libra [リーブラ]

日月 仁

半年前

 冷たい雨が降りしきる冬の夜。

 街灯の弱々しい光だけが辺りを照らす路地に、小柄な少年が傘も差さずに立っていた。びしょ濡れの少年はパジャマの上にパーカーを羽織っただけの格好をしており、着の身着のままに家から出てきたようだった。

 中学生と思しきその少年の名前は、碓井瑠己人(うすいるきと)といった。ルキトの顔色は寒さで真っ白になっていたが、長い前髪の下にある瞳には更に血の気が引く光景が映っていた。

 ――雨の向こうに、二つの人影があった。

 一人は、道路の上に仰向けに倒れている女性だ。乱れた長い髪で顔は見えないものの、力なく崩れた手は青くなっており、体は完全に停止していた。どう見ても死んでいることが、誰の目にも明らかだった。

 そのすぐ傍に、もう一人の人間がいた。地面の死体を見下ろすように立ち、片手には血の滴る包丁を握り締めていた。薄暗い中でその鮮血だけはやたら赤々と眩しかった。

 ――殺人だ。人が人を刺し殺した現場にルキトは居合わせていた。

「母さん……」

 絶命しているのはルキトの母親だった。

 雨音の中ルキトの掠れた声を聞き取ったのか、あるいは最初からルキトがそこにいることを知っていたのか、殺人鬼がゆっくりと顔をこちらに向けた。殺人鬼は口にマスクを付けており、頭には黒いニット帽を深々と被っていた。着ているのは分厚いダウンジャケットとズボン。素顔も性別も分からず、唯一露になっているのは殺意を孕んだ目だけだった。

 殺人鬼はゆっくりとルキトに向かって歩き始めた。包丁はまだ強く握られている。ルキトは恐怖と絶望で体が竦み上がり、逃げ出すことができなかった。

 目の前にやって来た殺人鬼を、ルキトは震える瞳で見上げる。何かを言おうと唇を薄く開いたが、結局のところ何も言えず――脇腹にこれまで味わったことのないような鋭い痛みを感じた。

 殺人鬼は、まるで握手でもするかのような自然な仕草で、ルキトの腹に包丁を突き刺していた。

「あ……」

 気の抜けた声を漏らし、ルキトは自分の腹部に目を下ろす。包丁は根本まで深々と体の中に刺し込まれており、痛みを通り越して熱を感じた。

 刃が引き抜かれると傷口から血が噴き出した。途端に体の力が抜け、ルキトは糸が切れた人形のようにその場に倒れた。血は止め処なく溢れ出ていき、雨水と混じって深紅の水溜りが広がっていった。

 殺人鬼は倒れ伏したルキトをじっと眺めていた。ルキトは何とか眼球だけを動かして殺人鬼を仰ぎ見たが、突き下ろされる眼差しからは慈悲の感情は一欠片も感じ取れなかった。

 そして殺人鬼は素っ気なく踵を返し――そのまま一切の言葉を残すことなく闇の彼方へ消えていった。

 路地に取り残されたのは一体の死体と、死体に近付きつつある一人の少年だけだ。ルキトは体をくの字に折り曲げて、腹部からどくどくと流れ出ていく血を呆然と眺めていた。極寒の気温も相まって、体中の感覚はみるみるうちに麻痺していった。

 雨を浴びながらルキトが感じていたのは、ただ寒さだけだった。痛みなどもうない。ひたすらに寒くて冷たかった。

 体が凍りつきそうな感覚に苛まれながら、ルキトは薄れる意識の中ではっきりと理解する。

 きっとこれは死の寒さだ。全身の体温を奪い、生気を吸い尽くし、魂の熱をも掻き消す、決して溶けることのない凍結だ。

 死は冷たい。雨よりも、雪よりも、この世の何よりも、死の温度は低い。

 死の間際にルキトは死の温度を知る。死することは途轍もなく冷たくて寒いことだと、知る。

 ついに視界すら霞み始めたその時、ルキトは音を聞いた。雨音のノイズに混じってこちらに近づいてくるのは、足音だった。

「ルキ……母さん……?」

 次いで聞こえたのはか細く震える声だ。ルキトにとって聞き慣れたその声は――姉のものだった。

 血まみれで倒れている弟と、とっくに息絶えている母親の亡骸を目にして、姉は――


「いッ……イヤァァァぁぁぁぁぁ――――!!」


 雨雲にすら届きそうなほどの悲鳴を上げた。

 姉の絶叫を聞いたのを最後にルキトの意識は暗闇の深淵に墜ちた。氷塊のように冷たくて青白い死体がまた一つ、出来上がる。

 生きている人間が死体へと変貌する様は、まるで水が氷に変化するようだ。熱が消え、硬くなり、動かなくなる。それを体現するかのように、降り続いていた雨もいつしか大粒の雪へと変わっていた。

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