六-2
「私はね、望まれて生まれてきた人間じゃないのよ」
力の篭っていない声でエレンがひとりでに語り出す。瞳は光を失い、肩もだらりと下がっている。
「私の父と母は若い頃に結ばれて、母は未成年の時に私を産んだの。それを私はごく普通のことだと思っていた。けれど父が家を出ていった日に初めて現実を知ったわ。『お前さえいなければな』――そう言って去っていった父の目は邪魔なもの、不快なものを見る拒絶感に満ちていた。私は間違って産まれてきた子供なんだとその時悟ったの」
ルキトとメアルは息を呑むように唇を結んで彼女を見つめることしかできない。
「そもそも父と母は望んで結婚したわけじゃなかった。私が産まれてしまったから、一緒にならざるを得なかったの。結局父は耐え切れなくなって逃げる道を選び、私と母だけが無惨にも取り残された。父が言った通り、きっと私さえいなければ二人は順調に男女の道を歩んでいったのかもしれないわ。けど私が産まれたことであっという間にその道が崩壊してしまった。私が邪魔をしたせいで、二人の人間が不幸になってしまったのよ」
エレンの言葉はルキトたちだけではなく、彼女自身にも向けられているようだった。この話の先に何が待っているのか、少なくともルキトには分からなかった。
「それから私の世界観はがらりと変わった。世の中の全てが色づいて見え始めたのよ。人や物に限らず、世界に犇くありとあらゆるものが、鮮やかに見えてきたの。世の中にあるものには全て価値や意味があるわ。存在意義という強い色を放ってこの世界を彩っている。草や虫でさえ、自然界の循環を繋ぐ大切な住人。それなのに、望まれて生まれてきた人間ではない自分には、価値もなければ意味もない。モノクロよ。色なんてないし、ただ邪魔なだけ。だから、だからこそ、嫌だった。モノクロのせいで、私にとってこの世界は鮮やか過ぎて、眩し過ぎて――とても目障りだった。油と水のように、どう頑張ってもモノトーンは色彩の中に溶け込めないわ。……だから私は、この世界が大嫌い」
そこまで話し終えると、エレンの足がおもむろに校舎の方へ向く。
「どこに行くつもりだ?」
「あなたが齎してくれた眠り――真っ暗で何もなく、誰もいない、私と同じ、無色の世界。とても心地よくて、安心できる場所だった。まさに私に相応しい場所だったわ」
小さくそうとだけ答え――エレンは突然走り出した。
「御戸さん!?」
吃驚するメアルの横で、ルキトは直感する。エレンの行く先を、エレンの求めるものを。
「いけない……!」
反射的にルキトも駆け出す。
エレンは全力疾走で校舎まで直行し、衝撃波で廊下の窓をぶち割って校内に飛び込んだ。ルキトも後を追って廊下に踏み入ったが、エレンは早くも階段を上り始めている。床を蹴る乱暴な音を頭上に聞きながら、ルキトも一心不乱に階段を駆け上がった。
そのまま最上階まで上り詰め、蹴破られた塔屋の扉を潜って屋上へ出る。
――エレンは、フェンスの一カ所を吹き飛ばして屋上の縁に立っていた。
「あんた、死ぬ気か?」
迂闊に近付けない危うい立ち位置。ルキトは足を止めて呼びかける。
エレンはゆっくりとこちらを振り返る。その顔は妙に清々しい。
「碓井君、覚えてる? 私は高いところが好きなのよ。何も見なくて済むし、誰とも関わらずに済む。けど、もっと理想的な場所を見つけたの。もっと高いところを見つけたの。屋上(ここ)は、そこへ行くための入り口だったってわけね。どうしてもっと早く気が付かなかったのかしら」
「物を壊し、人を傷付け、今度は自分までも殺そうって言うのか」
「死は心地いいわ。死んでしまえばもう何も感じずに済む。苦しみも、悲しみも、痛みも、絶望も、何もかも。苦痛に耐えながら無理に生きる必要なんてないのよ。この世界は私の生きるべき世界じゃないのだから、無理に生きようとしなくてもいい。死こそが私の生きるべき世界。死ぬことこそが、この不快に塗れた現世から逃れられる唯一の方法。それに気付かせてくれたのは他でもないあなたよ。お礼を言うべきね、碓井君」
「違う、そんなんじゃない……!」
「いいえ、違わないわ。私は何もかも大嫌い。でも本当に一番嫌いなのは、きっと自分自身だったのよ。無価値で無色な、誰からも望まれていない私という人間。そういうわけだから、さよなら」
穏やかに言い、エレンは一歩後ずさる。そこに足場は、ない。
ルキトは一瞬早くエレンに向かって駆け出している。間に合うか間に合わないかの瀬戸際。
エレンの体が床を離れ、静かに落下していく――
その手を、頭から滑り込むような形でルキトが間一髪掴む。
「ッ! 何するのよ!」
宙ぶらりんになりながら、エレンは怒りに満ちた顔でルキトを睨み上げる。
「駄目だ……! どんな理由があっても死を選んじゃいけない、選んでいいはずがない」
「私は望まれてつくられたものじゃないのよ! 死んだところでどうってことないわ!」
「命は生まれたときから皆平等だ。死んでもいい命なんてない」
「煩いわね! 離してよ!」
叫び、エレンが腕から拒絶の力を放出した。
手首から先が引き千切られそうな痛みが走ったが、ルキトは決死の形相でエレンの手を掴み続ける。しかし握力が入らなくなり、汗も混じって徐々に手が滑っていく。
「この……っ!」
エレンが再び衝撃波を放とうとする。もう一発撃たれたら耐えられない。
その時、別の手がルキトの顔の横から伸びてきてエレンの手を掴んだ。
「死なせないわ、死なせるものですか!」
メアルだ。
ルキトは一瞬驚き、しかしすぐに力を入れ直す。
「いや、やめて!」
首を振って抗うエレン。ルキトはメアルと力を合わせ――二人がかりでエレンを屋上へと引っ張り上げた。
無理矢理引き戻されたエレンは目を剥きながら喚き散らす。
「どうして死なせてくれないのよ! 私は生きていたくないんだから、ゆっくり眠らせ――」
エレンの言葉は途絶えた。
メアルが、取り乱していたエレンの横顔を思い切り叩いたのだ。
「え……」
何が起きたのか分からないといった表情でぴたりと動きを止めるエレンに、メアルは腹の底から怒鳴る
「馬鹿なんじゃないのッ!?」
それだけだ。その一言だけ。
メアルは怒りと涙に打ち震えた瞳でエレンを睨む。何も言わない。否、言いたいことが山ほどありすぎて言葉にできない様子。
エレンも何も言わない。赤くなった頬を押さえ、呆けたように沈黙してその場に膝を崩す。
そして――泣いた。
苦しげに、死んでしまいそうなほど苦しげに、エレンは泣きじゃくる。それしかできないように、ただ涙だけを流す。
夜空の下に響く少女の嗚咽は、いつまでも鳴りやまない。
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