三-1

 翌日。エレンはとある教師から呼び出しを受けた。昼休みに物理準備室に来るようにとだけ言われたが、身に覚えはなかった。

 仕方なくエレンは昼食を手早く済ませ、不服を抱きながら件の部屋へと足を向けた。

 エレンを呼び出したのは時任世生という教師だ。物理の先生でエレンも彼の授業は日頃から受けているが、名指しで呼び出されるような接点はない。いつも真っ黒なスーツを着ていて、気障な立ち振る舞いがやたら鼻につく男だという印象くらいしかなかった。

 エレンは呼び出しの訳を逆に問い詰めてやろうとする意気込みで廊下を突き進み、物理準備室の前にやって来ると攻撃的なノックで扉を叩いた。

「入りたまえ」

 気取った台詞が返ってくる。エレンは「失礼します」とぶっきらぼうに言いながらドアを押し開け――室内のあまりに予想外な雰囲気に面食らった。

 物理準備室に入るのはこれが初めてだったが、イメージしていたものとは大きく違っていた。実験器具や資材などがあちこちに散らかっているような印象とは掛け離れた、あたかもどこぞの洋館の一室でも切り抜いてきたかのような上品な内装だった。

「エレン君。わざわざ呼び出してしまって悪かったね」

 そう言いつつも全く悪びれた様子のない時任は、正面奥にどっしりと構えられた豪奢なライティングデスクの椅子に優雅に背中を預けていた。

 部屋の装いに圧巻していたエレンは、すぐに面相を険しいものに戻し、デスクの前へと詰め寄る。

「私に何か用ですか?」

「随分とご機嫌斜めだね」

「こんなところに呼び出されたからです」

 遠慮なく不満をぶつけるエレンだったが、時任は鼻にかけた黒縁眼鏡を指で押し上げて好意的な笑みを作る。そして手元に置かれていた水の入ったガラスコップを差し出してきた。

「まぁそうカリカリしないでくれたまえ。とりあえず水でも飲むかね?」

「要りません。それよりも早く用件を話してください。私、何か悪いことでもしましたか?」

「悪いこと、ねぇ」

 拒否されたコップの水を自らの口に流し込んで喉を潤し、時任はエレンを上目遣いで見上げる。眼鏡の奥から注がれる視線はどこか意味深だ。

「悪いことではないのだが、キミは最近、ちょっとしたイタズラをしなかったかね?」

「は? 何のことです?」

「もっとも、キミ自身はイタズラのつもりでやったわけではなさそうだがね。何にせよキミの行動が騒動を呼んだということは事実だ。身に覚えはあるだろう?」

「騒動……」

 エレンの胸中に言い知れぬどよめきが渦巻き始める。嫌な予感。時任の言葉は部屋の空気を一転して不穏なものにさせ、エレンの呼吸を圧迫する。

 エレンが道路橋の橋脚の映像を脳裏に浮かべると、それを盗み見たような的確さで時任が口を開いた。

「単刀直入に訊くが、昨日校内でも話題になっていた道路橋の柱の損壊は、キミが持つ『異能』によるものだろう?」

 いきなり核心を突く質問が矢のように飛んで来た。

 またか――。

 昨日の銀マントの青年に続いて、身近な教師からもエレンの行動を見破られるとは、一体どうなっているのか。エレンは内心動揺しつつ平静を保つ。

「何を訳の分からないこと言ってるんですか。柱が壊れたのは事故か風化の類なんじゃなですか? 物理の先生が異能とかいう非科学的な言葉を口にするなんて、呆れますね」

 軽蔑の眼差しを作ってエレンは時任を見下す。しかし時任は涼しげな顔でそれを受け流し、水を一口飲んでから再びエレンを見上げた。

「私の言う異能とは非科学的なものではなく、『裏科学』的な概念に基づいて説明されるものだ。キミはその概念に沿って『力』を手にし、強固な橋の支柱をあれほどまでに壊した。エレン君、残念ながらキミが異能の所持者であることはもう調査済みなのだよ」

 間違いない。時任も全てを知っている。エレンが特殊な力を持っていることも、橋脚の破損の原因がその力によるものだということも、何から何まで把握している。しかもエレンよりも異能の存在に精通している口ぶりだ。

 あのフールとか言う銀マントの青年と裏で繋がっているのか。しかし彼はエレンにとって不利な状況を作り出すような人間には見えなかった。

 疑問は絶えなかったが、今のエレンにできることは白を切り通すことしかない。脈々と沸き上がってくる苛立ちと憤りを押し込みつつ、エレンは時任を睨みつけた。

「異能とか裏科学とか、馬鹿馬鹿しいですね。だったら証拠を見せてくださいよ。私がその異能とやらの所持者であるという証拠を」

「難しい注文だねぇ。本当ならキミが自ら私の眼前で力を発現してくれれば話は早いのだが」

「知りませんよ、そんなの」

「やれやれ、強情だ。だったらこちらから無理矢理キミの力を引っ張り出すしかないな」

 さらりとそう言って時任は残りの水を飲み干し――

 空になったコップをいきなりエレンの顔面めがけて投げつけてきた。

「ッ!?」

 手首のスナップのみを利かせた無挙動かつ俊敏な投擲。あまりの突飛な出来事にエレンは目を瞑り、コップの直撃を防ごうと素早く右腕を顔の前に翳した。

 ――咄嗟の行動は人間の素の状態を浮き彫りにさせる。反射的な防衛本能に駆られたエレンは、腕を振ってコップを払い退けるのと同時に思わず手から拒絶の力を放ってしまった。

 小規模の衝撃波が巻き起こる。ガラスのコップが、柔らかい雪の玉をバットで打ったように細やかな破片となってパラパラと床に散った。

 しまった――

 そう思ったときにはもう遅い。恐る恐る瞼を開けた先には時任の気障ったらしい顔がある。

「証拠を見せてくれてありがとう、エレン君」

 黒縁の眼鏡を外し、時任は満足げに椅子に背を沈めた。今思えば時任は日頃から眼鏡などかけていない。こうなることを予測して、ガラスの破片から目を守るために防護用眼鏡をかけていたのだ。

 エレンの息が詰まる。心臓が早鐘を打ち、嫌な汗がこめかみを伝う。

「だから何だって言うんですか」

 エレンは何とか口をこじ開け、声を絞り出した。

「私が特殊な力を持っているからって、どうするって言うんですか!」

「別にどうもしないよ。キミの力に難癖をつけるつもりも毛頭ない。ただ、キミに教えておきたいことがあるだけだ」

 長い足を組み直し、時任は気障な笑みを浮かべる。

「『天秤の理念』について、ね」

 最近どこかで聞いたような単語が、エレンの耳に再来した。

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