四-4

 弦が引き絞られ、緊迫の無音時間が過ぎった後、矢が放たれる。

 鋭い風切り音を鳴らしながら矢は一直線に空を飛ぶ。疾風の如きスピードで、ブレのない軌道を描きながら、一筋の閃光となった矢は遥か前方の的の中心に音を立てて突き刺さった。

 見事な弓道の業。全てが静寂の中で行われ、全てが一瞬の内に達成された偉業だ。

 それを成し遂げた人物は、学生服を脱いで弓道着に身を包んだ少女――メアルだった。

「……よし」

 喜ぶでも慢心するでもなくただ納得したように頷き、メアルは静かに和弓を下ろした。本日の居残り練習はここまでだ。

 既に陽は落ちて空は暗い。弓道場の四隅に設置された強力な照明のお陰で練習の続行に支障はなかったが、朝の天気予報だとこの後雨が降るとのことだった。他の部員もとっくに帰ってしまったことだし、この辺りで切り上げるとしよう。

 深い息を一つ吐くことで心身の緊張を解いたメアルは、タオルで汗を拭きつつてきぱきと道具の片付けを始めた。頬を摩る微風は湿り気を帯びていて生暖かい。雨足はすぐそこまでやって来ているようだ。

 それからメアルは更衣室で制服に着替え、手早く帰り支度を整えてから最後に照明を消して弓道場を後にした。弓道用具一式は部室のロッカーにしまったため、帰りの荷物は鞄と傘だけでいい。

 暗闇の中、学校の裏庭を通って校門へ向かう。辺りに人はおらず、校舎の明かりもほぼ全て消えている。全部活を通してこの時間まで残っていたのはメアルだけのようだ。

 ――と思っていた矢先、暗がりの向こうに人影が浮かび上がった。どうやらこちらに向かって歩いて来ているらしく、メアルは一旦足を止めて前方に目を凝らした。

 弓道場に忘れ物でもした部員か。もしくは見回りの先生だろうか。メアルが小首を傾げていると、やがてその人物の姿が明らかとなった。

「御戸さん……」

「お疲れさま、山津さん」

 エレンはまるで悪霊にでも取り憑かれたかのような薄気味悪い顔をしていた。瞳もどこか虚ろげで濁っており、声にも心が篭っていない。日中から様子がおかしかったが、今では異常と呼べる域にまで達していた。

「ど、どうしたのよ御戸さん、こんな時間になるまで学校に残っているなんて」

 それでも何とか平静を装って尋ねてみる。しかしエレンは答えず、ゆっくりと足を前進させたまま一方的に話し始める。

「人間と雑草の違いって何だか分かる? 山津さん」

「なんですって?」

「考えるまでもないわ。それは理性よ。人間には理性があって、植物にはない――それが一番大きな違い」

 ――空から雨粒が落ち始めた。水滴が草木の葉を打つ音が辺りをざわめかせる。その中にエレンの声が響く。

「だから、邪魔な雑草は何の迷いもなく毟り取れるけど、邪魔な人間はそうはいかない。理性を持っている生き物である以上、簡単には排除できない。でも、逆に考えれば人間は理性を持っているのだから、頭で学ぶことができるし、体で知ることができる。私はそこに着目したの。だったら、邪魔な人間にはそうであると思い知らせればいい、戒めればいい、とね」

「何を言っているの?」

「大丈夫、もう何も言わないわ。もう口で言うのはやめたの」

 メアルの目の前までやって来て、エレンは静かに足を止めた。唇を結び、おもむろに右手を持ち上げてメアルの胸元へ伸ばす。

 直後――エレンの掌から目に見えない強烈な衝撃波が放出された。

 何が起きたのか把握する暇などない。轟音と共に得体の知れない力に打たれたメアルは、成す術もなく遥か後方に吹き飛ばされた。

 地面に派手に落下し、メアルは腹を折って身悶える。胸に打ち込まれた謎の力が重たい鈍痛となって体を軋ませる。

 その様を眺めながら、エレンが心から清々しい顔で深呼吸をした。

「はぁぁ……気持ちいい……ッ」

 愉悦に満ちた声で言い、再びエレンは前進を始める。更なる快楽を求めて彷徨い歩く亡者のように、ゆっくりとメアルへ接近する。

「御戸さん、あなた一体!?」

 胸を庇いながらメアルは起き上がる。エレンからの返事はない。気味の悪い薄笑みを滲ませてただ近付いてくるだけ。

 エレンの行動の意味が何なのか、さっきの奇妙な力の正体が何なのか、メアルには分からない。しかし、今のエレンが途轍もなく危うい存在であることだけは分かった。

「こ、来ないで!」

 メアルは悲鳴に近い叫びを上げた。エレンの足はその威嚇を無視して前進を続けている。

「来ないでって言ってるでしょ!」

 メアルは足元に落ちていた自前の傘を咄嗟に拾い上げ、エレンに向かって思い切り投げつけた。今できる最低限の防衛手段はこれしかなかった。

 傘は的確にエレンの許へ飛んでいった――が、エレンは歩調をそのままに再び体から衝撃波を放った。降りしきる雨粒が飛散し、傘は呆気なく明後日の方向へ弾き飛ばされた。

「どうなっているの!?」

 メアルは愕然とする。恐怖を覚えた。奇怪な力を振るうエレンに、正真正銘の恐ろしさを感じた。

 怖い。エレンが、怖い――。

 ふと、エレンが歩みを止めた。気まぐれに任せるような仕草で足元から小石を一個拾い上げ、手の上で転がす。

「私はあなたのその目が大嫌いなのよ。キラキラ光っていて、眩しくて。だから、これで潰してあげる」

 小石を握った手をメアルに向けて真っ直ぐ伸ばすエレン。

 メアルは何もできない。何も言えない。ただ戦慄し、立ち竦む。

 小さく口の端を上げ、エレンは手を開く。併せて掌から衝撃波が放出される。爆発的な力に押されて撃ち出された小石は弾丸さながらのスピードを纏って直進し、メアルの顔面へ飛んでくる。メアルに反応する時間など、ない。

 目の前が突然、黒い影に遮られた。

 聴こえたのは傘の開く音。次いで、その傘に弾かれて空の彼方へ飛んでいく小石の弾丸が視界の端に映る。

 焦点を眼前に合わせてみると――夜空を貼り付けたような黒いスーツの男が、同じ色をした傘を盾のように構えてメアルの前に立っていた。

 メアルは驚きに震える声を上げた。

「時任先生!?」

 普段から見慣れている物理教師の背中は、今のメアルにとってはこの上なく大きく見えた。



 蝙蝠のような黒い影がメアルの前に颯爽と割り込んで来たかと思うと、勢いよく開いた傘がエレンの礫を跳ね返した――。

 エレンの想定には全くない出来事だった。その荒業をいとも簡単に成し遂げた人物がゆっくりと傘を持ち上げる。息一つ切らしていない気障ったらしい顔が、現れる。

 エレンの口元が憎悪に歪む。

「やれやれ。スマートではないねぇ、エレン君」

 黒い傘を肩にかけて雨粒を遮りながら、時任はわざとらしく頭を振るう。メアルは時任の背に隠れて怯えている。

「自分とは対極に位置する人物、か。なるほど、確かにメアル君はそれに最も合致する存在であると言えるな。悔しいがマジシャンの予報は当たったということか」

 わけの分からない時任の独り言は聞き捨て、エレンは獣のように唸る。

「私の邪魔をしようって言うんですか? だったら容赦しません」

「誤解しないでくれたまえ。結果的に邪魔する形になってしまったが、正確に言えば私は頼まれてやっただけだ。キミを止める者が現れるとしたら、それは私ではない」

「じゃあ誰が――」

 言い終わる前にエレンは気づく。時任の視線がエレンの後方に移ったことに。そして、夏夜に似つかわしくない冷たい空気が、どこからともなく流れてきたことに。

 背筋に言い知れぬ寒気を感じながら、エレンは後ろを振り返る。

 降りしきる雨と濃厚な夜闇の向こうに、一人の小柄な少年が氷柱のように立っている。

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