空模様

サンダルウッド

第1話「逃避」

 同僚達に機械的な「お疲れ様でした」を投げかけて外に出ると、絶望的なほどに曇りがかった空が目に入った。雨はまだないが今にも降り出しそうな、まるで虚しさでこぼれ落ちそうな涙をこらえるかのような相貌そうぼうだった。

 いつもの整腸剤を買うために駅前の薬局に立ち寄ると、店内から――有線放送のようだ――聞き覚えのある前奏が流れ始めた。上原あずみの『生きたくはない僕等ぼくら』だ。もう何年も聴いていなかったが、感情を殺したような無機質な前奏は印象に残っていた。

 

 学生時代、人との関わりが不器用だったことに苦悩した。

 同年代の若者が生き生きと日々を満喫しているのを横目に、心悲うらがなしい、消化不良な毎日を送っていた。中でも、色恋をただの一度も経験できなかったことが、自分という人間の存在価値に疑問符を投げかける要因となった。

 努力が欠如していたと思う。人並みの幸せをつかむための努力を怠ってきた、当然の結果である。愚痴をこぼしたり、遊蕩ゆうとうにふけったり、あるいは趣味に没頭して目前の難局から背を向けるだけで、関わることから逃げてきた報いだ。『生きたくはない僕等』は、そのニヒリズム的な歌詞に共感して当時よく聴いていた。

 

 今の暮らしに落ち着いてからは、音楽鑑賞が主たる逃避行動となった。

 この期に及んで白々しく奮励ふんれいし、人並みの幸福を手に入れようなどという情熱は湧かない。そんな行為に着手しても、これまでの空虚な日々が色付くわけではない。映画やドラマのようなきらびやかなストーリーはそうそう訪れるものではなく、現実には何も実らず、気負った分だけ余計に意気阻喪いきそそうすることのほうが、少なくともこれまでの人生では多かったように思う。

 

 帰宅ラッシュというほどには混雑していない中央線の中で、Sonyのウォークマン――物持ちはあまり良いほうではないが、十年以上壊れずに使っている愛用品だ――で浜田省吾はまだしょうごを聴いていた。荻窪おぎくぼを通過したところで、最も気に入りの『ラスト・ダンス』――数パターン存在する曲だが、1977年のオリジナル版だ――が流れる。思い入れの強い楽曲で、特にライブ映像で賞翫しょうがんすると毎回新鮮で醇乎じゅんこたる感動を誘われる名曲だ。

 

「僕が僕である限り 何度やっても同じことの繰り返し」という歌詞が出てくるが、言い得て妙だと思う。どんなに皮相ひそうを取り繕ったところで、自分が自分という人間である限りは現状を覆すことは出来ない。もっと根底にある、性根などと言うらしきものを変える必要があるのかもしれない。これまでの三十余年の逃げの人生を反芻はんすうしながら聴き入っていると、涙がこぼれてきた。先ほど、職場を出てすぐに視界に入った暗澹あんたんたる空模様を想起する。悲しいとか虚しいという感情は付随しなかった。名曲に感動している自分に、たぶん陶酔したかったのかもしれない。

 

 駅舎から出ると、グレイの空はすっかり黒に覆われていたが、かすかに泣いているように見えた。

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