七-4

 空が紫色を帯びて夜の到来を予兆し始めた頃、ルキトは繁華街から外れたところにある人気(ひとけ)のない並木道に差し掛かっていた。本当なら自宅のマンションへ直行するのだが、今日に限っては何だか遠回りしてゆっくり帰りたい気分だった。校門を出て宛もなく歩き続けた結果、この通りすっかり陽が落ちてしまったのだ。

 もう姉は大学から帰ってきて夕飯の支度をしている頃合だろう。普段よりも帰宅の遅いルキトを心配して待っているかもしれない。変な気まぐれのせいで姉に心配をかけてしまうのではないかと申し訳ない気持ちになったが、それを差し引いても今は外をぶらついていたい気分だった。

 ふと、見覚えのある古びたベンチが目に映った。昔、姉と一緒に夕飯の買い出しに行った帰りによく小休憩として腰を下ろしたベンチだ。母が食材の到着を待っているにも関わらず二人はベンチに腰掛け、今日のような夕暮れ時の空を眺めながら時を忘れて語り合った。今でもよく、覚えている。

 引き寄せられるようにルキトはベンチに座った。背中に懐かしい感触を感じつつ上を見上げると、昔と変わらぬ形の空が広がっていた。

 薄いシルエットの月がぼんやりと浮かんでいる。空はまだ薄っすらと明るく、星もまだ見えない。

 姉と並んで座りながら他愛もない話を交わし、全てを語り終えてベンチを立つ頃にはすっかり夜になっているというのが定番だった。遠い日の記憶、思い出の場所。しかし褪せてはいない。

 古い時間に思いを馳せること数刻。最近耳に覚えたばかりの新しい声が聞こえた。

「何してるのよ」

 空から目を戻すと、不機嫌そうな顔つきが特徴の少女が近くに立ってこちらに懐疑の眼差しを向けていた。

「ミトエレン……」

「こんな時間にベンチに一人座ってぼーっとしているなんて、あなた浮浪者?」

「そっちこそ、ここで何してるんだよ」

「別に。ただ外をぶらついていたらあなたを見つけただけよ。でも、ちょうど良かったわ。あなたに訊きたいことがあったの」

 そう言ってルキトの前にやって来、エレンは威圧的な態度でルキトを見下す。

「あなたが過去にどういう経験を経て今ここに至っているのか、聞かせてちょうだい」

 懇願ではなく、命令としての響きを含んだ言葉。ルキトは表情を変えずに聞き返す。

「何で?」

「いいから」

 エレンの言い分は無茶苦茶だったが――不思議とルキトは反抗心を抱かなかった。エレンの質問には理由があるということが彼女の真剣そうな顔つきから察することができたからだ。それならまぁ別にいいか、という緩い気構えで、ルキトは小さく頷いた。

「じゃあ、とりあえず座ったら?」

 エレンはしかめっ面でしばし迷い、渋々ながらルキトの隣に腰を下ろした。彼女は居心地悪そうに眉間を寄せたが、同様にルキトも奇妙な感覚を覚えた。

 今エレンの座っている場所は、昔姉が座っていた場所だ。姉の特等席に姉以外の人間が座るという新鮮さをルキトは感じていた。そう、あの頃と現在は違う。もう同じものではない。ルキトを取り巻く環境も、状況も、刻一刻と変化しているのだ。

 頭の隅でそう思いつつ、ルキトは話し始める。

「あんたと同じように、俺も不幸な経験と引き換えにギフトを得たブレシスだ。今からだいたい半年前、朔高(さっこう)に入学する前の冬の夜に、俺は殺人鬼に母さんを殺された。それだけでなく、その場に居合わせた俺自身も腹を刺されたんだ」

 エレンが驚いたように目を丸くしてこちらを向いた。ルキトは目線を足元に落としたまま淡々と続ける。

「意識がなくなる直前まで、俺は死が齎す寒さに凍えていた。冷たい雨も降っていたから、まるで氷水で満たされたバスタブに無理矢理沈められているようだった。そのとき俺は知ったんだ。死がいかに冷たくて寒いかを」

「それが、『死の温度』」

 ルキトは浅く頷く。

「それから俺は二ヶ月もの間昏睡状態に陥った。その間何度か心肺停止になったらしく、意識が戻ったのは奇跡的なことだと医者も後日言っていた。けど、目覚めと同時に俺を襲ったのは体の異変だ。当時ギフトの存在なんて勿論知らない俺は、突然体から発せられる冷気に混乱した。そんな時、タイミングよく見舞いに訪れたのが、セオだ」

 「あの先生……」と、エレンはうんざりするように息を吐いた。

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