第14話 「急襲」

 傍らで協力者の気配が完全に失せると、闇の子爵は、たった今、交わされた出来事を思い返していた。

 真紅の屍術師は、忠告に訪れたのだ。アルマンというすぐ北部の都市に人間達がこちらを攻めるべく兵を募っているということを相手は告げた。その上で、あのどこか人を食ったような女性的な声で、ホムンクルスの戦士団を再び貸そうかと提案してきた。

 サルバトールは、今も汚点だったと深く恥じ入っていたが、これに対する返事に一瞬窮してしまった。何故ならば、彼の兵団は予想を遥かに超えた人間達の進撃の前に打ち滅ぼされてしまったも同然の結果となっていた。今ではもと町娘だったヴァンパイアのテレジアを除けば、手駒は町の外壁沿いに突き立っている四百ものガーゴイル像のみである。彼の侵略の計画は頓挫していた。

「要らぬ」

 闇の子爵は真紅の協力者の気遣いに対してそう返答した。

 薄暗い市庁舎の会議室の上座に腰を下ろし、彼は本来ならば町長を始め、自分の手足となるような者達が座るはずの空席を虚しく眺めやっていた。我が軍勢は失われたのだ。ならば、人間どもの侵略を前に、あのマゾルクの申し出を受け入れるべきだったのだ。何故、そうしなかったのか。それは酔狂なことであった。

 以前に対峙した闇の戦士と、老魔術師の姿が脳裡を過ぎったのである。特に老魔術師だ。奴は己の生命を省みず、戦闘不能となった戦士を一身に助け、そして死んでいった。

 あれを何と言うのだろうか。人の言葉で言う気高い行為というものなのだろうか。二人の人間の結末を知った瞬間、この氷のような心臓が確かに熱に満たされた。そして己がこれほど矮小な存在に思えたことも無かった。この胸中の熱は静まらず、結果、幾日の軍を編成する機会を自ら流してしまっていた。彼は自分が人間達に狂わされたのだと悟った。奴らが扉を押し開けて来たところに、たった一人で待ち受けようとする己の姿が、脳裡から離れようとしなかった。何か気高い行いをしてみせたい。そのためならば、この冷え切った命など捨てても構わん。人間の老魔術師程度にできたことを、闇の子爵ができぬわけがないのだ。

 ふと、この魔の都の西方から、幾つかの微力な闇の気配が開花する様を感じ取った。

 テレジアの仕業だ。見付けた屍に偽りの生命を吹き込んだのだろう。サルバトールは天井を向き、声を上げた。

「我が忠実なるしもべ、美しき娘テレジアよ。お前が無断で闇の兵力を作り上げたことを感じ取ったぞ」

 すぐに可愛らしい声が、生真面に応じた。

「申し訳ありません、閣下。しかし、人間どもの侵略を前に、今の陣容ではあまりにも心許なく感じ……。は、申し訳ありません!」

 そしてヴァンパイアの娘は、すぐさま声を上げて謝罪を述べた。サルバトールはその行いを責めるつもりは無かった。たかが数体の兵が増えた程度で、状況は変わらぬままだ。闇の子爵は、むしろ健気だったと愛しく感じた。

「良い。その兵達はお前が使うが良い。見事に人間達を討ち果たすのだ」

 その言葉に対し、恐縮しきった返答が届いた。

 彼は満足したが、その胸の内を乱すような不穏な大音響が北門より轟いた。

「閣下、私が見て参ります」

 テレジアの声が頭上から届いた。

「いや、待て」

 妙であった。今の音は間違いなく北門が開け放たれた音であった。だが、人間を襲うように仕向けたガーゴイルの像達に動きが無かった。

 彼は冷やりとし、同時に憎悪を抱いた。同族が、彼より爵位のある者が、見舞いという名の冷やかしに訪れたに違いない。だが、程なくして轟いた堂々とした声はヴァンパイア達の冷たい嘲りの様な声質とは違っていた。

「闇の子爵よ、この暗黒卿が参ったぞ。我が力を貸そうではないか」

 意外な訪問者に、サルバトールは我が耳を疑い、天井を見上げた。暗黒卿とは、闇の傭兵集団を率いる者達の一人の名であった。黒塗りの騎兵達を駆り、彼の者達に蹂躙された後に大地に広がるのは、塵芥のような残骸のみとも噂されている。闇の者達の中でも一目置かれるその存在感は、誰に取り立てられ、認められたものでなく、傲慢にも自ら騎士を自称し、それを実力者達に黙認されていることに尽きていた。

 この悲壮な場に、珍妙な客が現われたぞ。その来訪が、決め掛けていたサルバトールの心を大きく掻き乱した。我が人間どもに討ち滅ぼされるのを見届けに来た、同族どもの手の者に違いない。煩げに感じつつ、サルバトールは天に向かって声を上げた。

「誰の差し金か知らぬが、私は貴公の力を必要とはしていない。速やかに立ち去るが良い」

 サルバトールがきっぱりと応じると、相手の哄笑が頭上に響き渡った。

「閣下はそちらの助勢を必要とはしておられません。速やかにお帰りなさい」

 ヴァンパイアの娘、テレジアの冷ややかな声が天に木霊した。

「この暗黒卿を追い出すつもりならば、力尽くでそうして見せるが良い」

 来訪者が告げた。

「しかし、言って置こう。この私は誰の差し金でもない。ただ、闇の子爵に辛酸を舐めさせた人間どもが、どれほどの者なのかと興味があるだけだ。私は自分のために剣を振るう場を求めて流れ着いて来たにすぎぬ。その邪魔立てする者あらば同じ闇に生きる者といえど斬り倒すのみだ」

 自称騎士を名乗るに過ぎぬ者が、対等に口を利く様が憎憎しく思えたが、この者を追い出すことは無傷では不可能だと彼は悟った。

 ガチャン。不意に、右手の方角で鉄の揺れる音が鳴ると、そこには黒い影が佇立していた。

 しかし、影だとおもったのは、無骨な甲冑を染める漆黒であった。襟足の突き立った鎧の上に同じく仮面の下りた黒塗りの兜があり、こちらを見ている。サルバトールは、相手の腰に提げられた、重厚な剣の柄を見ていた。

「お初にお目に掛かる、私が暗黒卿だ」

 落ち着き払った声で相手は述べた。サルバトールは待ったが、暗黒卿はついに礼の動作をしなかった。

 そして騒々しく建物の階段を上がってくる音が聞こえ、会議室の大きな扉が勢いよく開け放たれた。

 ヴァンパイアの娘は、瞳の無い真っ赤な双眸を怒りに光らせ、部屋に飛び込んできた。すると、立ち止まる様子も見せずに、振り上げながら長く伸ばした両手の爪で、漆黒の来訪者へと襲い掛かった。

「無礼者め!」

 ヴァンパイアの娘の声が響き渡るや、その華奢な身体は次の瞬間には弾き飛ばされ、長い机の一つを道連れにして壁へと吹っ飛んでいた。

 忠実で愛しいしもべが痛めつけられる様を見て、サルバトールは激怒したが、行動を抑制するかの如く、その鼻先には既に剣の切っ先が伸ばされていた。

 暗黒卿は言った。

「邪魔立てすれば、同胞といえども斬るのみ」

「むうう……」

 サルバトールはその静かな声に孕む殺気に圧倒されていた。それを不甲斐無く思いながらも、今、目の前の自称騎士が噂どおりの者なのだと確信したのであった。彼が殺気を鎮めると、それを感じ取ったかのように相手は重々しい剣を鞘へと収めた。

「閣下に剣を向けた!」

 テレジアが憎悪に叫んだ。

「良い、テレジア」

「しかし!」 

 怒りに呑まれるしもべへ頷いてみせると、娘はようやくいきり立った両肩を下ろした。

「よろしい」

 暗黒卿は満足げに笑うように言ったが、次に向けられた鉄仮面にはその気配は既に失せていた。サルバトールは思わず萎縮し、相手の言葉を待っていた。

「あの得体の知れぬ男、真紅の屍術師の申し出を拒んだようだが、見回したところ、戦力は貴卿と、その下僕以外には、ほぼ兵の姿の気配すらも感じられぬな」

「そうだ」

 馴れ馴れしく話しかけられ、サルバトールは憎しみを覚えたが、彼以上にヴァンパイアの娘の方が憤怒していた。その様を横目で見ると、彼は怒りを抑え、落ち着き払って相手に答えるしかなかった。もしも、感情を露にすれば、忠実なるしもべは、主以上に激怒し、相手に襲い掛かってゆくだろう。そうなれば、先程のように無事にはいかないはずだ。暗黒卿はテレジアを造作も無く屠るだろう。

 何が言いたい。サルバトールは、そう口に出したいのを堪えた。

「言うまでも無く、敗北するぞ」

 その言葉はサルバトールの胸を突いた。そのとおり、あの人間……老いた魔術師がやったが如く雄雄しく滅ぼされようということが、彼の望みであり、そうだったのだとこの瞬間に自身に気付かせた。そうして見せることで、あの人間に並ぶことができるのだと、何とも馬鹿げたことだ。よりによって人間如きに感化されてしまったのだ。

「いかんな。それでは」

 暗黒卿は腕組みしつつ言った。

「他の爵位ある者達はその死をただ笑うだろう。少なくとも、マゾルクとかいう者の誘いを断った時点で、爵位ある者達は、貴卿が弱気に屈して、呪われた生命に自ら終止符を打とうとしているのだと、そう物笑いの種となっているのだ」

 サルバトールは思わずカッと、怒りで胸が熱くなったが、それは下僕も同じであった。テレジアは絶えずこちらを凝視し、目の前の無礼な男を殺すよう、下知が届くのを待っている有様であった。もしも、テレジアを失えば、この闇の子爵の兵は本当の意味で失われ、公爵を始め、貴族連中の侮蔑と呆れの視線に晒されることになるだろう。あの無能者は、やはり無能であった。爵位を汚す情けない者だったと、寿命の無い闇の生が続くまでの間、末代までそう言われ続けるであろう。死んでも死に切れないことだ。

「サルバトール卿よ。ヴァンパイアなら、ヴァンパイアらしい道を取れ。何があったかは知らぬが、わざわざ人間どもに合わせてやる必要などは無い」

 暗黒卿の言葉が、サルバトールの動揺を一時更に複雑なものとしたが、やがて沈静させたのもその言葉であった。

 我はヴァンパイアなのだ。人間とは道が違うのだ。

 そうなると、彼の決意は早かった。と、いうのも、人間の見せた誇らしい死に感化されつつ、そうしてやろうと決意を固めつつも、頭の中ではそうではない違う結末も考えていたからだ。

「ならば、まずは今一度、忠実なる兵を増やさねばならん。我ららしいやり方でな」

 人間どもの伯爵が住まう地の方角を睨みながら闇の子爵は言った。



 二



「町へ入れて下さい」

 とっぷりと日も暮れた頃に、閉ざされた南門の向こうから女の綺麗な声が霞のように聞こえた。

 アルマンの二人の警備兵は耳を疑い、重い鉄の扉を凝視した。二人にしてみれば、それは信じられないことであった。何故なら、この南門は、ムジンリへ戦に赴いた軍勢が敗走し潜って以来、固く閉ざされたままであった。気のせいだ。二人は無言で互いに顔を背けた。

「町へ入れて下さい」

 もう一度声が聞こえ、今度は二人とも確信した。

「何だ、誰かいるのか?」

 そう尋ねながらも、二人の警備兵は訝しく思っていた。まさか、ムジンリの住人の生き残りが来たのだろうか。そうでなければ、今やそこを根城としているヴァンパイアなのかもしれない。夜の帳の下りた空を見上げつつ、二人の思いは一致していた。

「神官さんを呼んで来るべきではないか?」

「そうだな。念には念を入れなければならん。一っ走り俺が行こう」

 そう言って振り返った先に、一人の男が立っていた。襟の立てられた丈のある外套に身を包んだ背の高い男であった。その双眸に赤い輝きを見たとき、警備兵の一人は不意に気が遠くなり、そのぼんやりとした頭の中に甘美で心地良い男の声が訴えてくるのにただ耳を貸していた。

 お前は門を開く。

「俺は門を開く」

 警備兵は向き直り、門扉の双方を止める鉄でできた太い棒の閂へとふらふらと近寄って行く。

「おい、何をする気だ?」

 相棒の不審な様子に思わずもう一人の警備兵が声を掛けた。

「神官さんを呼んで来てくれるんじゃ無かったのか?」

 相棒の手が閂へ伸びた時、もう一人の警備兵は思わずその肩に手を掛けようとした。が、不意に物凄い力で肩をグッと引っ張られ、彼は誰かの胸の中へと引き込まれていた。

「何をするんだ」

 彼が振り返ったとき、その首には鋭い痛みが走っていた。その目が見たのは実に大きな影であった。まるで刃の如くそそり立つ外套の襟と、真っ赤に光る恐ろしい二つの目を見たときには、既に妙に安らかな世界へと意識は落ちていっていた。

 サルバトールは血で染まった唇を拭った。この男の血は熟成しきっていない葡萄酒のようだと彼は思った。そう、若い男だからだ。同じ若くても、女の方には爽やかな味わいがある。一晩で幾つもの美酒を口にできるだろうか。

 彼の目の前で扉が隙間を見せた。その中を町娘を装ったテレジアが潜ってくると、彼女は、傍で佇んでいた警備兵へと素早く抱きつき、その首に牙を刺し入れた。

 夢見心地だった男が、小さく呻き、やがてその身体はぐったりとしていた。テレジアはその身体を地べたに寝かせ、重い扉を巻き上げて閉めるための取っ手を回した。鎖が滑車とこすれ合いながら扉は閉まる。そして閂を下ろして、その場は元通りとなった。

「私も、閣下の様に、城壁を飛び越えることができれば……」

 彼女は申し訳なさそうに言った。

「もっと血を吸い、力をつけることだ、テレジアよ」

 サルバトールは忠実なるしもべをそう励ました。

 二人の警備兵が、むくりと起き上がった。彼らの身体を流れる血は完全に冷え切り、肌はおそらくは土気色に染まっているだろう。真っ赤な眼光と、一対の牙の突き出た口元をサルバトールは確認した。

「私がお前達の主、サルバトール子爵だ」

 すると二人の警備兵は揃って拝礼した。

「我が主よ。私はゴラン」

「私はビッツと申します」

 二人は揃って己の名を聞かせた。

「ゴランにビッツよ。お前達の役目は、夜の間に気取られぬよう、多くの同胞を作ることだ。朝日と神官にはくれぐれも注意せよ。さあ、行け」

 新たな二人のしもべは、縫うように地を駆け、そして町の闇の中へと飛び込んで行った。

「お前も行け、美しき娘、テレジアよ。我らは我らのやり方で人間どもを圧倒してやるとしよう」

 テレジアは顔を輝かせると、最初の二人の様に町の建物の間へと駆け去って行った。正式に襲撃の狼煙を上げるのは明日になるだろう。ムジンリへこの子爵を討伐しに軍が動いた後ということだ。その間に門という門を閉じ、人間達をじわじわと包囲して行くのだ。

 サルバトールは足音を聞いた。こちらにやってくる足音が二つある。軽やかな足取りは女のものに違いなかった。闇の子爵は咽を潤すであろう味わいを思ってほくそ笑み、来訪者の到着を待ち受けた。



 三



 明朝、クレシェイドとヴァルクライムは、町の南門へと足を運んでいた。

 四人の仲間達と一時の別れを交わし、今、彼らは集結する人々の一員となっていた。

 総勢五十名ほどだろうか。神官の装束を来た者が大多数を占め、冒険者の戦士と、魔法使いがその中に点々としている。その先頭には、白銀の鎧に身を包んだ巨躯の男がいた。背中に収まった剣はミノスの大太刀にも勝るほどの大剣であった。エルドという男だと、ヴァルクライムが紹介した。遠目で窺うと、身に纏う銀色は大きな山裾に残る雪の煌きを思わせるようであった。

 エルド・グラビスは、こちらの存在に気付き、ヴァルクライムに向かって頷いて見せた。クレシェイドの傍らで魔術師も同じように応えた。

「あのエルド殿が邪竜討伐の任を与えてくれたのだ」

 二人は旧知の仲なのかとクレシェイドが思っていると、ヴァルクライムがそのように紹介した。つまりは、ギラ・キュロスを正式に貸し出す許可をくれた人物ということになる。つまるところ恩人ということだ。クレシェイドは相手の大きな影を見詰めながら感心した。

 町の大通りを甲冑の揺れる音を響かせて、歩兵の一団が合流してきた。馬に跨った貴族というよりは軍人風の出で立ちの男が先頭に立っている。揃いの灰色の鎧兜に、金色で刺繍を施された緑色の外套を羽織っていて、その男は一同を見下ろした。

「若干集まりが悪いようだが、定刻となった故、我らはこれよりムジンリへ進軍する!」

 途端に歩兵の一団が鎧の音を一度ガチャリと鳴らし、直立不動の姿勢を取った。手にはトネリコの短槍を持ち、腰に剣を佩いている。クレシェイドの助言は聞き届けられたらしい。サグデン伯爵がどのような人物か、さすがに深いところはまだよくわからないが、それでも柔軟な思考の持ち主なのだと彼は思った。

「グラビス卿の神官部隊は我らの後に、その他の者達は更にその後からついて来られるが良い」

 歩兵によって閂が外され、鎖が軋みながら滑車を滑って行く。それにつられて大きな鉄の門扉は重々しく開いて行った。

「いざ、出立!」

 指揮官の男の雄々しい掛け声が響き、討伐の軍勢は門を潜っていった。



 四



 レイチェル達は、食堂に下り、朝食が運ばれてくるのを待っていた。

 しかし、食事の乗った盆を手にして現われたのは、可愛らしいウェイトレスではなく、ギルドマスターのモルドン老であった。

「まったく、どうなっておるんじゃ」

 モルドン老は料理の皿を並べながら苛立たしげに口火を切った。

「どうしたんですか?」

 レイチェルが尋ねると、老人は睨みを利かせるように目を細めて言った。

「うちの従業員どもじゃよ。料理人も、給仕も、誰一人現われん」

 確かにまばらな客がいる他、店内を歩くウェイトレスの姿も、奥の厨房での作業の音も聞こえていなかった。

「揃って風邪でも引いたんじゃないの?」

 サンダーが言うと、モルドン老は首を振った。

「じゃったら、この年寄りこそ、そうなってるはずじゃろうて。まったく、休むにしても連絡ぐらいよこして欲しいものじゃ」

 他のテーブルから料理の催促の声がし、老人は慌しく立ち去って行った。

 レイチェルは目玉焼きを口に運んだ。すると、口の中でジャリっと音がし、彼女は卵の殻が入っていたのだと悟った。あのモルドンさんは、普段は厨房の方には手を出さない人なのだろう。老人がてんてこ舞いな様子を思い、レイチェルは静かに目玉焼きを飲み込んだ。

「ちょっと、これ、野菜焦げてるんだけど」

 ティアイエルがフォークに刺さった料理を睨み、腹立たしげに言った。

 ふと、警備兵の格好をした男が店に入って来た。男はモルドン老の姿を見つけて声を掛けた。

「モルドンじいさん、昨日の夜なんだけど、うちのビッツとゴランの奴らが飲みに来なかったか?」

「うんや、来なかったぞ」

 モルドン老の声が聞こえると、警備兵は困ったように首を傾げて去って行った。

 すると、近くの座席にいた冒険者の一人が呟いた。

「来ないと言えば、うちの二人の姫様はどうしちまったんだろうかね。道に迷ったのかな。夜に出歩くなって言ってるのに、まったくよ」

 そうして冒険者は代金を置き、店を後にしていった。

 すると、モルドン老人が顔を出した。

「駄目じゃ、一人じゃ店を切り盛りできんわい!」

 嘆いている老人を憐れに思い、レイチェルは思わず声を掛けていた。

「私で良ければ、お手伝いしましょうか?」

「俺もやるよ」

 サンダーが続くと、ライラも言った。

「それなら私のことも使ってくれ」

 思わぬ申し出にモルドン老は恥じ入るように言った。

「すまぬな。では、皿洗いと御用聞きと、掃除と、分担してやってくれんか。料理はワシが作るて」

 三人が頷いて席を立つと、ティアイエルが溜息を吐いた。

「アタシもやるわよ」

 それから四人は忙しく働いた。昼間は夜ほどでは無いにしても、冒険者の客は訪れる。依頼探しと報告と、彼らは仲間達と軽食を摂りながら話し合っていた。レイチェルとサンダーは御用聞きと、配膳と、ティアイエルは皿洗い、ライラは清掃を引き受けていた。昼過ぎに客の流れが一段落すると、四人はようやく休憩を取ることができた。思い思いの位置で一呼吸入れている仲間達を見て、レイチェルはこういうのも悪くは無いと思った。

 彼女は外の空気を吸いに出て行った。その時になって、周囲が暗くなっていることに気付いた。雲が空一面を埋め尽くし、まるで夜の様に日が翳っている。今にも雷雨でも降り注ぎそうだと彼女は思いつつも、頭上を覆う雲は灰色のそれではなく、黒のような紫色であることに気付いた。雲がこのような色に染まるものか、彼女は思わず首を傾げ、薄気味悪さを感じつつ何と無く感じた心細さと共に通りに目を向けた。

 ここは西の大通りに面した場所である。ブライバスンへ行き来する者や、ここに用のある冒険者が絶えず歩いていると思っていたが、妙に通行人がまばらであった。昼ならば行商や売り子の声が聞こえてきてもよいものだが、通りは静寂そのものだった。いや、町中がそうなのかもしれないと、彼女は妙な不安を募らせた。今一度、頭上の禍々しい雲を見上げると、それは自ら意思を持って町の上に居座っているようにも思えてきた。そして、不意にこの通りに出ているのはいつの間にか自分一人になっていることに気付いた。まばらだった通行人の姿は今では一つも見当たらない。まるで神隠しにでもあったかのようだ。

 怖い想像を膨らませるや、彼女は慌てて店の中へと引き返した。そこに休息を取る仲間や、カウンターで書類に目を通しているモルドン老の姿を見て、ホッと胸を撫で下ろしていた。彼女の想像は身の毛のよだつものであったからだ。そう、店を振り返ったときに、ここにいる仲間達まで煙のように姿を消してしまっているというものであった。

 サンダーが歩いて来た。

「何か、やたら暗いけど」

 少年はレイチェルに声を掛け、外へ顔を覗かせて言った。

「雨が降るのかな」

 レイチェルが訊くと、少年は答えた。

「デカイ雷が落ちるかもよ。これじゃあ、今日はもう客は来ないんじゃないかな。いや、むしろ雨宿りに来るのかな」

 少年の言葉にレイチェルは上の空の笑みを返していた。どうにも、この町の静けさが腑に落ちなかったのだ。そうして彼女は再び外の通りへ目を向けていた。そうだ、雨が降りそうだから誰も出歩かないのだ。そう納得しようと努めたが、胸騒ぎは収まらなく、彼女は町を出て行った仲間の二人のことを思い返していた。彼らの身を案じるよりも、ここにクレシェイドか、ヴァルクライムが居てくれればと考えていた。

「お店は開いてるのかな?」

 突然、すぐ傍で声を掛けられ、レイチェルは心臓の凍る思いをした。

 町の者と思われる中年の男が立っていた。ふと、その後ろに連れ合いと思われる女の姿もあった。

 ああ、お客さんだ。そう察しながら、サンダーの言ったように、雨宿りに訪れる客でこれから店は忙しくなるのかもしれない。

「どうぞ、いらっしゃませ」

 レイチェルは姿勢を正してにこやかに言い、客を店内へと導いた。

「モルドンさん、お客さんです」

 カウンターの老人が顔を上げ、仲間達もそれぞれ反応を示した。ティアイエルはぶつくさと言いながら洗い場へと向かい、ライラは雑巾を手にこちらを窺っている。サンダーは慌てて手近の卓を布で磨き始めた。

「良い所だな」

 レイチェルの背後で男が言った。だが、その言葉は社交辞令にも程遠く、何処か空虚にも思えた。

 不意に、彼女の肩に長い腕が力強く巻き付いた。あまりのことにレイチェルは驚愕しつつ、この客は泥酔していて、悪質な悪戯を仕掛けてきたのだと感じた。「やめてください」と穏便に済ますために、柔らかい声で言い掛けた時に、彼女の身体を相手の腕が無理やり反転させた。

 そしてレイチェルは見た。こちらを見下ろす男の双眸が邪悪な赤の光を放ち、その大きく横に裂けた様な口の上顎から一対の鋭い牙が、今にもこちらの身体に突き立てられようと開いているのを。

 悪い冗談だ。きっと今日は仮想舞踏会か何かが開かれているのかもしれない。だが、そうは信じ切れなかった。ブライバスンでの夜の出来事が脳裡を過ぎる。ヴァンパイアは意外と身近にいるものだ。

 彼女が確信した時、ライラの慌しく祈りを詠む声が聞こえ、レイチェルの傍で風が舞い降りた。一つに結った長い金色の髪が大きく靡くのが視界の端に見えるや、ヴァンパイアの顔が粉となって消し飛んだ。

 首を失い崩れ落ちる胴体も、すぐに灰となり、それの詰まった衣服が転がった。ライラの手が真っ直ぐに伸びていた。神々しい白い光りが、剣の切っ先のように伸ばされた指から肩口までを包み込んでいる。身に纏っている神官の白い衣装と共に、それが聖なる乙女の騎士の姿を想像させた。

 レイチェルを正気に戻したのは、連れの女の忌々しげな舌打ちと、狼狽する声であった。

「よく見ればこの小娘めも神官か!」

 すると、女はスルスルと後退し、店の外へと出て行った。すぐに甲高い口笛が聞こえてきた。

「ここに獲物だよ! 生きた人間だよ!」

「しまった!」

 ライラはそう口走るや、外へと飛び出した。すぐにヴァンパイアの女の金切り声のような断末魔の叫びが通り中に響き渡った。それを皮切りに、恐ろしい地鳴りと、そこら中で、扉や窓が開け放たれるような暴力的な音が響き渡った。まさしく戦慄の音色であった。

 ライラは店に飛び込んでくると、険しい表情を浮かべて呼び掛けた。

「皆、急いで支度をしろ! 奴らが群れでやって来る!」

「ライラ、どうしたっていうの!?」

 奥の洗い場からティアイエルが尋ねた。

「ヴァンパイアだ、ティアイエル!」

 ライラが答えると、有翼人の少女は顔色を変えて駆けつけて来た。

「こんな昼間なのに?」

「本当なんです!」

 レイチェルは床に降り積もった灰と、衣服とを指差して応えた。ティアイエルはすかさず表情を引き締めた。

「レイチェル、ジミー、アンタ達は部屋から武器を持ってきて!」

「うん! 行こう、姉ちゃん!」

 二人は揃って階段を駆け上がって行った。静まり返り返った建物の中で、自分達の忙しい足音は恐ろしい程よく響いた。二人は二階の向かい合わせに十の部屋がある長い廊下を片端まで駆け、男女別で取った、向かい合わせの部屋へとそれぞれ駆け込んだ。革のバッグや巻かれた毛布などの荷物がまばらに置かれている。レイチェルは、ティアイエルの伸縮するカラクリの槍を手に取り、壁に立て掛けてあったライラの長柄の武器を引っ掴んだ。そうして、イーレに剣を返してから自分自身の武器を買い忘れていたことに気付いたが、それを後悔する前に、長柄の武器の重さに苦戦していた。ライラはよくこんな物を操れる。ティアイエルの縮んだ槍をベルトに差し込み、レイチェルは長柄の武器を両手で抱え上げていた。

「手伝うよ!」

 サンダーが素早く部屋へと飛び込んできて、二人係でどうにかそれを持ち上げた。階段へ向かおうとした時に、下の階から薄気味悪い男の哄笑が聞こえてきた。ガラスが割れる音と、モルドン老の怒鳴り声がそれに続いた。

 二人は必死な顔を互いに見合せ、急いで階段を下って行った。

 そして二人が階段から飛び出すと、目の前にはライラと、ティアイエル、モルドン老の背があり、三人を大勢の人々が集い鶴翼に取り囲んでいた。平服を纏う者が大半だが、中には剣を帯び鎧を着ている者達もいる。老若男女が入り乱れて、双眸を赤く光らせていた。彼らは上顎から一対の牙を見せつつ身も凍るような冷たい笑みを浮かべていた。

「持って来ました!」

「助かる!」

 レイチェルが言うと、ライラはヴァンパイア達を睨みながら礼を述べて片手で槍を受け取った。途端に長柄の得物は刃先から柄の根元まで、淡い聖なる光りに包まれた。更にレイチェルは、ライラを中心にして、足元もまた白い光りに染まっていることに気付いたのであった。

 それは邪悪なる者の侵入を阻む聖域の魔術である。レイチェルは先日の大聖堂での出来事を思い出していた。

 初老の神官長、レーベルン・フリットは、彼女を招き、しげしげと観察してからこう言ったのだ。

「なるほどシスターシルヴァンス、あなたの磨かれた精神と身体ならば、これからお教えする新たな術にも遅れを取らず、使いこなすことができるでしょう」

 半月形の眼鏡の奥で、明るいグリーンの瞳を柔らかく綻ばせながら、神官長はゆっくりと席を立ち、そして目を閉じて唄い始めた。温和で安らぎに満ちた声音が礼拝堂に冴え渡った。

 程なくして、神官長の足元が白い光りの輪を描き、それは大きな輪郭の軌跡を残して外へ外へと広くなっていった。

 神官長が言った。

「これが聖域の魔術です。邪悪なる者、不浄なる者の侵入を阻みます。あなたの心が強ければ強いほど、より強大な者達の魔手を防ぐことができるでしょう」

 上の階でガラスが割れる音が聞こえた。

「なんと、上にもいるぞ!」

 レイチェルの隣で手斧を手にしたモルドン老が階段を見上げて声高に言った。

 上階の床を踏む音が幾つか続き、レイチェルを更に緊張させる。眼前を埋め尽くす憐れな元人間達は、目を赤く光らせ、勝ち誇ったような不気味な笑みを浮かべた。

 ティアイエルが、レイチェルのベルトから自分の縮められた槍を取り、一振りして刃を伸ばした。

「ライラ、アンタの力を私にも分けてちょうだい」

 彼女は槍を差し出すと、サンダーも気付いたように小剣を捧げ向けた。ライラは意図を悟ったようにそれぞれの切っ先に手を触れ、短く唄を口ずさんだ。二つの武器はすぐに聖なる光りに包まれた。

 そして後ろの階段には、さっそくヴァンパイアと成り果てた人々が、その血の気の失せた恐ろしい容貌を曝け出した。先頭にいるのは分厚い肉きり包丁を掲げた太った年増の女だ。彼女の顔は凶悪そのものに染まり果て、一歩降りてくる度にレイチェルを慄かせた。

「皆、光りの外へは出ないでくれ」

 ライラが訴えた。光りの一部は階段の途中まで伸びており、年増女率いるヴァンパイア達は目前で足を止めていた。

 ジリジリと迫る邪悪な者達を睨みつつ、ライラが忌々しげに歯噛みした。

「これではこちらも動けないか……」

 ふと、食堂に群れるヴァンパイアの中から一人の男が進み出てきた。軽装の鎧で身を固めた冒険者のようであった。

「聖域とは言うが……」

 そう言うと、相手はおもむろに腰に手を伸ばし、一気に剣を抜き放った。

 聖域がその刃を塞ぐものとレイチェルは思い込んでいたことに気付かされた。刃は空を斬ったが、聖域に阻まれることはなかった。

「御覧の通りだ、諸君」

 ヴァンパイアの冒険者は、冷たい笑みを浮かべた。

 途端に、ヴァンパイア達は一斉に手にしていた得物を身構えた。剣に包丁、大工道具の槌に鋸、老人用の杖などが姿を見せた。それを放り投げようと身構える。

「いかん、あれは防げん!」

 ライラは声を上げるや、両手を広げて仁王立ちした。

「何やってるのよ! 駄目よライラ!」

 ティアイエルが悲鳴のような声を上げ、ライラの腕に縋りついた。

「しかし、お前達が串刺しになってしまう!」

 ライラは声を荒げてティアイエルに応じた。

「アンタはどうなるのよ! 冗談じゃないわ!」

 ティアイエルが怒鳴り返し、ライラは萎縮したように言葉を呑み込み、瞠目していた。

「ならば……よし、私に続いて中央突破に賭けてみるか?」

「いいえ、突破するのはこっち側よ!」

 ティアイエルはそう叫ぶや、素早く後ろを振り返り階段を駆け上がった。その手の光りを帯びた槍が立ち塞がる年増女の胸を貫き、たちまちの内に灰塵と化した。

「皆、来て! ライラは後ろをお願い!」

 そうしてティアイエルは、意表を衝かれたヴァンパイア達に槍を繰り出し、灰の雨の中を登って行く。レイチェルは有翼人の少女が聖域を飛び出していることに気付き、すかさず後を追いながら覚え立ての唄を口ずさんだ。

 その脇を小剣を手にしたサンダーが駆け上がって行く。居並ぶヴァンパイア達はすぐに正気に戻り、武器を、あるいは刃物の様に伸びた手の爪を振り回し、応戦してきた。しかし、彼らの爪は聖なる光りを帯びた武器を受け止めるや、蒸気を立ち昇らせ、ボロボロに崩れ落ちていった。ティアイエルとサンダーは協力して一人ずつ仕留めていった。そして彼女達の足元に、レイチェルの形成した聖域の端が追い付いた。その瞬間に二人の間近にいたヴァンパイアは雷のような鋭い音と共に、壁へと吹き飛ばされていた。

「急げ! あの娘だけではいつまでも防ぎ切れんぞ! ええい、嬢ちゃんや!」

 モルドン老がレイチェルに追い付き、手斧を差し向けた。レイチェルはすぐに鉄の刃に手を触れ、聖なる光りが移る様に唄と祈りを込めた。彼女の予想よりも早く、斧は光りに包まれた。そしてモルドン老は後ろへと急いで引き返して行った。

「姉ちゃん! 光りが届いてない!」

 サンダーがこちらを振り返って訴え、レイチェルは慌てて先を行く二人に追い付く。階段が終わり、左右に部屋のある廊下の中心に彼女達は飛び出ていた。双方向にヴァンパイア達は待ち構えていた。勢い勇んで襲い掛かってきたが、レイチェルの聖域が追い付き、奴らをそれぞれ弾き飛ばした。しかし、どちらの廊下にもまだ数体の敵が佇んでいた。ティアイエルは途方に暮れた様に左右に忙しく目を向けていた。

 すると、慌しい足音を響かせてモルドン老とライラが階段の上に姿を見せた。

「おおい、連中を足止めしておいたぞ!」

 モルドン老が言った。

「足止めってどうやって?」

 サンダーが敵から目を放さずに尋ねた。レイチェルにもその手段の見当がつかなかったが、二人の姿を見て彼女には気付いたことがあった。ライラもモルドン老も丸腰の状態であったのだ。

「武器はどうしたんですか?」

 レイチェルは驚きながら二人を交互に見た。モルドン老が答えた。

「階段の途中にな。組み合わせて柵にしたのじゃよ」

 ライラが付け加えた。

「聖なる光りを帯びている。それが消えるまでは迂闊に手出しはしないだろう」

 そして彼女は驚いたように言った。

「レイチェル、凄いな。お前も聖域の力を操れるのか」

 しかし、ライラは「だが」と、神妙な顔で言葉を続けた。

「聖域の力は精神に多大な負荷をかけてしまう。後は私のだけで充分だ」

 そして労うように肩に優しく手を置くと、彼女はティアイエルに言った。

「ティアイエル、立て籠もるのだろう? どっちの方角が良い?」

「クレシェイド達の部屋が良いわ。通りも見えるし。だけど、できれば私達の部屋から荷物も取ってきたいところね。長くなりそうだもの」

 有翼人の少女は敵を睨みながら答えた。

「ならば」

 ライラはレイチェルを振り返った。

「今少し、聖域を開いておいてくれ。私は先を、レイチェルは後ろを頼む」

 その指示に頷き、レイチェルは殿へと位置を変えた。彼女の目の前には三体のヴァンパイアがいる。そのうちの一体は気を失い倒れていた。立っているのは商人風の格好をした痩せぎすの男と、老翁のヴァンパイアであった。双方とも背筋を伸ばし、伸びた爪をガチャガチャいわせながら、赤い目を光らせている。サンダーがレイチェルの隣に並んだ。

「では、行こう」

 ライラが言い、一行は歩き出した。二体のヴァンパイアは追うべきか戸惑いを見せた後、幸いにもその場に留まった。彼女が背中の方角を振り返ると、ライラの放つ聖域を恐れ、立ちはだかっていたヴァンパイア達がそれぞれ左右の部屋へと飛び込んで行った。

 端の部屋に着くと、ライラとティアイエルはそれぞれ向かい合わせの部屋を勢いよく開き、身構えた。しかし、潜む者はいなかったため、モルドン老とティアイエルが、反対側のクレシェイド達の部屋へとセカセカと荷物を運び入れた。そして部屋へ入ると、ティアイエルとライラを抜かして三人は安堵の息を吐いたのだった。

 しかし、この部屋にもヴァンパイアが入ったらしく、割れた窓ガラスの破片が床に散っていた。そしてすぐ外からは大勢の邪悪な者達の怨嗟や、罵り、哄笑の合唱が聞こえ始めた。ライラが扉の前に行くと、聖域が向こう側にも伸びたらしく、悲鳴と共に逃げる足音が聞こえた。

「さて、どうするね」

 モルドン老がベッドに腰を下ろして誰とも無く尋ねた。その問いにティアイエルが応じた。

「窓と扉と見張る以外に特にないわね」

 モルドン老は深々と頷いた。

「他力本願か。あれだけの街の連中が向こう側にいってしまったのだ。実際に、こうして真っ当な人間達がこの町にどのぐらい残っているか……。居ったとしても、我らの様に追い詰められているじゃろうな。しかし、蛮勇に頼って軽率に死地へと動くよりは幾分マシじゃった」

「私もそう思う」

 ライラが言った。

 外から若そうな男の声が轟いた。

「人間ども、貴様ら聞こえているのか? 他を頼ろうとしても無駄だ! 町中の全ての者が今や我らが主の忠実なしもべよ! 時が経つごとに我らは更に厚く貴様らを取り囲むだろう! 大人しくこちら側へ来い、その血を捧げてしまうのだ!」

 冷たく歪み切った哄笑の数々が轟き渡った。

「見張り番を決めるわよ」

 ティアイエルは外に一瞥を向けると、一同に目を向けて言った。

「こんな状況で、眠れるかな」

 サンダーが憂鬱そうにぼやいた。

「眠らなきゃ駄目だ」

 ライラが少年の両肩に手を触れて落ち着いた声で言い聞かせた。

「うん、わかってるよ」

 少年が答えると、ティアイエルが言葉を続けた。

「ライラとレイチェルを軸にして、二つに分けることにするわよ。アンタ、大丈夫よね?」

 ティアイエルが疑うようにレイチェルへ目を向けたので、彼女は自分が気弱な態度を表に出していたのかと慌て、反射的に強く頷いて見せた。しかし、彼女もまたすぐに決意を固めたのだった。



 五



 もう夕暮れになっただろうか。

 黒のような紫色の雲は相変わらず空を埋め尽くしていたため、詳しい時刻は分からなかった。

 レイチェルはベッドから起き上がり背筋を伸ばした。結局彼女は眠ることができなかった。外のヴァンパイア達の嘲笑う声と、扉の向こうで廊下を行き来する連中の足音が耳障りで、いつ不意を衝いて部屋に飛び込んでくるものかと気が気じゃなかったからである。

 彼女の隣でティアイエルもベッドから身を起こしていた。

「眠れなかったようじゃの」

 窓際で見張りをしていたモルドン老が二人に言った。

「何か変わったことはあった?」

 ティアイエルが窓へ近付きながら尋ねた。

「奴らの数が少し増えたぐらいかな」

 反対側の窓際でサンダーが答えた。ティアイエルが慎重に窓から顔を覗かせると、途端に外からは、せせら笑いながら降伏を勧める声が口々に発せられた。

 有翼人の少女は鼻先で一笑すると、窓から離れた。

「ライラ、そっちはどうだったの?」

「こちらの聖域の寸前まで奴らは何度も近寄っては来たようだが、特に手出しはしてこなかった」

 ライラの表情に疲れを見ると、レイチェルは聖域の調を口にし始めた。程なくして、白い聖なる光りが、彼女を中心に円を描いて広がった。

「交代します」

 レイチェルが言いながら近寄ると、ライラは首を横に振った。

「だが眠れなかったのだろう? 私ならまだ大丈夫だ」

「駄目よライラ、決めたことなんだから」

 ティアイエルがピシャリと言い、レイチェルも頷いて同意した。

「では何かあったら起こしてくれ。気兼ねは無用だからな」

 ライラの足元を染めていた白い光りが消えていった。その途端に廊下を慌しく走る音が響き渡り、部屋の扉が物凄い力で打たれた。

 レイチェルは驚きのあまり心臓が止まったかと思った。そして扉はもう一度激しく打たれ、押し開かれた。

 そこには巨漢のヴァンパイアが立っていた。革の鎧に身を固め、手にはライラの長柄の得物を手にしていた。

「待った甲斐があった!」

 巨漢のヴァンパイアは狂喜じみた笑みを見せるや、武器の刃を突き出した。

 ライラは脇に避け、それを即座に掴み、抱え込んだ。

「これは返してもらうぞ!」

 彼女はそう言い、武器を引っ張った。

 ヴァンパイアがよろめいて部屋へ踏み込んでくると、ライラは聖なる調を詠みながら、武器を取り戻し、そのまま薙ぎ払った。

 巨漢のヴァンパイアの首が飛び、それはあっと言う間に灰となって飛散した。そして灰の詰まった鎧と衣服が床に倒れるや、レイチェルは素早く扉を閉め、その傍に立った。彼女は聖域が扉の外にまで広がっていることを祈っていた。

「すまないな、外で倒すべきだった」

 ライラは敵の残骸を見下ろしつつ歯噛みして言った。

「姉ちゃん、強いなぁ……。一瞬だったよ」

 サンダーが目を丸くして感激したように言うと、ライラは少々照れたように目を彷徨わせて、ついにはにかんだ。

「さぁ、私達は休むぞ」

 ライラはそう少年に促した。

 二つのベッドにライラとサンダーがそれぞれ横になった。二人はモルドン老を気遣い、ベッドを使うように言ったが、老人はやんわりと断りを入れた。「ここはワシの店で、お前達は客だ」そう言い、自分は早々と壁に背を預けて座り込んだ。そのため二人は不承不承引き下がったのであった。

 サンダーは起きているようだが、ライラとモルドン老からは寝息が聞こえていた。レイチェルは扉の脇で、ティアイエルは窓の端で、それぞれ敵の動向を窺っていた。

 ヴァンパイア達も疲れたと見え、外からも中からも包囲はしていたが、声は止みつつあった。久々の静寂にレイチェルは思わず安堵の息を吐いていた。ティアイエルがこちらを見たが、別段咎める様子は無かった。その表情からすると、彼女もまた少しだけ心に安らぎを取り戻したかのようであった。

「一応、言っとくけど、辛くなったらぶっ倒れる前に言うのよ」

「はい」

 先輩冒険者の気遣いに、レイチェルは嬉しく思い、少しだけやる気が漲ってきた。

「ティアイエルさんも、もしもの時は言ってくださいね」

「わかってるわよ」

 有翼人の少女は気だるげに片手をヒラヒラさせて応じた。

 ふと、外が慌しくなった。ヴァンパイア達が一斉に掛け声を上げている。

 ティアイエルが慌てて下の様子を振り返り、そして慌てて窓から離れた。

 尋常ではない様子にレイチェルは一気に緊張した。

 そして破れた窓越しに部屋を打ち付けたのは、長い梯子の先であった。

「どうしたの!?」

 サンダーが跳ね起きて尋ねた。

「奴ら登って来る気よ」

 ティアイエルが言うと、少年は窓の方へ駆け寄ろうとしたが、有翼人の少女が血相を変えて少年に飛び付いた。

 倒れる二人の頭上を幾つかの矢が通り抜け、天井に突き刺さった。

「ご、ごめんよ、姉ちゃん。俺、梯子を倒そうと思ったんだよ」

 サンダーが先輩冒険者に向かって恐縮して言うと、有翼人の少女は無言で立ち上がり、窓の端に身を潜め、槍を構えた。

 窓から突き出した梯子が不気味に揺れ始め、曲刀を手にしたヴァンパイアが顔を覗かせた。

「やっぱりだ、こっちからなら攻められる!」

 レイチェルへ真っ直ぐ視線を向け、意気揚々と部屋に踏み入ろうとしたところを、ティアイエルの槍が横から阻んだ。すると、ヴァンパイアは驚きのあまり、手を離し、絶叫しつつ落ちていった。外からドスンという嫌な音が木霊した。それっきり死んだかと思ったが、次の瞬間、憎悪に満ちたそいつの声が聞こえた。

「ふざけた真似しやがって! 矢を撃て、俺を援護しろ! もういっちょ登ってやる!」

 再び下から矢が飛来してきた。すると、サンダーが身を伏せながら、窓へと近寄って行った。そして梯子が揺れた瞬間、彼は半身を起こして、力の限り梯子を押し返した。

 あのヴァンパイアの絶叫が再び響き渡り、梯子が転がる音が聞こえた。

 サンダーが再び身を伏せると、ふとその上から、あのヴァンパイアが再び顔を見せた。長く伸びた爪のある手で窓枠をしっかりと握り締めている。サンダーがその手の平に剣を突き立てたが、刃は通らず滑り落ちた。

 ヴァンパイアが少年を見下ろした。

「鋼のような肉体を見よ。これこそが我らの授かった力よ」

 ヴァンパイアが、部屋へと足を踏み入れた。ふと、真っ赤に光る双眸が、丸く見開かれると共に、その身体がよろめいた。

 そして断末魔の声も残さずヴァンパイアは前のめりに倒れた。

 何が起こったのだろうか。見れば、背中には何か細長いものが一本突き刺さっていた。

「矢だ」

 少年が言った。見れば、それは確かに矢であり、それを示すように後ろの方には大きな白い羽が挟み込まれている。

「どうしたのだ?」

 ライラがベッドで身を起こしていた。レイチェルがどう答えるべきか戸惑っている間に、彼女は歩み寄って来ていた。

「矢だな」

 ライラはしげしげと眺め、そして思案下に首を捻らせた。

「油断はするな。ただの矢でヴァンパイアが仕留められるとは思えない」

 レイチェルはその言葉に「あっ」と、思い出した。矢がヴァンパイアを射殺したところを彼女は見たことがあった。ブライバスンで、メイベルを襲おうとしたヴァンパイアを、エルフ族のエリーの矢が射抜き仕留めたのであった。

 もしかすれば、エリーがここにいるのだろうか。いや、彼はしばらく町に残ると言っていた。ならば他のエルフ族の誰かがこの場にいるのだろうか。

 ライラはヴァンパイアの身体の下に足先を滑り込ませ、そして横たわる躯を横に回した。カッと見開いた赤い目は光りを失い、開かれた口からは一対の牙と赤っぽい舌が覗いていた。

 矢は胸の辺りを射抜いていた。突き出ているその先端には鏃は無く、直接鋭く尖らせられていた。傷口から緑色の血が床に溜まりを作り始めていた。

「たぶん、死んでるわ」

 ティアイエルが言い、レイチェルを見たので、彼女は頷き返した。ティアイエルもエルフのエリーのことを思い出したのだろう。外のヴァンパイア達は状況を知らぬようで静まっていた。

「しかし、誰の仕業だ? 灰にはならないが、これは浄化の力のある矢だ。ヴァンパイアどもが扱えるとも思えん」

 ライラが訝しげに言い、一同は無言で思案に暮れた。レイチェルはエルフの可能性があることを言うべきかと思ったが、ティアイエルが黙ったままなので口を噤んでいた。それに確証も無かった。もしかすれば奴らは矢に触れることなら可能であり、単純な同士討ちだったのかもしれないのだ。

「まぁ、とにかくじゃ……」

 モルドン老が起きてきた。

「本当に死んでいるなら、そいつをここに置いとくのはどうにも気が進まん。外へ落としてしまおう」

 老人は嫌悪するように言った。レイチェルには、その行動はヴァンパイア達を刺激してしまうのではと思えた。だが、考えてみればどの道こちらに逃げ場は無い。奴らの陰湿な合唱が、怒りのものへと変わるだけのことだ。

 ライラと、サンダー、それにモルドン老が敵の遺骸を持ち上げ、そして外へと放り捨てた。

 不気味な静寂の後に、外からは罵声や怒声が響き渡った。その声に耳を傾けたところ、ヴァンパイア達もまた驚き、そしてこの中に裏切り者が紛れていると、互いに喚き散らしているようであった。背中に刺さった矢の意味が連中にも理解できたのだろう。

「さて、寝直すとするかの」

 モルドン老は壁際へと戻って行き、再び腰を下ろしていた。

「アンタ達も、交代になるまで寝てなさいよ」

 ティアイエルが言うと、サンダーとライラは顔を見合わせ、互いに納得したようにベッドへと戻って行った。横になって間もなく、サンダーが身を起こして、天井を指差した。

「あれ、あの矢に何かついてるよ」

 少年が示すところには、幾つかの矢が突き刺さったままであった。そのうちの一本が、他のものに比べ、一際長い矢であり、おそらくはヴァンパイアを射抜いたものと同じだと、一目でわかるものであった。そして矢の中心に何かが結び付けられていた。

 ティアイエルが槍を伸ばして、矢を引っ掛けて落とした。

 彼女はそれを拾い上げ、結わえられた羊皮紙を解くと、広げて覗き込んだ。

「何て書いてあるの?」

 サンダーが歩み寄って行った。ティアイエルは無言で紙を少年に渡した。少年は中身を読みつつ表情を大きく驚愕へ変えた。それは手紙に違いない。当然レイチェルにもそれがわかった。差出人はヴァンパイアを退治したこちら側の人間のはずだ。彼女はそこに記されている中身が気になったが、持ち場を離れるわけにはいかなかった。それを察したのか、少年が内容を読み上げた。

「生き残っている方々へ。今は耐え忍び、機会を待っていて下さい。それと、町中を覆う闇は強力なものです。あなた方が生きておられるということは、何らかの聖なる力が身近にある証拠です。それを片時も手放さず、あるいは離れる事無く、今はただ辛抱なされて下さい。銀かトネリコでできた品を身に着けなさい。火が炊ければそうなさい。それらの魔除け力が、町中を汚染する大きな闇の力からあなたを必ずや護るでしょう。……宛名は書いてないね」

「ありがとう」

 レイチェルは少年に礼を述べた。

「ううん。でも、そうなると、この矢はトネリコの木でできてるのかな。手紙の人の言うことが本当なら、御利益があるかもね」

「そうね。とりあえずアンタが持ってると良いわ。寝るときも近くに置いておきなさいよ」

 ティアイエルの勧めに少年は頷いた。彼はそのままベッドへ戻り、横になった。矢は右手のすぐ隣に置かれた。安心したのか、少年はすぐに眠りに落ちていった。

 一方、下のヴァンパイア達の様子が慌しくなっていた。

 聴くところによると、どうやら彼らは疑心暗鬼に陥り、互いに仲間である証を見せ合っているようだ。

「お前、牙が短くは無いか?」

「そんなことはない! 貴様こそ妙に長すぎるのではないか」

 そのような疑いの声は、やがて白熱し喧騒となって絶え間なく聞こえ始めた。これなら少しは気を抜くことができるかもしれない。レイチェルは疲れていたため、外の諍いが長引くことを痛切に願った。

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