五-1

 いつの間にか土砂降りになっている雨。粒が大きく、人もそうでないものも一瞬にして水浸しになる。

 そんな雨夜の中、自分と同じように傘も差さずに現れた少年――ルキト。

「碓井君」

 エレンは多少の驚きを抱きつつルキトと視線を合わせる。暗く沈んだ顔の少年はお互いの声が聞こえる地点まで距離を縮めた。

「あなたが私を止めようって言うの? 自分のギフトの在り方をまだ見つけ出せていないあなたに、そんな力はないと思うけど」

「俺は――何も考えずに空っぽのまま、あんたを止めようよ思う。何のために、何の理由で、何を想って俺はそうしているのか、透明な心で直接感じ取って見つけ出そうと思う。理由なんてものは、場合によっては後から勝手についてくるもの……今回は、そうなることを信じる」

「何をごちゃごちゃ言ってるのよ」

 言葉の意味は皆目分からなかったが、長い前髪の奥に冷たく光るルキトの黒瞳は少しも揺らいでいない。エレンの強行を阻止するという表面上の意思だけは強いことが窺える。

 エレンは怒りを覚えた。この少年は明確な理由もなしに人の行為を邪魔しようとしている。エレンは自分なりに考えて目的を見つけ出して行動しているというのに、この少年にはそんなもの一切ない。

 不愉快だ。どうしようもなく、不愉快。拒絶すべき存在だと、認識する。

 時任の方に目を配ってみると、彼はメアルを伴って木陰に身を退いていた。完全に傍観者を決め込む様子。

 即ち、ここから先はエレンとルキトだけの時間だということ。エレンとルキトだけの闘いが、これから始まるということ。

 エレンは前方に佇むルキトに目を戻す。ルキトは唇を結んでエレンをじっと見つめている。烈しい感情を纏った瞳と、感情の薄い冷淡な瞳が、熱線と鋼線のように交じり合い、鬩ぎ合う。

 ルキトと衝突するのはこれが三度目だ。一度目は食堂での不慮の事故。二度目は屋上での対面。そして今回の三度目は、対決という意味で巡ってきている。

 そう、これが最後だ。決着を着けるための、最後の衝突。

 雨音だけが鳴り響く時間がしばらく続き――

「――じゃあ、いくわよ」

 エレンが、動く。

 切って落とされる闘いの火蓋。

 タンッ、と地面を蹴るのと同時に、エレンは脚部から衝撃波を放つ。足元に溜まった雨水が音を立てて弾け、エレンの体が勢いよく、跳ぶ。

 拒絶の力を利用した跳躍だ。常人では成し得ない距離を、常人では不可能なスピードで跳び越える。先手必勝。

 一瞬にしてルキトの眼前へ躍りかかったエレンは、着地に乗せて右の拳を振りかぶる。拒絶の力が凝縮された拳が、めい一杯引き絞られる。

 ルキトも、ここで初めて動く。思いの外素早い挙動で両腕を体の前でクロスさせ、防御の姿勢を取る。しかし所詮は生身の腕、エレンの力に耐えられるわけがない。

 鋭い雄叫びを上げ、エレンはルキトの腕めがけて拳を突き出した。拒絶の力を解放し、衝撃波の塊をルキトの体に叩き込む――

 予想だにしない音が高鳴った。ガラスが砕けるような音。しかし音だけでなく、本当にガラスの破片が目の前に飛び散った。

 よく見ると違う。もっと硬くて、もっと冷たいもの。

 ――氷だ。

 エレンは目を見開く。その瞳に映るのは、正しく驚愕の映像。

 ルキトは――その場に踏み留まっていた。あらゆるものを片っ端から吹き飛ばす衝撃波を直に食らったはずなのに、小柄な少年は打倒されることなく体勢を維持していたのだ。

 だが、本当に驚くべきことはそこではなかった。もっと異常で、もっと理解不能な現象が、ルキトの体に起こっていた。

 エレンの拳を受け止めたルキトの両腕が、分厚い氷の層に包み込まれていたのだ。拒絶の力を打ち込んだ箇所が砕けて陥没しているものの、全壊はしていない。更に両足も地面と一緒に氷付けになっており、ルキトの体をしっかりと地の上に固定しているではないか。

「な、何よ、これ……!?」

 一瞬の内に出現した氷の装甲にエレンは震駭する。氷塊の向こうに、ルキトの冷たい瞳がある。

「吹っ飛ばされるのは、一度きりで十分だ」

 ルキトの手足を覆う氷が、本人の意思に沿ってか、即座に剥がれ落ちる。

 四肢の氷結を解くと、ルキトは表情を変えぬままエレンに向かって右腕を振ってきた。

 顔の前に張られた蜘蛛の巣を払い除けるような動作。故にそれがどのような意味での行動なのかエレンは察知できず、対処が遅れる。

 ――それは紛れもなくルキトの攻撃だった。

「ひッ!?」

 エレンは引き攣った悲鳴を上げた。ルキトの腕から得体の知れない冷風が飛んできて、エレンの上半身に降りかかったのだ。

 エレンの左脇腹から右肩にかけて真っ白な霜が広がる。常識では考えられない瞬間的な凍結。雪のような冷たさが染み渡り、エレンは思わず膝を崩して蹲った。

「くっ……うぅぅ……」

 肩を抱いてエレンはがたがたと震える。未だかつて味わったことのない寒気が、体の奥まで浸透してくる。

「――『死の温度』」

 そこに聞こえる、ルキトの冷淡な声。

「触れたものに死の冷たさを流し込み、瞬時に凍結させる能力。ブレシスとしての、俺の力(ギフト)だ」

「死の、温度……」

 凍えながらエレンは実感する。これは人の命を蝕む冷気だ。人が触れてはいけない冷気だ。

 これがルキトの持つギフトの正体。何と悍ましい能力か。一度囚われれば生気を吸い取られ、体の自由を奪われて死の凍結に苛まれる。

「こんなもの……」

 歯を食いしばって悪寒を押し殺しながら、エレンは闘志を蘇らせる。ルキトの前で屈している自分を叱咤するように、吼える。

「こんなものッ!」

 力強く立ち上がり、エレンは全身から拒絶の力を放つ。全方位へ向けての衝撃波の一斉放出だ。

 エレンを中心に爆発した波動は服に付着していた霜を引き剥がし、体の周りを取り巻いていた冷気を掻き消して、傍にいたルキトをも後方へ退かせた。

 深く深呼吸することでエレンは乱れていた精神を整える。

「――不快だわ。あなたのギフト。それを扱うあなた自身も、とても不快。山津さんの前にまずあなたから叩きのめした方がよさそうね、碓井君」

 エレンは右の拳を強く握り締める。拒絶の力が持ち主の感情に呼応して脈々と蓄積・凝縮されていき、破裂せんばかりのエネルギーが手の内に熱く満ちる。

「あんたはギフトを使って人を傷つけることしか考えていない。物を壊すことしか考えていない。ここで止めなきゃ、取り返しのつかないことになる」

 ルキトは右手を横に伸ばして雨に晒す。死の温度を発現させることで腕に降りかかる雨粒を連鎖的に瞬間凍結させていき、右手の表面に頑丈な氷の篭手を完成させる。

 ――互いの戦闘体勢が整う。後は言葉ではなく力でぶつかり合うのみ。

 先手を切って動いたのはまたもエレンだ。駆け出し、一直線にルキトの許へ接近する。ルキトは身構えたりせずにただエレンを見据える。覇気のない姿勢だが、瞳には静かなる闘志が宿っている。

 動と静の、対峙。

 真っ向からルキトに肉薄したエレンは、疾駆の勢いのまま拳を突き出す。ルキトも最低限の動きで氷の篭手を繰り出してくる。

 異能を纏った二つの手が、轟音を響かせてぶつかり合う。

 力の差は歴然だ。エレンの拳から放たれた衝撃波の威力の方が、圧倒的に上。全力で解放された拒絶の力は難なく氷の篭手を弾き返し、ルキトをよろめかせる。

 しかし氷の篭手を粉砕するまでには至らない。ルキトの武装は拒絶の力に耐久し得る程の驚異的な強度を秘めているという証であり――

 エレンがその防御性の高さに驚いているのも束の間、衝撃波による反動を逆に利用して体を素早く回転させたルキトが、空いている左手を振るって死の温度を投げつけてきた。

「当たらないわよ!」

 即座にエレンは両足から拒絶の力を放ち、真上に高くジャンプして冷気を避ける。続けて落下と共に片足を突き下ろし、ルキトの脳天めがけて蹴りを浴びせかけた。

 強暴な力を秘めたエレンの蹴撃は、しかし間一髪で体をずらしたルキトの脇を掠めて地面を抉った。地表が震撼し、雨で緩んだ土が方々に飛び散る。

 空振り――だがエレンの意思はすぐに次の攻撃へと移っている。

 穿った地面を踏み締め、エレンは隙を挟むことなく掌から拒絶の力を撃った。密着していなくとも十分に相手を打倒できる異形の衝撃波は、咄嗟の回避行動から体勢を立て直しきれていないルキトに暴風のような追い撃ちをかけ、少年の小柄な体を薙ぎ倒す。

 地の上に仰向けに卒倒するルキト。ここぞとばかりにエレンはルキトの上に飛び掛かり、拒絶の力を纏った拳を振りかざす。

 苦肉の表情を浮かべながらルキトは右手に装着していた氷の篭手を瞬時に氷解させ、開いた両手を前に突き出す。手中に降り注ぐ雨水を死の温度によって凍結させることで、ルキトは一瞬の内に掌の上にコンタクトレンズを模したような大きな氷の膜を形成した。

 エレンは構わず拳を叩き込む。獰猛な衝撃波が薄氷の壁を激しく打ち震わせ、甲高い音を響かせる。

 しかし壁は壊れない。向こう側が透けて見えるくらい薄いのに、罅一つ入らない。見た目に反して堅固な氷壁だ。

「ぶち壊してやるわ!」

 荒々しく叫び、エレンは次々と拳を打ちつける。左、右、左、右と、ルキトに覆いかぶさった状態で氷壁に何度も拒絶の力を叩き込む。まるで空爆でも起きているのではないかと思わせるような轟音が辺りに響き渡り、雨粒一つ一つが振動する。

 幾度目かの拳撃で、遂に薄氷に細かな亀裂が走った。続いての一撃で完全に砕け散る氷の壁。ルキトの防御が、瓦解する。

 遮蔽がなくなったルキトの顔面目掛けてエレンは拳を打ち下ろす。

「うッ……!?」

 その拳が、ルキトに当たる寸前で揺らぎ、止まる。下半身に寒気を感じたエレンは青ざめて足元に目を遣る。ルキトを中心とした地面が、辺り一面真っ白な霜に覆い尽くされていた。

「しまった――!」

 凍土のように寒々しい情景。ルキトはエレンの連撃を防いでいる間背中からも死の温度を発し続け、地面の四方へと密かに広げていたのだ。エレンの両足は膝の辺りまで霜に包み込まれており、悍ましい冷たさが下半身を這い上がって瞬く間に全身へと浸透していく。

 呻きながら何とかルキトから離れようと数歩後ずさったが、エレンは霜の領域から逃げ切れずにやむなく片膝をついた。立っていられない程の極寒が精神を掻き乱し、体を萎縮させる。足腰も痙攣するように震えているせいで、脚部に拒絶の力を溜めてジャンプすることも出来ない。

「物を壊すことばかり考えていたら、周りに目がいかなくなる」

 凍てつく大地の中心でルキトがゆっくりと立ち上がる。死人のような顔をしながら、ルキトは蹲るエレンに向かって冷気を投射してきた。

 足元と、そして上半身からも浴びせかけられる死の温度。エレンは体の大半を白い霜に覆われ、肩を抱いて縮こまる。

「さ、寒い……っ」

 完全に身動きが取れなくなったエレンに、ルキトの冷たい声が雪のように降りかかる。

「一体何が解決するんだ? ギフトを暴力として振るうことで、クラスメイトを痛め付けることで、俺を排除することで、一体何が解決するって言うんだ?」

 震える唇でエレンは答える。

「前に言ったでしょ。私はこの世界が大嫌いなのよ。あなたたちはその中でも特に嫌いな存在。だから邪魔なもの(あなたたち)がいなくなれば気分が清々するわ」

「それでも世界は変わらない。あんたにとって不快なものはこの先いくらでも現れる」

「だったら世界中のものを壊し尽くしてやるわよ!」

「そんなこと、できるわけがない」

「煩いッ!!」

 噛み付くように吠え、エレンは両腕をルキトに向かって突き出す。怒りを糧にして発射される、拒絶の力の大砲。

 空間そのものが歪曲しそうなほど強烈で重厚な衝撃波の塊が、一直線上にあるもの全てを一掃する。雨も土も、そして死の冷気によって形成された霜も皆粉塵となって虚空に舞い上がり、間近にいたルキトの華奢な体も折れた小枝のように吹き飛んだ。

 ――直撃だ。

 遥か向こうに転げ落ちたルキトと立場を交換するようにエレンは立ち上がる。周囲に広がっていた氷結が消滅し、エレンの体からも寒気が抜ける。

「だったらあなたは何がしたいって言うの? 何ができるって言うの?」

 問い掛けるエレンの息は、荒い。ルキトの振るう冷気は物理的破壊力を持っていない代わりに、精神的被害が凄まじい。体ではなく心にダメージを与え、体力ではなく神経を消耗させる。エレンとは全く対照的なギフト。

 ルキトから返事は返ってこない。地面に仰向けに倒れたまま、氷のように沈黙している。気絶しているのかそうでないのか、この位置からでは見えない。

「――壮大だねぇ、エレン君」

 軽い調子で口を開いたのは、今まで気配を消して闘いを見物していた黒スーツの男だった。

 エレンは木陰に佇んでいる時任を見遣り、威圧的な視線を送る。傍に寄り添っていたメアルは怯んで肩を竦ませたが、時任には何の効果もない。

「キミの願望は実に壮大だ。不快なものを全て破壊し尽くし、自分にとって理想の世界を作る。スケールの大きい話だねぇ」

「文句ありますか?」

「とんでもない。結構な夢ではないか。しかし、どうも私にはキミの望む世界の在り方が想像できないな。キミにとって世界に存在する全てのものは不快対象として認識されている。それら全てを壊し尽くしたとしたら――一体何が残るのだろうか? 何もかもが消えてなくなった世界とは、果してどんな世界だろうねぇ?」

「言葉の通りだと思いますけど」

「そうだな、つまりそれは『無』だ。キミが望む世界とは、即ち無であるということさ」

 時任の顔から笑みが消える。眼差しを鋭くさせ、圧力を帯びた声音で告げる。

「エレン君。無という言葉を別の言い方にするとどうなるか、キミは知っているかね?」

 エレンは――押し黙る。

「……知らないよ、そんなの。けど、ただ一つ分かったことがある」

 エレンの代わりに答えたのは冷たくてか細い声だ。

 前方に視界を戻す。ゆっくりとよろめきながら、ルキトが立ち上がっている。

「ミトエレン。あんたのやっていることは、悲しみしか生まない」

 そう言ってエレンを見据えるルキトの瞳には、今まで無かった何かが宿っていた。

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