6

 


 四月が終わる日、バイト帰りに港のベンチに座っていると、後ろで聞き覚えのある足音がした。


「小野寺さん」


 すぐ後ろで軽やかな音が止まる。


「バレちゃった」


 振り返ると小野寺さんがにっこりと笑った。僕はなにを返せばいいのかわからなくて、前を向き直って俯いた。


「都築くんは、魔法使いになりたいの?」


「……どうだろう。魔法が使えたら楽しいだろうな、とは思ったり、するけど。……わかんない」

「じゃあ、どうして私が羨ましいの?」


「僕は……」


 言うべきではない、と僕の中のなにかが忠告をして言葉が喉の真ん中に詰まった。

 人には考える自由があるけれど、それを外に出すには分別をする必要がある。言葉に変える必要があるのか、そうでないのか。誰かに投げつける必要があるのか、そうでないのか。叫ぶだけの意味があるのか、そうでないのか。そして、そうでないものは大抵、自分の胸の内に押し込めて、そこからまた閉じ込めておくのか捨ててしまうのかを決めなければならない。


 羨ましい、僕が彼女に言ったそれは、本当は押し込めなければいけなかったものだ。だけど僕にはそれができなかった。だからせめて、この先は止めなければダメだ。でも、


「うん」

 と小野寺さんが言った。


 優しい声に、言葉の詰まった喉元を締め上げられる心地がした。


「僕は、二十歳までに死のうと思ってた」


 初めて夜の海に来たのは、大学を辞めた春のことだった。


「……どうして?」


「わからない、けど、大人になりたくなかったんだ、どうしても」


 それは、中学生の僕が初めて見た将来だった。人並みに周りの大人を嫌って、人並みに死に憧れて、心のどこかで自分は二十歳になる前に死んでしまうのだと思っていた。

 そんな時に、たまたま手に取った小説に夢中になって、空想の世界ばかり考えているうちにいつの間にか迎えた十九歳の春。僕は昔の夢をふと思い出してこの海に来た。


 数歩先の闇の中であの日と同じ波の音がする。

 この港の深さを、僕はまだ知らない。もう三年も経ったのに。


「君が羨ましい」


 言ったのは小野寺さんだった。彼女は僕の隣に後ろ向きで座る。


「小野寺さんは、僕が大人だと思うの?」

「思うよ」


「僕は、大人なんかじゃない。全然違う」

「二十歳になったら大人なんだよ」


 強風の音がすごく煩かった。冷たくはないけれど、直接吹き込んでくる海風に耳が痛い。


 もう冬は終わった。きっと春だってあっという間に通り過ぎて、そうすれば僕は二十三になる。どうやっても時間が止まらないことは嫌というほど解っているのに、心がそれを理解できない。

 町で中学生を見かけて、その中に制服を着た同級生を無意識のうちに探している瞬間や、バイト先で高校生に囲まれながら自分だけがいくつも年上だということに違和感を覚える瞬間。


 春が目の前を過ぎていくたびに、大人になりたくなかった僕と容赦なく進んでいく時間に心の両端を引っ張られて、なにかが千切れそうになる。


「違う……僕は違う」


 大人になったという事実を、受け入れられない。


「ねぇ、贅沢だよ。なにもしなくても大人になれるのに、どうして都築くんは楽しそうじゃないの?」


 僕だって知らなかった。いや、考えようともしなかった。だから知らなかったのだ。

 ただ生きるということがこんなにも大変だなんて。


「……なんにも、知らないくせに」

「知らないよ。死にたい人の気持ちなんて私、全然わかんないもん!」


「僕だって……っ、僕だって生きたい奴の気持ちなんて知らないよ。全然、わかんない」

「都築くんになりたい」


「小野寺さんだったら良かった」


 脳が脈を打つ。息を吐くと、小野寺さんも同じようにする気配がした。

 見られないものばかり見たくなる。知らないものばかり知りたくなる。なれないものばかりに、なりたくなる。手が届かないものに憧れるのは、憧れたものには手が届かないのだということ。少なくとも、憧れているあいだは。


 ふいに小野寺さんが立ち上がってベンチのこちら側に来たかと思うと、彼女はそのまま海に向かって走り出して、思いきり手摺を掴んだ。


「バカヤローッ!」


 叫んだ声が、夜を突き抜ける。反動で静まり返った港は、風さえも黙ったみたいだった。


 振り返った彼女は、少しだけ満足そうな顔をして、座ったままでいる僕の前までスキップをしてやってくる。


「ご、ごめ」

「都築くんに言ったんじゃないよ。神様に言ったの」


「うん。……でも」

「私は謝らない。だから都築くんも、私に謝らない」


「うん、わかった」

「神様はひどいよね。たまに、許せなくなるくらいに」


 小野寺さんの神様はどんなだろうと思ったけれど、訊くのはやめておいた。代わりに、ずっと前この港で捨てた僕の神様を思い出す。


「……そうだね」


 次の瞬間、小野寺さんが僕の手首を引っ張るように掴んだ。


「都築くん、桜見に行こう」


 彼女はいつも、突然だ。


「え……、今?」

「今だよ!」


 腕を引かれた僕は、彼女と一緒に港を出た。


 



 

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