七-3
ひどく、疲れた。
朝になってもベッドから起き上がれず、学校を休んで一日中寝たきり状態のまま半日を過ごしていた。心はまるで泥のように重くなり、体を動かせるだけの気力を生み出すことは到底できなかった。
窓から見える太陽が南中を過ぎてゆっくり西へと傾いていく。時間の移り変わる悠長な様をベッドの上から呆然と眺めながら、エレンは一人考えていた。
――結局エレンは死ねなかった。ルキトたちがいなくなってからも『死に直す』ことができなかった。死ねなかったということはこの世界で生きていく道を選んだということになり、不要な存在だと思っていた自分の命をこの先も保持し続けると認めてしまったという意味だ。
重さを感じる。生きることへの重さ。
不快に塗れたこの世界で生きていくには苦痛と共に重圧も背負わなければならない。エレンの命はただでさえ無価値なものなのだから、少しでも気を抜けばあっという間に世界の色彩に塗り潰されてしまう。
月が闇の中でも漆黒に染まらないのは、遠くで太陽が月のことを照らしているからだとあの少年は言っていた。しかしエレンにはその太陽がない。自分に光を当ててくれるだけの存在が、見当たらない。
――玄関のインターホンが鳴った。気が付けば夕方。母はまだ仕事から帰ってきておらず、今この家にいるのはエレンだけだ。
どうせ宅配便か何かだろう。応対する気にはなれなかったので居留守を決め込もうと思ったが、呼び鈴は続けて二・三度鳴り響いた。どうやら誰か出るまで引き返すつもりはないらしい。
「分かったわよ……」
エレンは前髪を掻き上げながらベッドから身を起こし、気怠い足取りで部屋を出た。
一階に下りるまで再度ベルが鳴り、エレンは急いで玄関のドアを開ける。
そして――絶句する。そこにいたのは宅配業者などではなかった。
「もう! いるなら早く出なさいよ、御戸さん!」
薄い縁無し眼鏡と額のヘアピンが特徴的な、見知った顔のクラスメイト。
「山津さん……!? どうしてあなたがここにいるのよ!?」
本来絶対に訪ねて来るはずのない人物の登場に、エレンは目を見開いてただただ驚く。メアルはエレンの住所を知っているはずないし、今頃はまだ部活をやっている時間帯だし、何よりも昨夜あんな目に遭わせたばかりだし――
混乱を余所に、メアルは両手を腰にかけて形のいい鼻先をつんと突き出してきた。
「御戸さん、ちょっと一緒に来てもらえる?」
「は? どうしてよ」
「いいから、とにかく来て。時間は取らせないから」
「え、あ、ちょっ……」
手首を掴まれ、エレンは強引に外へ引っ張り出された。振り解こうとしても全く離れず、メアルは力強い歩調でどんどん前に進んでいく。昨日の一件で精根共に尽き果てていたエレンに、抗う力などなかった。
連れて来られたのはエレンの家からさほど遠くない場所にある小さな公園だった。置いてある遊具と言えば滑り台とブランコだけだったが、場所的に小高い丘の上にあるため景観はなかなか良く、遠くの海まで見渡すことができた。
ようやくエレンから手を離したメアルは、ずかずかと一人で前進し――海の見える方向に向かっていきなり大声を上げた。
「アァ――――――――――ッ!!」
「何してるの!?」
メアルの突然の奇行にエレンは慌てる。
メアルは息の続く限り声を伸ばした後、肩の力を抜いてこちらを振り返った。
「ふぅ……スッキリした。私はね、この世に嫌いなものなんてなかったの。けど御戸さん、あなたのことは大嫌い。それはもう、心の底から。ここまで人を嫌いになったのは初めてだわ」
エレンのことを真っ向から見据えながら、メアルは自分の気持ちらしきものを包み隠さず打ち明ける。
「でも、嫌いなものができるとそれだけで一日がつまらなくなるってことも分かったわ。イライラして、モヤモヤして、ホント今日は最悪の日だった。気が滅入って、この通り部活まで休んじゃったくらい。こんなに不機嫌になったのは初めてだったから、溜まったストレスをどうやって発散すればいいか分からなかったの。だから、とりあえず大声で叫んでみることにしたのよ。そしたら意外。結構スッキリするものね」
ぺらぺらと早口で喋るメアルにエレンは口を挟めない。話の全貌が全く見えず、困惑したまま立ち尽くす。
「でも、毎日こうやって叫ぶわけにもいかないでしょ? 肝心なのは、ストレスの発散法じゃなくて、ストレスが溜まらないようにする方法なのよ。そのためには、嫌いなものをいつまでも嫌いなままにしておいちゃ永遠に解決しないと思うの。だから、あなたのことを好きになろうと思うのよ」
最後にさらりと付けられた一言を脳が理解するまできっかり五秒を要し――
「はぁ!?」
エレンは柄にもなく素っ頓狂な声を上げた。
「もちろん、友達という意味でよ? だから御戸さんも私のことを好きになって」
「意味が分からないわ! あなたはつい昨晩自分をあんな目に遭わせた人間を捕まえて友達になろうと申し出ているのよ? 一体どういう神経をしてるの!?」
「これって、お互いの利害が一致する最善の方法だと思うわ。私は日々の生活の中に一つでも嫌なものがあると今日のようにずっとモヤモヤしちゃうタイプなの。その嫌なものが自分の前の席のクラスメイトだなんて、とてもじゃないけど耐えられないわ。だから私は御戸さんを嫌じゃないものにして、楽しい学校生活を取り戻したいの。
で、御戸さんは、この世界のものが全部嫌いで、今の所その頂点に君臨しているのが私なんでしょ? だったら逆に、もし私のことを好きになれれば、この世界の大抵のことは嫌いじゃなくなるんじゃないかしら? そうなれば、今よりずっと生きやすくなると思うわ。
――ね? 私たちが仲良くなれれば、お互いに幸せになれるでしょ?」
エレンは喉を絞るようにして押し黙る。
メアルは理想論を語っている。実際はそんなことできるはずがない。メアルはどうか知らないが、少なくともエレンは昨日まで目の敵にしていた人物を友人としてすぐに受け入れられるほど柔軟な心情を持っている人間ではない。
それに、ここで簡単にメアルの提案を承諾したらエレンは今までの自分の生き方を真っ向から否定してしまうことになる。心に壁を作って人との接触を避けてきたのに、世界との調和を拒んで孤立を保ってきたのに、ここでメアルとの親和を築いてはそれらのスタイルを一瞬にして崩壊させてしまうことになる。
そんなことを許してはいけない。エレンの人生は軽くもなければ単純でもないのだ、そう簡単に覆せるものではない。
「馬鹿馬鹿しい……」
エレンは俯き、食いしばった歯の隙間から怒りに満ちた低い声を漏らす。
「馬鹿馬鹿しいわ、山津さん。あなたのそんな茶番に付き合うくらいなら、死んだ方がマシよ」
「御戸さん……」
「あなたのことを好きになれば幸せになれる、ですって? 傲慢にも程があるわね。お節介な学級委員長から、今度は慈悲深い女神様にでもなったつもり?」
メアルは顔つきを険しくさせ、エレンへずいと踏み出す。エレンは防衛本能に突き動かされるようにすかさず右手を前に伸ばす。
「ち、近づかないで! また痛い思いをさせてやるわよ!」
しかしメアルは止まらず、自らの胸をエレンの掌の前に突き出して堂々と直立した。
「やれるものならやってみなさいよ。もう怖くないわ」
挑戦的な態度にエレンは――怯む。
メアルの目は少しも怯えていない。正面からエレンを見つめ、断固とした態度で挑んできている。彼女の意気込みは、今のエレンでは太刀打ちできないほど強靭だ。
「どうして、そんなに強気でいられるのよ」
右腕を微かに震わせながら、エレンは訊く。
「だって、私は自分の言っていることが正しいと信じているもの」
「よくも抜け抜けとそんな台詞が吐けるわね」
「あいにく私はそういう人間だからよ」
「あっそ。そういう人間に生まれてこれて良かったわね。ある意味羨ましいくらいだわ」
皮肉を込めて罵ると、メアルは極力無表情を保ちつつ瞳の奥に今まで見せたことのないような感情を滲ませた。
「勘違いしないで。私だって、最初から今のような人間だったわけじゃないわ」
「なんですって?」
「いいえ、私のことは関係ないわ。それよりも御戸さん、大切なのはこれからのことよ。これから自分がどうすればいいか。……いえ、言い方を換えるわ。御戸さんは今のままでいいの? 今までのように世界を嫌って、今までのように自分を嫌って、昨日のように自分を虐げようとして……そんな人生でいいの? そんな人生で終わってしまっていいの?」
エレンは狼狽する。メアルの言葉があまりにも厳しくて、物怖じする。
「世の中には生きたいと思っていても生きれない人間もいるのよ。死にたくないと思っていても死んでしまう人間もいるのよ。けど御戸さんは、自分から死を選ばない限り生き続けることができるのよ。それってどういう意味か分かる?」
いつの間にかメアルの瞳は潤んでいた。しかし目尻から涙は零れない。あらゆる感情を抑え込み、それでいてあらゆる感情を満ち溢れさせ、メアルは言う。
「生きているだけで、人は幸せなのよ」
その言葉に何と答えればいいか、この時のエレンには見当もつかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます