エッセイ「普通に考えてみると(十二)」

@SyakujiiOusin

第1話

          普通に考えてみると(十二)


                              百神井応身


1.角を矯めて


 金曜日、遅い時間に昼食を摂りに出かけました。

 横浜駅近く、タマチャンでおなじみの帷子川を渡るところに横断歩道があって、そこは前方から来る車が駐車場に入るために左折するのですが、歩行者が多くて混雑する所です。


 私が少し待ってあげれば人並みが途切れて、何台かの車が捌けそうだったので、おなかは空いていたのですが横断歩道で立ち止まりました。

 運転手は軽く礼をして交差点上を曲がり始めたのですが、その鼻先を足取りも覚束ないお婆さんが急に渡りはじめたのです。

 車は急停止して危うく難を逃れることができたのですが・・・

確かに歩行者優先かもしれませんが、2~3秒を争うようなことかねお婆ちゃん。


 しょうがないっていえば、間違いなく今はそうしなくっちゃならないのかも知れませんが、人に道を聞かれたら逃げなさいって指導するんだって。

 牛を殺すようなことを重ねてきた結果が、美徳も潤いもない殺伐とした世の中になってしまい、よりそれを推し進めてしまう教育をせざるを得ないっていうんじゃ、どっかから間違えちゃったんじゃないだろうか?

 矯めるのは、そこじゃないように思えてなりません。


 食事を終えての帰り道、高校生が2~3人ずつグループになって、道路のゴミ拾いをしていました。

 ちょ~ちょ~、格好よかった。



2.鎌に立ち向かう


 庭の草刈りの後、置いておいた鎌にカマキリが取り縋っていました。

 蟷螂の斧(とうろうのおの)というわけでもあるまいに・・・


 「蟷螂」とはカマキリのことで、相手がどんなに強くてもカマキリが斧に似た前足をあげて立ち向かう様から出た諺がある。

 『韓詩外伝』に「斉の荘公出でて猟す。

 一虫有り、足を挙げて将に其の輪を搏たんとす。

 其の御に問いて曰く、此れ何の虫ぞや、と。

 対えて曰く、此れ所謂螳螂なる者なり。

 其の虫為るや、進むを知りて却くを知らず、力を量らずして敵を軽んず、と。

 荘公曰く、此れ人為らば必ず天下の勇武為らん、と。

 車を廻らして之を避く。

 (斉の荘公が狩りに行ったときにカマカリが前足を振り上げ車の輪を打とうとした。荘公が「これは何の虫だ」と問うと、「カマキリという虫で、進むことしか知らず、退くことを知りません。自分の力量をかえりみず相手に立ち向かっていきます」と答えたところ荘公は「この虫が人間だったら天下をとっていただろう」と言った)」とある故事に基づく。


 強がることのたとえにも用いるが・・・



3.敬語の稽古


 ごってんやまの かんぬしが おみくじをひいてもうすには~


 中学でだったか高校でだったかで、声を張り上げて歌った学校の応援歌。

 「申す」は謙譲語だから、意味の本来は「おみくじをひいて、おっしゃいますには~」なんだろうけどネ。

 ちかごら「申される」なんてのも平気でつかわれるから、まあいいか。


 文化審議会国語分科会が、敬語の適切な使い方を示した実例集をつくることを決めたんだと。

 そこでさあ~お立会い。私からの宿題が出ることになる。


 *広告の下の方、電話番号のそばに「問い合わせ」或いは「お問い合わせ」とよくあるんだけど、どちらが正しいか?


 * 電話などがかかってきた際、当事者がいなかったような場合、「伝えます」「お伝えします」どちらが正しいか?


 どちらも、さして違和感なく使われているようだから、どうでもいいっていえば、どうでもいい類のことなんだけど・・・

 ひまな人は、考えてみてネ。



4.言葉遣い


 最近はどこに行っても同じ言葉づかいがなされている。方言を聞くことが少ない。

 とんでもない言い回しもあるけれど、大体が標準語であり、お土産と一緒で、どこへいってもそう変わりがない。


 わが南信でも、第二のふるさとなったお江戸でも、ちょっと旧家でつかわれる正調お国言葉をときに耳にすると、「美しい言葉には美しい魂が宿るのかな」なんて思うくらいのことになってしまって、方言は聞かれなくなってしいました。


 ことばが精神をつくる。

 外国語の前に、正しい日本語を学びませふね。

 前に、車に乗ってるときに聞いたラジオでの話。

 概要はこうである。

 フェラガモの靴を買いに行ったんだと。けっこう高かったんだけれど「これにします」と決め、店員に包んで貰っていると、「おつかいものですか?熨斗はどうしましょう?」と聞かれたんだっていう。

(おいおい、さっき足に合わせて選んで決めたときの係りはあんただろう。自分が履くのに決まってるじゃん。)

 ようするに、マニュアルに沿ってしか喋れないのでは、言葉とはいえない。



5.言葉で伝えないと


 人前に出ないで済むことはありません。人のいるところには、言葉があります。

 言葉は、思いを伝える手段として優れているのですが、使い方が最初から上手い人ばかりではありません。

 自分の思っていることが、そのまま伝わるようになるまでには、誰もが人知れず悩み、考え、工夫して、自分に合った話し方を身に着けます。

 「わかってくれてもいいのに」とか「お察し下され」とかいうのは、殆ど絶対にと言っていいくらい、相手に伝わることはない。

 言葉は、大事なのです。


 口下手だからというので、手紙にするのもあるでしょう。

 確かに胸を打つ文章というのはあります。

 しかし、口に出して言葉として伝えるとき、声の調子、スピード、声音、柔らかさ、真剣さの度合い、含まれる愛情や思いやり、伴う身振りや表情や相槌等々、文字に勝ることが多いのも事実です。


 言葉は即ち神なりき。言葉の持つ波動エネルギーは、物質をも構成しているのかもしれないのです。

 簡単な挨拶や感謝の言葉から始めると良いかもしれません。

 「ありがとう」なんて良い響きでしょう。



6.招き寄せたのは


 不平不満愚痴を、平気で口にする人がいます。

 口にする以上は、そう言いたくなる現象が結果として自分の上に起こったということでしょう。

 因果律で言えば、結果と言うものは原因がなくては表れない。

 酷な言い方ですが、全部自分が招いたのだということになります。

 きっとどこかで、悪い想念を持ったのだということになります。

 自分が覚えてもいない前世のことであったかもしれませんが、縁を得て現れたのです。

 類は類を持って集まる。朱に交われば赤くなる。


 原因となることは、それが良いことでも悪いことでも、潜在意識に刻み込まれます。

 潜在意識に刻み込まれたことは、どんなことであっても実現に向かって動き出します。

 もし、嫌なことが自分に起こったのであれば、「ああ、こうして自分に表れたのだから、これで消えるのだ。」と信じきるのです。

 間違っても、その厭なことに捉われて、原因として掴み直してしまってはならないのです。

 難しいことなのですが、許して解放するのです。

 「こんな厭なことが起こったのだから、後にはきっと良いことが起こるに違いない。」という善念に切り替えると良いと思います。


 では、良いことを想ったら、良い結果に結びつくのか?ということになるのですが、それは必ずそうなります。それが因果律の真理です。

 良い結果がすぐ現れるときもあれば、なかなか現れないということもあります。

 潜在意識は、時機を選ばないといいますから、やむを得ません。

 ただ、原因のないところに結果はあらわれない、というのも事実なのです。



7.心を豊かにする


 妻がマドレーヌを焼きました。


 こんな時は、いい器でとっておきの紅茶を飲むということになります。

 身の回りで使うものは、可能な限り本物を使う方が良い。

 職人が心を込めて作った物には、エネルギーがこもっています。

 そういうエネルギーは、周りまで浄化して、幸せな雰囲気で辺りを満たします。

 普段は間に合わせのものでも仕方ないと思いますが、時には本物に触れることが大事です。良いものは、圧倒的な説得力があって、心を豊かにします。



8.体の中の悪いものを


 身体の中の悪いものを出尽くさせるデトックスといわれることが言われるようになって久しい。

 食品であったり薬品であったり物理的に外からの作用に恃むものなど、数多くの方法があるが、いうなれば身体のお掃除ということだから、真剣にならざるを得ないようです。


 関連して、岩盤浴というのも一時はやりました。

 熱せられた岩盤の上にバスタオルを1枚敷いて寝転んでいると、汗と一緒に老廃物が体内から排出されるということであるが、高温多湿な室内は、かびや雑菌も繁殖しやすいというので、その防除や除菌が喚起されました。

 サウナのあの刺すような暑さと違って鼻も乾かないし、楽に汗を搾ることができ、身体も温まる。銭湯の倍くらいの費用で利用できるところが方々に在るので、そんなに負担にならず気軽に行くことができます。

 使っている岩盤の種類によって効能に多少違いがあるのかもしれませんが、前後にたっぷり良い水を飲んで、身体のなかを綺麗な水と入れ替えればなお良い。

 健康は、内外のお掃除からということです。


 体の具合が悪いことの原因に、体温が低いというのも言われます。

 基礎体温があがることで、ちょっとした不調などは改善されるのだといわれますから、体を冷やさないようにすることが大事です。

 今年は特に寒いから、気をつけましょう。

 健全な肉体に、健全な精神が宿る。

 なんといっても心のケアなくしては、幸せに巡り会えないのかも・・・



9.腹が立つ医者


 病院に行って診察室に入ると「どうしましたか?」と聞くから「風邪をひいたらしい」というと、「それを診断するのは医者だ」と不機嫌そうに言われた。

 そうかと思うと「病気を治すのは医者ではなくて自分なんですよ」などと言うのもいる。

 「自分で治せないから医者に来たんだ」というと、バツのわるそうな顔をする。

 こんなのに限って「どうしてこんなになるまで放っておいたんだ」などと言う。

 いい医者っていうのは、前に座っただけでもう治ったような気にさせる雰囲気をもっている。



10.旅の若者と仙人


 旅を続けた末、或る町に辿り着くと、町の入口に仙人のような格好の老人がいました。

 旅を続けたきた若者が、その老人に尋ねました。

 「この町は、どんな町ですか?」

 すると老人が「ここに来る前の町は、どんなだったかね?」と尋ね返したのだとか。

 「前の町は、皆意地悪で、自分勝手で、それは酷い町でした。」と若者が答えると、「この町も、それと全く同じじゃよ。」と、老人が言いました。


 次にまた、旅の途中の若者がやった来て、同じ質問をしました。

 「前の町は、皆親切で思いやり深く、住んでいてとても良い町でした。」と、答えると、老人は、「ここもそれと全く同じじゃよ。」と答えたのだそうです。


 人は得てして、原因の一端が自分にあるのだとは考えないで、悪いのは全部周りの所為にしがちです。

 「あいつは、どうも虫が好かない。嫌いだ。」と思って接すれば、相手も敏感にそれを察知して、それに輪をかけたような反応をします。

 他人に親切な人は、周りの人も皆親切で優しいし、頼みごとだって聞いてくれることが多い。



11.練馬の狸


 昨晩はとても寒くて、いつ雪に変わっても不思議ではない雨が降りしきっていました。

 常夜灯と植え込みの境の暗がりを選んで、子狸が濡れながら急ぎ足で通り過ぎていきました。

 この狸、丁度1か月ほど前に、車の往来が激しい2車線の道路を渡り損ねた親狸が、跳ねられて敢え無い最後を遂げた時、道の向こう側に居た子狸だと思われます。

 通りがかった人たちが口々に、「危ないから、こっちに来ちゃ駄目よ。」と声をかけていた狸に違いない。

 健気に生き延びていたのだと思うと、何とも言えずほっとしました。

 練馬区とはいえ、一応都内。

 どこに棲んで、何を食べているのだろう?

 生きようとすれば生き延びることのできる環境がまだ残っていることに、安堵の胸を撫で下ろしました。



12.アンコールワット


 クメール文化を誇ったカンボジャを訪ねました。

 と言っても、アンコール遺跡のみでしたが・・・

 巨大な遺跡に圧倒されますが、これを構築した膨大な量の巨石は、60キロメートルも離れた山間部から運ばれたのだと聞くと尚更です。

 しかも回廊に刻まれた微細な彫刻を見るに及んでは、言葉を失います。

 アンコールワットは、ビシュヌ神を祀ったのだそうです。

 ヒンズー3大神の、維持を司る神ヴィシュヌ。

 ヴィシュヌは、メール山の中心にあるヴァイクンタに住んでいます。

 四本の腕を持ち、右には円盤と棍棒を、左には法螺貝と蓮華を持ちます。乗り物はガルダと呼ばれる鳥の王で、鷲のような姿、もしくは鷲と人を合わせた様な姿をしています。

 ヴィシュヌの妻は、ラクシュミー(吉祥天)です。

 この地でもご多聞にもれず、行く先々バスを降りると、お土産売りの子供たちが群がってきました。

 手に手に持って指し示す500円1000円の品々は、買って帰っても使い道がないようなものばかりなので断るのですが、一向に諦めることなくどこまでもついてきて、買ってくれ買ってくれと迫る熱心さには驚嘆します。

 何かをするとき、われわれにこの熱心さが残っているだろうか?

 多少値が張っても、客が欲しがるものを売ったら、恐るべき成績を上げるのではないかと思わずにはいられませんでした。

 諦めが早すぎる生き方には反省が必要だと教えられることしきりでした。


 勿論、主目的であるアンコールワット遺跡を見学しました。

 アンコールワットは、12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンズー教寺院として30年を超す年月を費やして建立されたのだといいます。

 1431年頃にアンコールが放棄されてブノンペンに遷都されると、忘れ去られていましたが、後に再発見され、アンチェン1世は未完成であった第一回廊とその周辺に彫刻を施したのだとされていますが、その繊細さ、数量は圧巻です。

 1632年、日本の森本右近太夫が参拝した時、柱に残した墨書が今も残っていて、日本にもこの寺院が知られていたことを窺い知ることができますが、ガイドさんが日本人の落書きと説明したのには参りました。

 戦乱の度、多くの石像は首を撥ねられたり砕かれて、敷石にされたといいます。

 アンコールワットは純粋に宗教施設であるとはいいながら、その造りは城郭と言ってよく、陣地を置くには最適だったようで、ポルポト時代の戦闘時の弾丸がめり込んだままの壁もありました。

 境内は外周、東西1,500メートル、南北1,300メートル、幅190メートルの濠で囲まれている巨大なものです。 神聖な場所を飾るため、回廊は精緻な薄浮き彫りで埋め尽くされていました。


「女の砦」という意味を持つ寺院「バンテアイ・スレイ」

 当時のアンコール王朝摂政役のヤヴァニャヴァラーハの菩提寺として建立されたと言 われ、周囲が約400mの小寺院ではありましたが 、外壁は赤色砂岩とラテライトで構築されていて、彫刻は見事なものでした。

 東洋のモナリザと呼ばれる女神像は、穏やかな顔をしていました。


 行って見なくては解らない、というのはいつも感じることですが、900ヘクタールという規模に、この巨石を運んで創られたものを見ると圧倒されます。

 アンコール・トム は、アンコールワット寺院の北に位置する城砦都市遺跡です。

12世紀後半、日本でいえば鎌倉時代、建設されたといわれています。

 周囲の遺跡とともに世界遺産に登録されているのはご存じの通りです。

 アンコールは、サンスクリット語のナガラ(都市)からでた言葉であり、トムは、クメール語で「大きい」という意味なのだと説明されました。

 アンコール・トムは一辺3kmの堀と、赤色のラテライトで作られた8mの高さの城壁で囲まれている巨大な城郭でした。

 外部とは南大門、北大門、西大門、死者の門、勝利の門の5つの城門でつながっており、各城門は塔になっていて、東西南北の四面に観世音菩薩の彫刻が施されています。

 また門から堀を結ぶ橋の欄干には乳海攪拌(にゅうかいかくはん=天地創造)を模したというナーガ(蛇?、竜神?)が彫刻されています

 またこのナーガを引っ張りあうアシュラ(阿修羅)と神々の像が並んで刻まれています。



13.いい天気


 晴れて風もなく暖かで穏やかな日を指して、「いい天気」ということが大半ですが、人によってはそれと全く逆の天気が「いい天気」だということもあるだろうと思います。

 雨が降らないと困る人だって多い。


 「あの人は、いい人だ。」というときの「いい人」というのも、自分にとっていい人だという意味なのであって、誰にでもあてはまる「いい人」ということはありえない。


 自分に縁あって起こる事象を「すべてよし」と受け入れることはなかなか難しいけれど、なんらかの意味があるのでは?と考えてみるのも、時に必要なのではないかと思う。



14.瓦礫だらけでも


 東日本大震災の追悼慰霊祭の番組を見ていて、復興がまだまだ進んでいないことを痛感します。

 何とかスピードアップできないものなのだろうか。

 あの日は、私も高架線の上に止まった電車内で、いつ振り落とされるか分からない揺れの中、長時間取り残されました。

 なんとか車外にでることができて、そこから徒歩で10時間、お互いが助け合いながら、また、道路わきの住人の献身的な援助を受けながら、自宅に辿り着いたことをまざまざと思い出します。

 日本人の絆が、いざというときには発揮されるのだということは感動的でした。


 私は、家に帰りつくことができましたが、被災地の方はその帰る家すら失い、もっと甚だしくは命さえ失ってしまいました。

 東日本大震災の爪痕は凄まじくて、今日で2年が過ぎてなお、今も瓦礫の山が片付かないままでいることに心が痛みます。


 ガレキを漢字で書くと瓦礫。

 カワラや小石のことを指すが、破壊された建造物の破片のことも瓦礫といいます。

 目にする度に、思い出したくないことを思い出してしまう方々が多くていらっしゃるのは、想像に余りあります。


 復興に何らかの手助けができたらとの気持ちはあっても、なかなかそれができません。逆に、画像で見る被災地の人たちの今を頑張っている姿に励まされる始末です。

 被災された方々に比べたら、経済的にも心理的にも余裕はある筈なのに、それができないことに忸怩たる思いを抱きつつ今日を迎えました。

 大多数の方が同じような気持ちでいると思います。

 大被害に遭われた閖上地区を訪ねて時の衝撃は、今もまざまざと思い起こされます。

 見渡す限り荒涼とした風景を目にしたとき、ここをどうやって復興するのか見当もつきませんでした。

 何かしたいとは思っても、自分の環境のこともあるから、ただただ復興を祈るばかりです。決して忘れてはいません。



15.キラキラネーム


 何年か前、自分の子供に「悪魔」と命名し、役所で記載を断られたというので揉めたことがニュースになりました。


 「永久恋愛」(えくれあ)、「連夏江」(れげえ)などのように、フリガナなしでは読めない奇抜な名前を子供につける親がちかごろ増えているらしい。

 難解な読み方の名前は昔からあったのだと思うが、最近は、芸名ならばいざしらず、普通ならば日本人につけないような「横文字の名前」をつけて、傍らで聞いていると一体何国人かかとに疑ってしまうようなことも多い。

 その名に強引に漢字をあてはめるから、読む側だって混乱します。


 俗にこれらを「キラキラネーム」と呼ぶのだそうです。

 善意に解釈すれば、親は「個性豊かな人間に育ってほしい」との願いを込めてつけたのでしょうが、親のエゴが透けて見えるように思えなくもない。

 子供からすれば「恥ずかしい」という思いをする場合が多々あるかも知れません。

 改名をすることができないわけではありませんが、そのためには家庭裁判所への申立てが必要であり、条件や手続きが面倒です。


 しかし、一説によれば、子供は自分で両親を選んで生まれてくるのであり、名前すら決めて出てくるのだというから、巡りあわせというのは何とも難しい。



16.戒名


 そんなものはいらないと言う人が増えてきているようですが。


 坊さんに言わせると、人は死ぬと三途の川を渡り、閻魔大王の前に引き据えられる。

 そこで生前の善悪を問われることになるのだが、俗名のままであると洗い浚い今までの行いが照魔鏡に映し出されてしまうので、間違いなく地獄行きということになる。

 ところが、戒名での経歴は真っ新で綺麗なままだから、極楽行きということになるのだと言うのです。

 実際がどうなのかということを経験した人はいませんし、証拠を示して証明されるわけではありませんので、疑えば疑うことができることになります。

 しかしながら、科学的に根拠がないことをすべて否定できるかというと、そうもいきません。

 今までに経験したことにより鮮明にイメージされてしまったことは、実体化する可能性だってあり得るからです。

 占いもそうですが、最初に人の不安を煽って、自分の言うがままに繰ろうとするのが透けて見えるような人の言うことは信じられなくても、信頼に足る人もいます。

 要は、善根や徳をキチンと積めば、よいということなのでしょうが・・・



17.どこまで行っても


 年をとってくると頭髪が薄くなり、段々額が禿げ上がってきます。

 禿の人が強がって、そこは禿げているんじゃなくて額だなどと冗談を言います。どこまでが額でどこからが頭なのかということですが、解剖学的に言うと、頭は眉から上のことをさすようです。

 つまり、われわれが「おでこ」と呼んでいるところも頭ということになるわけです。

 薄毛や禿が気になったら、カツラを使うようにすればよい。

 気になって、引っ込み思案になってしまったり、心を痛めたりしているよりずっと健康的だと思うのだが・・・



18.ハリネズミを食べる


 ハリネズミのジレンマというのがある。

 2匹のハリネズミが仲良くしようと思っても、近づき過ぎるとお互いの針が刺さりあって痛くてならない。そうかといってお互いの温もりを感じ合わずにはすまされない。

 こういうとき、お互いの針が刺さりあわない距離が大事なことになる。


 国際関係において、針とは即ち武力や国力のことになるが、悲しいかな力の伴わない正義というのは成り立たない。自分を守る針を短くし過ぎれば、身を守りきれない。

 武力を持つと戦争になるというが、抑止力となってそれを避けられるという一面は、確かにあるように思えます。

 ハリネズミの針は、攻撃用ではなくて、防御をするためのものなのですから。



19.フリーマーケット


 休日になると、あちらこちらでフリーマーケットが開催されているのをみかけます。

 このフリーマーケットのフリーは、free(自由)ではなくて、flea(ノミ)のこと。

蚤の市と呼ばれるアレです。

 Fleaには、みすぼらしいという意味がありますから、使い古した新品ではないものが含まれています、ということなのでしょう。



20.ペットの癒し


 動物は癒しの力を持っていると言われます。


 老人ホームや知的障害者などの施設に、犬などの動物を飼ったり連れて行って一緒に過ごしたり、飼うことができない人たちには、ネコカフェなどのペットカフェが増えてきていて、そこで癒されることがあるのだという。


 ストレスが多い社会であったり、核家族化されていたり、老齢化、未婚主義であったりして、心を許せる家族との触れ合いが少ないせいか、家族の一員として、本当の子供のようにして、ペットを飼うことも多いようです。

 癒しが必要な時代になってきていますので、今後もますます動物との共存を望む人が増えていくと思われますが、野放図に飼うのはあまり良くないようです。

 ペットとの信頼関係を築くのも大切です。

 その場の気分でペットを買ってきたのはいいが、飼いきれなくなって捨てられたと思しき野生化もできない小動物は憐れだし、野生化したものは危険である。



21.マムシと言っても


 大阪の知人を訪ね、昼食時になったとき、「マムシでも食べに行きましょう」と誘われて吃驚しました。

 巳年だからマムシ?

 ゲテモノ料理で、蛇の蝮を食べるのかと勘違いしたのです。

 聞いてみると、鰻のことでした。「ま蒸す」から来ているらしい。

 ところ変われば品(名)変わる、ということです。


 ところで、鰻を刺身のようにして生でたべられるか?ということなのですが、答えはNOです。

 鰻の血液には「イクチオヘモトキシン」という毒があるためです。

 この毒は、蛋白質性の毒で、口に入れると呼吸困難や吐き気などの症状を起こします。

 だが熱に弱く、60度以上で5分ほど加熱すればこの毒は壊れるので、蒸したり蒲焼にして食べることになります。



22.愛とは何なのだろう


 言葉が持つ音というのがあるが、同じ音でも意味が違うようでいて通じていることもあるように思えます。

 そんな言葉の持つ音のエネルギーを感じてか、スルメは擦るのが嫌だからアタリメと言ったり、梨は無しに通ずるからということでアリノミなどと言い換えたりもします。


 そうしてみると、愛とは何なのだろうか?

 日本における愛とは、昔はカナシと読んでいました。

 今の愛に近い概念は、「慈悲」。慈悲は愛よりも広く深い意味のようですが・・・

 青は藍より出でて藍より青し。愛より出でるものは何なのだろうか?


 吾意、自分の思い。Iは、自分。我意と音感も意味も近い。

 阿意、阿呆な思い。

 哀、悲しみ。


 天の意は、天意(てんい)と読むけれど、天を「あ」と読めば、天の意思も「あい」なのかも知れません。

 言葉の持つエネルギーは多分物質化するから、意識して使わなくてはならない。

 初めに言葉ありき・・・キリスト教徒ではありませんが、言葉が世界を作っているように思うことがあります。



23.一円どころか億でも


 一円を笑う者は、一円に泣く。「お金は大事にしなくてはいけません」と習いました。


 よ~く考えよう お金は大事だよ

 よ~く考えなくてもその通りなので、大事にしてるんですけどネ・・・


 一円玉のデザインはオガタマの木なんだといいます。

 神社で巫女さんがお神楽を奉納するとき、手に持ってシャンシャンと鳴らす鈴の原型になったのが、オガタマの小枝なんだそうです。

 アマノイワトの前で裸踊りをしたアメノウズメノミコトさまも、これを打ち振るって舞ったのだといいます。

 モクレン科のこの木を知ったのは、むかし参拝に行った熊野速玉大社の境内で、神主さんに聞いたのが最初です。

 次には、高千穂神社だったように思います。方々にあるらしいんですが、目にする機会が少ないようです。


 お金は、何をやるにも基本となり大切なのに、これを得ることにある種の後ろめたさをもっている人が多いようです。

 沢山持って、世のため人のため、幸せになるような使い方をすればよいのだと思います。

 貯めこむことだけが目的となってしまっては、そこに淀みができてしまい、それではお掃除の対象となってしまいます。

 こつこつと、しかし大きく貯めて大きく使うことは、神様の意にというのか、宇宙の意思にというのかに叶うことなのだと思います。



24.陰と陽


 陰陽(月と太陽)

 陰陽学説と言うのは、中国の万物全ての事物を陰と陽に分けることができるという説です。

 全ての物事は陰と陽の両方で成り立ち、陰陽の対立又は統一によるとする。

 その陰陽のバランスが崩れると、人は病気になり、陰陽のバランスを調整することで治すことができると言う。

 中国医学というのは、西洋医学とは違って、目には見えない「陰陽」や「経絡」、経穴(ツボ)」などを、長年の臨床結果から医学として統計的に確立しているので、スピリチュアルな医学とも言える。

 目に見えない物は信じられないような唯物主義の方には、理解できにくい世界というこになるが、否定はしきれないと思います。

 信じる信じないは別にして、解らないことは無いと同義ではないのだから。



25.鵜呑みにしない


 尖閣について、マスコミの報道は、どうも中国よりの記事ばかりが取り上げられているように思える。

 歴史と国際法からみて、我が国の領土なのだということを主張するよりも、先の大戦や経済がらみの話に論点を持っていきたいのではないかと思えてしまう。


 「日中記者交換協定」なるものがあって、中国に不利なことは書けないということなのかも知れないが、領土問題とそれらは別の問題であることを論理上分けて議論するべきである。

 ネット上でマスゴミと書かれるような偏向報道は避けるべきだと思う。


 領土を主張することが何故、右傾化だと括られるのか理解に苦しむ。国を守るのは、極めて当然なことであり、そのために譲れない信念を無くしては、国の形態を維持できまい。

 マスコミの報道は怖いのである。自分で調べても、事実関係はいくらでも出てくるのだから、鵜呑みにだけはしたくない。

 ここにきて、中国側の外交文書の中に、尖閣諸島は日本の領土だと認めている資料が出てきたという。

 にもかかわらず、それを国内に知らせることなくして、中国では戦争を煽るような論調が高まっていることのニュースの方が大きくとりあげられている。

 日本が戦争をしかけるわけもない。ただ、事実を主張しているだけだと思うのだが・・・



26.運が強くなる顔


 これは超簡単にできます。

 口の両側に少し力を入れ上に持ち上げるようにすることです。

 一口にいえば、つまりはにっこり微笑むということです。

 笑うことが心や体に良くて、免疫力までも高めるのだと言われていますが、笑顔でいるだけで、ものごとはうまくいくようになるのだとも言われますから、大事です。

 お笑い番組や落語を見て笑うのも良いと思いますが、普段から口元を持ち上げて、笑顔を作るようにしていると、それが顔になります。

 昔から、笑う門には福来ると言われているのには、意味がありそうです。

 微笑みを振りまくことは、周囲に良いエネルギーを発散するので、周りからも良いエネルギーが還ってくることになるのです。

 唇の端が下がっている状態、いわゆる「への字」に結んだ口や、「苦虫を噛み潰したような口」をしていて出世した人はいないのだそうです。



27.運の神様は


 運を味方につけるには、考え方をちょっと変えなければならないようです。

 ライバルと競争しているときなどがそうなのです。

 例えば、ゴルフなどで相手がパットするとき、「はずせ!」と思うか「入れ!」と思うか、どちらが良いかということです。

 運命の神様でもある潜在意識は、自分と他人の区別がつかないのだといいます。

 他人に良いことを願うことは、自分によいことを願うことと一緒なのだとか。

「情けは他人の為ならず」と、昔の人は経験から言っていたようです。

 逆は「他人を呪わば穴二つ」です。自分に返ってきてしまうということでしょうか。


 どうしても自分が先に、というのが人情ですが、自分が良くなったら、自分だけではなく他人にもお裾分けをするのだと考えればよいのだと思います。

 「ああそれだったら知っている。」とすぐに言う人は多いけれど、その人は決して自分のことを幸せだと思っていないことが多い。

 知っているだけで幸せになれるなら、読書家や知識人は皆そうなっている筈です。

 実際にやってみて「解る」ということと「知っている」との差は余りに大きい。

 天からの啓示とかインスピレーションとか潜在意識とかに気づくのには、縦の線のつながりであるから、この感性を取り戻さなくてはならないが、それが解っても実際の行動に移せないのでは、本当に解ったとは言い難い。

 やってなんぼということ。時間や費用が掛かりすぎたら、いかにその気があっても難しいが、簡単にできることは何であれやった方が良いようです。

 そうすることで回復する感覚というのがある。



28.外国人と話すと


 こちらが日本人だとわかると、実に嬉しそうに近寄ってきて、日本語を知っていると言う。

 コニチワ(こんにちは、ではない。)

 サヨナラ

 ニーハオ・・・それは、違うってば。


 そんなくらいでも、会話を持とうとすることを見習わなければと、日本語しか知らないこちらは思うのです。

 好きだという「アイジンノモト」というのが何か解るまでには、時間を要しました。

 まさか愛人の元のわけはないし・・・

 味の素のことだと解って大笑いしました。


 こちらだって、解らない発音があります。

 バクシーンて言うからback scene のことかと思ったら、Vaccine(ワクチン)のことでした。

 昔、ハワイでレンタカーを借りようとしたとき、書類を出してきてイニショーと言われた時も、何だか解らなくて困りました。

 彼が指さした欄がサイン欄だったので、イニシアルを記入しろということだったのですが・・・

 遅まきながら、少しは話せるようになりたいと思っているところです。

 中・高・大とやってきたことは、殆ど身についていません。



29.楽と金


 面倒だと思うことにこそチャンスが潜んでいるようです。

 つまりチャンスを得ることというのは、面倒なことをこなしたことへのご褒美ということです。

 誰もが面倒くさいと思うことをやりたがらないから、それをうまくこなせばビジネスにだって繋げることができます。

 少しでも楽をしたい。もうちょっと便利にならないかな。

 そういうところに着眼してできた製品やサービスというのは、山ほどあります。

 楽をすることの対価はお金ということになりますが、人は利便性や楽になることにお金を使うことを惜しみません。むしろそれを喜びます。

 他の人に少しでも楽をさせてあげよう、少しでも便利になるようにしてあげよう、とすることは、自分の気持ちも豊かにします。

 お金がかからなくってできることはあります。

 楽になった、便利になったと感じられた後、人はどうするか?

 浮いた時間を世の為人のために使うことができたら素晴らしい。

 楽をするということは、決して悪いことではない。



30.勘違いしやすい


 改憲論の話ではありません。

 家内が、朝のラジオ番組のファンで、よく聞いています。

 もう古い話になりますが、その番組でメインキャスターが、聞き違いかもしれないが、「憲法第99条の条文によれば、国民は憲法を守らなくてよい」というようなことを言っていたのだけれど、どうなんだろうと尋ねられました。


 余計なことかも知れませんが、老爺心までに・・・ということで番組にメールをしましたが、返事は返ってきませんでしたし、番組での補完説明もありませんでした。


 憲法の適用対象(名宛人=守らねばならない人)

 憲法の下位法である法律や条令などのいわゆる法令は、民法や刑法を読めば解る通り、国民の行為を規律するものであって、国民を適用の対象(名宛人)として定められています。

 翻って憲法はどうなのかというと、国民から国家に向けてその適用対象(名宛人)となっている法です。

 ですから憲法を守らねばならないのは国及び行政ということなので、第99条の条文に国民が書かれないことになります。

 守らなければならないのは誰なのか、ということを混同すると、わけがわからないことになりかねないが、意外に多くの人がこれを知りません。

 少なくとも公共の電波を扱う人は、理解できないことで軽々しくものを言ってはならないでしょう。


 憲法に書いてあるからということで解決するなら、刑法に書いてあるから泥棒も詐欺も暴力行為も起こらない、などとということがないのと同様、論外といえましょう。

 憲法に、大地震も津波も来てはならない、と書いたところで仕方が無いということと同じで、守り果たさねばならないことは、現実にあわせて生きたものであることが求められます。

 憲法の改正は、どこをどのようにするのかが大事なことになると思います。

 国民の生命財産を守ることのできる国とは、いかなるものなのでしょう。



31.感情を捨てる


 計画しているコトがスムーズに進まない場合は、シンプルに思考しなおしてみる。

 殆どの場合、物事を複雑にしてしまっているのは、感情が入ってしまっていることが原因であることが多い。

 それはそれで仕方がないかもしれない。人間は感情が納得しないと動けない特質を持っている。

 しかしながら、感情が入ってしまうと実現するまでの手順枠組みが複雑になってしまう。

 計画段階では、あれこれ感情が入らないようにしておく方が良い。


 いい恰好をしたいとか、誰それを見返してやりたいとかの動機づけは大事かもしれないが、それが過ぎると自己中心的になってしまい、重要なことを自分に都合よく考えてしまいがちになるからです。

 たんたんと事務的に考えた方が、落ちのない計画になるし、無駄も省ける。

行き詰って見直すときは特に、感情を捨てる。

 物事がスムーズに運び結果が出てくれば、いくらだって感情を挟む余裕だって出来るのだから、

 それからだって遅くない。



32.頑張りすぎて


 なぜ、どんなに頑張っても望む結果が手にはいらないのでしょうか?

 脳の使い方を間違っているかもしれません。

 人間には2種類の脳があるそうです。

 その使い方によって 能力があるにも拘わらず、それを発揮できなくなると言います。

 頑張りすぎると、念の力をつかうことになりかねず、念は凝り固まると障りがでる。

 ふわっと軽やかに取り組む方がよいようです。物事がうまくいっているときには、そうしている筈です。

 逆もまた真なりということです。



33.器を大きくする


 「あの人は、器が大きい。」とか、「人間の器が大きくなるようにしなさい」とかは、よく言われることです。


 器というものは、生れ出た時に既に、一生かかっても入れきれないほどの大きさを、誰もがそもそも持っているのだと思います。即ち、誰のも大きい。

 その大きな器に、何をいれるか?ということの方が問題なのだと思います。

 泥水や小石ばかりでは甲斐がありません。

 綺麗な水や宝物が入ってこそ価値があります。


 器は、大きくするより磨いて光らせるものなのだと思います。

 人間の器は、魂の入れ物。それを磨き上げることが、この世に生まれてきた大きな目的なのだと思うのです。

 綺麗な入れ物には、それに相応しいものが自然に入ってくる。



34.気づいてみれば


 幹事会の後、先輩が「酔い覚ましに歌を歌っていこう」と言って、馴染みだというカラオケスナックに連れていってくれました。

 席に着くと「アイコです。水割りでいいですか?」と聞いてきたので、すでにシコタマ飲んでいることだし「水の水割りね」と頼んだ。

 で、彼女が言うことには「アイはアイでも相のアイなんです」であったから、「そうか、じゃんけんぽんあいこでしょう、のアイなの。」と聞くと、「そうなんです。余り好きな名前じゃないんです。母が、相模原で生まれたから相子ってつけたって言うんです。ひどいと思いません?」と答えた。

 「何を言ってるの。相子っていい名前じゃないの。お母さんに感謝しなさい。相思相愛の相子ってことでしょう。」というと、

 「わーホントだ。いい名前だったんだ。」と大喜びした。


 名前は親が付けたものと誰もが思っているが、そもそもは生まれてくる前に自分がつけたものだということを本人は忘れてしまっている。

 転生して今生に来るのはタマシイの学びの為であるから、名前は音の波動か意味の波動か、自分の目的の為にあったものをつけて出てくるものなのであると言われる。

 だから、それに気づくまでは、嫌なことであっても何度でもやらされる。

 そんな話をして、「そろそろお彼岸だから、亡くなったというお母さんの墓参りに行きなさいよ。」というと、「必ず行きます。」と応えた。

 帰りまでには「師匠、師匠」と、取ってもいないのに押しかけ弟子になっていた。



35.結婚に向かない


 ネットの記事で見つけました。

 結婚に決定的な「向き」「不向き」なんてあるのか!? 

 心理カウンセラーの先生が、男女別に、結婚に向いていない人の言動のパターンを教えていました。

 結婚に向いていない男の言動5パターン

・極端にこだわっている趣味やコレクションがある(=自分の世界がありすぎる)

・デートコースはいつも同じでいい(=企画力がない)

・家族の話をいっさいしない(=家庭内のコミュニケーション能力に欠ける)

・やたらと気前よく仲間におごりまくる(=自信がない、金銭管理ができない)

・眠るときにうつ伏せになる(=保守的で生真面目。他人のミスが許せない傾向にある)


 結婚に向いていない女の言動5パターン

・片付けをするのが趣味(=神経質で他人にイライラしやすい)

・母親ととても仲がいい(=自らの家庭を作ろうとしない)

・買い物や海外旅行で散財しやすい(=金銭管理ができない)

・「みんなと同じでいい」が口癖(=自分の意見がないにもかかわらず後で文句を言うタイプ)

・胎児のように丸まって眠る(=他人に対する警戒心が強い一方で、依存心が強い)


 そもそも、結婚には向いている人の方が少ない、と先生。向いていなくても努力できるかどうかが、結婚生活に必要なスキルなのだそうです。

 結婚したいと望むならば、むしろ「自分は結婚に向いていない」と自覚して初めてスタート地点に立てるのかも!?



36.建国記念日


 今年の初詣は、神武天皇が祭神である橿原神宮でした。初めての参拝でした。

 そこに紀元2673年、昭和88年と書かれていて、久しぶりに「紀元」という字を目にしました。

 そういえば、日本の戦闘機ゼロ戦は、紀元2600年にできたので名付けられたのでした。


 日本の建国は何をもって建国としているのかということなのですが、実は殆ど知られておりません。

 「日本人は日本のことを意外と知らない」という意味で言っても、今や日本人の多くは、その基本とも言える国家の創始について、何ら知らないのです。

 しかし、国家の創始を知らないというのは、世界の常識で言えば、珍しいことになるのかも知れません。

 歴史上の事実である国もあれば、神話の世界のことであることもあって、それに目くじらを立てるのではなく夢のある話として各国は受け入れているようです。

 日本では、日本書紀や古事記は歴史書ではないし、天皇制を問題視するなどして、記念日ではなくて記念の日としています。

 古事記や日本書紀に出てくるお話は、絵本で読んだ神話くらいの認識しかない人も多い。


 日本の建国記念日は、別名、紀元節(きげんせつ)と言い、その紀元とは、初代天皇である神武天皇の即位の日に始まります。

 これを建国年代で言えば、今年は紀元2673年であり、世界でも最古の歴史を持つ国ということになります。

 日本に次いで古い国家は、約1100年のデンマーク、続く約900年のイギリスと、その古さは歴然です。

 中国やエジプトの古さをご指摘する方もいらっしゃると思いますが、これは、単純な歴史の長さをいっているのではなく、あくまで国家年代です。

 天皇を国家元首として、国の統一を堅持してきた体制そのもので、これは、皇統譜と呼ばれるひとつの系図をもって、125代にわたり連綿と引き継がれたことになります。

 これは、世界的にみても正に神話そのもので、日本の皇室は、世界の王室、国家から大きな尊敬を集め、その価値は日本人以上に知られていることも事実です。



37.安定した数字


 三脚というのは据わりが良くて、脚の長さが多少揃わなくても、がたがたしない。四脚の椅子であると、そうはいかない。


 鼎というのがあります。

 鼎は青銅で作られた三本足の器で、王位の象徴とされた。

 鼎の軽重を問う、という言葉はよくつかわれます。

 統治者を軽んじてその地位を覆そうとする野心のあるとき、

 転じて、その人の能力などを疑って地位や評判を奪おうとするとき、

 現在では、野心や奪うという意を含まずに、単にその人の能力の有無を問うという意味にも用いられる。


 楚の荘王が天下統一の野望を抱き、王位の象徴である鼎の大きさと重さを問うことで、その意志を暗に示した故事に由来します。

 いずれにしろ、3というのは重要であるらしく、いろんな場面にでてきます。

 3本の矢・3画測量・3点確保・三位一体・三宝etc.etc.


 正と負すなわちプラスとマイナスにゼロという概念を取り込んだことで発展したものは多い。

 右か左かだけでなく中庸ということは、ものごとの判断の幅をひろげます。

 どれもが中心になって他を支えるものがあるということかも知れません。



38.縁日


 元善光寺の写真が出てきました。長野に善光寺が移る前に伊那の座光寺村にあったので、元善光寺といいます。

 昔は、お彼岸の縁日のときくらいしか行かなかった。

 あそこの住職は、小学校のときの同級生です。


 お彼岸の縁日ともなると、お小遣いにもらった10円か20円かを握りしめて、屋台を次から次へと見て廻ったものでした。

 味噌おでん・ノシスルメ・ニッケ・綿あめ・風船ガム・カンシャクダマ・チンボゴマ・知恵の輪・・・

 全部買えるわけではないので、どれにするかが大問題でした。

 中に、オビノキンタマという風船を膨らまして空気が抜けるときに笛が鳴る玩具がありました。

 なんで、こんなスゴイ名前がついていたんだろうネ?

 袋が膨らんだり、スビテ皺がよったりするからかしら。オビはノビだったりして・・・



39.何かを変えるには


 何かを変えるには、それなりの努力が必要です。

 今の生活を変えるには、何かを変えなければならない

 何もしなければ、何も起きない

 そりゃ、そうだ。


 今の自分に納得がいかなければ、何かを変えなければなりません。

 今のままで、未来が自然に良くなる事はありえません。


 もし、仮にいまのままで未来がよくなるとしたら、たまたま拾った宝くじが1億円あたるようなもの。

 今の自分、未来の自分も変えたいならば、今の環境を変えなければならない。

 何か新しい事を始めなければならない。

 で、ここで気づくのです。

 変えようと思っても、周りを変えることはできない。変えることができるのは自分のことだけだと・・・

 自分が変るしかない。



40.怪我をするのは


 怪我というのには、意味がある。


 自分の不注意が原因だったとしても、何故不注意なことをしてしまったのか?

 怪我をしたのを機会として休養を取りなさいという意味もあると言いわれます。


 怪我をした部分に手を当てたり、さすったりしていると、思い当たることや気づくことがあるようです。



41.基本の違いは


 人に親切にされたとき、感謝の念を抱き、いつかは恩返ししようと思うタイプと、何だかわからないが、これは自分に都合の良いやつだから、もっと何かさせてやろうと思うタイプとがある。

 日本人の大半は、前者であることに間違いはない。


 山にも海にも、岩にも川にも、草にも木にも花にも神が宿ると感じて、森羅万象悉くに畏敬と感謝の念を抱く人と、自分が信じる神以外は邪教であるから、それは攻撃して滅ぼしても許されるのだと考える人とがある。相容れないものなのである。

 世界は広いから、考え方の違いをとやかく言っても始まらないが、根底にあるものの差を理解していないと、対応を誤ることだって起こり得る。

 人としてどうよ?という考え方は尊いのだけれど、損得勝ち負けだけを考えている人には、どのように対したらよいのだろう?

 少なくとも抑止する能力があることを知悉知らしめておくことは必要だと思う。



42.気を付けないと


 感情が泡立つと、どうしても荒い言葉を口に出してしまいますが、それで気が済むことは滅多になくて、後味の悪い思いが長く残ります。

 気をつけなくてはならないのは、自分の出した波動はいずれコダマ返しのように自分のところに戻ってきてしまいます。それも、自分が出した以上のエネルギーとなってですから恐ろしい。

 ですから、自分が発する波動はできるかぎり柔らかい高度のものにする必要があります。

 良い波動も、いずれは出した自分のところに戻ってくるのが真理らしい。



43.業平橋


 ぎょうへい橋?

 そうアナウンスされて、業平橋(なりひらばし)だと理解するのに一呼吸いりました。

 在原ぎょうへい、なんては読まないであろうに・・・

 天下のNHKアナウンサーだって、知らないか間違えることはあります。

 武蔵の国と下総の国との中にある、隅田川のほとりにいたりて、都のいと恋しうおぼえければ、しばし川のほとりに下りゐて、思ひやればかぎりなく遠くもきにけるかな、と思ひわびてながめをるに、渡守、「はや舟にのれ、日くれぬ」と言ひければ、舟に乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なくしもあらず、さる折に、白き鳥の、嘴と脚と赤き、川のほとりにあそびけり。京には見えぬ鳥なりければ、みな人見知らず、渡守に、「これは何鳥ぞ」と問ひければ、「これなむ都鳥」と言ひけるを聞きてよめる

 名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと  (在原業平)



44.呼吸が浅くなる


 怒った時や緊張した時、驚いた時などには、呼吸が速くて浅くなっていることに気づきます。

 浅い呼吸は、良くない。

 そんな状態から脱出したい時には、意識して深呼吸をする。


 酸素を吸って二酸化炭素を吐きだすということは、誰もが教わらなくても意識しなくても、生存のためにしている自然の行為ですが、時には意識して深い呼吸に戻すことが何かにつけ心と体にとって大事です。



45.後ろの人への配慮


 人通りの多い道を仲間と並んでノタノタ歩く。かなり麻痺した人達なのかと思えばさにあらず。

 こんなヤカラを見るのは、ニチジョウチャメシゴト。お茶目じゃなくて茶飯事(さはんじ)。

 駅でも、券売機に並んでいて、順番待ちしているうちに用意しておけばよいものを、自分の順番になってから料金表を見て、それからバッグの中をガサゴソ探して財布を取り出し、不器用な指で小銭を1枚ずつ取り出し・・・

 エエイ、腹が立つ。

 人様に迷惑をかけないように気を付けるのが、日本人の美徳なんじゃないのか!


 改札口でも、モタモタする幼い子供にキップを投入させ、子供の自立のためだとかホザク馬鹿親がいるが、空いているときならまだしも、混雑時はマナー優先だろうが!

 こんな親に育てられた子は、バランスとか判断力が欠落し、人に迷惑をかけても平気な大人になって、害毒を周辺にまき散らす。口癖は、自分勝手な「権利」。

 メイジは遠くなりにけりです。



46.今日だけは


 日々に感情は起伏があり、それに囚われひきずられる。

「今日だけは怒るな、心配するな、妬むな、恨むな、人に親切にせよ、自分の勤めを果たせ。」


 毎日そうするのは難しくても、今日だけはということならできそうです。

 それが2日になり3日になりと増えて行けば、嬉しいし楽しい。

 他人がどうこうではない。自分がそうできればよいことです。



47.歯を食べる


 コアラが歯を食べるってTVから聞こえてきたから、そりゃ珍しいと思って画面を見たら葉を食べていました。

 「葉」と「歯」くらい読み分けてよネ!


 昨日も、「水を組む」って言っているから、何種類かの水を合わせるのかと思ったら、「水を汲む」のことでした。


 相変わらず「熱い」と「厚い」の混同は続いているし・・・



48.お通夜に行って


 同業の社長で、海外旅行などにもよく一緒に行ったことのある方が亡くなりました。

 最近顔を見ないと思っていましたが、半年ほど入院していたのだという。

 入院を、誰にも知らせるなということだったというから、よくあることで仕方ない。

 顔を見てやってくれと遺族が言うので、一緒に行った仲間とともに拝ませてもらったが、紛れもなく本人。

 「遺影と比べると顔色が悪いね」と言ったところ、全員が「そりゃ当たり前だ」といって、不謹慎かも知れないがおもわず皆が笑った。

 緊張がほぐれたのか、遺族も嬉しそうでありました。親しかったから許されることではありましょうが・・・



49.ミントティー


 プランターで育てているミントが、繁ってきました。根が地中で張り巡らされて、勢いよくどんどん増えます。

 時々、切り取ってガラスのポットに入れ、熱いお湯を注いでミントティーにして飲みます。

 黄緑色の薫り高い液体は、飲むのにすがすがしい。

 爽やかな香りと味のミントは、消化促進、強壮、発汗、鎮痛作用などの薬効があるそうです。

 リフレッシュとリラックス効果を持ち合わせており、とくにストレスの多い方にお薦め。

 朝食時や就寝前に一杯飲むだけで気持ちが落ち着き、爽やかな気分にしてくれますが、午後にケーキを食べながらというのも良いものです。



50.何故なのかわからない


 我々が普段恩恵に預かっていることの殆どは、それが何故そうなるのか知らない。

 知らなくても、何の疑いもなく過ごしているのだが、初めて自分の経験のない事柄に直面した時には、極めて疑い深くなる。

 そして、何か新しいことだと、それをやらないようにする理由付けを考える。

 ボロイ儲け話などであれば、それは詐欺などであることが多いから当然であるが、僅かな費用僅かな手間暇で自分を磨くことであるのなら、やってみることも良いのではないかと思う。


 神社詣に出かけるという人が多いが、そうすることですぐに効果がでるというのでもないのに、連綿として伝わってきた行事であってみれば、どうしてお参りにいくのかの理由なんて抜きでも、そうするのが良いように思う。

 精神活動というのは、そういうところから始まる。

















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エッセイ「普通に考えてみると(十二)」 @SyakujiiOusin

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