オリンピカ⑦

 売れ残ったハムカツは温めなおしてもらったけれど、もうとっくに衣に油が馴染んでしっとりしてしまっている。

 火傷しないように気をつけながら、お行儀が悪いのを承知で歩きながら頬張る。無防備に見えないように、時々後ろを歩いている人を振り返る。身に染みついた機械的な動作だから、別のことを考えながらでもできる。

 頭の中は結城さんとあゆみのことでいっぱいだった。


 誰のせいでもない、強いて言えば自分の勘違いでついた傷だ。思ってたより深くついた傷に、その後のあゆみの“店長と飲みに行った時の話”という世間話は全部しっかり沁みてしまった。

 その日の勤務中はやけに結城さんの顔を見るのが辛くて、本人からも「ひよちゃん調子悪い?」と気を使われてしまった。

 お客さんの対応時といい、顔に出るのは本当に悪い癖だ。


 こんな形で片思いを自覚するパターンに、覚えがないわけではなかった。だからこそ今度はやめよう、今度こそ幸せな恋がしたいと前の恋が終わった時に決めたはずだった。

 なのに私はまた私じゃない誰かのほうを向いている人を好きになってしまった。


 暮らし始めてもうすぐ一年のアパートの入り口につく頃には、もうハムカツはなくなっていた。

 郵便受けを開けて中身を回収し、鍵を手に素早く階段を上る。後方を気にしながらドアを開け、滑り込むようにして中に入るとすぐ鍵を二重にかける。

 高校生の時に夜道で変質者に遭遇してから、私は玄関に入る瞬間までとても警戒する癖がついた。これも、元彼となった人には「そんな大げさに警戒しなくても大丈夫だよ」と苦笑された癖だ。

 もし、結城さんだったら。彼はそんな風に言わないでいてくれるだろうか。

 日常の何気ないことにでも結城さんを絡めてしまうようになって、ああどうしようまた好きになってしまった、と再び締め付けられるような気持になる。

 家の中に入って気が緩んだからか、急に鞄を重く感じた。無造作に床に下すと、どさりと思い音が響いた。


 ―ひよちゃんの鞄本当に重いね。いつもこれ持ってきてるの?


 随分前に帰りの時間が重なって、一度だけ一緒に帰ったことがあった。その時私が靴ひもを結びなおそうとして、結城さんは何も言わずに鞄を持とうとしてくれた。重いですよ、と忠告したのに平気平気、と持ち上げてから驚いていた。

 ―何入ってるの?

 ―何だろう、本とか筆記用具とか。多分一番重いのは化粧ポーチかな。なんか、いろいろ持ち歩いてないと不安で。

 まめに化粧をするわけではないが、私は軽い化粧が一通りできるように一式いつも持ち歩いている。寝坊しても職場で化粧ができるように、というずぼらな理由からだったのだが、結城さんは眉を八の字にして苦笑した。

 ―女の子、大変だよね。このまま駅まで荷物持とうか。

 ―いや、もう慣れてるからいいですよ。

 ―強いなあ。ひよちゃんのそういう意外とタフなとこ好き。

 その時にはまだ何も気にしてなかった。今同じセリフを言われたら確実に答えに詰まってしまうのだが、その時の私は笑ってお礼を言えるくらい何も意識していなかった。

 置いた角度が悪かったのか、鞄は重力に従ってばたりと倒れた。重い化粧ポーチは勢いよく鞄の外に飛び出ている。パンパンに膨らんだポーチから、私はおととい買ったばかりのグロスを取り出した。

 オレンジともピンクともつかない微妙な色のグロス。曖昧なカラーが確かに私にはよく似合っていると思う。


 ―その色、綺麗じゃん。


 たった一つのことから次々結城さんのことが浮かんでしまって、私は一人部屋の中にしゃがみこんでしまった。

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