第15話 「闇の戦い」(後編)
剣に宿った巨大な闇が、分厚い鋼鉄の扉を粉砕する。破壊された門の中から、濃密な闇の煙が吹き付けた。
クレシェイドは、急激に意識を奪われる感覚に陥り、地面に片膝をついていた。しかし、闇の霧がその身を掠めると、鎧の内側の闇の精霊達が活発になり、彼は再び立ち上がった。
人々が集まってくる。そして、町中を覆い隠す闇の霧を見て、呆然と息を呑んでいた。
クレシェイドは立ち上がり、人々を振り返った。
「これは、呪いの霧だ。見ての通り、全てを閉ざしてしまっている」
人々は双眸を凝らして先の様子を伺っていたが、やがて、途方に暮れたように嘆きを漏らした。
「神官の力ならば、闇を払えるのではないか?」
誰かが言い、人々は次々に賛同した。
それはどうだろうか。だが、かつてのエレギオン神父の例もある。神官達が並んで歩み出てきたので、クレシェイドは脇へと退き、成り行きを見守った。
彼らは横一列になると、揃って聖なる調を詠み始めた。神官達の片腕が、白い光りに包まれる。そして彼らは闇へ向かって腕を突き出す。聖なる光りが白波の如く突き進み、闇を呑み込んでゆく。通りの霧は晴れ、その様子があらわになった。
「よし、これならば」
人々は表情を明るくさせ、血気に逸った。
「私は、これで失礼する。家族の安否を確かめねば」
そう言って、神官達が駆けて行く。兵士や冒険者が、慌てて同行を申し出る。彼らもまた身内が心配なのだ。
「いや待て、町にはヴァンパイアが溢れているだろう。単独行動は危険だ!」
傷ついた身体で大将が声を枯らして呼びかけるが、人々は既に町の中へと踏み入り、方々で神官達の魔術が霧を晴らすや、それぞれの道へと駆け去って行ってしまった。
残ったのは、エルド・グラビスと、魔術師が一人、神官、兵士、冒険者達がそれぞれ数人ほどであった。
「この呪われた霧は、おそらくヴァンパイア達に強い闇の加護を与えていることだろう」
大将は嘆息し、言葉を続けた。
「さて、グラビス卿。まず我らは伯爵閣下の安否を確かめに行くべきだろうか?」
問われると、銀色の偉丈夫は首を横に振った。
「闇の力に対抗できるのは、聖なる力のみです。ならば、我々はそれぞれの教会へ赴きましょう。戦神の聖堂のグラント司祭や、レーベルン・フリット神官長、その他、町に残った神官達と合流できるやもしれません。まずは、闇の勢力に対抗できる戦力を得ることが第一かと思われます」
「そうだな。もっともだ」
大将は頷き、クレシェイドとヴァルクライムを見た。
「貴殿らはどうする? 我々と共に来てくれるか?」
クレシェイドは仲間の魔術師を振り返った。
「いや、我々も身内の安否が気掛かり故、申し訳ないが、一旦ここで暇を頂きたく思う」
ヴァルクライムが応じた。
「承知した。では、いずれまた」
大将は咎めることなくそういうと、エルド達を率いて町の中へと入って行った。
彼らの背を見送ると、ヴァルクライムが言った。
「ギラ・キュロスをしまわないところを見ると、調子が良いということか?」
「ああ。皮肉だが、町中を覆う呪いの雲が、俺の精霊達の力を高めている。このまま行けるはずだ」
「それは心強いな」
二人は歩き出した。
後ろを振り返ると、早くも浄化された霧が、その版図を再び取り戻しつつあった。
彼らが向かう大通りは、神官達が歩いたらしく、霧が失せていた。しかし、路地や傍の建物は未だに闇の中に隠れている。クレシェイドの目なら、その先を見通すことができた。
程なくして、二人は通りの交差する町の中央に辿り着いた。
そこを西側に折れ、跳ねる翁亭を目指す。この先は霧がかかっていたため、クレシェイドは、ヴァルクライムを誘導した。
閑散とした街の中に動くものはない。
だが、クレシェイドの耳が、何者かの声を聞き取った。
「あいつらめ、よくも俺の女房を……。どこへ行きやがった。報復だ、報復してやる! こいつでズタズタに切り刻んでやる!」
彼は足を止めた。傍の民家の扉が開き、ゆらりと、人影が歩み出てきた。
それは男であった。人間か、ヴァンパイアなのかはわからない。男は俯きながら、肉切り包丁を手に、ぶつぶつと何やら呟いていた。
ふと、その顔がこちらに向けられた。
「に、人間か! シャアアッ!」
男は狼狽した後、闇のしもべたる証の牙を剥き出して威嚇した。
敵だと確信するや、クレシェイドは素早く地を蹴った。
妖剣ギラ・キュロスはヴァンパイアの男を横から殴打し、その上半身を粉微塵に吹き飛ばした。
あとに残ったのは肉切り包丁と、よろめき倒れる下半身。そして血と細かい肉片の入り混じった雨であった。
「やれやれ、この霧の中では私は役立たずだな。何も見えぬよ」
ヴァルクライムが自嘲気味の笑いを漏らした。クレシェイドは魔術師のもとへと戻り、再び歩みを進めて行った。
それから少し歩くと、ようやく、目的の宿を見付けることができた。
二人は人気の失せた一階を一望し、二階へと歩みを進めた。
左右に廊下が分かれる分岐点で、彼は一体のヴァンパイアの亡骸を発見した。死因は背中から心臓へ抜けた穴であろう。矢に違いなかった。
「エルフの矢かもしれんな」
ヴァルクライムが言った。
「彼の種族の矢は、トネリコの木でできていると聞く」
クレシェイドはブライバスンで出会ったエルフのことを思い出していた。その男の矢もヴァンパイアを射抜き仕留めていた。
彼らはそれぞれの仲間が泊まった部屋が蛻の殻であることを確認した。
「荷物の無いところをみると、嬢ちゃん達は既に町から発っているか、それともどこかへ隠れているか、というところか」
魔術師が言った。
「町にいるとすれば、どこへ逃げるだろうか」
クレシェイドはそう言いつつ思案した。
やはり闇から身を守るため、教会へ向かったのかもしれない。この町には東南方向に聖堂が三つ建っていた。
「ヴァルクライム、聖堂へ向かおう。ティアイエル達も、もしかすれば」
「そうだな」
二人は宿を後にした。
二
聖なる光りは路地に漂う闇の霧を吹き飛ばした。
その後に鮮明な石畳の道が現われ、エルド達は、生存者と合流すべく、聖堂を目指し歩みを進めた。
他の者達が、身内の安否を心配し去って行ったように、エルドもまた二人の弟子のことを思い続けていた。
クレソナスもアネットも賢く逞しい。どうにか生き延びているだろう。二人の姿が脳裡を過ぎると、そう自らに強く言い聞かせた。
路地を過ぎ、前方に霧に囲まれた大きな建物の影がうっすらと見えた。
この道順で最初に出くわすのは、戦神ラデンクスルトを祭る聖堂のはずである。もしも、無事ならば、神官戦士としても名高いグラント司祭が今もそこで持ち応えているだろう。二人は戦神と獣神が無二の親友であったように、主に戦士として、互いに一目置き合う間柄であった。
しかし、聖堂の門の向こうは厚い闇の霧に覆われていた。
エルドは不穏な気配を感じた。
「この声は何でしょうか?」
後ろで神官の一人が言った。
エルドも耳を済ませてみると、確かに微かだが人の声が聞こえている。それは低いく折り重なった音のうねりのようであった。
いや、これは祈りを詠んでいる声だ。頭を振りつつ、エルドは希望を持った。
外は闇に支配されているが、聖堂の中には魔の手を逃れた人々が集い、身を寄せ合いながら助けが来るのを待っているのだろう。そして、人々を導いているのはグラント司祭に違いない。
「グラビス卿、私には、これはどうやら祈りの合唱にも思えるのだが?」
大将が隣に並びつつ尋ねてきた。
「間違いないでしょう」
エルドが答えると、一同は表情を明るくした。
彼らは聖堂の正面に周った。門扉は既に開かれていて、その先は黒のような紫色の霧に埋め尽くされていた。
「方々、よろしく頼む」
大将が命じると、神官達が進み出る。間もなく、彼らの手によってそこに広がる霧は光りによって一掃された。石段が見え、その上には扉の閉まった入り口がある。
エルドはすぐ真上の屋根を見た。
本来ならば、そこには戦神ラデンクスルトの石像が飾られているはずだが、何故かその姿は無かった。
多少の危惧をエルドは覚えたが、今も確かに祈りを詠む声が聞こえてきている。逃れた人々は事実健在なのだ。
一行は歩いて行く。そして扉の脇に無残に砕け散った戦神の石像を見つけたのであった。
「不吉だな。どうにも、嫌な予感がしますね」
石像を見下ろしつつ魔術師の男が言い、彼は言葉を続けた。
「それにこの祈りです。どうにも、はっきりとしない、暗い音色のように私には思えます」
「それはこうして扉が閉ざされているからであろう。それに、どのみち声が聞こえる以上は、確かめねばなるまい」
大将が言い、彼は扉を押し開いた。
「おお、ここは大丈夫のようだ」
兵士の一人が言った。
建物の内部に闇の霧の姿は無く、すぐ目の前に礼拝堂に繋がる厚い木の扉があった。それは今閉じられているが、くぐもった合唱の音色は、その中から聞こえていた。
一行は顔を見合わせ、頷きあった。
エルドが扉のノブを回し、押し開く。
途端に折り重なった低い歌声が、溢れ出るように一気に耳に届いてきたのであった。
「我らが主を崇めよ!」
男の声が叫んだ。礼拝堂の席は満員であった。祈り、唄う人々の背を見てエルドは肩の荷が下りた気分になった。
「おおい、皆、無事だったか!」
兵士達が入って行き声を上げて呼ばわった。
ふと、唄が止んだ。だが、人々はこちらを振り返らなかった。
エルドはずっと向こうにある祭壇へ目を向けた。
そこに居るのは、当然、グラント司祭だと思っていたが、よく見れば、馴染みのある老人の顔であった。
白い法衣に身を包んだ老人は、こちらを凝視していた。
「フリット神官長!」
エルドは、己と共に獣神キアロドに仕える老人の名を呼んだ。
「おお、エルドか」
老人は柔らかな声でそう答えた。
「神官長、よくぞ、ご無事で。グラント司祭は居られないのですか?」
エルドが問うと、老人は力無く首を横に振って応じた。
それだけで、グラント司祭が無事ではないことを悟り彼は驚いた。
「グラント司祭は、敵の手に掛かってしまった」
「何ということだ……」
エルドは彼の死に驚きつつも、当てにしていた貴重な戦力を失ったことについて大いに落胆した。
「くっ、憎むべきは、ヴァンパイアめ。我々は惜しい戦士を亡くしたぞ」
大将が忌々しげに呟いた。
「いいや、ヴァンパイアではない」
レーベルン・フリット神官長が答えた。
「彼は人間に殺されたのだよ」
どういうことだ。エルドの脳裡を一抹の不安が過ぎる。
まさか、ここは既にもう――。
「察したようだな、エルドよ。しかし、ちと遅かった」
祭壇に立つレーベルン・フリットは、純白の衣装をかなぐり捨て、その下に着た血のように真っ赤な法衣をあらわにしてみせた。
何と、死地に踏み込んでしまったのだ。
「敵だ! 皆、退け!」
エルドは声を張り上げた。
途端に着座していた一同が一挙に立ち上がり、こちらを振り向いた。
居並ぶ老若男女は、揃いも揃って土気色の肌をし、双眸を真っ赤に光らせていた。
「さあ、食事にしようではないか! 彼奴らの血を啜れ! 更なる力を手に入れるのだ!」
神官長の冷ややか声が轟くや、ヴァンパイア達は一気に襲い掛かってきた。
エルド達は礼拝堂から飛び出ると、その扉を叩き付ける様に閉じた。そして外へと駆け出した。
背後で扉が吹き飛ばされ、ヴァンパイア達がぞろぞろと姿を見せ始めた。
エルドは聖域の魔術を展開させた。
襲い掛かってくるヴァンパイアの数体が聖域に弾かれたが、その後から、聖なる光りを、物ともせず踏み込んでくる者達が現われた。
「どういうことだ!?」
エルドは、神器の大剣「飛翼の爪」を抜くや、敵を横殴りに吹き飛ばした。
悲痛な声が左右から聞こえた。
見れば、聖域の中で神官達がヴァンパイアに組み倒され、その血を次々に貪られていた。
「グラビス卿、これは支えきれんぞ! ひとまずどこかへ身を潜めよう!」
剣を振り回し、ヴァンパイアを打ち付けながら大将が叫んだ。
敵は今も聖堂の中からアリの如く這い出てきていた。
「承知した!」
エルドは応じるや、身を反転させ、駆け出した。
だが、門扉の前にもヴァンパイアが姿を現した。
「突破する、私に続け!」
エルドは大剣を振り上げながら、敵へと猛進した。
彼は祈った。剣に白い光が宿る。
前方からヴァンパイア達が突っ込んで来る。
エルドは剣を薙いで、それらを次々に切り裂いた。浄化された灰の雨を身体に被りながら、彼は死に物狂いで道を切り開いた。
「さあ行け!」
正面を塞いでいたヴァンパイアを切り崩し、血路が現われるや、エルドは仲間達を振り返って叫んだ。
兵士、神官、魔術師、冒険者と、付き従っていた者達が駆け去って行く。だが、町中は闇に覆われている。彼らは追いつかれてしまうだろう。仲間達の背を見送りつつ、エルドは覚悟を決め、背後のヴァンパイアの軍勢に向かって吼え猛った。
「さあ、来い、闇の者ども。これ以上は、我と、神器飛翼の爪が一歩たりとも通さぬぞ!」
ヴァンパイアの一陣が躍りかかって来るのを、エルドは剣で一蹴し、切り伏せた。
「グラビス卿! 私も付き合せてもらうぞ!」
彼の隣に大将が現われた。手にしている将剣は刃の半ばから圧し折れていたため、彼はもう一振りの剣を抜き放って言った。
「再び我が剣が圧し折れるまで、斬って斬って斬りまくるのみ! さあ、貴卿の神の加護を我が剣に与え給え!」
「我々も!」
そう声を上げ後ろから駆け付けてきたのは、先に逃していた者達であった。
「我らのために水臭いですぞ、エルド殿。さあ、我らの剣にも聖なるご加護を!」
そう言って、戦士達は各々得物を突き出してきた。
その光景はエルドの胸を篤くさせた。彼は武者震いした。今なら討ち死にしても何ら悔いは無い。ボロ布に成り果てるまで彼らと共に挑み続けるのみだ。
彼は聖なる旋律を詠み、突き合された剣の切っ先に手を置いた。そこから刃に宿った光りは、彼の心の内を現すかのように、猛々しく燃え上がり、殺到しようとするヴァンパイア達を慄かせ、立ち竦ませた。
列の遥か後方に、赤装束のレーベルン・フリットが現われた。そしてかつての神官長は声高に呼び掛けた。
「怯むな、同士達よ。ここに集う我々は、より多くの人の血を啜った闇の戦士の集まりなのだ。あのような光り程度が、お前達をどうするわけでもあるまい。さあ、行け! 我らが主、闇の子爵閣下のために、彼奴らの血を啜り尽くし更なる精鋭となれ!」
ヴァンパイア達が、意気を取り戻し、一斉に襲い掛かってきた。
「行くぞ、皆!」
エルドは咆哮を上げて踏み込むや、輝く大剣を振り回した。
灰が降り注ぐ、その下を兵士達が潜り、トネリコの槍を突き出す。大将と冒険者達は、剣を振るい左右から迫る凶爪を打ち払った。神官達は祈りを続け、聖域を徐々に拡大して行く。魔術師の作った炎は飛礫となって、跳躍する敵を打ち落とした。
エルドは無我夢中で大剣を振るい続けた。自分が先陣を切り開かねばなるまい。先程の舞い戻ってきた人々の言葉が、未だに彼の心を激しく高揚させていた。
凄まじい激闘の中、大振りの一撃が、敵を脳天から真っ二つに切り下げ灰塵へと化した。
その向こうに、数体のヴァンパイアに守られた、レーベルン・フリットの姿があった。
彼の魂を解放してやらねばならん。これは同じ教会に身を置いた者の定めであり務めでもあるのだ。エルドは大音声で相手を呼んだ。
「レーベルン・フリット! この私がお前の闇を祓い清めてやろう! 汝に我と打ち合う覚悟はあるか!」
「小癪な奴が! 貴様など我らで十分だ!」
ヴァンパイア達が襲い掛かってきたが、エルドは一刀の下に敵を消滅させた。
「覚悟を決めよ、レーベルン・フリット!」
赤装束を翻し、ヴァンパイアの老人はエルドの目の前に舞い降りた。
「よかろう。この私をお前の見知った老いぼれと侮るなよ」
老人は両腕を掲げた。すると、左右の手から爪が剣のように伸びた。凶悪な顔で老人は嘲笑を浮かべると、目のも止まらぬ速さで腕を振るった。
敵の爪はまさに鋼であった。大剣と衝突し、高らかと金属の音が響き渡った。両者の得物から蒸気が吹き溢れた。聖と闇が鬩ぎ合っているのだ。
「どうだ、エルドよ。これぞ我が主、サルバトール様から授かった闇の力よ」
老人は高らかと跳躍し、身を回転させて、襲い掛かってきた。
エルドは大剣を盾とし、旋風のような凶刃を受け止めた。彼の持つ神器が大きく軋み、エルドは今更ながら敵の力に目を瞠った。
回転する老人を彼は力で押し退けた。そして素早く踏み込み剣を薙いだが、老人は跳躍してそれを避けた。
「エルド、無駄だとは思うが、問うておこう。闇の子爵閣下に、忠誠を誓わぬか? お前ほどの勇猛な男ならば、閣下の寵愛を授かるのもさほど難しくもなかろう。こちら来ぬか、エルドよ?」
エルドは苛立った。彼の知るレーベルン・フリットの口が、決して言わぬであろうことを、止め処なく吐き出していたからだ。
「愚問なり!」
エルドは咆哮と共に老人へ斬りかかった。
老人は容易く身を捩じらせて大剣を避けて見せた。
「エルド、こちらへ来い。子爵閣下はお前のような力ある者を求めているのだ。さあ、エルドよ」
敵の老人は真剣な口調でそう説いた。こちらに向けられる真っ赤な双眸は、こちらの目を覗き込むようにして見続けている。
途端に彼は戸惑っていた。脳裡が混雑し、何が正しい道なのか、彼は逡巡していた。
強烈な眠気が身体を襲い、それは撫でるようにして理性をまどろませようとする。
目の前の老人の声が直接頭の中に響いてきた。
エルドよ。こちらへ歩んで来い。今一度、手を取り合い、サルバトール様のためにその身を捧げるのだ。さあ、来るのだ。
あるいは、そうするのが賢明なのかもしれない。エルドは、足を一歩踏み出す。それで良いと、甘美な声が囁いた。だが、彼はどうにも釈然としなかった。心の中に小さなしこりがあるのだ。それは、とても大切なもののようにも思える。
彼は歩み出しながら、思案していた。私は何を忘れているのだろうか。向こう側では神官長が、手を広げて自身の到着を待ち侘び、歓迎している。
「エルド、それで良い。さあ、お前を縛るものなど、大した問題ではないのだ。全て忘れてしまえ」
我が身を縛るものだと。ふと、彼はたった一本の杭のようなしこりの正体を思い出した。脳裡をアネットと、クレソナス、二人の弟子達の姿が過ぎった。
「笑止!」
エルドは我に返った。絡みつくような真っ赤な双眸を振り払い、老人目掛けて一気に詰め寄りながら、大剣を突き出した。
渾身の一撃は、老人の胸板を貫いた。
老人は苦しげに呻き、こちらを見た。ふと、その双眸が、エルドのよく知る明るい緑色の瞳へと変わっていった。
「エルド」
老人は呻きながら彼の名を呼び、言った。
「サルバトールは、伯爵亭だ……。行け」
「フリット神官長!」
彼が驚愕してその名を呼ぶと、老人の身体は灰となって崩れ落ちていった。
剣に刺さった赤い衣装を払い除け、彼は振り返った。背中がやけに静かだった。敵も味方もそこに立っている者はいなかった。夥しい数の灰の山がそこかしこに散らばり、味方の亡骸が横たわっている。
だが、その中の一人がゆっくりと起き上がった。それは、大将であった。
エルドの心に僅かばかりだが光明が差し、彼は駆け寄った。
「御大将、ご無事で?」
だが、相手はゆっくりと頭を横に振り、こちらを真っ直ぐに見詰めて言った。
「グラビス卿、それがしを送ってくれ」
エルドは驚愕しつつ、相手の言葉を理解し頷いた。
「敵を斬り捲ってやったわ」
大将は折れた剣を見せつつ、満足げに笑った。だが、その目が急激に色を失い、徐々に赤い渦へと呑まれてゆく。
「グラビス卿、すまぬな。貴卿を一人きりにしてしまう」
「御安堵あれ。後の事は万事私が引き継ぎますゆえ。どうぞ、安らかに」
エルドは静かに祈りの言葉を詠み、光り輝く片腕を相手へ向けた。浄化の光りは、大将の身体を照らし、灰へと変えた。
地面に転がった鎧兜と、外套を見て、エルドは叫び出したい衝動に駆られた。憤怒が、彼の身体を熱してゆく。エルドは剣の柄を強く握り締め、伯爵亭へと歩み出した。
三
クレシェイド達は、濃い霧の中を、聖堂目指して歩んでいた。
大通りを東へ向かい、中央の十字路を今は南へと進んでいる。その道中で彼らは路地裏から歩み出てきた、エルド・グラビスと合流したのであった。
銀色の偉丈夫、神官戦士は出会うとすぐに告げた。
「敵の首魁は、伯爵亭にいる」
「サルバトールのことか?」
「そうだ」
クレシェイドが問うと、相手は頷き、苦悩するように言った。
「付き従った者は、皆、死んだ。悉く。私はこれから敵の首魁を討ちに行く」
エルドは歩み始めた。クレシェイドと、ヴァルクライムは顔を見合わせた。聖堂は敵の手に落ちたという事だ。ティアイエル達が無事だとすれば、彼女らはこの広い町を埋め尽くす、あらゆる建物の中の一つに身を置いているに違いない。クレシェイドは遠ざかって行く神官戦士の広い銀色の背を凝視しつつ、一番の近道はサルバトールを倒すことだと考えた。
こちらの意見を読み取ったように、魔術師は頷き、神官戦士の銀色の背に呼びかけた。
「エルド殿、我らも御一緒しよう」
神官戦士は歩みを止め、こちらを振り返った。
「町の住民の規模からすると、未だに大勢が敵の首魁の傍にあるだろう。死地へ赴くことになるぞ」
「臨むところだ」
クレシェイドは答えた。
「ならば行こう」
エルドが言い、三人は伯爵亭へと向かった。
エルドは道々、聖なる魔術を詠み、視界を遮る霧を蹴散らしていた。その後をクレシェイド達が歩んで行く。町中は不気味な静寂に満たされ、姿を現す建物は、大きな悪意の影のように映っていた。
三人は、大通りが交わる中央の十字路を北へ進み、程なくして、レイチェルが騎士の広場と名付けた場所へと差し掛かった。
神官戦士の放つ白い光りが、先にある開け放たれた門扉を露にした。この先に、伯爵亭がある。だが、先に立ち込める左右の闇の中から、次々に影が飛び出し、一行の行く手を遮った。
真っ赤な眼光をギラギラさせ、上顎から突き出た牙を見せつつ冷ややかな笑いを浮かべている。ヴァンパイア達は揃って手の爪を伸ばした。
「ここから先へは通さんぞ」
敵は一斉に躍りかかって来た。
クレシェイドはギラ・キュロスを振るい、数体を微塵に吹き飛ばした。彼の隣では、聖なる光りに包まれた大剣を手に、エルドが怒りの咆哮上げて敵を切り裂いている。ヴァルクライムは、両手に魔術の炎を宿し、腕を彷徨わせ、燃え盛る渦を作っている。その渦が敵目掛けて放たれ、多くのヴァンパイア達がその身を焼かれ、絶叫を響かせた。
斬っても斬っても敵は跋扈し湧き続けた。肉片と灰が粉雪の如く降り注いだ。彼らの足元はそれらによって埋もれていた。
ついにエルドが剣を突き立て、荒い呼吸をしてもたれ掛かった。だが、向かって来るヴァンパイアがあると素早く剣を一薙ぎにし撃滅した。ヴァルクライムもまた、疲労の様子を浮かべていた。彼は魔術を使わず、今は炎を宿した剣で戦っていた。
「クレシェイド殿」
エルドがこちらを横目で見ながら呼び、言葉を続けた。
「貴公は疲れを知らぬ身体のようだな」
クレシェイドは頷きはしなかった。再びエルドは言った。
「なれば好都合。この体たらくでは、私には闇の首魁の相手は務まるまい。突破口を開いて見せるゆえ、貴公はそこからサルバトールを滅ぼしに向かわれるが良い」
「それが最善だろうな」
傍らでヴァルクライムが言った。
「私はエルド殿と共にこの場に留まろう。友よ、決着を付けに行くが良い」
神官戦士と魔術師は互いに前に進み出ると、各々白と赤の波に揺らめく武器を身構えた。
ヴァンパイアの包囲網はまだ幾重にも築かれていた。
「行くぞ、クライム殿。ここに我らの命を捧げよう」
「よし、心得た」
エルドは大剣を振り上げ猛然と敵の中へ飛び込んだ。彼の一振りは白い軌跡を残して、灰という灰を飛散させた。クレシェイドとヴァルクライムもその後に続いた。先をエルドが切り崩して行き、背後に回る者達をヴァルクライムの魔術の炎が牽制する。
囲みが割れ、道が現われたところで、クレシェイドは迷いも無く駆け出した。サルバトールをこの手で倒せば、全てが終わるのだ。それが遅いか、早いかは自分次第だ。
エルドの咆哮が何度も耳に届いたが、やがてそれも遠くなっていった。
四
闇の子爵は、聖なる流れに包まれた人間の伯爵の屋敷を眺めていた。
少し前に、彼の片腕になり得るだろうと期待をかけていた、フリット神官長の気配が失せるのを彼は感じ取っていた。そしてそれより前には、やはりグラント司祭の力も感じなくなっていた。
二人には特に多くの血を吸わせ、そして彼自身が闇の力をも与えてみせた。その強靭な闇の戦士達を滅した者がいる。
報告にあったエルフだろうか。追討に出ているヴァンパイアの娘テレジアからの返事は無い。彼女の気配は今も町の四方八方を素早く行き来していた。
エルフはすばしっこい。テレジアは彼の敵を見つけたが、仕留められずにいるのだろう。しかし、そのエルフが片手間に神官長と司祭を殺せたとは思えない。だとすれば、生き残りの人間達の仕業ということか。
サルバトールは思案し、しもべの大隊を坂の麓の広場へと向かわせた。彼は警戒していた。以前の戦で、集結した人間どもがこちらを脅かすほどの力を見せ付けたことをだ。それに、神官長や司祭の周囲には、人間の血を幾重にも吸わせた精鋭のしもべ達が幾つもいた。人間どもは、それらも倒してしまったのだろう。敵は多勢の可能性が高かった。
ふと、サルバトールの耳に喧騒の声が届いた。噂をすれば、下の広場に侵入者が現われたようだ。
程なくして、背後の方に駆けてくる足音を聞いた。
彼が振り返ると、坂を登って来る一つの人影がそこに現われた。
片手に引っ提げているのは剣のようだが、刀身は燃え上がるような大きな闇の塊に覆われていた。そして、その黒塗りの甲冑姿を彼が忘れるわけもなかった。あの時の異形の戦士だ。
血沸き肉躍るとは、このような心境を言うのだろう。闇の子爵は相手に僅かながらの懐かしさを抱きつつ、武者震いしていた。今度はあの魔術師はいないのだ。そして、ささやかな願望が滲み出てきた。この男を屈服させることができれば、陽に照らされる世界を征服できるのも容易くなるだろう。
佇む相手の視線を闇の子爵は巧みに捉え、胸の内で囁きかけた。
久しいな、異形の戦士よ。
己の囁きが、相手の意識に吸い込まれ、掻き乱しているのを彼は手に取るように感じた。当惑する声と、理性とがぶつかり合うのを感じつつ、楽しみながら子爵は囁き続けた。
我が下へ来るが良い。騎士の地位を約束しよう。何が、正しいか、惑っておるようだな。このサルバトール子爵のために剣を振るうことこそ、汝にとっての正しい道である。そうではないか?
異形の戦士は苦しげに頭を俯かせ、身を捩じらせた。
理性が解け掛かっている。闇の子爵は手応え感じ、ニンマリと微笑んだ。あと少しで、コヤツを操り人形にできる。以前の戦いぶりからすれば、暗黒卿に劣らぬ力を秘めているだろう。半ばまで擦り剥けている理性を感じ、彼は大笑いしそうになっていた。彼は相手に知られぬように自分の胸の内で言葉を漏らした。
これほど、容易くゆくのか。異形の戦士よ。あの老魔術師の命を犠牲にしてまで助かったというのに、これでは少々気が抜けてしまうな。
だが、相手はこちらの囁きを弾き返した。
「そう何度も同じ手は食わんぞ! サルバトール!」
身を起し、そう叫ぶや、異形の戦士は剣を振り被って猛進してきていた。
頭上を突風が通過した。闇の子爵は影の中へと潜り込み、それを避けつつ、敵の後ろへと素早く回り込んだ。そして両手の爪を伸ばすや、その背後に影の中から躍りかかった。
旋風と、物凄い衝撃が両腕にぶつかった。異形の戦士は力は凄まじいものであった。両手の爪越しに、大きな闇の塊に包まれた刀身がある。これに打たれれば、呪われる以前に身体は圧縮され消し飛んでしまうだろう。
闇の子爵は飛び退いて距離を取ったが、相手はすかさず踏み込み、横合いから薙ぎ払った。
その首下を狙い済ました一撃を闇の子爵は避け、後退しながら外套を脱ぎ捨て、隠されていた皮膜の両翼を羽ばたかせて、空へと飛び上がった。
彼は片腕を掲げ、闇の力で頭上の黒雲を小突いた。途端に雷鳴が起こり、闇の子爵は地上にいる戦士目掛けて腕を振り下ろした。
激しい音を轟かせ、落雷が敵へと向かう。だが、戦士は予測していたように駆けてそれを避けた。闇の子爵は次々に戦士目掛けて雷を差し向けたが、寸でのところで外れていた。
だが、闇の子爵は笑っていた。落雷程度に打ち抜かれる奴ではない。最初からそう思っていたのだ。全ては余興で、本番はこれからだ。
闇の子爵は爪を更に伸ばし急降下すると、敵へと斬りかかった。腕を振るい猛攻を仕掛けたが、戦士は剣で全て阻んでみせた。
その時、人間の造る鋼よりも硬い闇の爪が、半ばから圧し折れた。
闇の子爵は驚愕し、両腕を持ち上げようとした。
だが、次に見たとき、闇の子爵の逞しい腕は棒切れようにガリガリに痩せ衰えていたのだった。
これはどういうことだ。まるで力を吸い取られたかのようだ。
ハッとしたときには、敵は目前に迫っていた。振り上げる大剣に宿る闇の塊が、先程よりも大きく如く膨れ上がっている。
あの魔剣はそういうカラクリか!
振り下ろされる剣に、サルバトールは背後に飛び退いて避けた。
しかし、唸りを上げて横切った闇の塊は、その風圧だけで、彼の干乾びた両腕を空へと強引に舞い上げ捥ぎ取っていった。
両腕に走る激痛に彼は苦悶し、そして目の前に佇む異形の戦士に初めて恐れを抱いた。
敵が剣を提げ、こちらを睨みながらゆっくりと間合いを詰めてくる。
血沸き肉踊るだと。何という浅はかさだ。彼はジリジリと後退しつつ、焦るあまり歯噛みしていた。
「閣下!」
大勢の声が聞こえ、伯爵亭を包囲していたしもべ達が駆け付けてきた。
サルバトールは九死に一生を得たとばかりに、素早く飛翔し、しもべ達を見下ろしつつ声を上げた。
「奴を殺せ!」
「承知しました!」
軍勢は、勇躍して一気に異形の戦士へ襲い掛かった。
だが、敵の一薙ぎの前に、多くが欠片となって消し飛んだ。それは宛ら暴風が吹き荒れるたびに舞い散る木の葉の如くであった。
次々と崩れて行くしもべ達を見てサルバトールは唖然とした。だが、しもべ達は臆することなく飛び込んで行く。その忠誠と実直さを前に、サルバトールの心が大きく揺らいだ。
これでは無駄死にさせているだけだ。奴に対抗できるのはこのサルバトールしかいない。これ以上の大損害を蒙る前に、恥を忍び、引き揚げさせる事こそが正解だ。
「皆、後退せよ!」
サルバトールは声を上げた。そして彼は無我夢中で異形の戦士目掛けて急降下した。深く念じ、両腕を再生させる。そして伸ばした爪で斬りかかった。
だが、決死の特攻も大きな闇の一振りに阻まれ、重い斬撃と競り合う度に、全身から力が抜かれてゆく。腕は早くも萎び始め、爪には亀裂が走っていた。
このままでは殺される。彼は絶望し後退った。眼前を闇の塊が幾度も唸りを上げて掠めていった。
「サルバトール、お前もこれまでだ! 行くぞグレン!」
異形の戦士の大喝が木霊し、サルバトールは押し退けられた。そして身を立て直す前に翼を広げ、空へと飛び上がろうと試みたが、大薙ぎの一撃がすぐ横合いから迫っていた。
サルバトールは死を覚悟した。
鋼が打ち合うような大きな音がすぐ傍で木霊した。分厚い影がそこにあり、大盾で闇の一撃を防いでいた。
そこには、敵と見紛うほどの、漆黒の鎧を見に纏った暗黒卿の姿があった。
大盾は砕け、暗黒卿は片腕でサルバトールを押しながら後退した。
異形の騎士は空高々と跳ね飛ばされ、その身体は坂の陰へと落ちていった。
「全くもって、末恐ろしい人間よ」
暗黒卿が呟きを漏らした。その身体は悲惨な有様をしていた。両腕を半ばから失い、纏っていた甲冑の半分が無く、露出した薄い緑色の肉体は深い傷を負い、緑色の血が流れ出ている。
「子爵閣下よ、存命か?」
暗黒卿が僅かに顔を向けてそう尋ねた。
その声が闇の子爵の身体を震わせた。これは感激というのだろうか。サルバトールはそのような満身創痍の男が窮地に現われたことに驚いていた。それに、そもそもこの男がこのような真似をすること自体が寝耳に水であった。
「暗黒卿よ、情けは無用だ。貴殿は逃れるが良い! これはもともと私の戦いなのだ!」
すると、暗黒卿は先の無い腕を上げて彼を制した。
「捨て鉢になるな。仮にも爵位を授かる者ならば、この状況を受け止めてみせよ。今こそ堂々と、撤退を宣言してみせるべきではないか?」
相手に諭され、サルバトールは逡巡の後、そのとおりだと認めた。
「それは、卿の言うとおりだ」
サルバトールは背後の部下達を振り返り、そう宣言するつもりであった。
だが、人間の伯爵の屋敷から鬨の声が上がり、流れ落ちる水の壁から多くの人影が姿を見せた。よく見れば、一帯の霧がすっかりと浄化されていた。
「視界が開いた! 行け、敵を掃討せよ!」
人間の伯爵と思われる男の声が木霊し、その手下達が、こちらのしもべの中へと殺到して行く。
しもべ達の討たれて行く様と、その断末魔の声を、彼は呆然と眺め、聞いている事しかできなかった。
「生きている限り、機会は訪れるものだ。我らの強みは、自然に尽きることの無い命があること! さあ、その痛々しい腕で我が肩に触れるのだ。我らは負けを認めねばならん」
暗黒卿が言った。
異形の戦士が、坂の上に姿を現し、妖剣を引っ提げて斬りかかってきた。
「闇の者どもを包囲せよ!」
背後からは大勢の足音が迫って来ている。奴らの武器は聖なる光りに包まれていた。
ならば、全てを我が落雷の下に一掃してしまえば良い!
サルバトールが頭上に腕を掲げると、暗黒卿が先の失われた腕で彼の肩に触れた。
「機会を待つのだ、良いな子爵殿。我らは負けたのだ。撤退するぞ。我が顔を立てると思ってこの場は諦めよ」
そうして闇の噴煙と、そこに走る稲妻の閃光に身を覆われ、彼らは人間の都から撤退したのであった。
五
まず、日差しに目が眩み、身体中に焼け付くような激痛と危険な眩暈を感じた。
闇の子爵は思わず木陰に駆け込んだ。
「同じ闇の者とはいえ、何とも不便な身体よの」
ボロボロになった甲冑を纏った暗黒卿が歩み寄って来た。
サルバトールは、先程の結末が脳裡を過ぎり、暗黒卿の決断を恨みがましくも思っていた。だが、卿が自分に負けを認めさせ、速やかに撤退まで繋げなければ、この身には幾つもの聖なる刃に貫かれていたか、異形の戦士の妖剣に討たれていたか、助かる道の無い高い結末が待っていただろう。裁きの雷を操る暇は無かったのだと、サルバトールは気持ちを改めることにした。
「暗黒卿よ、貴卿は何故、助けに来てくれたのだ」
暗黒卿は隣に腰を下ろして言った。
「我が有り様を見てもわかるとおり、失態を犯したからだ。貴殿の留守を護れるつもりであったし、あの闇を纏う戦士をも討ち滅ぼせるつもりでもあった。だが、そうはゆかず、奴らを魔都に入城させる結末になったばかりか、すぐに異変を察知され、子爵殿の邪魔に向かわせる愚までも犯してしまったのだ。立つ瀬が無かったのだよ。更に子爵殿まで討たれてしまえば、闇の世界での我が名声は一気に地に落ちることになろう」
サルバトールは頷き、隣に座った。
「誇り高い貴卿らしい答えだ。実に武人らしいな」
だからこそ、迷いも無く撤退を思い付き、高らかと宣言することができたのだろうか。サルバトールはその気質を羨ましくも思った。
「暗黒卿、貴卿は今後はどうするつもりだ?」
漆黒の鉄面を向けて暗黒卿は答えた。
「まずは、身体を治さねばならん。静養し、身体の傷と、両腕を再生させる。我らはヴァンパイアとは違い、陽の光に命を脅かされたりはせぬが、失った腕をすぐに生やせる様な芸当は持ち合わせてはおらぬゆえな」
「そうか。では、その後はどうするつもりだ?」
きっと復帰し彼の傭兵団を率いて、闇の世界で名声を上げて行くのだろう。サルバトールはそう納得した。
「機を待つ」
暗黒卿は短くそう述べた。
「何の機会を待つのだ?」
「人間どもを脅かし、その地を奪い国を建てるのよ。その訪れを待つ」
相手もまた自分と同じ野望を抱いているのだと知ると、サルバトールは一瞬、自分の戦いに付き合わせたことを申し訳なく思ったが、すぐに疑念が浮かんだ。
「ならば、何故わざわざこの私に手を貸すような真似をしたのだ? 人の都などいくらでもある。あのような片田舎の都にそれほど引かれたのか?」
すると、暗黒卿は高らかと笑い声を上げた。
「我は自分が骨の髄まで武人であることを知っている。爵位ある者のような統治者の真似事すらできぬだろう。なればこそ、未だに都を手に入れていない貴殿の手伝いをしてみたくなったのだ」
サルバトールは驚いた。それは、軽い侮辱でもあるかもしれないが、そのようなことは聞き捨てた。闇の世界で名高い戦士、暗黒卿が、気まぐれでも、この弱小の子爵のもとに馳せ参じてくれたのだ。むしろ感激しつつも、彼は己の不甲斐無さを思い、ここが相手にとって相応しい場所ではないと感じ、口を開いた。
「私は二度も、全ての兵を失った。このような、いつ爵位を剥奪されるか知らぬ男に、貴卿も愛想を尽かしただろうな」
すると、暗黒卿は、鉄の面の下でくぐもった笑い声を上げた。
「それで良い。無礼かも知れぬが、我は閣下殿のそのようなところに惹かれたのだ。全くもって我が剣の振るい甲斐のある男ではないか」
サルバトールは絶句し、相手を凝視した。
「子爵殿よ、共に機が訪れるのを気長に待とうではないか。我らには永遠の生命があるのだ。その間に人間達の世界の綻びを目のあたりする日が来るだろう。その時こそ」
二人は握手を交わす代わりに頷きあった。
「さて、それに子爵閣下殿。貴殿はこの戦で全ての兵を失ったと言ったが、ささやかながらそれは違うぞ」
突然の言葉にサルバトールは我が耳を疑い、相手が何を言っているのか逡巡した。
「その茂みを掻き分けよ」
暗黒卿に言われ、サルバトールは狐につままれた心境で、言われるがまま片腕で草木を分けた。
そこには一本の木があり、その下にヴァンパイアの娘テレジアが横たわっていたのだ。
サルバトールはその愛らしい茶色の髪を見るや、一気に絶望した。彼女の冷たい心臓は既に止まっているのではないだろうか。
「閣下」
囁くような声を口にし、テレジアが目を開いた。
サルバトールは驚いて、その傍へと駆け寄った。生きている。服に痛々しい血だらけの傷口が幾つかあるが、彼女は生きている。
「我が愛しき娘よ」
サルバトールが手を取ると、テレジアは語った。
「申し訳ありません。エルフを取り逃がしました」
「良いのだ、もう此度の戦いは終わったのだ」
すると暗黒卿が歩んで来た。
「エルフの矢を全身に受けたようだが、幸いにも心臓だけは免れた。そうでなければ、躯と化していただろう」
サルバトールは相手を振り返った。
「貴卿が、彼女を助けてくれたのか」
「手当ては施したつもりだ。運が良かったのだろうな。我が通り道にいたのだ。その娘の言うとおり、我もエルフを討つことはできなかったが」
サルバトールは思わず頭を振っていた。
「いや、良いのだ。こうして我らが無事でいるならば。後は、卿の言うとおり、闇の深淵にて、陽の世界に綻びが訪れるのを待とう」
闇の子爵は早くも次なる野望に胸を躍らせた。
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