第6話


 エレミヤが先頭を歩き、そのあとに私、シノ、ミランダの順に並んだ。共有スペースを過ぎて少し行くと、通路の壁に、建物の見取り図のようなものがかかっているのが見えた。エレミヤはそれを私たちみんなに見えるように立ち、見取り図の小さな×印を指差した。

「僕らが今いるのがここだ。さっきいた共有スペースがこれで、食堂はこれ」

 食堂も共有スペースも、どちらも図の中にたくさんある個室に比べてずっと広い空間だったので、見取り図に書かれている言語が読めなくても、指さされただけでなんとなくそうだとわかった。各々の部屋の名はきちんと印字されていたし、見取り図の余白には掠れたインクの古い走り書きのようなものがいくつかあったけれど、どれもやはり英語ではない。

「この廊下の突き当たりにあるのがシャワー室、ボイラー室、そしてトイレ。この建物は二階建てになっているけど、トイレは一階にしかないから気をつけてね。二階に続く階段は、食堂の向かいにあるから、あとでちょっと戻ることになる。悪いね」

「ちょっと待ってくれ」

 ミランダがよく通る声で話を遮った。

「何だい?」

「その見取り図には明らかに出入り口がないぞ。外に出るにはどうしたらいいんだ?」

「ああ! いい質問だ」

 エレミヤは快活な笑顔で手をパンと叩き、白衣の裾からほんの少し、人差し指の先の先を見せた。

「まず第一に、一応改めて言っておくとここは『シェルター』なんだ。命の危険にさらされている多重人格者を匿うためのね。だから人の出入りというものは基本的に、極々秘密裏に行われる。もちろん火災や浸水などの災害が起きた場合は、君たちには僕ら結社のエージェントの指示に従ってもらうことになってる」

 はいはい! と今度はせわしなくシノが手を挙げる。

「えーっと、じゃあ、何か買いに行きたいときはどうするの? お菓子とか、ジュースとか?」

「うちの料理担当スタッフはお菓子も作ってる。リクエストがあればなんでも作ってくれるよ。よかったね」

「わーやったー! 手作り!」

 シノがはしゃぐので、私もなんとなく楽しいような気分になる。どこか大事なところがごっそり抜け落ちている感はあったけれど、まあ、言ってしまうならば、そんなのはいつものことだった。

「さ、じゃあ行こうか」

 手作り菓子というワードで相当テンションの上がったらしいシノが、私の手を握ってくる。その手の意外な冷たさに少し驚きながらも、華奢な手を握り返し、ふと後ろを見た。ミランダはシノの楽しげな顔とは打って変わって、全く強張った表情をしていた。苛立たしげに腕を組み、きょろきょろと辺りを見回している。




 学校のプールのそれに似ている、というのが、シャワー室を見たときの正直な感想だった。清潔ではあるけれども少し草臥れて、少なくとも、最新式のものとは言えないのは確かだった。その時シェルターに住んでいる人数にもよるが、基本的には男女別の時間制であるらしい。だが今は特に人がいないので、いつでも好きな時に入浴して構わない、とエレミヤは言った。ボイラー室の中も一応見せてはもらったが、特に変わったところはなかった。どこか古めかしく危なげなボイラーの年季の入り方は気になったけれど、それだけだった。

「ねえエレミヤ。脳科学者って、仕事として楽しい?」

 トイレの場所を確認して、階段へと来た道を引き返していきながら、私は何気ない世間話をする感じで彼にそう尋ねた。手を繋いだきり一切喋らないシノと、硬いヒールの音だけが聞こえてくるミランダ、その二人の放つ無言の圧を受けて、このような場合、私が少しでも場を和ませるべきかもしれないと思ったのだ。これまでずっと眠っていたのだし、きっと、そういうものだろう。

 エレミヤはそんな私の心情を察してくれたのか、顔を半分だけ回してこちらに振り向き、にこやかに答えてくれた。

「ああ、楽しいよ。これだけ医療の発展した時代でも、脳はまだほとんど未知の領域だから。もちろん外科医や内科医だって忍耐力と道徳心の要る立派な仕事だけど、ほら、その……新要素や未開拓な領域っていう点に限っていえば、脳科学に比べたらそこには微々たるものしか残っていないと言わざるを得ないからね?」

「そうなんだ」

 話を聞くのは得意だった。よく喋ってくれる人は、私が話をするのがあまり好きではないというのもあって、とにかくこちらがそんなに話さなくて済むので、とても助かる。エレミヤの饒舌な語り口に、一瞬だけユウのことを思い出したが、すぐに頭から振り払った。今はそういうことを考えている時ではない。

「まあ、いくら斬新な研究がしたいといっても、さすがにホセ・デルガードのようにはなりたくないけど」

 階段のところまで来ると、まだ昼ではあるものの日当たりと天気が悪いせいか、あたりはとても暗かった。エレミヤは階段の電気のスイッチをいくつか押しながらそう呟くと、少しうつろな感じで笑った。

「それは誰なの?」

「有名なところでは有名な、ある脳科学者の名前だよ。彼はもともと普通の眼科医だったんだけど、母国のスペインで戦争に巻き込まれ、強制収容所に入れられて、そこで想像を絶するようなつらい体験をした。心に傷を負わされた彼は、収容所から解放されたのち、眼科医ではなく脳科学者に転向した。人間がどうしてあそこまで残虐になれるのか、きっと知りたくてたまらなくなったんだろう」

 長めの石造りの階段をゆっくりと登りながら、彼は話を続けた。私はじっとその後ろ姿を見つめた。窓から差し込む冷たい日光に照らされて、オフホワイトの大きな白衣が、まるで深海魚の尾のようにゆらめく。

「彼の時代は、奇しくもあのロボトミーが流行った時代でもあった。実体のないものと思われていた精神疾患に対して、『頭蓋を開いて脳に直接メスを入れる』という、極めて外科的なアプローチで治療を試みるやり方だね。けれどデルガードはロボトミーを嫌ったそうだ。どんな理由であれ脳を切り刻むなんて、そんなのは結局暴力でしかない……そう思ったのかもしれない。だからと言っていいのか、そんな彼がロボトミーの代わりに考案したのは、人の脳に電極を埋め込み、問題となる感情や行動を、外部から自在にコントロールしてしまおうというやり方だった」

 階段の途中で、ナースのような格好をした女の人たちとすれ違う。白の看護服の上に、青いガウンっぽいものを羽織っている。彼女たちとすれ違った瞬間、シノがひときわ手を強く握ってきた。でもナースたちは何かいいことでもあったのか、皆かなりの上機嫌でしきりに談笑しており、こちらのことなどほとんど気付きさえしていない。私やシノよりずっと年上だろうに、病んだ私たちよりよほど「放課後に遊び回る中高生」という形容詞にふさわしかった。

「極小の針を差し込むだけなので脳に損傷はほとんどなく、痛みもない。自分の思いのままに、誰でも確かな幸福感を得ることができるようになる。そして社会的に電極が受け入れられれば、ヒトラーのような独裁者に民衆が直接制裁を与えられるようにもなる……第三者の僕らからしたら狂っているとしか思えないけれど、彼自身は、自分の考えの素晴らしい点にしか気持ちが向かなかったんだろう」

 エレミヤに限らず、研究者というものはみんながみんな、自分の専門について語り出すとこうも止まらなくなるものなのだろうか。ロンドンにいた時も、よくテレビで大学教授の講演を見ながら寝ていたけれど、頭にいっぱい詰まっている人は本当に、よく喋ってくれるものだ。

「彼はまず動物で実験をした。例えば猿。猿の世界にもいじめがあるが、いじめをしている猿に痛みを引き起こす電極をつけ、いじめられている猿の方に、電極の起動レバーを与える。いじめられた方はやがてレバーを引けば、いじめが止まると学習する。やがていじめていた方の猿は、もう一方の猿をいじめなくなる、とかね。闘牛用の牛に電極をつけて、怒れる闘牛を赤い布ではなくリモコンで操る、なんていうサーカスじみたことまでしたらしい」

 ようやく階段を登り終えた。エレミヤは本来の目的を忘れていたのか、少しぼんやりした調子で「ああ……ええっと、うん。ここが二階だ」と言いながら頭を掻いた。

「ここは、主に入居者の泊まる部屋として使ってる。あとは研究室兼診察室、そして小さな娯楽室。娯楽っていっても、トランプとかビリヤードとかゲームブックとか、時代遅れの玩具しかないけどね。日本の学校でいう保健室と図書室みたいなものだ」

 エレミヤは端から順に、個室のドアを見せてくれた。一番角には、確かに私が目覚めた部屋がある。さっきは見落としていたが、よく見ると「201」とドアの前のプレートに書かれている。

「ここがリアの部屋。で、この隣の202がミランダ。飛んで209がシノ」

「なんでボクだけ遠いの?」

 シノが不満げに頬を膨らませる。

「一応、ここでは男女で部屋を分けているんだよ。階段に近い方から女性の部屋、中央あたりには男性の部屋、そして奥には診察室。でもここにはいつも特殊な人がやってくるからね。住んでいる人の組み合わせによっては、一概に『体の性別で分ける』という方法だけでは片付かないこともある。普通のアパートなんかと一緒さ。騒音トラブルや文化的な軋轢……とにかく、そういうことは僕の専門外だ。他のスタッフに任せっきりだから、もし部屋が嫌なら、彼女達のうちの誰かに言っておいてくれ」

 シノは長台詞に煙に巻かれたようだった。肩をすくめ、私に向き直る。

「ふーん? ま、いいよ。ボクが遊びにいくからさ」

「うん」

 それからまた廊下を進んだ。いくつか部屋の前を通り過ぎたが、エレミヤは住人については何も言わなかった。部屋の中には誰もいないか、あるいはいたとしてもそれについて説明する必要がないと思ったのかもしれない。何れにせよ、二階の心地よい静けさは、ここには凶暴な人や怖い人が誰もいないことを物語っていた。少なくとも今は。

「それで」

 歩きながら、ミランダが突然口を開いた。

「ん? どうかしたかな、ミランダ」

「デルガードの研究は、そのあとどうなったんだ?」

 あぁ、とエレミヤはまた諦めたようなせせら笑いを浮かべ、頭を掻く。

「特に言うべきことなんて何もないよ。予想通りの結末さ。彼は学会に忘れ去られ、誰からも見向きもされなくなった。研究は終わった。それだけだよ」

 エレミヤは立ち止まり、他の部屋とは違う色のドアの部屋に入った。いくつかの本が詰まった本棚とテーブルとソファと椅子、暖房器具、そしておんぼろのビリヤード台がある。どうやらここが娯楽室らしい。古びた本の匂いがする。

「しかし、どうなんだろうね……」

 説明するのをつい失念したように、彼はソファにかけると、独り言をつぶやくようにして話を続けた。

「今は精神療法といったら、薬の処方が主流になってる。でも薬で人をコントロールすることと、電気刺激で意図的に喜怒哀楽を生まれさせることには、一体どれほどの違いがあるんだろう? むじろ薬は自分の手で飲まなくてはならない以上、より質が悪いともいえるんじゃないか? ……なんて思うこともあるよ。社会に溶け込み、真っ当に働いて生きるためのお金を得るため、自ら薬漬けにされに病院に通うほかない人たちを見ているとね」

「でも、悲しい気持ちや怒りがあまりにも収まらないなら、とりあえず薬を飲んで、落ち着くべきなんじゃない? もし心に問題があって、自分で考え方を変えなきゃいけないってことなら、まずお薬で冷静になってから色々考えたらいいよ。無理せず頑張れば、きっと治るよ」

 話が暗くなってきたので、私がなんとなくそう言うと、エレミヤは虚をつかれたような表情になって、少しだけ微笑む。

「ああ、うん。君たちはとても素直で優しいから、理解できないかもしれないけど。人は――特に精神に異常をきたし、かつ他人に害をなすような人間というのは、そう簡単には変わらないし、変わろうともしないものなんだよ」

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