第56話 逃避行のはじまり④

 横浜駅から離れない、という台詞は何だったのか。

 気づけば、乗り換えに乗り換えを重ねて、僕達はある場所に到着していた。

 横浜中華街。

 横浜市に広がるチャイナタウンで、約二百平方メートルの面積に五百近い店舗が広がっており、東アジア最大の中華街と呼ばれている。


「わーっ、わーっ! いっくん、いっくん! 肉まんだよ、肉まん! 美味しそう! 食べて良い? 食べて良い?」

「別に良いけれど……。駅から離れない、って話は何だったのか……」

「だって、横浜に来たらやっぱり中華街は外せないでしょう! 私も来たことなかったし。いっくんだって来たことはなかったでしょう?」


 いや、確かになかったけれど。

 でもわざわざやって来る必要はなかったんじゃないか、って思えてしまう。


「一応言っておくけれど、ここに来た理由は……?」

「勿論! いっくんのおばあちゃんに挨拶するためのお菓子を買いに来たのよ! 何を買いに来たのかは秘密ということで」

「秘密、ねえ……」

「秘密にしておくと何かと面白いでしょう? 大丈夫、何があるかはリサーチ済だから!」


 ということはいつかはここにやって来たいという思いが強かった、ということか。

 調査済、ってことはそういう面があったっていうことだよな。

 何というか、分かりきっている話に見えるけれど、それはどうだって良い話だ。僕にとって、何とか逃げ切れればそれで良い。……いつまで逃げれば良いのか? という話になってしまうのだけれど、それは分からない。答えが見えてこない旅になるのだろう。そして、中学生である僕達には資金源がない。お小遣いで逃げ切れるには限界がある、ということだ。そしてその限界は――僕達が定めることが出来る、ということである。


「ねえねえ、あれ食べてみたい」


 アリスが裾を引っ張って、僕に何かを見せてくる。

 何だと思ったら――ごま団子だった。


「良いよ、別に。……お金はあるんだろうね?」

「ある、ある。幾らか貰ってきた」


 そう言ってアリスは財布から一万円を出してきた。……わお、ブルジョワ。

 アリスについていって、ごま団子を一緒に購入することになった。それぞれお金を支払って、食べ歩きをする。食べ歩きってマナーがなってない、と言われるかもしれないけれど、でも、悪くない食べ方だと思う。

 僕はそんなことを思いながら、待っていたあずさにごま団子の入った袋を手渡す。


「わわっ、アリスずるいよ! 私だって食べ歩きしたいものがあったのに! ……って、何これ?」

「お前も食べたいだろ。だから買ってきた」

「ありがとっ! こういう心遣いが出来るのがいっくんの良いところだよね」


 ……そうだろうか?

 僕はそう考えながら、話を続ける。


「ところで、あずさ。何か買うものは決まっているのかな?」


 僕は特に買うものは決めていなかったのだけれど。


「ああ、それならもう決めてあるよ!」


 そう言ってあずさが指さした先にあったのは――月餅だった。

 月餅。

 月のように丸く、平べったいお餅のような形をしたお菓子である。中には餡子が入っており、とっても美味しい、らしい。らしい、というのはあくまであずさから聞いた話だからそれを知ることがない、ということであるためだった。


「月餅、か。聞いたことはあるよ。美味しいんだってね」

「良いでしょう、良いでしょう? だから私はこれにしようって決めていたんだよ、前から!」


 前から、っていつからだよ。

 僕は突っ込みたかったけれど、それ以上言わないでおいた。

 あんまり強く言うと、何だか彼女が可哀想な気がしたからだ。

 だから僕はそれに従って、月餅を買うことにしたのだった。


「あ、でも、その前に肉まんね! 食べ歩きするなら肉まんでしょう!」


 ……それ、何処のルールだよ。

 僕はそう呟きながら、ごま団子を口の中に放り込んだ。……いやはや、口の中が熱い。



   ※



 肉まんは美味かった。

 コンビニで買う肉まんの百倍上手かった――というと語彙力がないように見えてしまうけれど、ほんとうにそうだった。実際、コンビニの肉まんも馬鹿に出来ない美味さであることは知っているのだけれど、中華街で作っている肉まんは何せ本格的なそれだ。だから、美味さが段違いなのは見て当然と言えることだった。


「美味しかったね、肉まん! やっぱりこういうところで食べる肉まんは、何か違う感じがするのかな」


 平日ということもあり、中華街は空いている――と思っていたのだが、普通に観光客でごった返していた。だから人混みに紛れてご飯を食べる――という、どちらかといえばやっぱりマナーが問われてしまう食べ方になってしまうのだけれど、今それを問う人間は誰も居ない。だから僕達は比較的自由に食事を取ることが出来たのだ。

 あずさが最後の肉まんの一欠片を食べ終えたところで、僕達は月餅屋へと移動する。

 月餅屋には数多くの月餅が並べられていた。チョコ餡とかあるのか。


「どれが良いかな? やっぱりスタンダードの普通の月餅? それともトリッキーに攻めてみる? チョコ餡なんて美味しそうじゃない?」

「……それはあずさに任せるよ。ただしおじいちゃんは糖尿病を患っているのでそこは注意してくれ」

「ええっ、じゃあ、簡単に決められないし。それとも甘いものにしない方が良いのかな?」


 それはお前に任せるって言っただろ、さっき僕が、今。

 そんなことを言ったのだが、あずさは聞いていなかったのか聞かなかったフリをしているのか分からないけれど、僕に問い返した。


「だーかーらー、やっぱり甘いものにしようと思ったんだけれど、糖尿病の人に甘いものを見せるのは何だか可哀想な気がしてならないって言っているでしょう? だったら、甘いものじゃなくて……、そう、例えば崎陽軒のシウマイとかにした方が良いのかな、って思ったの」

「……もう好きにしてくれ。僕は口出ししないから」


 せっかくあずさが用意してくれる、と言ったのに僕があーだこーだと口にしたら、それは僕のお土産になってしまう。


「あっ、それとも、いっくんも何か買いに行くのかな? だったら話は変わっていくよ。私と被らない方が良いもんね!」

「……だから、僕は買わないって言っただろ」


 変な気を遣わせても悪いしな。


「えー、いっくんは絶対に買っておいた方が良いと思うけれどなあ。親戚とか居ないの?」

「……居ないことはないけれど」


 遠縁の親戚が近所に住んでいる。

 挨拶は交わす程度の仲に過ぎないのだけれど。


「だったら、だったら! その人の分も購入しないと不味いよねっ」

「……あずさ、別に遠縁だから気にする必要はないぞ。僕は買うつもりは一切ないからな」

「ええっ。だからいっくんは絶対に買った方が良いって! 月餅。月餅じゃなくても良いけれど!」


 お前、それ月餅屋で言う台詞か?

 そんなことを考えたのだけれど、結局押しに押されてしまい、遠縁の親戚の分も購入することになってしまった。畜生、これじゃ、向こうに挨拶しなくちゃいけなくなってしまったじゃないか。何と面倒なことになってしまったんだろうか。


「買い物はこれで充分かな! あ、でもいっくんはおばあちゃんに買う分を横浜駅で仕入れていくこと! それは絶対十分条件だよ!」


 それを言うなら、必要十分条件じゃないか?


「そうそう、それ! 必要十分条件! 買わないと、めっ、だからね! 家族は大事にしないと」

「家族は大事に……か。まさかあずさからそんな言葉が出るなんて思いもしなかったよ」


 もっとも、あずさ自身はそんなことさっぱり考えていないんだろうけれど。

 これから何をするのか、ということについて。


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