オリンピカ⑧
よく眠れなかった、と思い込むようにして私は体を起こした。
本当はほとんど一睡もしていない状態に近い。
昨晩は食欲もあまり湧かなかったので夕食もほとんど食べず、そのまま床に座って考え事をしているうちにうつらうつらとしてしまった。いかんいかんと気合いを入れて寝支度を済ませたが、睡眠とも呼べそうにない一瞬のトリップが全ての眠気を連れ去ってしまっていた。頭から布団を被った状態で何度も寝ようと試みたが、その度に意識はむしろはっきりしてしまう。
諦めて朝の四時、私はゆっくりと体を起こした。
お弁当でも作ろうか。
昨晩何もせず寝てしまったから流しには洗い物も残っているし、今日は洗濯機を回さないといけない日だ。
早起きした、得した、と寝てないことを誤魔化すように脳に暗示をかける。
立ち上がると流石に足元がふらついたので、ゆっくりそのまま床にしゃがむ。呼吸を整えて気持ち悪さが去るのを待つ。
元彼には、これも何か言われたような—大げさとか、不健康ぶってるとか。
目を閉じて元彼の幻影を追い出す。
そのうち鎮まってきたのでゆっくり立ち上がる。まずはお茶でも飲もうとやかんを火にかけた。
紅茶にしようか、緑茶にしようか。それとも。
コーヒー。結城さん。あゆみ。
やだやだもう、とたった一人の部屋で頭を振って想像を追い出す。
袋から出したまま手付かずになっていたお弁当箱を、泡だらけのスポンジでごしごしこする。長年使っているお弁当箱はもうそろそろ買い替えないと衛生的にまずいかも、と思いながら気に入ったのがなかなか見つからずに買い逃している。お店にもたまに商品としてお弁当箱が並ぶことはあるのだが、”お弁当箱”と呼ぶより”ランチボックス”と呼んだほうが正しいようなデザイン性の高いものしか並ばないので、身分不相応だと思っていつも見送ってしまう。
そういえばこの間結城さんにお弁当の中身を誉められたな―こら、雛子、思い出すな。
私は私を叱るけれど、まるで頭が真っ二つになったようにその時の映像が脳の片側を流れ始めてしまう。もう片方はお弁当箱を洗うことにしっかり集中できているのに、もう片側は言うことを聞かずに思い出のフィルムを回してしまっている。
誰かに恋をした夜のことは毎度よく覚えているのだけれど、その翌朝のことはよく覚えていない。いつもはきっといつも通りのルーティンをこなし、何事もなかったかのように本人の前にも立てていたんだと思う。
そしていつもよりちょっと意地悪に、自分の恋心を悟られないようにふるまうようになる。
こんなにも頭の中に残る人は初めてだった。
結城さんの何が私をそうさせているんだろうか。
しゅしゅしゅ、とやかんが私を呼び始めたことで私の思考は強制終了された。まだ何を飲むか決めかねていたのに、沸いてしまったお湯は冷めるのを待ってくれない。なんでもいいやもう、と思って手に取ったのはコーヒーだった。
結城さんのことを除けば、今日は確かに気合を入れるべき日だ。だが、思わず手に取ってしまった自分に驚いた。
出勤したくない、とこの仕事について思うのは初めてだった。
シフト表を見なくても覚えている。今日はよりによって社員試験面談の練習の日だった。
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