四-3
帰りのホームルームが終わり、時任世生は生徒らと共に一年A組の教室から出た。一日の職務を終え、書斎まで帰る道中セオは幾人もの生徒から挨拶されてはごく普通の一教師として振る舞った。
セオは今でこそ高校の物理教師の職に就いているが、以前までは全く別の機関に属していた。それはブレシスやギフトといった異端の概念と直接的に関わる仕事で、それなりの地位にまで登り詰めてもいた。先日ルキトに貸した特殊な懐中電灯も、その頃の職業柄常に携帯していたものである。
物理準備室の前までやって来たセオはドアを開けて中へ入る。全ての物があるべき場所へ収まった書斎。セオの思うがままに構築された空間。普段通りの上質で優雅な空気感が、主を迎え入れる。
しかしセオは、定位置である大きなライティングデスクの前まで歩を進めたとろこで顔を顰めた。デスクの上に、自分が意図していないものが置かれていた。
それは一枚のカードだった。絵柄を一目見ただけで、タロットカードの0番『愚者』であると分かった。
セオの表情が陰ったのは、誰かが勝手に物を置いていったことに対する不満からではない。そのカードが、決別していた己の過去を連想させるような代物だったからだ。
銀色から輝きを取り除けばただの灰色に成り下がる。
金髪碧眼の青年が纏う銀マントも、日光の差し込まない曇り空の下ではただの地味な灰色の布だ。光がなければ煌きも放てない。
放課後の屋上に一人佇立しながら、フールは今にも雨を降らせそうな暗雲をじっと見上げていた。雨雲よりも先に涙を零しそうなほど、フールの碧眼には深い憂いが滲んでいた。
「――やはり君だったか」
その時、背後から声が聞こえた。フールは予想していたような冷静さで振り返った。
夜闇のような黒いスーツに身を包んだ男、時任世生が、影のかかった真顔でそこにいる。
「お久しぶりですね、ドクター・セオ」
フールは無害な微笑を作ったが、セオの顔は硬いままだ。
「その名前はとうの昔に捨てている。できれば遠慮してもらいたい」
「そのようですね、失礼。ではもう一つの異名である錬金術師(アルケミスト)と呼ばせて頂きます」
「勝手にしたまえ、魔術師(マジシャン)」
「昔からその通称、あまり好きではないのですが」
「目には目をというものだよ」
皮肉を言いつつセオはフールに冷眼を送る。
「まさかこの街に帰って来ているとは思わなかった。君の言う『旅』とやらはもう終わったのかね?」
フールはやや目線を落とし、
「さぁ、どうでしょうね」
と、曖昧な返事をするに留まった。
「私の前に再び現れたということは、お預けになっていた勝負の決着をつけに来たのかね? あるいは自首する気にでもなったとか。どちらにせよ、残念ながら手遅れだ。見ての通り、私はもうナースでもなければドクターでもないのでね」
「ええ、正直驚きました。てっきりあなたはホスピタルの職務に生涯を捧げるものと思っていましたから」
「私がホスピタル時代に唯一捕まえることができなかったブレシスから近況を気にされるとは、皮肉な話だ」
セオから目を背けるようにフールは踵を返し、遠くの景色に視線を投じる。
「……僕も、あなた方と同じく、とある一人の少女のことが気になっているんです」
セオが意外そうに瞼を持ち上げる。
「御戸永憐のことか。まさか君が裏でこそこそ嗅ぎ回っていたとは想定外だ。人と関わってはいけないというポリシーを掲げていたはずではなかったのかね?」
「僕がかつて過ちを犯した時も、彼女と同じ年代でした。そう考えると、どうしても見過ごしておけなかったんです。彼女は、やり直せないような地点にはまだ立っていない。あの頃の僕と違って」
「人助けのつもりかね」
「僕には誰も助けられませんよ」
沈黙が訪れる。フールは曇天を見上げ、セオはその背中を友好的とは言えない目で眺める。
雨を予感させる湿った風が何度か屋上を吹き抜けた後――フールが静かに唇を開いた。
「彼女にとって本当に不快なものとは、自分とは正反対の位置に立っている人間のことを指します。彼女の力はそれを排除するためのものであり、故に彼女はまず身近なところからそれを実行しようとするでしょう。少なくとも早いうちに」
振り返り、フールはセオを見据える。
「あなたは彼女を止めますか?」
「さてね。少なくとも他人のやることにそうそう首を突っ込むほどお節介ではないよ、私はね」
「――そうですか」
フールはセオの言葉を自分なりに解釈し、再び空へと顔を上げる。
雨雲のせいで既に辺りは薄暗い。いつもより早く夜がやってきそうだ。
「もうすぐ雨が降りそうですね」
意味のない天気予報を青年は口走る。
「『傘』は常備している。今でもね」
セオも、そうとだけ言った。
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