような造りの建物ではないのだろう。それでも不気味なほどの静けさと寒さとが、私の歩みをいつもより早めたのは確かだった。
共用スペースに着くと、誰かが窓辺に腰掛けて、何か本を読んでいた。とても背の高い、ヨーロッパ系の男の人に見える。彼は細長い体を器用に折り曲げて窓辺のスペースに座り、時折「あははっ」と笑い声を上げながら、楽しそうにページをめくっている。読むのに夢中で、こちらには気づいていない。
近寄らない方がいいな。邪魔してもいけないだろうし。
そう思って仕方なく部屋に戻ろうとしたが、ちょうどその時6時を告げる振り子時計がボーン……と大きな音を鳴らしたので、思わず「わっ」と声を出してしまった。とっさに早足で自分の部屋に戻ろうとしたが、さっきの窓辺の彼が、背後から何か話しかけてくるのが聞こえて、無視するのも失礼かなと思い、引き返す。
「〜〜〜。〜〜〜〜〜!」
彼の話している言葉は、英語に似た雰囲気はあったが、でもどう聞いても英語ではなかった。私は学校でやっていた英語しかわからないので、通じるかどうか不安に思いながらも、英語で「私は英語しかわからない」と言ってみる。
「ああ、なるほど」
幸いにもこちらの言いたいことは通じたようで、彼は英語で「ごめんね」と言い、それから少したどたどしさの残る英語で話し始めた。
「だよね。ここ、いろんな人が来るところだもんね。初めから英語で話しかけるべきだったんだ」
「さっきのは、何語だったの?」
「スウェーデン語だよ。ぼくはここの生まれだから。君は?」
「日本」
「へえ。日本のどこ? 東京?」
「そう、東京」
私が答えると、彼は羨望のこもったため息をついた。
「いいなあ。ぼくがここに来る前のことだけどね、ここには前、日本人がいたんだって。だからそこの本棚にも、日本の漫画があるよ。きっとその人が置いてったんだ」
「そう、ですか……。漫画が好き、なんですか」
尋ねると、彼は「ふふっ」と「ははっ」の中間のような笑いをこぼした。
「丁寧に話さなくて大丈夫。見た目はおじさんだけど、ぼく、君より年下だから」
「あ、ああ。そうだったんだ」
「うん。でも、子供はぼくだけだから、話し相手がいなくて、全然つまんない。遊んでいいのも、この時間だけって決められてるし。夕食が終わった後の一時間だけって。まあ、どうせ冬は外で遊んだりできないから、いいけどさ」
「あの、君の名前は?」
「ペーテル。ペーテル・ヴェステルホルム。君は?」
「リア。市ノ瀬リア」
「そう。リア、たまにはぼくとも遊んでね」
そんな話をしていると、ちょうど看護師が一人現れて、「ペーテル。そろそろお部屋に戻りなさい」と優しい声でそう言った。彼は読んでいた絵本を閉じると、それを大事そうに脇に抱えて、廊下の奥へと消えていった。
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