第15話 「闇の戦い」 (前編)

 ヴァンパイア達の内輪揉めは未だに続いていた。

 レイチェルは廊下とを隔てる扉の前に立ちながら、興味も無くそれらを聞きつつ、ぼんやりと、窓の外を眺めていた。

 いつの間にか、向かい側の建物の影が急激に薄らいでいっているように思えたが、気のせいだろうとその時は感じていた。

 しかし、やがてその姿は、濃い紫色の霧によって完全に見えなくなってしまった。

 窓の脇に佇むティアイエルの姿が、僅かに見えるほど、部屋もまた厚い煙の膜に包まれた。

 ふと、有翼人の少女が咳き込んだ。

「ただの霧じゃないわね……」

 彼女は苦しげにそう言うと、激しく咳き込んだ。そして、よろめいた後に倒れた。

「ティアイエルさん!?」

 レイチェルは驚愕し声を上げた。

「どうした?」

 ベッドからライラが身を起こして尋ねた。レイチェルが事情を説明しようとする前に、相手は言った。

「これは、闇か?」

 ライラは聖なる魔術の旋律を詠み、ティアイエルのもとへと駆け付けた。

 彼女の周囲に白い光りが見えたかと思うと、途端に、室内の霧が失せ、景色が明るくなった。家具も、床も、壁も、晴天の日が照らしたかのようにはっきり見えている。

 ライラが、有翼人の少女を両手で抱き、双眸を閉じて、再び魔術の調を詠み始めた。

 すると、ティアイエルは身体を動かし、目を覚ました。

「大丈夫か?」

「ライラ……。この霧、変だわ」

 ティアイエルはか細い声で言った。

 ライラは頷き、少女をベッドまで抱えて行きながら話した。

「これは、闇の霧だ。それも強力な呪いを纏ったもののようだ」

「じゃあ、アタシ、呪われたの?」

 ベッドに仰向けになりつつ、ティアイエルが意気の失せた声で尋ねた。

「心配は要らない、私が浄化した。少し眠ると良い」

 ライラは毛布を掛けつつ言った。そして手の平で優しく相手の額に触れた。

「そうするわ。何だか、身体に力が入らなくて」

 そして有翼人の少女は眠りに落ちていった。

「ライラさん、ティアイエルさんは?」

 レイチェルが尋ねると、ライラは窓際に行きつつ、答えた。

「大丈夫だ。体力を急激に奪われたようだが、心配は要らない」

 レイチェルは安堵した。そして、呪いの恐ろしさを痛感し、自分が彼女のようにならなかったのは、聖域の魔術に身を置いてからだと気付いたのであった。そして、悔やみもした。ライラがやっているように、部屋一帯に聖域を広げることができれば、ティアイエルが倒れることは無かったのだ。

 レイチェルは、ティアイエルを見た後、サンダーと、モルドン老にも目を向けた。

 少年はベッドで、老人は壁に背を預けて、安らかな寝息を立てている。呪いの心配はなさそうであった。

「下で揉めている様だな」

 窓から僅かに顔を覗かせた後、ライラが振り返って言った。

「そうみたいです」

 レイチェルは頷きつつ、その原因となった矢と、同じ人物の仕業と思われる矢文のことを思い出していた。

 そういえば、ライラはこのことを知らないはずだ。レイチェルはその事を話すことにした。

「ヴァンパイアに混じって仕掛けるとは、見上げた胆力だ」

 ライラは感心していた。

「その者の他にも、奴らの魔手を逃れた者達がいれば良いが……」

 ふと、扉を乱暴に叩かれ、レイチェルは思わず身を竦ませた。

 彼女が振り返ると、廊下のどこかからヴァンパイアと思われる男の声が聞こえた。

「ヒヒヒヒヒヒ、我々はずっと見てるぞ、お前達がクタクタになるのを」

 レイチェルは慌てて聖域の魔術を強めてみようと、祈りの言葉を口に仕掛けたが、ライラが首を横に振って制した。

「お前の力は扉の外まで溢れ出ているはずだ。奴らはきっと、離れたところで長い棒か何かを使ってるのだろう」

 離れた場所からちょっかいを出しているということだ。

 すると今度は、隣の部屋の壁を思い切り叩かれた。

「オホホホホホ、私達夫婦は見てるわよ、お前達がヘトヘトになるのを」

 壁の向こうから今度はヴァンパイアの女の声が聞こえた。

 ライラは、隣室との壁へ近寄った。

 途端に、女の絶叫する声が聞こえた。聖域が壁の向こうまで貫き影響を与えたのだろう。そして男の取り乱した声と、憎悪の籠もった様な乱暴な一撃が、扉を殴打した。

「お前達のせいで、俺の妻が! この野郎! この野郎!」

 扉は叩かれ続けた。

 レイチェルは慄きつつも、寝入っている仲間達が、起きてしまわないかが心配であった。これから先、安楽に眠れる機会があるかどうかが疑わしかったためだ。

 サンダーが小さな呻きをあげた時、レイチェルは咄嗟に扉を殴打していた。

 すると、外を叩く音が止んだ。

「去れ、お前も浄化するぞ!」

「くっそー! 覚えてろ!」

 ライラが声を上げると、慌てて階段を下って行く足音が聞こえた。

 彼女は小さく溜息を吐き、窓際へと戻った。

「こういう状況だと、神経が荒みがちになってしまう。昔もそうだった」

 昔というと、ライラがかつてラザ・ロッソとして生きていた時代の話だろうか。そんなレイチェルのささやかな疑問を感じ取ったように、ライラは頷いて話した。

「昔、幾度と無く信徒を率いて砦に立て籠もったことがある。外から押し寄せる遠征軍の攻撃に、誰も彼も寝る間が無かった。食べ物も乏しくなると、人々の心は些細なことでも、荒れることが多くなった。そして内乱が勃発し……」

 そしてライラは口を閉じた。

「今度、暇があったら私の話を聞いてはくれないか。家族のこととか色々とな」

「良いですよ、聞かせてください。私の方もお話しします」

 レイチェルはそう応じながら、かつての自分の家庭環境を振り返っていた。

 漁師をしていた父は、船に乗っていることが多く、なかなか家には帰って来なかった。

 彼女は母と二人きりだったが、やがて母親は他の町から来た豪商の男を家に招き入れることが多くなった。

 そうなると母は、レイチェルを外に追い遣り、彼女は夕暮れまで家に入ることを許されなかった。

 レイチェルは港に座り、船や、船乗りの男達を眺め、そしてたまには離れた磯にまで足を伸ばして、カニや、魚などの生き物を観察して、時間を過ごした。

 そしてある日、家に戻ってみると母親はいなかった。そして、二度と戻ってくることは無かった。その男と一緒に出て行ってしまったのだ。

 漁から帰った父は、母がいないことに多少衝撃を受けたようだが、結局は、いつもどおり船に乗って行った。

 彼女は母親がやっていたことを全てこなさなければならなかった。

 それから、彼女にとっては忌まわしい、魔の六学年始まった。

 救いがあるとすれば、アネットが転校してきたことであった。レイチェルはアネットと仲良くなり、そして彼女の両親が親身になってレイチェルのことを気遣ってくれた。

 そこから先は、楽しかったかもしれない。アネットの父、ラースクリス神父は、獣神を祭る教会の神父をし、教会に仕える者を育成する、神学校の校長も務めていた。

 普通の上級の学校に進む道もあったが、彼女は獣の神キアロドの使いとして生きてゆくことを心に決めた。周りもまた彼女と同じ目的で入って来た者ばかりだったので、気の合う人達が多く、少なくともレイチェルを敵視するような者はいなかった。

「どうした?」

 ライラが訝しげに尋ねてきた。

「いいえ、何でもありません」

 レイチェルは少しだけ慌てて微笑みを浮かべてみせた。

 すると、ようやく落ち着きを取り戻したように、外の闇の中からヴァンパイア達が呼び掛け始めていた。

「この霧が見えているか? 人間達よ、これこそ我らが主サルバトール様のお力だ。小癪な神聖魔術が途絶えたとき、お前達を包むのは死の呪いとなるだろう」

「死の呪い! 死の呪い!」

 外からヴァンパイア達が合唱を始めた。

「降伏せよ、我らに血を捧げてしまうのだ!」

「降伏せよ! 降伏せよ!」

 すると、今度はまた廊下を慌しく走る音が聞こえた。

「さあ、お前達は包囲されているぞ!」

 扉の向こうから狂喜じみた男の声がした。

 レイチェルは思わず身構えた。

 すると、ベッドからサンダーが身を起こした。

「また賑やかになったね」

 少年は欠伸をしながら気楽な様子でそう言い、窓の方を見た。

「夜になったんだ?」

「いや、夜なのかはわからんが、少なくともこれは別のものだ。強力な呪いの霧だ」

 ライラが教えると、少年は頷いた。

「そうだよね。何か、違うって感じはしたよ」

 程なくしてモルドン老も目を覚ました。老人も夜が訪れたのだと勘違いし、サンダーがそれを訂正して聞かせた。

 すると老人は言った。

「それにしても、奴らは火をかけてこないな。建物ごと燃やしてしまえば、我らはイチコロだというのに」

「御老体、それは、火には多少なりとも魔除けの力があるからなのだ」

 ライラが言うと、老人は感心したように咽を唸らせた。

 外からの合唱は少しずつ大きくなり、そのうち四人は声を上げなければお互いの言葉が聞き取れないまでになっていた。

 苛立ちと緊張はずっと続いた。

 レイチェルは、いい加減怒鳴って止めさせたい気持ちで、その心には憎悪が積もりに積もっていった。

 しかし、仲間達の冷静な様子が、彼女の理性を押し止めていた。モルドン老は腕組みし座り込み、サンダーとライラはそれぞれ窓際の左右で敵を見張っていた。

 すると、再び矢と石とが盛んに部屋に飛び込んできた。

 矢は天井に刺さり、石は床に転がった。

 敵の方も辛抱しきれないようだ。ここは我慢比べだと、レイチェルは己に言い聞かせた。

 程なくして攻撃は止んだ。

 すると、サンダーが天井を指差し、あのトネリコの矢が再び射込まれているのを見つけたのであった。

 彼は跳び上がって矢を掴み取った。

 今度のものにも文が結わえられていた。少年は素早く解いて中身を読み始めた。

「長らく、お待たせいたしました。我々救援隊は、すぐ傍におります。あなた方の準備が整い次第、助けに駆けつけるつもりです。奴らの投げた石を二つだけ投げ返して下さい。それを合図とさせて頂きます。やっぱり署名は無いね」

「何と、救援者がおったのか?」

 モルドン老が驚きの声を上げたので、サンダーが先の手紙のことも説明して聞かせた。そして少年は魔除けとして今のトネリコの矢を老人に渡したのであった。

「では、その者達を待たせるわけにもいかん。早速準備しようぞ」

 モルドン老の言葉に、レイチェル達は荷物を掻き集めた。

「ティアイエル、少しだけ忙しくなるぞ」

 ライラは眠っている彼女を背負いながら耳元でそう囁いた。

 一同がサンダーを見た。

「えっと、俺が石を投げるんだね?」

 少年は床に転がっている石を二つ拾い上げ、窓の前まで行くと声を上げて霧の中へ投げ付けた。

「これでも喰らえ! 吸血鬼野郎!」

 反撃にしては規模が小さいが、それでもヴァンパイア達の合唱を止めさせ、奴らを脅かし、怒らせることはできていた。外から飛ぶ怨嗟の凄まじさは、こちらを呆れさせるほどであった。

「どうやら、ヴァンパイアになると、どいつもこいつも陰湿な奴になってしまうようじゃな」

 モルドン老がしみじみと言った。

 途端に矢と投石の応酬が室内を襲った。

 レイチェル達は、壁際に身を寄せてそれらをやり過ごした。

 不意に扉を軽く叩く者があった。

「皆さん、約束どおり、助けに参りましたよ」

 どこか緊張感の無い爽やかな声がそう告げた。

「その声は、あのエルフ殿か?」

 ライラが驚き喜びながらそう尋ね返した。

「ええ、エルフのサナですよ。そのお声はライラ殿ですね」

 サンダーがすかさず扉に手を掛け押し開いた。

 そこには、スラリとした色白の美男が佇立していた。

 緑色の外套を旅人の衣装の上に羽織り、手には長い矢を一本と、大きな弓をそれぞれ握り締めていた。頭には緑色の頭巾を被っていて、その左右から長い金色の髪が垂れていた。

 だが、レイチェルは気付いた。相手の微笑みの中から一対の牙が覗いているのを。

 彼女は慌てて浄化の調を口にし始めた。すると、エルフは気付いたように、ゆっくりと自分の口元に手を伸ばし牙を抜き取ったのであった。

「これは、驚かせてしまいましたね。この通り私は安全です。信じて頂けますね?」

 苦笑いしながらも、朗らかな口調でエルフは言った。

 レイチェルは頷きつつも、ブライバスンで会ったエルフのエリーのことを思い出していた。エルフとは、みんなこのように少しだけ陽気なのだろうか。

「エルフの兄ちゃん、脱出するって言ったけど、どうやって出てくんだい? 外は敵でうじゃうじゃだし……」

 サンダーが尋ねると、エルフは春の調の如く笑った。

「御安心下さい。ただ、皆さんにはお分かりかと思いますが、外の霧は闇の力が濃く、身体に触れると忽ち気を失い、死んでしまうことになるでしょう。ですから、ライラ殿と、レイチェル殿の作る聖域からは髪の毛一本たりともはみ出すことの無いようにお願いします」

 レイチェルは、相手が何故自分の名前を知っているのか、とても気になったが、質問は後にした。

 すると、外からヴァンパイア達の悲鳴と思われる声が木霊し始めた。

「始まりましたね」

 エルフは微笑みつつ、力強い眼差しで一同を振り返った。

「とりあえず、下まで行きますよ」

 エルフのサナを先頭に、殿をレイチェルとサンダーとして、一行は廊下を行き、階段を降りて行った。

 沈黙に包まれた食堂へ降りて行く。しかし、そこは濃い闇の霧が視界を埋め尽くしていたのだった。

「大丈夫です、エルフの目ならこの霧も見通すことができます。皆さんは、互いに手を繋ぎあって下さい」

 そう言われ、レイチェルはライラとサンダーと手を握り合った。

 エルフに引っ張られ、一行は危な気ない足取りで外へと出た。

 そしてその一帯だけ霧がすっかり晴れていることに気付いたのであった。

 これはどういうことだろうか。誰もが疑問に思ったであろう事を、エルフが答えた。

「聖なる魔術の走り去った跡です。ほら、後ろを御覧なさい」

 そう言われて、振り向くと、ギルドの中の霧が階段まで尾の晴れていた。

「私達の仲間が、闇の者達を追い立てたのです。しかし、闇は強力です。この晴れ間も長くは続かないでしょうね」

 エルフはそのまま通りを東に向かって進んで行く。道は清められたように晴れていたが、ずっと背後の方は早くも霧が立ち込め始めていた。

 静寂に包まれた通りを行きながら、エルフは東南に向かって進路を変え、小さな路地へと案内した。

 そこは闇の霧が広がっていた。

「この道を通るのもこれで最後になるでしょうね」

 エルフが意味ありげに言ったが、誰もその理由を尋ねはしなかった。

 細い路地を場所が不明のまま、グネグネとしばらく行くと、エルフの足が止まった。

「お静かに願います」

 エルフは声を潜めると、弓矢を構えた。

 レイチェルが耳を欹てていると、男の声が聞こえた。

「この辺りを奴らは通るんだ。今は消えちまってるが、いつも光りの筋が残ってるからな」

「よし、だったらもう少し追ってみよう。聖堂に人間が増えてるところを見ると、どこかに抜け道があるに違いないぞ」

 エルフの弓が立て続けに二度鋭く唸った。

 呻き声が二つ聞こえ、そして倒れる音が聞こえた。

「やはり、敵も感付いてきたようですね」

 エルフが進んでゆくと、そこには背中から胸を射抜かれたヴァンパイアの亡骸が二体あった。

 エルフのサナはそれぞれ矢を引き抜き、布で血を拭った。それらの亡骸はライラとレイチェルの聖域に入っても灰にはならなかった。

 人を殺してしまったのだろうか。レイチェルはそう思ったが、人間がこの闇の中を見通しつつ歩いて来れる訳が無いと気付いたのであった。

「この亡骸は、後で隠した方が良さそうですね。さぁ、行きますよ」

 再び一行は、エルフに手を引かれて黒のような紫色の霧の中を進んで行った。

 サナの足が次に止まったのは、少し時間が経ってからであった。

 エルフは一軒の民家の軒下に行き、そこにある荷車を押し始めた。

 すると、その下から、ぽっかりと人一人が通れそうな四角い穴が現われたのであった。

 エルフは脇に立ち、先に行くように促した。

 モルドン老が行き、ティアイエルを背負ったライラが続く。

「兄ちゃんはどうするんだい?」

 サンダーがエルフに尋ねた。

「サンダー・ランス殿、私はこの隠し通路にもう一度封をしなければなりません。そして、先の亡骸の始末もあります。敵に気取られる訳にはいきませんからね」

「一人で大丈夫なのかい? 力仕事ぐらいなら俺も手伝えるよ」

 少年は気遣うように言い、レイチェルも同感だと相手を見た。

「御心配ありがとうございます。ですが、大丈夫です。エルフは身軽ですから、どこからでも戻って来れるのです。またすぐにお会い致しましょう」

 エルフのサナは微笑みながら先へ行くように促した。

 サンダーが行き、レイチェルが続いた。

 穴の底まで石段がずっと続いている。ライラが下にいるため、彼女の聖域の光りが周囲の様子をほぼ鮮明に照らし出していた。

「レイチェルさん、貴女もお行きなさいな」

 優しく諭すようにエルフは言った。

「すみません、サナさん」

 レイチェルは感謝し深々と頭を下げながら、石段を降りて行った。その半ばまで来たとき、荷車が動かされ、再び穴の入り口を閉じたのであった。



 二



 地下道には明かりが灯っていた。

 その鮮明な光りからすれば、地下には邪悪な霧が漂ってるようには思えなかった。

 しかし、レイチェルも、ライラも迂闊に聖域を解かなかった。

「私が先へ行く。サンダー、殿を頼む」

「わかった」

 ライラが言い、少年は頷いた。

「こんなところに地下道があるとは、七十年近く生きてきて、全く気付かなんだ」

 モルドン老が、湿っぽい石組みの壁や床を見回しつつ咽を唸らせた。

 道幅は意外に広かった。人が五人も並んで通れるだろう。しかし、その広大さが返って不気味にも思えた。地下に住まう巨大な生物の姿をレイチェルに思い浮かばせたのだ。

 足の無い長い胴体をくねらせ滑るように床を這って来る。そして三角形の頭には、黄色に光る攻撃的な両目があり……。彼女は水中から現われたヒュドラの姿を思い出して、軽く慄きを覚えていた。

「何もいないとは思うよ。エルフの兄ちゃんも何回も通ってそうだしさ」

 サンダーがこちらの気を察してそう言った。

「それと、たぶん、姉ちゃんが思い浮かべたの、俺と同じだと思う」

 二人は青い顔を見合わせて、互いにああいうニョロニョロしたものが苦手になってしまった事を察し合っていた。

 そして一行は歩みを進めた。

 彼らのか細い足音を、この地下道は過剰なまでに甲高く反響させていた。

 壁に灯かりのついた燭台がある一本道だったが、曲がり角がとにかく多かった。

 先頭を行くライラは、その度に片腕で長柄の得物を構えて、先の脅威に備えていた。

「よし、行こう」

 そうやって先導する姿は、レイチェルにとってとても頼もしく映っていた。

 私も度胸のある人間になりたい。

 そうして、一行はようやく通路の終点に到着した。

 石段が天井まで続いていた。

「きっとどこかが蓋になっているのだろう」

 ライラは石段を上がり、天井の石の板を手でなぞった。

「これだ」

 彼女はそう言うと手を伸ばして石の板を持ち上げようとした。

 石はゆっくりと上がり、灯かりが差し込んできたが、途端に上から押さえつけられ、閉じられてしまった。

 ライラは体勢を崩したが、数歩後退して、どうにか持ち応えていた。

「誰だ?」

 天井の向こうから男の鋭い声が轟いた。

「誰だと言われても、どう答えたものか」

 ライラは困ったようにこちらを振り返った。

 レイチェルは頷き、声を上げた。

「私達は冒険者の者です!」

「冒険者だと?」

 頭上では数人で何やら話し合う声が聞こえた。

 すると、モルドン老が咳払いした。

「ワシじゃ、 跳ねる翁亭のモルドンじゃ。ワシの名を知らん者がおらんとは思えん」

 老人が天井に向かって言うと、少しの間を置き、天井がいきなり開かれた。

 途端に白い光りが一行を襲い、彼女達は思わず手を翳し、後退した。

 聖なる魔術だ。レイチェルはすぐさま気付き、上を見上げた。

 そこには白い神官装束の者が一人と、他に男が二人、こちらを見下ろしていた。

「悪いが、念のためだった。どうやらあんた等はヴァンパイアじゃないようだな」

 上の三人は納得するように言うと、道を開けるべく身を引いた。

 ライラが行き、老人に続いてレイチェルが上がった。

 そこは敷き詰められた石壁と、石畳が続いていた。薄暗い廊下の中に籠に入った篝火が焚かれている。

「あんたらが自力でここに来たとは思えないな」

 平服を纏った男の一人が値踏みするように目を向けつつ言った。

「エルフの兄ちゃんに連れて来てもらったんだよ」

 サンダーが階段を上がり終えながら言った。

「エルフ? だとすりゃ、サナ何とかいうエルフさんだな。そのエルフの旦那はどうした?」

「ヴァンパイアの遺体を処理にし戻ったのじゃよ」

 モルドン老が言うと、三人の男は互いに目配せしあった。

「よし、わかった」

 男達は分厚い石畳の蓋を穴の上に戻し始めた。

「よし、では案内しよう。生き残り組みは名簿に名前を登録するようにしてるんだ」

 レイチェル達は男の後に従って行った。

 廊下には一定の間隔で台の上に乗った篝火が焚かれていた。

 静寂に満たされていたが、行き当たった扉を開けるや、怨嗟の大合唱が聞こえてきた。

 手前の大きな扉は開け放たれていて、神官が二人、警護についていた。

「ようこそ皆さん」

 神官達は疲れたような表情で微笑んだ。

 その二人の間から開けられている扉の向こうを見て、レイチェル達は驚きのあまり息を呑んでいた。

 石の外壁と鉄の柵がどうやら張り巡らされているようだが、その外側に紫色の呪いの霧が立ち込めていた。そしてすぐ手近にはヴァンパイア達が張り付き、すっかりと包囲していたのだ。

 声の多さからして、その背後に幾重にも列を成しているだろうと思われる。

「何と、天国に案内されたと思うておったが、全く違ったようじゃ」

 モルドン老が深く溜息を吐いた。

 外壁の内側には篝火がやはり並び、聖域の魔術に包まれた神官達が点々と配置に就いていた。

「確かにここは地獄かもしれないが、食べ物の蓄えはたくさんあるし、聖なる魔術で浄化された井戸水だって飲むことができる」

 案内の男が言った。

「死期が延びるだけじゃ。奴らは我らが餓死するまで囲みを解かんじゃろうて」

 モルドン老は諦めるようにそうぼやいた。

「そうかもしれないが、我らは何も虚しく死を待っているだけではない。人を集めて、奴らに奇襲を仕掛けようと考えているのだよ」

 案内の男はそう言いつつ、ライラに興味深げな視線をくれた後、レイチェルとサンダーにも同じような視線を向けた。

「そうなんだ。ところで、ここってどこ?」

 サンダーが、男と警護の神官達を見て尋ねた。

「戦神の聖堂では無いか? 昨日来たのだ」

 答えたのはライラであった。

「そう、戦神ラデンクスルト様の聖堂だ」

 案内の男がそう言って頷いた。

「さあ、君らにも後ほど守備の任に就いては貰うが、その前にやることを済ませてしまおう」

 再び男が先導した。

 レイチェル達が新たな扉を潜ると、そこは広い礼拝堂となっていた。

 ところどころに煌々と燭台の灯かりが揺らめいている。

 そして長椅子の列は、ヴァンパイアから逃れてきた人々でいっぱいであった。

 だが、それでも見たところは二百人ほどであろうか。南の首都アルマンの人口と思えば、ずっと少ない数であろうとレイチェルは思った。

 生存者達の悲観的な視線を受けつつ、四人は奥の祭壇の前へと案内された。

 祭壇の上には羊皮紙の束と、インク瓶とペンがあった。

「それに全員の名前を書いておいてくれ。そこから、任務の割り振りを適当に決めさせてもらう。まあ、来たばかりだからな、半日以上は非番だと思うよ。その間、ゆっくり休んでおいてくれ」

 レイチェルが仲間達の名前を記し、続いてモルドン老が書いた。

 男はそれを見届けると、解散を告げた。

「どれ、ワシも知り合いを探しに行くとするかの。お前さん達には世話になったな」

 モルドン老は礼を述べた。彼は長椅子から離れている集団の方へと歩んで行った。

 椅子は空いてなかったので、レイチェル達は端の通路の壁際に並んで腰を下ろしていた。

 ライラはティアイエルの頭を膝に乗せると、身体に毛布を掛けてやっていた。

「お前達も眠って良いぞ」

 ライラはティアイエルの髪を撫でながら言った。

「姉ちゃんの方こそ、疲れたんじゃない? 眠った方が良いと思うよ」

 サンダーが言うと、レイチェルも同調した。ライラは、ほぼ休み無く聖域の魔術を駆使していたのだから。

「優しいな、お前達は」

 彼女は左右から迫る必死な顔に根負けしたように言うと、二人の頭をそれぞれ撫で回した。そして静かに目を閉じた。すぐに寝息は聞こえた。

 レイチェルとサンダーは、揃ってホッと一息吐いて、互いに顔を見合わせた。

「俺達の方が、先輩冒険者だからね」

 サンダーは微笑んでそう言った。

 それから二人は無言であった。

 聞こえるのは、数人の人々の徘徊する引き摺るような足音と、声を潜めて雑談する声、そして祈りであった。

 今、この聖堂には悲しみと絶望に満ちているのだ。

 しばらく、そんな音に耳を済まし、呆然としていた。

 その視界の中に、お盆を持ち、人々に紅茶を配り歩く神官の姿を見止め、レイチェルは自分もやるべきだと、立ち上がった。

「どうぞ、温かい紅茶ですよ」

 人々の大半が、ありがたがってその紅茶を受け取ってくれた。しかし、口から出た感謝の言葉はどことなく空虚なものでもあった。

 誰もが闇の脅威に怯えている。彼女は無力感を覚えつつも、人々に微笑みかけ、役目をこなしていった。

 レイチェルは紅茶を持って、仲間のもとへ戻って行った。

「お疲れ様」

 サンダーが労ってくれた。レイチェルは彼に紅茶を渡し、その隣に座った。

「エルフの兄ちゃん、戻って来ないね」

 少年に言われ、レイチェルも心配に思った。

 ライラが目を覚ますまで、二人は再び押し黙っていた。

「お前達を見ていると、弟を思い出してしまう」

 目を覚まし、状況が変わっていないことを二人に確認すると、おもむろにライラはそう口にした。

「私にはベルという二歳違いの弟がいた」

 ライラは話した。父が戦神に仕える神官であったことと、その時代の群雄の割拠が招いた各地での戦争、紛争、そして難民達のことを。

 彼女の父が難民達を手厚く保護し続け、その結果、頼ってくる者が後を絶たないばかりか、その膨れ続ける規模の大きさから「邪教徒」と決め付けられ、虚名を欲する群雄達の標的となったことを。

 父がやがて戦死し、ライラがその後を継いだこと。

 耐え凌ぐ戦の連続で、ついに戦に負け、全てを捨てて落ち延びようとしたことを。

 しかし、それを承知しない弟によって捕らえられ、残党達による本物の邪教崇拝の傀儡として利用され続けたことを。

「私は薬を飲まされ、声を枯らされ、身動きも封じられた」

「その……。姉ちゃんの弟も最初からそうじゃなかったんでしょう?」

 サンダーが気遣うように尋ねた。

 ライラは優しく微笑み、少年の頭を撫でた。

「ありがとう。ベルは、気持ちの優しい子だった。彼は、同胞達の死に感化され過ぎて、気持ちが壊れてしまったのだと私は思っている。私がしっかり守ってやれれば……自由を奪われた身で何度と無くそう後悔した」

 


 三



 簡単な夜食が終わって間もなく、玄関とを隔てる大きな扉が押し開かれた。

 途端に飛び込んでくる闇の者達の大合唱に、人々は慌てて振り向き、怯えた目を見開いていた。

 扉を潜って現われたのは、見覚えのある初老の神官と、こちらは見覚えの無いもう一人の神官の男であった。

 扉が閉じられ、闇の声は遮断された。

「フリット神官長、グラント司祭!」

 意気消沈の様子だった人々が総立ちになり、新たに現われた者達の名前を叫んで大きな拍手で歓迎した。

 レイチェル達はその様子を呆然としながら見守っていた。

 だがよく目を凝らしてみると、神官長の方は、レイチェルに聖域の魔術の調を教えてくれたレーベルン・フリットに違いないと判明した。もう一人のグラント司祭は、神官戦士のようで、白い衣装の上に鉄の鎧を身に着け、腰には剣が提げられていた。

 レーベルン・フリットが言った。

「皆さん、温かい食事は食べられたかな?」

 穏やかな声が、一同を慰める唄の様に礼拝堂を内に柔らかに響き渡った。

「このような状況だからこそ、力をつけねばなりませんよ」

 獣神の神官長はそう告げると、再び口を開いた。

「しかしながら、それは外にいる闇の者達にとっても同じことです。彼らもまた、温かい食事を欲しております。あなたがたの血をね」

 人々は耳を疑う様子で唖然としていた。レイチェルもまた同様であった。神官長は、よくわからない何かの冗談を言ってみせたのだろうか。

 神官長のレーベルン・フリットは遠くの扉を見て言った。

「お入りなさい、我が同胞達よ」

 扉が乱暴に押し開けられ、ゾロゾロと人々が入ってくる。

「ヴァンパイアだ!」

 誰かの悲鳴が聞こえた。

 レイチェル達は既に立ち上がっていた。

 入り口の扉の前には、赤い目を煌かせ、不敵な笑みを浮かべる闇の者達で埋め尽くされている。

「神官長! これはどういうことですか!?」

 誰かが叫び、人々は初老の神官長へ目を向けた。

「まだ、わからんか。こういうことだ」

 次に見たとき、神官長の姿は最前列の人々の前にあった。

 そして慄く人々の中の一人を掴み寄せ、その首に齧りついた。

「牙だ! 牙がある!」

「何故だ、ここは聖域のはずなのに!」

 絶叫と、悲鳴が、聖堂内に響き渡った。

 人々は中央へ中央へと逃れようと躍起になっている。

 ヴァンパイア達は冷たく哄笑を響かせた。

「お前達、動くなよ」

 ライラは壁際にレイチェル達を押し付け、自らは得物を構えた。

 人々の必死な押し合い圧し合いが続いていた。神官長も、ヴァンパイア達も、もう笑ってはいなかった。

 しばしの沈黙の後、神官長が言った。

「宴の始まりだ」

 ヴァンパイア達が歓喜の声を上げて雪崩れ込んで来る。

 人々は礼拝堂の中を逃げ回った。

 そこは阿鼻叫喚の世界と成り果ててしまった。

 たった一つの扉の前にはヴァンパイア達がいるので、レイチェル達は身動きがとれなかった。

 ふと、血の争奪戦の中から、数体のヴァンパイアが身を起こし、こちらを振り返った。

 ライラが聖なる調を詠み始めた。

「そこにもいたぞ!」

 ヴァンパイア達がこちらへ殺到してくる。

「お前達は動くなよ。私が必ず守ってやる!」

 ティアイエルを背負ったまま、ライラは向かってくる敵目掛けて駆け出した。

 白く輝く長柄の得物が横薙ぎ振るわれ、ヴァンパイア達はまとめて灰となって消えた。

 しかし、聖なる光りを前に、ヴァンパイア達は怯まなかった。

 次から次へと、食事を済ませた者達が振り返り、彼女へ襲い掛かる。

 ライラは得物を片腕で得物を振るい続け、敵を浄化し続けた。

 すると、新手がライラの傍へ詰め寄った。

 突き出された鋭い切っ先を、ライラは素早く打ち払った。

 グラント司祭が剣を抜いて、立ちはだかっている。真一文字に伸びた口髭の厳しい面は、土気色に変わり、双眸は瞳の無い赤に染まっていた。

「グラント司祭、あなたとは昨日会ったばかりだが……」

 荒い呼吸を落ち着けるようにしてライラが言った。

「ライラ殿だったか。貴女も、こちら側へ導いてくれよう」

 剣と斧槍が打ち合った。

 グラント司祭の剣は早かった。

 両者が打ち合う度に、それぞれの得物から蒸気が吹き上がった。聖と闇の力が押し合っているのだと、レイチェルは思った。

 しかし、グラントの剣の方が圧倒していた。

 敵は愉快気に笑い声を上げながら、縦横無尽に素早く剣を叩き込んでくる。

 ライラは片腕で得物を振るい、どうにかそれらを受け止めていた。

 レイチェルの傍らでサンダーが小剣を抜いた。

「姉ちゃん、聖なる加護をちょうだい! ライラ姉ちゃんが危ない」

 少年の真剣な声に、レイチェルは頷く間も惜しんで旋律を口にし、腕に宿った白い光りを、向けられた剣の切っ先に置いた。

 白い光りが剣を煌かせるや、サンダーはライラの隣に駆け出し、躍りこんだ。

「ここにもいるぜ! おっさん!」

「小僧が。貴様の未熟な血など渋柿程度の価値も無いわ!」

 グラントの剣が少年を襲う。

 サンダーは両手で剣を受けたが、支えきれずよろめいた。

 敵の凶刃が真っ直ぐ少年に突き出される。しかし、サンダーは危いところで身を捻らせるや、その反動を活かすようにして敵の首もとに渾身の剣を差し込んでいた。

「グアアアアアッ!」

 グラントが声を上げてよろめく。咽からは蒸気が溢れ出ていた。灰にはならなかった。それを見て、レイチェルは己の力不足に気付いたのであった。

「とどめだ、グラント殿よ!」

 ライラが得物を振るい、敵の首を一閃した。敵の頭は灰となり、身体もまた鎧と衣装を残してボロボロと崩れ落ちた。兜が床に転がり、甲高い音を立てた。

「サンダー、すまなかった。助かったぞ」

 ライラは少年に向かってそう言い、彼を下がらせながら自らも後退した。

 ヴァンパイア達は、どれもが、床に伏せ、あるいは長椅子に屈みこみ、血を貪っている。

 祭壇を見ると、レーベルン・フリットだけが、こちらを注目していた。

「逃れられると思うならば、そうするが良い」

 相手はそう言った。その冷たい言葉が、レイチェルの心臓を凍らせた。彼女に魔術を詠んで聞かせた、穏やかな老人はもうそこにはいないのだ。

「逃れてみせるさ。我が生命に代えてでも」

 ライラがそう呟いた。

 三人は扉の方へ駆け出した。ヴァンパイア達は追っては来なかったが、玄関口の向こうは呪いの霧が充満し、視界が利かない有様であった。

「地下道から逃げるぞ」

 そちらの扉は開けられていた。先へ駆けると、入り口となる床の周囲に、見覚えのある三人の亡骸があった。血を吸われたわけではなく、刃物で切り裂かれた様だ。亡骸の周囲には真っ赤な血の溜りができていた。

「奴らもここを通ったのだろう」

 ライラは逡巡するように腕組みした。

「行こう。戻ってる暇なんて無いよ」

 サンダーがそう促すと、ライラは力強く頷いた。

 少年が床を剥がすと、ライラは底に向かって聖なる力で光る得物を突き出した。

 そして異常が無いことを確認すると、先へと降りて行く。

 レイチェルが後に続き、サンダーが最後に蓋を閉めた。

 地下道は既に蝋燭の灯かりが消されていた。

 ライラが聖域の魔術を詠み、周囲を照らした。

「ティアイエルの姉ちゃんは、俺が背負うよ」

 サンダーが言うと、ライラは少し悩んだ様子を見せたが頷いた。

 少年は苦労しながら眠れる有翼人の美少女を背中におぶった。

「少し重いかな」

 サンダーは苦しげに言った。

「それこそがティアイエルの命の重みだ」

「そうだね。大丈夫、背負って行けるよ」

 ライラが言い、少年は真剣な表情で頷いた。

「レイチェルは悪いが殿を頼む。少しでも何かあれば、遠慮なく呼び止めてくれ」

「わかりました」

 三人は歩き出した。

 薄闇の中にある曲がり角に差し掛かるたび、ライラは立ち止まり、先の障害の有無を確認した。

 レイチェルはサンダーの背と、有翼人の少女の翼を追いながら、憎たらしいほど反響する自分達の足音以外に、何か聞こえやしないかと耳を研ぎ澄ませていた。

 そして地下道の半ばまで来たと思われる頃、不意に、ずっと後方で、乱暴に響く足音を彼女は確かに聞いた。

 ついに奴らが追ってきたのだ。

「ライラさん、追っ手が来たみたいです」

 レイチェルは囁き声で訴えた。

 その間にも間違いなく無く、急ぎ足の音が徐々に甲高く背中の方から迫って来ていた。

 敵は闇の中を見通せるのだろう。

「わかった。少し急ごう」

 先頭を行く女戦士が足取りを速めた。

 後方からは粗雑な足音が、早鐘の如く鳴り響いてきていた。

 レイチェルは内心気が気ではなかった。ライラは曲がり角に差し掛かる度に、足を止め、先の様子を伺っていたが、レイチェルにはそれすらももどかしかった。彼女は、そんな己を恥じつつ苛立つ心に、静まるように呼び掛け続けてもいた。

 白い光りが行き止まりの壁と、上へ続く石段を照らし出した。

 ライラは石段を登って行くと、上を塞ぐ荷車の腹を、両手で押し進め、出口を開いた。

 そして彼女は一気に外へと躍り出た。

「大丈夫だ。登って来い」

 サンダーが続き、そしてレイチェルも外へと出た。

 予想はしていたが、そこは、来たときと同じ、濃い闇の霧で一面が覆われていて、傍の建物の影すらも見通すことができなかった。

 エルフのサナがいれば。

 レイチェルはそう思いつつも、結局戻って来なかったエルフのことを気に掛けていた。そして今更ながら、モルドン老のことも思い出していた。

 エルフも、神官長や、司祭と同じくヴァンパイアになってしまったのだろうか。モルドン老のことは、あの騒ぎの中で逃れることはできなかっただろうと、結論付けた。彼女の気持ちは落ち込み始めていた。

 ライラが荷車を押して穴を封鎖した。

「壁伝いに行こう。今の私達はこの町から脱出することを最優先に動くべきだ。ただし、この霧の中、どこかの門まで辿り着けるかはわからぬが……」

 ドン。

 破壊的な音が聞こえ、荷車が高々と吹き飛んだ。

「追いついたぞ人間ども!」

 冷ややかな嘲りと共に、穴の中から数体の影が飛び出した。

 呪いの霧の中に、こちらを取り囲む影が見えた。

 レイチェルもサンダーも背中合わせに身構えた。

「お前達は頭を下げていろ。良いと言うまで決して上げるな。絶対だ」

 ライラは二人に向かってそう言った。

「闇の者ども、まとめて私が相手をしてやる。かかってくるがいい」

 レイチェル達は地面擦れ擦れまで頭を下げた。一瞬の沈黙の後、敵は一斉に躍りかかった。

 頭上で一陣の風が吹いた。

「良いぞ」

 ライラが言い、二人は起き上がった。

 周囲には衣服が転がっており、その上に灰の山が降り積もっていた。

「霧の力が思った以上に強いらしい。奴らは聖域をものともしなかった」

 そして彼女はハッとしたように目を見開いた。

 レイチェルにも聞こえた。たくさんの足音が、霧の中の何処からか聞こえてくる。それは、前からも後ろからも近付いて来ていた。

「こうなれば仕方がない。何処か建物の中でやり過ごすぞ」

 ライラはサンダーの手を取り、レイチェルは少年の手を握った。

 そして片手で壁をなぞりつつ、ライラは二人を導き始めた。

 やがて路地の中を行くと、ライラは一軒の家の前で足を止めた。

 彼女は扉を開いた。

「中へ入れ。そして絶対に外へは出ないでくれ」

 ライラは二人を見下ろし、強い口調で訴えた。

「どういうことですか?」

 レイチェルは思わず尋ねた。

 ライラは彼女を凝視しつつ言った。

「私はここで敵を待ち受ける」

「え? 隠れてやり過ごすんじゃあ……?」

 サンダーが言うと、ライラは首を横に振った。そして彼女は来た道を指差した。そこは石畳が鮮明に見えていた。それは自分達が来た方角から尾のように続いている。

「聖域が闇を掃き清めた跡だ。皮肉だが、敵はこれを追って来るだろう」

「だったら、俺も戦うよ」

「私も!」

 サンダーと、レイチェルが訴えると、ライラは言った。

「ティアイエルはどうする? お前達は彼女を守護するのだ。何処かへ身を潜めて、終わるのを待っていろ」

「いたぞ! 人間どもだ!」

 遠くの石畳の上に一つの影があった。

「さあ、行け。私なら大丈夫だ」 

 ライラは二人を家の中へと押し入れると、すぐさま扉を閉じてしまった。

 家の中も闇の霧で満たされていた。

 レイチェルが聖域の魔術を詠むと、彼女を中心に広がる小さな白い輝きの円が、床や家具などの姿をあらわにさせた。

「ライラ姉ちゃん!」

 サンダーが扉へ駆けようとするのをレイチェルは両手で肩を掴んで引き止めた。

 少年が呆けた表情で振り返るとレイチェルは言った。

「私の聖域から出ないように注意して」

 少年は反論しようとしたようだが、顔の脇にある有翼人の少女の頭に気付き、口を閉じたようであった。

 レイチェルはサンダーが、自分を憎むだろうかと思って心の準備をしていたが、少年は小さく息を吐くと首を横に振った。

「二階に行こう。ライラ姉ちゃんに言われたとおりにしよう」

 レイチェルは少年に感謝の念を覚えつつ、家の中を歩き回り、すぐに階段を見付けた。

 外からは大勢が駆け付ける足音が聞こえていた。

 二人は思わず扉の方を振り返っていた。

「さあ、来い。まとめて浄化してやる」

 ライラの声が聞こえ、二人は霧の立ち込める階段を上がって行った。



 四



 二人は二階にある一室に身を置いていた。

 窓ガラスの向こうには呪いの霧が立ち込めている。そして、その下からは、ヴァンパイア達の甲高い断末魔の声が幾度と無く響き渡っていた。

 ややあって、外からは全く声が聞こえなくなった。

 レイチェルとサンダーは顔を見合わせ、お互いがライラの様子を見に行きたいことを節に望んでいる事を察しあった。

 二人は階段を降りて行く。

 レイチェルの聖域が、一度は室内の霧を消し去ったが、今やそれは再び集い、濃くなろうとしていた。

 ライラは無事だろうか。

 二人は扉の前で息を呑み、そしてレイチェルが扉を押し開けた。

 家の前の闇の霧は晴れ上がっていた。

 そして石畳の上に広がる衣服と、降り積もった山々、あとは敵が持っていただろう武器も幾つか転がっていた。

 彼女はライラを探した。

 その姿は出窓の下にあった。壁に背を預け座り込んでいる。荒々しく肩を上下させ、呼吸を整えていた。

「ライラさん?」

 レイチェルは恐々、相手の名を口にした。

「大丈夫だ」

 ライラはこちらに顔を向け、冷静な口調で応じた。

「次期に再び闇が包むだろう。そうなれば、敵も我々を探し出すことが困難になる」

 ライラは立ち上がりつつ言った。

「しかし、その前に、奴らの遺物を片付けてしまわねば」

「それなら、私にやらせて下さい」

 少しでも役に立ちたい。レイチェルは熱を込めてそう申し出た。

「では、すまないが頼もうか」

 逡巡の素振りを見せ、ライラは頷いた。

 ティアイエルを背負っているため、サンダーをライラの聖域の中へと送り、レイチェルは黙々と作業を開始した。

 武器と衣服は、家の外にあった蓋のある木箱の中に放り込み、立て掛けてあった箒で、灰を掃き清めた。

 三人は家の中へと入った。そのまま二階へ行き、そこの一室をしばしのねぐらとすることに決めたのだった。

 それから三人は無言のまま、時が流れて行くのを待っていた。状況が良くなるか、悪くなるかはわからないが、今は休息を必要としている仲間達がいる。

 やがてサンダーが見張りになり、レイチェルとライラは眠った。

 ここならば、しばらく見付からないだろう。そんな思いが、レイチェルの心を解き解し、まどろみへと導いたのかもしれない。



 五



 まさに美酒であった。

 口の中に残る濃厚で洗練された血の余韻が、彼に流れる冷たい血流を今一度脈打たせた。

 その歯牙に掛かった獣の神の神官長は、今や闇の子爵の忠実な配下となった。戦神の司祭の男も同様である。前者は自分が、後者はテレジアがその血を頂いた。

 彼の新たな軍勢は、今、人間の伯爵の屋敷を囲んでいた。

 しかし、攻略は予想以上に難攻していた。

 今も目の前に見えるが、屋敷は聖なる水のベールに覆い隠されている。どうやら、伯爵の屋敷には水の神に仕える者が複数いたようだ。

 聖なる流れは上から下へ、下から上へと渦巻いていた。

 それをグルリと囲むしもべ達は、人間の伯爵に罵りの言葉を浴びせかけていたが、使用人の一人も姿を見せず、すっかり閉じ篭ったままであった。

 成す術は無い。こうなれば、もはや根比べだ。聖なる流れが消えるまで、幾日でも待ち続けてやろう。

 その間に、町の整理を完全にしておきたい。未だにドブネズミの様に逃れている反乱分子を掃討するのだ。彼の忠実なしもべとなったレーベルン・フリットによれば、エルフが一人紛れているらしい。

 エルフの眼は闇の中も見通せる。忌まわしきトネリコの矢でこの心臓を射抜いてやろうと、虎視眈々と今も何処かで機会を伺っているだろう。

「テレジア」

 彼が呼ぶと、忠実な娘は包囲の列から飛び出してきた。

「何なりと御命じ下さい、閣下」

 地面に跪き、彼女は命令を請うた。

 我が右腕として育ちつつある。闇の子爵は喜びを感じながらしもべを見下ろし、言った。

「エルフを探して殺せ。もしも、隠れ潜む人間あらば、殺すか、血を頂くかは、お前の判断に委よう」

「はっ」

「よし、一隊を率いて行け」

「承知しました」

 テレジアは勇躍するように、駆け出すと、しもべ達を呼んだ。

「エルフを殺しに行くぞ。我と思わん者はついて参れ」

 すぐに数体のヴァンパイアが飛び出し、彼女のもとへと馳せ参じる。

 そしてテレジア率いる隊は屋敷を後にしていった。

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