二-3

 下校を告げるチャイムが鳴るや否やエレンは鞄を手に取って真っ先に教室を出た。逃げるように昇降口を出て学校から脱出する。普段ならこのまま自宅に直行するのだが、エレンの足は途中から別の方角に進んでいた。

 顔に照りつける熱い夕日を鬱陶しく感じながらエレンが辿り着いた先は――土手の道だった。それも、昨夜エレンが『力』を乱発してぶち壊した道路橋の橋脚が望める地点。

 損壊した件の柱の周囲には鉄骨の足場が厳重に組まれ、既に修復作業が始まっているようだった。今はその周辺に作業員の姿はなく、エレンは土手道から見下ろすような形で橋脚を眺めた。

 組まれた足場の隙間から、昨夜エレンが力をぶつけた箇所が垣間見える。円形の巨大な陥没が波紋のように重なり、柱の壁面の半分以上の面積に無数の亀裂が蜘蛛の巣のように走っている。まるで大砲を何発も撃ち込まれたような有様。陽の下で改めて見ると、自分でも固唾を呑んでしまうほど、その損壊の度合いは激しいものだった。確かにこれなら騒ぎになっても仕方がない。

 次は何に力をぶつけよう。エレンはそればかりを考えていた。橋脚を殴っている時は爽快だったが、所詮は一時の満足感に過ぎない。日々押し寄せてくるストレスを解消するためには、同じ分だけ何かを破壊しなければ気が済まない。

 もっと大きなものを。あるいは、もっと相応しいものを――

「――ごきげんよう」

 その時、エレンの気性とは正反対の穏やかな声が背後から聞こえた。

 エレンは驚いて後ろを振り返る。と同時に絶句した。そこに立っていたのは、銀色の長いマントに首から下を覆い隠した金髪碧眼の見知らぬ青年だった。

「な、何よあなた、いきなり……!」

 エレンは一歩後ずさる。すぐ後ろにいたのに全く気配を感じなかった。目で威嚇するが、それを見つめ返す青年の眼差しは落ち着いている。

「警戒しなくても大丈夫です。僕は君に危害を加えるつもりはありません。驚かせてしまったことについては謝ります」

 まるで異世界から抜け出してきた魔術師のような青年は、マントの隙間から白い手袋をはめた片手を出し、それを自分の胸元に添えて恭しく頭を下げた。エレンは緊張感を携えたまま脅すように唸る。

「一体何の用? もし痴漢なら他をあたった方が身のためよ」

「そのような者ではありませんよ。ただ興味本位で声をかけただけです。あの橋の支柱を壊したのは、君ですね?」

 青年の発したさりげない一言にエレンは耳を疑う。

「昨夜君はこの場で『力』を発現し、結果あのような破壊行動を取ってしまった。違いますか?」

 核心を持って紡がれる青年の言葉は、質問ではなく確認だ。柱を粉砕した犯人がエレンであることを知っている上で、その事実を本人に対して直接確かめようとしている。

「何を言っているのか分からないわ」

 エレンは白を切るが、青年は全てを見透かしているような碧眼で見つめ返してくる。

「この世界のどこかには、普通の人間が持ち得ない特別な能力を手にした者たちがいます。僕が見たところ、君はその内の一人です」

 異質な装いをした銀マントの青年は、外見と同じく奇妙な言い回しでそう断言してきた。普通の人間なら真に受けそうにない言葉だが、普通の人間から逸脱した力を隠し持っているエレンに対しては、反論させずに押し黙らせるくらいの効果はあった。

 言い逃れできない状況が作り出されている。エレンは息を呑んで青年を睨みながら、どうすべきか考える。ひょっとすると昨夜のここでの行いを彼に盗み見られてしまったのかもしれないが、どの道エレンがいくら白を切っても無駄だ。

「へぇ、そうなの。だったら――」

 エレンは右腕をおもむろに伸ばし、開いた掌を青年の鳩尾の前に突き出した。

「この力のことは黙っておいてもらえる? 口外したり余計な詮索を続けたりするつもりなら、ここで直に力を味わわせてあげてもいいのよ」

 掌底をまるで銃口のように青年の胸に向け、エレンは低い声で脅す。この能力のことは他人に知られたくないし、嗅ぎ回られたくもない。だから力の存在を知っているこの青年は邪魔者であり、拒絶すべき存在だ。

「口封じ、ですか」

「どうなの? 私の言うことを聞いてくれるかしら?」

「こんな事をしても無意味です。冷静になってください」

「そ。じゃあ試してみましょうか」

 エレンの感情に呼応し、一瞬にして右手の手中にエネルギーが凝縮される。破裂する直前の風船のような膨張感を湛えて蓄積されたその力を、エレンは掌から一思いに解放した。

 爆発音を轟かせながら前方へ発射される衝撃波。空気を弾き、目の前に立っている銀マントの青年を吹き飛ばす。

 はずだった、が――

 エレンは目を疑った。エレンが掌から拒絶の力を放出したと同時に、青年の立ち位置が正面から真横に一瞬の内にスライドしたのだ。衝撃波は青年の元いた場所を素通りし、虚空を揺るがしただけに終わる。

「え?」

 エレンは真横を見遣る。青年は何事もなかったような顔で佇んでいる。

「だから無意味だと言ったでしょう?」

 目にも留まらぬ素早い動きで衝撃波を避けた青年。エレンは奥歯を噛み締め、

「このッ!」

すかさず腕を伸ばしてもう一度青年へ拒絶の力を放った。

 青年の姿が消えた。またも宙を吹き去っていく暴風に前髪を揺らしながら、エレンは驚きに見開いた双眸で確かに目撃していた。一発目もそうだったが、青年は俊敏な動きで回避したのではない。本当に、消失したのだ。

「いけませんね。このままだと何もお話できません」

 すぐ後ろから青年の平静とした声が聞こえた。まさに瞬間移動でもしたかのようにエレンの背後に回り込んでいた青年は、振り向くより早くエレンの左腕を掴んできた。

「くっ!?」

「失礼。少し強く掴みます」

「何するのよ! 離し――……」

 いきなり二の腕を掴まれたエレンは顔を歪めたが、次の瞬間、それよりももっと普通ではない現象が降りかかった。

 突如として視界が大きく歪んだ。天地がひっくり返ったような激しい目眩に苛まれ、次いで足元から地面の感触がなくなった。視覚が動転しながら体がふわりと宙に浮いた感じだ。

 続いて全身に大きな負荷がかかってきた。濁流の中を遡行するような圧力が襲いかかってくる。息すらもできない圧迫感。

 しかしそれも一瞬だけで、両足が地面についた感覚もすぐに戻って来た。だが視野は一向に安定せず、エレンはその後も強烈な目眩に襲われた。洗濯機のように空と大地がぐるぐると回転し、ともすれば眼球が外れてしまうのではないかとエレンは不安になった。

「大丈夫です。目を瞑って深呼吸して。じき治まります」

 すぐ側で例の銀マントの青年の冷静な声が聞こえた。自分が今どういう状況に立っているのか分からなかったが、エレンは言われるがままに瞼を強く結んで何度も深く呼吸した。

 次第に眩暈が治まってきた。恐る恐る瞼を開けると、まず先にアスファルトの地面と自分の両足が目に映った。エレンは道路の上に前屈みになって立っているようだった。そのままゆっくりを上半身を持ち上げると、斜め前に銀マントの青年が佇んでいた。

「落ち着きましたか?」

 青年はまだエレンの腕を掴んでいた。あれほどの強烈な眩暈に苛まれながらもエレンが卒倒せずに済んだのは、彼に体を支えてもらっていたからだと気づく。

「もう平気よ!」

 エレンはその腕を振り払って一歩後退りし、依然として息を荒げながら、警戒心と敵意と若干の恐怖心を混ぜ込んだ視線で青年を射る。

「今の質問は、君の体調ではなく、感情について確認したものです」

「余計なお世話だわ!」

 怒鳴り、エレンはふらつく頭を片手で抑えつつもう片方の腕を青年の胸めがけて伸ばす。

「この場ではやめておいた方が賢明だと思いますよ」

 意味深な言葉にエレンは端と気づき、周囲を確認する。今の今まで確かに土手の道にいたはずなのに、エレンと青年はいつの間にか住宅街の道の上にいた。

「どうなってるの?」

 土手からはだいぶ離れた、むしろエレンの自宅に近い場所だった。今このタイミングでは周りに人の姿はなかったが、民家は軒を連ねている。こんな場所で拒絶の力など撃とうものなら、異音を聞きつけてあっという間に人が寄って来てしまうだろう。

「それに、もう一度さっきのような体験をしたくはないでしょう?」

 青年が微笑混じりに脅しのような台詞を重ねてきたことで、エレンは尻込みするようにようやく右腕を下ろした。感情を鎮め、代わりに疑念に満ちた表情で青年に問いかける。

「あなた、何者なの?」

 不可解なことが多すぎて、そう訊くのがやっとだった。エレンが体験したのは、紛れも無く瞬間移動だった。土手から自宅付近までの距離を、この青年はエレンを引き連れて刹那の内に飛び越えたのだ。

「君と同じく、『天秤』の揺らめきに翻弄された者の一人ですよ」

「は? 天秤がなんですって?」

「よく聞いてください。君が手に入れた力は、君が大きな代償を支払った代わりに授かった贈り物のはずです。無為に振るわずに、力を得た意味をよく考えてください。少なくとも物を壊すためだけに得た能力ではないはずです。君にとって本当に意義のあることに使わなければ、力の矛先は永遠に曖昧なままとなってしまいます」

「ごちゃごちゃ煩いわね。説教のつもり? どこの誰だか知らないけど、知ったような口利かないでよ」

「僕が言いたいことはそれだけです。この場で分かってもらえるとは思っていませんが、今言ったこと、覚えておいてください」

「あなたにとやかく言われなくても、力の使い道なんて自分で見つけ出せるわ。そもそも、素性の知らない男の言うことなんて聞くわけないじゃない」

 青年はやや憂いた表情を見せる。なぜこれほどまでに気にかけてくるのか知らないが、彼には下心もなければ悪意もないのは何となく分かった。

「では、せめてもの自己紹介ということで――」

 青年はマントの奥から一枚のカードを取り出し、エレンに差し出してきた。

「名刺代わりです」

 エレンは警戒さの残る手つきでそれを受け取り、怪しい物を見るかのような目でカードを眺める。カードの紙面には、派手な服装の道化じみた男が杖を片手に犬を引き連れて荒野を歩いている絵が描かれていた。絵柄からしてタロットカードの一枚に思えたが、その手の知識に明るくないエレンにとっては甚だ不親切な名刺だ。

「それはタロットカードの0番『愚者(フール)』です。僕のことも同じ名で呼んでください。しかし今重要なのは僕が何者かなどではありません。本当に考えなければならないことは、君がこれから『力』と共にどう歩んで行くかです」

「またその話なの? しつこいわね」

 エレンはフールと名乗る青年から渡されたカードを乱雑にポケットに押し込んだ。

「帰るわ。さっさと私の前から消えて。それからもう二度と私の前に現れないでちょうだい」

 針のように尖った口調で告げると、エレンはフールに背を向けて歩き出した。

「忘れないでください、エレンさん。力を無闇に振るってはいけません。力の暴発は決して望むべき結末を齎したりはしないのですから」

「これは私の力よ。私の好きなように使うわ」

 そこから数歩進んだところでエレンは違和感を覚え、後ろを振り向く。

「ちょっと。名乗ってないのにどうして私の名前を――……」

 道の向こうには、既に銀マントの青年の姿はなかった。最初からそこにいなかったかのように、フールは音もなく忽然とエレンの前から消失した。

 煮え切らない気持ちだけが残る。エレンは気に食わなそうに鼻を鳴らし、再び帰路を辿り始めた。

 最初から最後まで最悪な一日だった。

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