オリンピカ②

 「ひよちゃん」

 バックルームとの境界線になる暖簾の向こうから、中西あゆみが顔を出す。ひょい、と効果音が付きそうだ。

 正社員として働くあゆみは年下の先輩で、契約社員の私のことをひよちゃんと呼ぶ。雛子だからぴよぴよちゃん、と最初に呼ばれたときはさすがに本気で抵抗したが、慣れてしまったらこの呼び名は結構気に入ってしまっていた。私のことも呼び捨てでいっすよー、と若者っぽい“〇〇っス”口調を操る彼女とは、自分でも意外なことに職場で一番仲がいい。

 「はい、なんでしょう」

 仕事中は意識的に敬語で話すようにしているので、表情も自然と固くなる。先輩でありながらたまに仕事中も普通に接してしまう癖のある彼女は、つられたように表情を引き締めて敬語を返してくる。暖簾のこちら側にはお客さんがいるから、そのあたりの意識はちゃんとしている。

 「先週佐久間さんが対応されていた人がお見えになりますので、ご来店されましたら私に声をかけていただけますか」

 「かしこまりました」

 きちんと話すと彼女の声は美しく、正しく響いていく。よく見ると片手に受話器を持っていたから、多分その人から電話がかかってきたのだろう。

 「この間の人って、あれ?グラス返品しろって言ってきた人」

 斜め四十五度上から返事が降ってきた。ドキリと跳ねた心臓には気づかないふりをして、私は冷静な目を意識して声のほうを見る。

 「恐らくそうですね。前回はレシートを持ってくると最後におっしゃっていましたので」

 「返品許可したの?」

 「現物とレシートを合わせてお持ちいただいた上での上長判断としました。中西さんが当日もいらっしゃいましたので対応を引き継いでいただけるようです」

 ふうん、とこちらは客前にも関わらずラフな口調で返してくる。職場においては敬語を使ってほしいものなのだが、彼の名札に光る〈店長〉の文字がため口をきくことを許させているような気がする。

 たった一日前まではこの人の顔を見上げるのにこんなに緊張はしなかったのだ。

 ―その色、綺麗じゃん。ひよちゃんに似合ってると思う。

 緩みそうになった唇をきゅ、と結びなおした。


 学年で言えば、私のほうが二つ上だ。私は大学を出てから一度は手堅い会社に就職したものの人間関係が原因で辞め、ふらふらとフリーター生活をしていたのに対し、彼は大学卒業後新卒採用でこのセレクトショップを始めとする雑貨屋を経営する会社に就職した。

 『家が近所だったのと、前から通りかかるたびにかわいいお店だな、と思っていたのでここで働けば何か変わるかもしれないと思った』と阿呆丸出しの志望動機に笑って私を採用してくれた前の店長が退職し、この春から彼が店長としてこのお店にやってきた。彼は前の店長とは仲が良かったらしく、『佐久間さんはすごいお客さんの心をつかむのがうまいからお前も負けるなよって言われました』と初日のあいさつで言われた。自分で思っていた以上にこの仕事とは相性がよく、真面目に働いていた故に短期間でアルバイトから契約社員に昇格し、この夏には社員試験も受けてみようかという話まで持ち出されていた。それだけに私の仕事ぶりをよく見てくれていた店長の退職後は不安だったが、そこで一気に安心感が沸いたのを覚えている。

 仕事前や休憩中の雑談で学年が近いことが発覚したのを皮切りに、どんどんお互いのプライベートな話もするようになった。呼び名もいつの間にか『店長』『佐久間さん』から『結城さん』『ひよちゃん』になり、彼の話し方がタメ口に変わると私も雑談中はつられてタメ口になってしまうことが増えていった。

 ―ひよちゃん、駅前のあの居酒屋行ったことある?

 ―改札の左手にあるところですか?行ったことないや。

 ―ほんと?今度行ってみなよ、超良かったよ。

 ―行ってみたいんですけどね。

 ―雰囲気もいいしおすすめだよ。ビールの種類が多くて選ぶの楽しいよー。この間気になる女の子連れて行ったんだけどさ…。

 その時にはふーん、としか思わなかった。何なら微笑ましいなあくらいの感覚だった。それが今になって、こんなじわじわと効いてくる毒になるなんて。

 でも思い返せば、この時から恋は始まっていたのかもしれない。

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