オリンピカ⑤
「ああ…でもね、ひよちゃん」
私に対する声は柔らかい。
「僕たちは作品を届けた後のことまではカバー出来ない。もしかしたら今まで君が良いお客さんだと思って接客を終えた人も影で転売に手を染めているかもしれないよ。誰もが僕たちの想像通りに作品を扱う訳じゃない。そこは、僕たちが干渉して良いところでもない」
言葉自体に棘はない。
でも、スタッフとしての立場を忘れた私の発言に釘をさすには充分すぎるほど厳しい言葉だった。
「はい…すみません」
「まあでも、個人的には僕も惜しいなと思ったけどね」
一瞬、何が私の髪に当たったのかわからなかった。
すれ違い側に触れた手は一瞬にも満たないくらいだったのに、私の全身は一気に熱を帯びた。
「ひよちゃん好きそうなデザインだったし買い取ってプレゼントすればよかったな」
いつもより優しく見えてしまう瞳で。
いつもより甘く聞こえてしまう声で。
冗談でもそんなこと言わないでください—。
胸の熱苦しさを抱えたままの私には気付かず、彼は「休憩行ってきな、二階のコーヒー屋さん新作出てるからついでに買ってきて」といつも通りの口調で告げた。
「やるじゃん、てんちょー」
バックルームに下がった私にあゆみが声をかけてきた。
「ありがたかった、な」
いつもならすんなりタメ口に切り替えられるのに、流石にまだ身体がこわばっているのか声の出方が不自然になる。
「あんな風にお客さん追い返しちゃうなんて珍しい。よっぽど腹立ったのかもね、ひよちゃん追い詰めてるの見て」
「…まさかあ」
私はひらひらと否定の意味を込めて手を振ると、ロッカーから財布を出して店を出た。同じ建物の中にあるコーヒーショップを目指して歩く。就業中なので原則従業員用の通路を使わなくてはならないのだが、近いフロアだしこれくらいのことは館側の従業員にも容認されている(というか、館の社員ですらあまり守っているのを見たことがない)。
お客さんに紛れてエスカレーターを下っていると、目の端に見覚えのある女性が映った。
―どうしてくれるのよ、あなたのせいで気分が台無しだわ!
この人、違うお店でも同じようなクレームをつけていたのか。
帰ったら店長に報告して館の事務室にあげてもらおう、と一瞬だけ思考を仕事モードに切り替える。あのお店には見知った店員さんもいるので個人的に情報共有もしておいたほうがいいかもしれない。
本当だったら、お客さんを追い返すようなことを言ってしまうのは会社としてルール違反だとわかっていた。
クレームの対応はファンを増やすチャンスでもある。暴力行為など悪質でない限りは会社にとって将来有益な顧客になる可能性もあるので邪険にしてはならない。
いつだったか参加した社員志望向け研修で、にこにこした中年のアドバイザーにそう言われていた。
店長という立場ならばスタッフの代わりに話を聞き、双方納得した状態で話を進めることができなくてはならない。店長になるための試験ではクレーム対処の項目もあると前の店長から聞いたこともあった。若いから、では理由にならない。他のスタッフをまとめる立場である以上、そうでなくてはならないはずなのだ。
それなのに、彼はあのお客さんに反撃することを選択した。店長失格と言われても仕方のない対応に出たのだ。
もし、私のためだとしたら。
―ひよちゃんの好きそうなデザインだったし、
本音を言えば私も、自分で買い取ってしまおうかと思うくらい好きだった。毎日丁寧に磨いて棚に出していたことを、彼もときどきからかうように言ってきたことを思い出した。
―買い取ってプレゼントすればよかったな。
本気に捉えてはいけないとブレーキを踏む私の心に反して、顔の筋肉が緩んでいくのを感じた。
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