序-1
眩い真夏の太陽が照りつける高級住宅街の一角に、一際大きな家があった。和式を基調としたその豪邸は横長の二階建てで、建物の敷地面積と同じくらい庭も広く、芝生と植木が整備されていて緑が美しかった。
住んでいるのは円田(えんだ)という一家だった。親世帯と子世帯の六人暮らしで、近所からも羨まれるほど裕福で円満な家庭だった。今日は日曜日ということもあり、家族全員が一階の広いリビングを中心に集まっていた。
「シンディ! 待ってよ!」
元気に声を上げながらリビングを走り回っているのは八歳になる少女、円田藍菜(えんだあいな)だ。アイナはペットのシンディという大きなゴールデン・レトリバーを追いかけており、台所に立つ母親の美奈保(みなほ)からやんわりと三度目の注意を受けた。
「アイナ。お昼ごはん作るの手伝ってって言ってるでしょ? 遊ぶのはもうやめて、こっちに来てちょうだい」
「はぁい」
アイナはようやく愛犬との戯れをやめ、台所へ行ってミナホの隣へ立った。シンディもリビングの隅の定位置に戻り、ややくたびれたような面持ちで床に寝そべった。
リビング中央のテーブルの椅子にはミナホの夫である健(たける)が座っており、新品のゴルフクラブを満足気に布で磨いている。ミナホは包丁で手際よく野菜を切りながらタケルに呼びかける。
「ねぇあなた。茂倉(しげくら)先生、今日はちょっと遅くない?」
タケルは目線をゴルフクラブからリビングの掛け時計へと移し、
「そういえばそうだな。いつもなら昼前には来るのに」
と眉をひそめた。時計の針は午後の一時を指している。
「まぁそのうち来るだろう。月に二度の訪問診療を欠かしたことはないんだから」
「そうよね」
微笑み、ミナホは今度はリビングに隣接した和室の方へ向かって声を投げた。
「お義母さん、ユウの様子はどうです?」
台所からでも見通せる位置にある和室も広々としており、タケルの母親である翠(すい)が揺り椅子に腰掛けながら編み物をしていた。七十代であるにもかかわらず棒針を器用に動かして毛糸を括っている。
ミナホの声を聞くとスイは一旦手を止めて傍にあるベビーベッドに目を向けた。そこにはまだ一歳にも満たない男の子が寝かされていた。名前は悠(ゆう)といった。
「起きているけど、大人しくしているよ。機嫌が良さそうだねぇ」
スイが目を細めながら答えると、ミナホは笑顔で頷いて家事に戻った。
スイの夫の英基(えいき)は、和室の縁側にあぐらをかいて座りながら鋏を片手に盆栽の手入れをしていた。スイとエイキの間に別段会話はなかったが、それは熟年夫婦だからこそ生まれる信頼感のある沈黙に見えた。
――そんな、六人と一匹が平穏な時間を過ごしていた昼下がり。玄関のチャイムが鳴った。
「お、茂倉先生が来たかな?」
予想的中、といった様子でタケルが顔を上げた。すかさずアイナが台所から駆け出す。
「あたしが出てくるね!」
アイナはリビングから出てすぐのところにある玄関へ向かい、扉を開けた。
「茂倉先生、こんにち――……」
アイナの言葉は最後の方で途切れた。扉の前に立っていたのは、アイナが予想していた人物ではなかったからだ。
「こんにちは。元気のいいお嬢さんね」
優しく微笑むその人物は、白衣を着た三十代の女性だった。美女と呼ぶに相応しい綺麗な顔立ちと、モデル顔負けの抜群のスタイルをしており、緩いウェーブの掛かった長い髪がより一層妖艶な魅力を醸している。白衣の下に着た丈の長い黒のワンピースは片側に深々とスリットが刻まれ、艶かしい白い足が際どいところまで見え隠れしていた。
「あれ? いつもの茂倉先生じゃないんですね、今日は」
アイナの後ろからタケルがやって来た。
「そうなんですよ。茂倉先生、急患が入ってしまって。あ、私、如月真妃(きさらぎまき)と申します。茂倉先生の代理で来ました。本日は私がスイさんを診ますね」
マキと名乗る女医は片手に大きな革製の鞄を持っており、愛想の良い笑顔で自己紹介をした。
「そういうことでしたか。ではどうぞ中へ、お上がりください」
タケルは快くマキを家の中へ通す。「お邪魔します」と言いながらマキはタケルの後に続いた。
「あら? そちらの方は?」
リビングにやって来た白衣の女性を見て、ミナホが台所からタケルに尋ねる。
「茂倉先生は急用で来れなかったらしい。代わりにこちらの如月先生がお見えになったよ」
「そうなんですね、暑い中わざわざどうもすみません。今何か冷たいものでも用意しますね」
「いえいえ、お構いなく。それにしても大きなお家ですね。六人家族でしたっけ?」
「シンディもいるよ!」
後ろを付いてきたアイナが元気よくリビングの隅を指差した。大きなゴールデン・レトリバーは床に寝そべって寛いでいる。
「可愛らしいわね。私も犬を飼いたかったけど、マンションだから無理なのよ」
マキはにこやかに言い、
「それで、スイさんはどちらに?」
と、タケルに訊いた。
「こちらです」
タケルはリビングのすぐ隣にある和室へとマキを案内する。スイは先ほどと同じく揺り椅子を揺らしながら編み物をしていた。
「こんにちは、スイさん。今日は茂倉先生が急用で来れなくて、代わりに私が参りました。如月と申します。宜しくお願いします」
丁寧に挨拶するマキに、スイも編み物を中断して大らかに応じる。
「ご足労すみませんねぇ。体調はもうすっかり良くなっているというのに」
「いえ、ご病気が治られてからも医師による定期的な訪問検診は大切なことですよ。長生きの秘訣です」
マキが持っていた革の鞄を足元に置いたところで、タケルが「では、後は宜しくお願いします」と言い残してリビングの方へ下がっていった。マキはそれを見送ってから、傍に置いてあったベビーベッドに目を配った。
「あら、この子がユウ君ですね? 茂倉先生からよく聞いていますよ。十ヶ月でしたっけ?」
「そうなんですよ」
「憧れます、このようなご家庭。けどまず私の場合は相手を見つけるところからですね」
冗談っぽく笑いながらマキは鞄から聴診器を取り出し、
「じゃあ、まずは胸の音から聴いていきますね」
と言って診察を始めた。
それからマキは手際よく各種診察をこなし、最後に胸ポケットから細身のペンライトを取り出した。
「喉を診ますね。お口を開けてください」
言われた通りスイは口を開け、マキがペンライトで口内を照らす。異常がないことがすぐに確認でき、マキはライトを消して微笑みかけた。
「はい、大丈夫です。どこも悪くありませんね」
「ありがとうございます」
スイは精一杯腰を屈めて礼をする。
「では、私はこれで失礼します。また二週間後、今度はいつも通り茂倉先生がいらっしゃると思いますので」
マキは医療器具を鞄の中にしまい込んで立ち上がり、もう一度ベッドの上に寝かされているユウを見下ろした。
「本当に可愛らしい赤ちゃんですこと。お人形さんみたいですね」
言いながら、マキは胸ポケットのペンライトを再び手に取り、どういうわけか明かりを点けてユウの顔に当てた。眩しくて嫌がるように頭を振るうユウだったが――その時不可解な現象が起きていた。
ライトを浴びたユウの顔の表面が、まるで蛍光塗料でも塗られたかのように赤く光ったのだ。スイの口の中を照らしていた時には見られなかった奇妙な発光だ。
揺り椅子からその様子を不思議そうに見ていたスイが少し戸惑い気味に口を挟んだ。
「あの、先生。一体何を?」
ユウの顔をうっとりと見つめたまま、マキは今までと変わらない優しい声で言う。
「あらごめんなさい。本当にお人形さんだったわね」
そこからのマキの動きは、目にも留まらぬほどに速かった。素早くライトをポケットに戻し、持っていた鞄に右手を突っ込んだかと思うと、次の瞬間には中から医療器具とはかけ離れた代物が取り出されている。
マキが手にしたもの――それはサブマシンガンだった。
いきなり出現したあまりにも場違いな物。驚愕に目を見開くスイが何かを発するより先に、マキは鞄を手放してマシンガンの銃口をユウへ向けている。
「お寝んねの時間でちゅよ」
言うが早いか、マキは一切の躊躇を挟むことなく引き金を引いた。
耳を劈く音と目が眩むほどの閃光が迸る。銃口から吐き出された大量の鉛弾が赤子のいるベビーベッドに豪雨のように降り注ぎ、木片と布切れが盛大に舞い上がった。ユウの泣き声など聞こえない。マシンガンの咆哮によって平穏だったはずの空気はベッドもろともぶち壊され、その只ならぬ轟音に家中の人間が驚いてマキの方を向いた。
ウェーブのかかった髪を揺らしながらマキは十分すぎるほどの弾をユウに浴びせ、ようやく発砲をやめる。呼吸一つ乱れていない女の横顔は依然として温厚さを湛えていたが、ある意味それは残虐さを孕んでいるようにも見えた。
無数の穴が開いたベビーベッドから硝煙が晴れる。そこにユウの姿はなかった。それどころか、血の一滴すらも見当たらない。あるのは銃撃を浴びてぼろぼろに破れたぬいぐるみだけ。毛糸と綿で繕われたそれは、原型はほとんど留めていなかったものの、赤子のような形をしているように見受けられた。
刹那の沈黙が過ぎり――最も近くで惨劇を目の当たりにしていたスイが引き攣った悲鳴を上げた。
銃口から硝煙を立ち上らせているマシンガンを肩に乗せ、マキが髪を掻き上げる。
「大げさね」
円田家の中で最も早く行動を起こしたのは、今まで和室の縁側で黙々と盆栽の手入れをしていたエイキだった。老体に似つかわしくない機敏な動きで立ち上がり、怒りの形相を顔に貼り付かせてマキへと向かってくる。右手には盆栽用の鋏がきつく握られていて、マキは困り顔を作った。
「無理しちゃだめよ? おじいちゃん」
前進の勢いのままにエイキが鋏を突き出してきた。相手の喉元を狙った殺意のある攻撃。マキは素早く体を横にずらすだけで鋏を回避する。立て続けにエイキは鋏を横に薙いで追撃を繰り出してきたが、マキは身を翻して軽々とそれを避けた。
諦めずにエイキは襲い掛かってくる。動きはぎこちなく、壊れたロボットのように不気味だったが、マキの動作はぶれない。エイキが全力で鋏を振り下ろして来ると、マキは顔面に刃が届く直前でエイキの腕を掴み、わざと自分の方へ引っ張り寄せる。一気にエイキとの距離を詰めたところで、彼の顎の下にマシンガンの銃口を突き当てた。
一度引き金を引くだけで弾丸が連続で発射される。マキの目の前で数発の弾がエイキの顎から脳天までを貫き、血飛沫の代わりに千切れた毛糸と綿が飛散した。体も毛糸の塊へと即座に変化し、ぐるぐる巻きの包帯が解れていくように形状を崩壊させていった。
人間が絶命と共に糸屑へと変貌する様を一度ならずニ度も目にしたマキは、既に知っている事実であることのように冷静さを保っている。
「あんた、よくも!」
タケルの声が聞こえた。エイキの亡骸である毛糸の山を踏み付けてマキがリビングへ目を向けると、タケルがゴルフクラブを構えて立っていた。その隣には料理包丁を握り締めたミナホが。両者とも血相を変えてマキを睨みつけている。
嘲るように軽く笑い、マキは二人に向かってマシンガンを掃射した。火花を散らして無数の弾丸がリビングへ飛ぶ。タケルとミナホは思いの外素早い動きで左右へ飛んでマキの銃撃から逃れた。マシンガンの弾は夫妻の後方にあったソファーやテーブルに弾痕を穿つだけでなく、その更に向こうにある台所の食器棚にも直撃して中の皿を荒々しく粉砕した。
身を低くしながら一瞬の内に間合いを詰めてきたのはミナホだった。手に握った包丁を、エイキよりも遥かに俊敏な動きで振り薙いでくる。距離的に銃での迎撃が間に合わず、マキは咄嗟に縦にしたマシンガンの銃身で刃を受け止めた。
獣のように唸りながらミナホは休む間もなくもう一度包丁で切りつけてくる。マキは慌てずに、今度はそれを銃身で弾き返した。衝撃によってミナホの手から包丁が離れる。彼女自身も大きくよろめき、その隙を突いてマキは足の裏で思い切り相手を蹴り飛ばした。
ミナホは激しく床に転倒し、マキは即座にマシンガンの銃口を向ける。しかし発砲までには至らない。死角に回り込んでいたタケルが、ゴルフクラブでマキの銃を叩き落としたのだ。
もう一度振り落とされたゴルフクラブを、マキは無駄のない動きで避ける。空振った鋼鉄の棒は鈍い音を立てて綺麗なフローリングの床に大きな凹みを作った。再度タケルはクラブを振りかぶったが、その動きはマキにとってはあまりにも緩慢だった。マキは颯爽と白衣をはためかせながらタケルの胸元に掌底を叩き込み、彼を遠くに突き飛ばした。
タケルがリビングの液晶テレビに背中から激突してテレビ台ごと後ろへひっくり返ったのと相まって、ミナホのヒステリックな声が聞こえた。
「動かないで!」
マキが振り返ると、ミナホは床に落ちていたマシンガンをいつの間にか拾い上げてこちらへ向けていた。手元は震えていたが、指はしっかりと引き金にかかっている。
「何者か知らないけど、こんなことをして許さないわよ!」
マキは焦りの色を一切見せずに、
「別に許してもらわなくてもいいのだけど」
と、構わず一歩前へ踏み出した。
「このっ!」
意を決したようにミナホは引き金を絞った。が、銃から弾が発射されることはなかった。
「残念。持ち主にしか扱えないようになっているのよ、それ」
残像でも残しそうなスピードでマキは一気にミナホの眼前へと躍りかかる。力強い踏み込みと共に白衣の裏から取り出されたものは――禍々しい刃を持った大型の軍用ナイフだ。
冷徹な光の筋を引きながらマキのナイフがミナホの首を真横に切り裂く。ミナホの頭部は千切れた照る照る坊主の頭のように軽々しく宙へと放り出され、その途中で解れた毛糸の束へと変わった。胴体も同様、全身の骨が引きぬかれたように膝から崩れ落ちた後、長い毛糸と毛羽立った綿の寄せ集めとなって床の上に積もった。
マキはその異様な光景を一々不思議がったりはしない。ミナホの体を形成していた毛糸が全て床に落ちるより早く、マキは次の行動に移っている。背後からはタケルが再三ゴルフクラブを持って襲いかかってきていた。
タケルは雄叫びを上げながら我武者羅にクラブを振り回してくるが、どれも大ぶりの攻撃だ、マキは研ぎ澄まされた反射神経でそれらをいとも簡単に回避していき、時には軍用ナイフで難なく防御する。クラブヘッドはマキの体に届くことなく虚空を暴れ回って床や壁に乱暴に激突するだけだ。最終的にマキは左足でハイキックを繰り出してタケルの手元を蹴り、ゴルフクラブを遠くへ弾き飛ばした。
その際にワンピースのスリットからマキの生足が付け根の辺りまで大胆に露出する。タケルの目が、一瞬だけマキの太ももと、更にその奥の方に釘付けになる。
「あら、そういうところも無駄に人間らしいのね」
艶っぽい笑み。
「いいわ、もっといいものを見せてあげる」
マキはナイフをしまい、タケルの眼前で高くジャンプする。跳躍に併せて自らワンピースの裾を捲り、隠れていた右足までをも露にさせる。剥き出しになったその太ももの側面には、小型の杭打ち機(パイルバンカー)が二本の太いベルトによって巻きつけられていた。
動転して両目を見開いているタケルの顔面に、マキは飛び膝蹴りを叩き込んだ。その衝撃に連動して太ももに装着されたパイルバンカーが作動し、強力なバネの力で突き出された金属の杭がタケルの左目に突き刺さって後頭部まで刺し貫いた。
必殺の一撃。マキが軽やかに着地した時には既にタケルはミナホたちと同様、人としての姿を失っている。
マキはワンピースの裾を元に戻し、床に転がっていた愛銃を拾い上げて和室の方へ体を向ける。和室の奥で怯えるスイの姿が見えたが、部屋の前には幼い少女――アイナがこちらに両手を広げて立っていた。
「もうやめて! なんでこんなひどいことするの!? あたしたち家族をめちゃくちゃにしな――……」
泣きながら訴える少女の言葉は銃声に遮られて最後まで紡がれることはなかった。マキによって容赦なく発射されたマシンガンの弾がアイナの全身を貫通し、無垢な少女をあっという間に毛糸の屑へと変えた。
「どこに家族がいるですって?」
カランカランとフローリングの上で弾む薬莢。荒れに荒れたリビングを背にし、マキはアイナの亡骸を跨いで和室へと戻ってくる。始終揺り椅子に座っていたスイは恐怖に体を震えさせていた。
マキはスイの目の前に立ち、白衣の裏からマシンガンとは別の小さな銃を取り出して老婆へと向けた。やけに口径の狭い銃だ。
「さ、おままごとは終わりよ、円田翠さん。『ホスピタル』のナースとして、あなたを拘束するわ」
激戦を繰り広げた後とは思えない大らかな口調と優しい表情でマキは告げる。スイは皺の刻まれた目尻から涙を流して白衣の女を見上げる。
「お、お願い、見逃してちょうだい。私はただ寂しかっただけなの。家族も持てず、孤独で不幸せな人生だったわ。この能力(ちから)は、そんな私に舞い降りた唯一の幸福なの」
「『ブレシス』はみんなそう言うわ。それに、あなたがその能力(ギフト)――『偽生(ぎせい)の繰糸(くりいと)』を使って行ったことは、人形遊びだけじゃないでしょう? この豪邸を建てるために、一体どのくらいの金品を傀儡たちに盗ませてきたのかしら?」
乾燥しきった唇をきつく結ぶスイ。マキはそれを嘲るように見下す。
「まぁ、別に悪いことをしていなくても捕まえるのが私たちの仕事なのだけれど」
「――この人でなし!」
取り乱したようにスイが叫ぶと、マキのすぐ後ろに殺気に満ちた気配が出現した。今までどこかに身を潜めていたゴールデン・レトリバーのシンディが、野獣の如く鋭い牙と爪を剥き出しにしてマキに飛びかかってきたのだ。
マキは振り返らず、スイに向けた銃を撃つ。小さな銃口から発射されたのは鉛弾ではなく、細い針だった。それが首に突き刺さった途端、スイは頭を垂れて気絶する。今まさにマキの後頭部に食らいつこうとしていたシンディも、直前で毛糸の塊へと変わって床にふわりと落下した。
「本当は動物が嫌いなの」
静寂が辺りを包む。家の隅々に合計六つの毛糸の残骸が散らばり、唯一本物の人間だったスイも気を失った。先程まで平和な時が流れていた円田家は、たった一人の女の来訪によって殺人現場に等しい凄惨な情景と化した。血が一滴足りとも残っていないことが、逆に不自然にすら見える。
マキは麻酔銃を白衣の奥へしまい込み、代わりにポケットから無線式のイヤーモニターを取り出して片耳に付けた。そして襟元の裏に仕込まれた通信機のマイクに向かって喋る。
「こちらナース・マキ。ブレシスの確保が完了したわ」
すぐにイヤーモニターから応答が返ってくる。
『首尾はプラン通りでしたか?』
感情性は乏しいが、怜悧な響きを持った女性の声だ。
「ええ、全て問題なしよ。収拾班をこっちによこしてちょうだい」
『了解。ではホスピタルに帰還してください、ナース・マキ』
マキは同意せず、気怠そうに髪を掻き上げる。
「ねぇ、ナース・リンサ。帰りはゆっくりでも別にいいわよね? 一旦ホテルに戻ってシャワーを浴びたいの。体中埃っぽいのよ、分かるでしょ?」
思案としての間を空けた後、リンサと呼ばれた無線の向こうの女は短く『では後ほど』とだけ言って通信を切った。
マキは満足し、足元に放置していた革の鞄を持ち上げてマシンガンをしまった。椅子に座ったまま深い眠りに落ちているスイにさっさと背を向け、マキは和室を後にしてリビングへ出る。同じタイミングで玄関の方から慌ただしく誰かが入ってきた。
現れたのは丸メガネをかけたぼさぼさ頭の冴えない中年男だった。マキと同じく白衣を来ており、リビングの惨状を目にして男は心底仰天した。
「こ、これは! あんたの言ってたことは本当だったのか!?」
「あら、茂倉先生。ええ、全て終わりましたよ。ご協力ありがとうございました」
本来円田家に来るはずだった医師の男に向かって、マキはウェーブのかかった髪を揺らしながらにこやかに会釈する。
「見ての通り、今後この家への訪問診療は不要ですので、あしからず」
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