1
バイト先の居酒屋から家までの帰路を遠回りすると、海沿いの道を十分ほど歩くことになる。砂浜はない、入り組んだ港の終着点。水面をほんの数十メートル挟んだ向かい側には貨物船らしき船が浮かんでいる。川の入り口のようで、そうではない。ここは確かにまだ海だ。潮の匂いがする。
雨上がりの夜だった。四月にしては寒すぎるのではないかと思う。
真冬からまだ変えられない上着のポケットから煙草とライターを取り出して、火を付ける。細いコンクリートの道と海を隔てる腰ほどの高さの古い手摺に腕を乗せ、真っ黒な水面を眺めながら煙を吐き出すあいだ、僕の頭は空っぽになる。
家と、バイト先と、夜の海辺。それだけをひたすらにぐるぐると回るような生活が、この春で四年目を迎えた。
「……」
初めてここへ来たとき、この港はどれくらい深いのだろうと思った。
その時は夜の海がこんなにも暗いことを知らなくて驚いたものだ。一応外灯は並んでいるけれど、オレンジ色のその光は海面まで届かないくらいに鈍く、時々不規則な点滅を繰り返している。
蛍光灯なんかが切れるのを見ると昔家で飼っていた犬のことを思い出すのは、僕の悪い癖の一つだ。犬は、クロという名前だった。
携帯灰皿に煙草を押し込むのと同時に、一際強い風が吹いた。煽られた髪が顔を撫でるのが鬱陶しくて、払うために頭を振る。
視界の端に人影を感じたのは、その時だった。
見ると、すぐそばの外灯の下に、一人の少女が立っている。
僕の肩は驚きで反射的に大きく跳ね上がり、危うく海へ灰皿を落としそうになった。まるで独りでに暴れ回るかのような灰皿をなんとか手の内に収めポケットに戻すまで、僕の思考には幽霊という単語がちらついていた。その類は何よりも苦手なのに、こういう時には真っ先に想像してしまう。
早鐘を打つ心臓のせいで息が詰まる心地に、思わず咳をして再び顔を上げた。潮風が、少女の胸元のリボンとスカートを翻す。
制服だ。どこの学校なのかはわからない。
戸惑う僕に、少女は微笑む。
「都築くん」
唸る風の中を突き抜ける真っ直ぐな声が、僕の名前を呼んだ。
妙な感覚だった。高校時代、僕はクラスメイトとあまり話すほうではなかった。いや、あまりというのは過言だ。友人の佐々木以外とは必要以上に話したことがない。卒業以来クラス会にも一度も行っていないし、わざわざ元クラスメイトのことを思い出すこともない。
そんな僕の記憶に、目の前の少女が突然飛び込んできたのだ。
「小野寺、さん?」
無意識に自分の口からこぼれた言葉で、少女の名前を知る。思い出した、というのが正しいのだろうか。けれど正直、彼女とまともに話したことがあるのかどうかすら覚えていない。それなのに、彼女の名前と元クラスメイトだったという曖昧な親近感のようなものが自分の中に湧き上がってきたのだ。久しぶりに同級生に会うっていうのは、こういうものなのだろうか。
視線の先では、小野寺さんが外灯の周りで踊るようにスキップをしている。地面で跳ねる軽やかなローファーの音、揺れる赤いリボンと紺色のスカート。元同級生のはずの彼女の姿はまるで、高校生だった。
「その服……、小野寺さん、なんでこんなところに……」
夜に溶けるような黒髪が小野寺さんの動きに合わせてふわふわと闇を裂いていく。やがて彼女は僕の目の前までやってきてぴたりと止まった。
「知りたい?」
顔を覗き込まれて、思わず目を逸らしてとりあえず頷いてしまう。
「その前に、私と約束してください」
「約束?」
「ひとつ、私と会ったことを誰にも言わないこと。ひとつ、私が言うことを誰にも言わないこと」
僕はもう一度頷いた。
「では!」
港に響く声に驚いて肩が震える。自分の小心者加減にうんざりしながら、おそるおそる小野寺さんの瞳に視線を戻した。
「都築くんに、私のとっておきの秘密を教えます」
「は、はい」
彼女が息を吸う。風が止んだ気がした。
「私は、魔女の末裔です」
「……、……え?」
「目を閉じて」
「な、なんで」
「3! 2!」
唐突なカウントダウンに僕は目を閉じた。しかし、「1」の声は一向に聞こえてこなくて、僕は改めて三秒数えてからゆっくりと目を開ける。
小野寺さんは、いなくなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます