オリンピカ⑥

 お昼を少し過ぎた時間にもかかわらず、コーヒーショップは相変わらず混雑していた。

 自分だけの買い物をするときには滅多に寄らないのだが(そもそも昼食もお弁当を持参しているので休み時間に休憩室かバックルーム以外に出かけることがほとんどない)、今日は対応を頑張ったので特別だ。

 結城さんに、お礼もしたい。

 自分の頭の中の呼称が変わったことで、私は頭の中がプライベートモードに切り替わっていることを実感した。

 コーヒーショップと言いつつも、ここにはいろんな種類のドリンクが置いてある。

 甘いものが多いのだけれど、彼は甘いもの苦手ではなかっただろうか。前に差し入れで置いてあったお菓子にバックルームで手を付けていたから食べられたとは思うのだが…。でも、そもそも自分からこのコーヒーショップを指名してくる時点で苦手なわけがなかった。シンプルにコーヒーにしていこうか…いや、彼は私に新作を買ってきてといった。新作のドリンクはかなり甘そうだ…そこまで甘党ではない私にはとても飲めない…。

 そこまで考えてはっと我に返った。


 何で私はそこまであれこれ自分で考えてしまっているんだ。


 言われたんだから新作を買って帰ればいいのに、どうして勝手に考えてしまっているんだ。


 恥ずかしくなってしまった私は自分用のカフェモカと店長用に新作を買った後、3人しかいないのに買っていかないのもおかしいと思いあゆみ用にもう一つ新作を買った。


「きゃー、いいんすかっ」

 弾むような声で新作を受け取ったあゆみの姿にこっそりほっとした。買ってしまった後で、実はあゆみがあまり甘いものを食べているところを見たことがなかったことに気が付いたのだ。

「お、ひよちゃんありがとね」

 店長は暖簾を片手でめくりあげて声をかけてくれた。

 胸の中で膨らんだ風船が、私の身体ごと宙に浮きそうになった。無意識のうちに足に力を込め、私はあゆみの横に腰掛ける。

「あゆちゃんそのまま飲みながら仕事していいよ。PC作業ありがとね」

「ありがとうございます!ずっと飲みたかったんですよこれー」

 店長はそのまま戻っていった。

 あゆみは私の妙なドギマギに気づく様子もない。

「いやーてんちょーは頼りになるなあ。山本さん大好きだったんだけど、結城さん仕事できるしいろいろ教えてくれるし」

 暖簾の向こう側で聞く彼女の発音は正しく“店長”なのに、半分プライベートでいることを許されたこちらの空間で聞くと何故か“てんちょー”に聞こえる。

「そうなの?」

 立場が同じ新卒採用だからか、あゆみは確かに店長にいろいろと相談している。

「そうなの。この前飲みに行った時もめちゃくちゃへこんでたんだけど、いろいろ教えてくれただけじゃなくてお前はきっといい店長になれるから頑張れーって励ましてくれて」

「そう…なんだ。店長と二人で?」

 じわじわと胸の中が焦げていく。予想通りの答えが返ってきたら、私は傷つくに決まっているのに、聞かずにはいられない自分に嫌気がさした。


「うん、駅前の居酒屋で」


 浮かれて膨らんでいた胸の風船は、一撃で弾けてしまった。


「てんちょー凄いビール好きらしいんで試しに行ってみたかったからーって連れてってくれました」


 —店長、この業務について質問があるんですが。


 あゆみは仕事のことになると、とても真面目だ。暖簾の向こう側では、私に対してプライベートの態度に崩れてしまうことがあっても、店長に対して崩れることは少ない。


 —店長、先日のこのお客様ですが、どのようなご対応をすべきだったんでしょうか。


 そこでは正しい発音で店長を呼ぶ彼女しか知らない。


 —店長、このような導線にレイアウトを変えたいのですが、ここに置く商品は何がいいと思いますか。


 プライベートの境界で彼を呼ぶ姿は…知りたくない。


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