ハリネズミたちの恋
末広八
オリンピカ①
無気力なコンビニのお兄さんの声が、らっしゃっせ、と響いた。
疲れていて早く帰りたいのに、食欲もあんまりないはずなのに、足は自然とホットスナックのコーナーに向かう。こんな時間に脂っこいものを摂取するなんて乙女の風上にも置けん、と自分を戒める声は頭の中でシャボンのようにはじけた。
初めに目に留まったのはチキンだったけど、今日はお弁当に鶏ももを使ったおかずを入れたからパス。どうせ何かを買うなら違うものがいい。次に目に入ったアメリカンドッグは気分じゃないし、メンチカツやコロッケは重い感じがする(揚げ物の時点でどれもこれも重いんだけれど)。悩んだ結果、一個だけ売れ残っていたハムカツにした。
一人で何かを決めるのは自由だ。意味の分からない基準でも許せる。
別れてからちょうど一か月経ったところで、ようやく寂しさ抜きに一人の時間を楽しめるようになっている。そのはずだった。
二十六年も自分と付き合っていれば、大体の傾向はわかってくる。
機嫌が悪い日は大袋のチョコを買ってしまうし、気持ちに余裕のないときはコーヒーを飲みたがる。気分が落ち込んだ時は納豆卵ご飯にラー油を垂らしてかきこむし、休日前夜は絶対にエビスビールを飲む。
脂っこいものが食べたくなる時は、なぜか片想いに気づいた時だ。
自分でも理由がよくわからないこういった自分勝手な基準を、私は私にようやく許せるようになっている。
―何でそうなるの。
―それって変だよ。
―俺には分からないなあ。
付き合いたての時は変だなあと言いつつも笑いながら見過ごしてくれていた小さな癖やマイルールにはいちいち口を出してくるようになったのは半年ほど前のことだっただろうか。共通の友人が婚約して、お互いに少し結婚を意識し始めたころ。私は彼の癖も寛容になって受け入れようと思っていたけれど、彼にとって私のそれは二人で暮らすにあたって矯正すべき悪癖であったらしい。私もそれに洗脳されるように、自分の癖を抑え込むようになっていった。
そのくせ男友達と飲みに行ったり男女グループで出かけることには何も関心を示さず、自分がどこへ出かけようとだんだん私に報告しなくなっていった。
私は彼にとって何なんだろうか。友人たちは『愛情が安心に変わった証拠だよ』と言って慰めてくれたけど、記念日を見過ごされたり約束をドタキャンされることが増えるにつれて不信感が高まっていった。とうとう私は彼から逃げるように別れを告げ、一か月かけてゆっくりと自分の癖を取り戻していった。
”もう”一か月ともいえるけれど、どちらかというと感覚は”まだ”一か月だ。最後の最後は相手から愛情を感じられなくなったことに耐えられなくて自暴自棄になっていたというのに、私はまた懲りずに恋に落ちている。
そして決まって好きになるときは相手にも心を奪われている人がいる時だ。
いつまでも恋物語の主人公になれない私は、ハムカツを頬張りながら夏に向かっている夜の商店街を歩く。
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