六-3

 どれくらい泣いていただろうか。

 声も掠れ、涙も枯れ、顔を上げた時には周りに誰もいなくなっていた。それでも頬はまだ痛み、心もまだ軋んでいた。

 ――一人だけ、いた。エレンとやや離れた場所に腰を下ろしている少年が、一人。

「……何してるのよ」

 手の甲で涙を乱暴に拭ってから、エレンはその場にへたり込んだまま尋ねた。ルキトは見上げていた夜空から視線を下ろしてエレンの方を向いた。

「待ってた」

「なにを?」

「あんたを」

「なんで?」

「なんとなく」

 時任は姿を見せず、メアルももう帰ってしまったようだ。屋上に残っているのは、だからエレンとルキトの二人しかいない。

「俺も、世界が時々嫌になる」

 虚空に視線を投げ、静かにルキトが話し始める。

「世界は無情だ。訳もなく大切な人を奪い、生きている者に重荷を課し、いくら願っても死んだ人を返してはくれない。なんで世界はそんなふうにできているのか、恨まずにはいられなくなる時がある」

 エレンは黙って耳を傾ける。

「だからこそ俺は死を選びはしない。世界は無情で冷徹で、気に入らないことが山ほどあるけど、だからこそ俺は生きる。世界に勝つために、生き続ける」

「世界に、勝つ?」

「自ら命を絶つことは、世界に負けることと同じだ。自ら死を選ぶことは、世界に対して自分の弱さを認めることと同じだ。俺はそんなことしたくない。ミトエレン、あんたは世界に対して易々と負けを認めるほど弱い人間なのか?」

「勝つも負けるもないわ。私はもともと不要な人間。色付いた世界に生きていること自体おかしいのよ」

「だったら輝けばいい。世界が色鮮やかに光って見えるなら、その光を自分から浴びて煌きを帯びればいい」

 エレンを真っ直ぐ見据えて言うルキト。その言葉も率直で、エレンは返す言葉に詰まる。

 ルキトは白銀の満月を瞳に映した。

「俺の姉さんは夜空を眺めるのが好きなんだ。今夜は月が綺麗だから、きっと今頃ベランダに出てこの空を眺めてると思う」

 エレンもつられて頭上を仰ぐ。光の乏しい夜空の中では、月が何よりも眩しく見える。

「その姉さんが前にこう言っていた。月があんなに明るいのは、遠くにある太陽が月を照らしているからなんだ、って。月は自分では輝けない、太陽の光があるからこそ月は暗闇の中でも光を放てるんだ、ってね」

 暗く沈んだ黒瞳に銀色の月光を宿し、ルキトがこちらを向く。

「光を持たない月でさえあんなに綺麗に輝けるんだ。人間だって、輝ける」

 理屈も理論もなく、ただ心に訴えかけてくるような言葉。エレンの胸の中に、ゆっくりと染み込んでくる。

 エレンは押し黙り――そんなエレンを残して少年は立ち上がる。

「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ。姉さんも心配しているだろうし」

「あなたが帰った後にまた飛び降りるかもしれないわよ」

「あんたは強い人間だ。力も強いし、意思だって、ギフトの使い道でうじうじ悩んでいた俺なんかよりもずっと強い。強い人間はそう簡単に負けたりはしない」

「買い被られたものね」

「本心だよ。……まぁ、一緒に帰りたいって言うなら帰るけど」

 エレンは迷わず首を振るう。

「それは遠慮しとくわ」

 ルキトは「そう」と呟き、表情そのままに付け加える。

「ミトエレン、命っていうのは生きるためにあるんだ。あんたが持っているのも命なんだから、たとえそれがどんな命であったとしても、あんたは自分の命が死なないように努力しなきゃならない。それが、人が人として背負う最低限の義務だと思う」

 不器用な言い回しで言葉を紡いだ後、もうこれ以上言うことはないというようにルキトは背を向けて歩き出す。

「それもお姉さんの受け売り?」

「これは俺自身の考えだよ」

 そう言ったのを最後に少年は去っていった。氷柱が溶けてなくなるように、音もなく静かに。

 そして屋上にはエレンだけが残る。頬の痛みもまだ少し残っている。

 屋上の縁の方を見遣る。穴の開いたフェンスが安息へ繋がる扉のようにぽっかりと口を開けてエレンを待っている。

 それから夜空に視線を投げる。淡い月光を滲ませた満月が、エレンの顔を仄かに照らしている。

 ――今は何となく、月を見ていたい気分だった。

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