空を飛ぶ夢

伴美砂都

空を飛ぶ夢

 空を飛ぶ夢を見なくなったのはいつごろからだろうか。

 中学に上がるころまでは、よく見ていたような気がする。私は空を飛ぶ夢を見るのがとても好きだった。

 眼下には海や山や崖や川や町並みが広がり、風は私の前や後ろや横から吹いたが、墜落することはなかった。眠っている身体は布団に横たわっているはずなのに不思議なことだが、ふわりと浮く感覚は高揚感をもたらした。

 いつのころからか次第に、その夢を見る頻度は減っていった。地面すれすれを少し浮いたまま歩くように移動する夢を、何度か見たのが最後だ。



 十五歳のころ知り合った彼女とは通学の電車が同じだった。

 彼女の名前はやえちゃんといった。八重桜のやえ。


 私たちが高校に通うために使っていた、「たけごう」と非公式に呼びならわされていた電車はローカル線で、一時間に一本しかない。

 高校の最寄り駅が終点で、五分間停まって折り返す。彼女も私もあまり口数の多いほうではなかったから、沈黙のまま電車を待ち沈黙のまま電車に揺られる日も多かった。

 黙ったまま、並んで立ったり座ったりして高校に通った。


 たけごうの正式名称は竹花線という。

 高校のある駅から始発駅(どちらが始発駅でどちらが終点なのか正確にはわからないが)の竹花という駅まで、実際に電車が走っている時間は三十分ぐらいしかない。私たちは途中で降りるから、竹花の駅までは数えるほどしか行ったことがなかった。

 そこで折り返して、また戻る。走っている間、窓から見える風景はずっと田舎だ。何もおもしろいもののない平坦な町。そこを永遠に往復し続ける、二両だけの車輌。


 中学までスクールカースト最底辺だった私は高校デビューするために必死で、だけど、下手に成績が良かったがために入学式の新入生代表あいさつに抜擢されてしまって失敗した。たぶん本当はそのせいではないことは、うっすらとわかっていた。

 一学期の途中まで一緒にお弁当を食べていたグループの中で浮いてしまってやえちゃんたちのグループに入ることになったとき、決して口には出さなかったけれど、ひとつ下がった、と思ってしまった。

 やえちゃんも、ひとつ上のグループで失敗して “下がって”きた子だった。五月には、もうすでに。

 そのとき、やえちゃんは二週間ほど学校を休んだ。噂では、リストカットをして自殺をはかったということだった。本当かどうかは、知らない。家の屋根から飛び降りたという噂もあったが、さすがにそれでは二週間では学校へ来られないだろうから、それは嘘だろうと思った。

 私は、休まなかった。だから心の奥底で、私はやえちゃんのことを少しばかにしていた。

 けれど、やえちゃんは私よりずっとたくさんの本や雑誌を読み、ずっとたくさんの映画を観、たくさんの音楽を聴き、そして、ずっとお洒落だった。


 私たちの通う高校は家政科で、洋裁や和裁の授業があった。やえちゃんはファッションデザイナーになりたいのだと言っていて、デザイン画もミシンも手縫いも、とても上手だった。

 なにより、授業で決まった形のスカートひとつを作るのにも、やえちゃんは本当にセンスがよかった。やえちゃんの選ぶ布や、ちょっとしたボタンのつけ方ひとつひとつが、私には到底真似できないものだった。

 やえちゃんが学校を休んだときの噂は、すぐに消えた。ときどき、“上の”グループの子たちが私の横を素通りしてやえちゃんのところに行き、それかわいい、とか、すごいね、と言うたび、私は、私のことなど誰も見ていないのに、本当にそうだねという顔でニコニコしながら、心の中では悔しかった。

 

 たけごうは高校のある駅を発車してすぐ、田んぼや市街地の広がる平地へ出るまでほんの少しの間だけ高架の上を通った。

 眼下には何かわからないぼろぼろに錆びた金属の建物や、誰が耕しているのかわからないキャベツのような何かが植わった小さな畑などがあった。

 たまにひとりで帰るとき私は窓の外をずっと見ていて、そこの景色を見るのが特に好きだった。たけごうの下の景色は、空を飛ぶ夢を思い起こさせた。


 やえちゃんと一緒に帰るときは、会話が途切れて沈黙になってもあまり窓の外は見ないようにしていた。一緒にいるのに別のところばかり見ていたら、気を悪くするんじゃないかな、と思ったからだ。やえちゃんのことを内心で少し下に見ていながら、嫌われるのはこわかったのだ。

 二人掛けの席が空いて座れるときは、できるだけ通路側に座った。やえちゃんのほうを見て話しながら、ときどきなら窓の外に目をやっても不自然じゃないと思ったから。


 たけごうが高架を通るとき、やえちゃんも少しその景色を見ていることに気付いたのは冬の日のことだった。

 やえちゃんのコートは少し変わったぽこぽこした生地で、大きなボタンがついていて、とてもかわいかった。私のコートは中学から着ているださいダッフルコートで、電車の中は暖房がきついのでよく気持ち悪くなった。

 ふと、やえちゃんは私と一緒に帰っていてもつまらないんじゃないかな、と思った。二人掛けの座席の窓側に座っているやえちゃんの視線が、窓から見える景色を遠慮がちに追っているのを見た。

 やえちゃんは、もしかしたら知っているのかもしれない。同じように “上の”グループから外れてきた私が、やえちゃんと仲のいいふりをしながら、やえちゃんのことを見下そうとしていること、そして、嫉妬していることを。

 その証拠に、やえちゃんは私には決してしない悩み事の相談や真面目な話を、最初からグループにいた恵美ちゃんにはしているようだった。グループの皆にはそれぞれに「一番仲のいい人」がおり、それは、私ではなかった。

 何か面白いことを言わないといけない、と思い、私は言った。


 「あのさ、ここ通ると空飛びたくならん?」

 

 エキセントリックなことを言ったつもりだった。でも次の瞬間、やえちゃんは嬉しそうな顔をしてぱっとこちらを向き、わたしもそう思ってたの、と言って笑った。

 私は少しほっとして、でも、とげとげした気持ちを消すことはできず、また沈黙のまま、私たちはたけごうに揺られた。

 初夏のころに、やえちゃんが家の屋根から飛び降りたという噂が立っていたことを、ふっと思い出した。でも、それを私は誰から聞いたのだったか、おぼえていなかった。



 今、私の働くオフィスはビルの六階にある。

 高校を卒業したあと、やえちゃんは服を作る人になるための専門学校に行った。私はやえちゃんと同じ道をあきらめて、四年制の大学に進み、いくつか職を変わって、何の変哲もない事務仕事をする会社員になった。

 やえちゃんは専門学校を卒業したあとデザイナーにはならず、遠く離れた街のカフェで働いていると人づてに聞いた。

 そのあともう何年も経っている。やえちゃんが今どこで何をしているのか、私は知らない。やえちゃんだけでなく、高校の同級生の誰とも、もう私は連絡を取っていない。

 仕事は特別に面白いこともないが、性に合っている。高校を卒業してからもいろいろなことがあったけれど、死にたいと本気で思ったことはない。けれど休憩室の隣にある、誰でも出られるテラスのガラス張りの扉の横を通るとき、もしここから飛び降りたら、とふと考える。


 やえちゃんは、どう思っていただろうか。やえちゃんは、空を飛ぶ夢を見ただろうか。


 引き込まれそうでこわくて避けていたテラスからの景色をそっと覗いてみたのは冬の日で、理由もなくテラスに出る人はほかにいなかったから、電話をするふりをしてそこへ出た。

 そこから見た下は、たけごうの上から地面までよりずっと高いのだろうに、空を飛ぶ夢を想起させなかった。



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空を飛ぶ夢 伴美砂都 @misatovan

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