5

 


 昔、家で犬を飼っていた。僕が小学六年生になった春、四つ上の姉がどこかから拾ってきた黒い犬。姉はその犬をクロと呼んだ。


 雨の降っていない日は、姉は必ずクロと散歩に出かけた。母はクロのためなら姉の強請るものをなんでも買ったし、姉はクロに餌をあげることや一緒に散歩へ行くことを何よりも優先してやっていた。

 クロと姉と一緒に散歩へ行くようにと母に言われたのは、夏になる前のことだったと思う。


「さ、行くよ」


 クロに向かってそう言った姉の後について家を出た。クロを連れた姉の数歩後ろをついていく。クロの尻尾と姉のまとめた髪束が同じように揺れるのを見ながら、僕は黙って歩いた。僕はあまり町を歩き回ったことがなくて、すぐに知らない道になった。

 そして、小さな川べりに出てしばらく歩いたとき。


「持つ? 紐」


 姉が振り返って言った。


「……いい」


 首を横に振ると、姉は前を向き直って歩き出す。


「お母さんに行けって言われたんでしょ」


「うん」

「あんたが毎日毎日部屋にこもってゲームばっかりしてるからだよ」


「……」

「どうして友達と遊ばないの?」

「友達、いないから」

「あんたそれなんとも思わないの?」


「なんともって?」


 足早のクロと姉を追いかけるのは大変だった。クロはただ楽しそうに歩いているようだったけれど、姉の歩調と後ろ姿には怒りが迸っていた。


「悲しいとか寂しいとか思わないわけ!?」


「……わかんない」


 姉は振り返って、僕を思いきり睨んだ。僕は驚いて立ち止まる。


「あんたよりクロのほうがずっと可愛いよ」


 あの頃の姉は、僕に対してなにかずっと怒っていた。どうして姉があんなふうに怒っていたのか、僕はわからなかった。クロと姉についていかなければ家に帰れなくなってしまう。慌てて追いかけた僕は確か、そんなことしか考えていなかった。


 姉があの日の川べりでどこか悔しそうに声を上げた理由が、今になってなんとなくわかるような気がする。共感ではなく、理解という意味で。そして、姉が僕に問い質して聞きたかったことは、否定でも理解でもなく、共感だったということも。


 僕が中学に上がるのと同時に、二年間だけ住んでいたその町から今の港町に越した。

 その年の春のことだ。

 新しい町に慣れるため、と母に言われて、僕は再びクロの散歩へついて行った。クロの足は前よりも遅く、姉もそれに合わせているようだった。そして僕はまたその後ろについて行った。

 姉は家の近くのスーパーや本屋の場所を説明して、僕はそれに返事をして歩いた。


「お父さんいなくて寂しい?」


 突然姉がそう言ったのは、散歩の半分が過ぎたころだった。二年間僕たちと別々に暮らした父親は、港町に越してくる前に母と離婚した。


「うん」

 と僕は答えた。

 寂しいと思ったわけではなくて、そう答えるべきだと思ったからだった。でも、姉はなにも返さなかった。代わりに、道端で足を止めたクロに手を伸ばして、頭を撫でて、「クロはずっと、私の一番の家族だよ」と言った。


 その次の年の冬、クロが死んだ。

 姉は大泣きした。母も悲しそうな顔をした。僕は泣かなかった。


 それがなんだかすごく悪いことのような気がして、僕はクロのお腹をそっと撫でた。もう動かないのにまだほんのりと温かい、その感触を僕はもうほとんど覚えていない。


 


 

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