第13話 「合流」

 南の一帯を治める領主は、政治を司る人物というよりも、軍隊を率いる将軍という印象が、ライラにはあった。スコンティヌウンス・サグデン伯爵は、その突っかえそうな名前に似合わぬ威風堂々とした男だ。今は簡素な貴族の礼服に身を包んでいたが、それが不釣合いなほど、大柄な身体はよく鍛え抜かれているようだ。頤が広く整った顔立ちをし、テーブルの向こうで、こちらを見詰める両眼は、子供の様に爛々としながらも、奥底の方では、どっしりと落ち着いた色を覗わせている。

 屋敷は大きかったが、殆ど質素で、飾り気が無かった。今、通されている応接間にも、庶民とは違う権力を象徴させるようなものは見当たらなかった。伯爵の姿は、ライラの知る貴族というものとは掛け離れていた。そして、力強さと落ち着きとを孕んだ明朗な声は、萎縮しかけていたこちらの心情を大いに解してくれたのであった。

 ライラとサンダーは伯爵の質問に答えていった。二人は違う冒険をしてきたが、伯爵としては、やはり自身の娘と共にあった少年の話しの方が興味深かったようだ。ライラが話したのは、ペトリア村の襲われた様子が主であり、伯爵の娘シャロン・サグデンの三人の従者達のことであった。ならず者達のせいで、焦土と化した村を、ドワーフのアディー・バルトンが指揮を取っていること。フェーミナは深手を負ったが、命に別状が無いこと。そしてリザードマンのロブと、行動を共にしたことなどである。だが、邪悪なる竜については、祠のことも、キリオンと闇の剣のことは黙っていた。そして隣で話すサンダー少年の話しを聞きながら、彼とレイチェルが、幾度も絶体絶命の状況に陥りながらも、冷静さと勇気を失わずに行動をしたことを知り、思わず胸が篤くなっていた。そこに自分がいれば、二人の代わりに存分に役に立てたはずだ。そう申し訳なく感じていた。

「そうか。我が娘は良い者達と出逢えたのだな」

 サグデン伯爵は心底安堵したかのように言い、表情を改めて話を続けた。伯爵はここから南方にあるムジンリの町の異変を話して聞かせた。逃げ延びた住人達が、ヴァンパイアが町を支配したと述べたこと、門は固く閉じられ、小高い丘にある町の周囲には、邪悪な石像ガーゴイルが、寂れた霊園にある墓石群の如く、無数に突き立ち、救援隊を壊走させたことを述べ、頭を悩ませていた。

「今は南の街道は封鎖している。どうにか、ムジンリを取り戻すために、戦士や魔術師、そして神官の志願者を募っているところだ。幸運なのは、最強と名高い神官戦士エルド・グラビスが、お前達と共にここへ来ていることだ。彼が討伐の仲間に集えば、その声望の下に、勇気を持つ者達が各地から馳せて来るだろう」

 伯爵は使用人を呼び、エルドを引き止めるように命じた。ライラ達と行動した神官達は、道連れとなった女達の面倒を見るために、奔走しているはずだ。そして、エルフのサナトゥースは町の何処かの宿に泊まることを別れ際に告げていた。一方、ヴァルクライムの方は、魔術師ギルドに顔を出しに行っている。ギラ・キュロスの剣の鞘を探しに出向いているのだ。剣の闇を覆い、保持し、そして身体から遮断できる程の鞘か、その代わりになる物を彼は求めている。

 扉が叩かれ、使用人が来客を告げたので、サグデン伯爵は申し訳なさそうに座の解散を告げた。

「ギルドの方へ、報奨金は届けてある。それと、娘からの要望なのだが、お前達さえ良ければ、しばらくこの屋敷に滞在してもらいたい。無論、部屋は用意する」

 ライラとサンダーは顔を見合わせた。伯爵の家に泊めてもらうなど、恐れ多いことだと、互いの顔が告げていた。ライラが丁重に断りを入れようとすると、部屋の扉が叩かれ、使用人の若い女が顔を覗かせた。

「お部屋の用意が整いました」

 伯爵はその言葉に頷いた。使用人の女はこちらを見て言った。

「お部屋まで御案内させて頂きます」

 それから二人は広い屋敷の廊下を行き、幾つかの扉の前を通り過ぎながら、二階へと案内された。廊下も階段も、磨かれた材木がふんだんに使われていた。窓から入る陽の帯と合わせ、まるで、ちょっとした木漏れ日の中を散策しているような気分にする。再び広々とした廊下が左右に広がり、遠くまで伸びていた。また幾つもの扉を通り過ぎると、ようやく西の外れの部屋へと通された。

 そこは清潔で涼やかな居室であった。寝台が二つと、机と椅子がある。そして開け放たれた窓の外には広々としたバルコニーがあった。

「湯浴みの支度が整いましたらお知らせに上がります」

 使用人は丁寧に一礼して去って行った。

 ライラはバルコニーへと出てみた。伯爵のお屋敷は高い丘の上にあった。そして眼前に広がる町並みを一望することができた。石壁が町を囲んでいる。そして東と西、そして南の門がそれぞれの切れ目にあった。南門の大きな扉は閉められているが、東西の方は開け放たれている。出入りする人や馬車の姿がおぼろげに見えた。

 だが、彼女が目を引かれたのは、町中に聳える四つの尖塔であった。おそらくは教会だろう。中心から離れた東よりの方角にそれぞれ点在していた。あの中に、自分が主と仰ぐ戦神ラデンクスルトを祭る教会があるに違いない。一度赴くべきだろうか。彼女は軽く思案し、キリオンの祠で、ヴァルクライムの傷を聖なる力によって癒したことを思い出した。赴くべきだと、彼女は強く思った。

 彼女が振り返ると、サンダーはふかふかの寝台に仰向けになり、寝息を立てていた。きっと安心した途端に溜まっていた疲労が押し寄せてきたのだろう。彼は頑張った。ライラは微笑ましく思ったが、ちょうど扉が叩かれ、先程の使用人が湯浴みの準備が整ったことを告げた。

 眠るのなら、身体がさっぱりしてからの方が良い筈だ。少々胸が痛んだが、ライラは少年の肩を叩いて声を掛けた。

 サンダーは、一瞬だけ間を置き、慌てて飛び上がる様にして起き上がった。少年は周囲を見回し、最後にライラを見上げた。

「先に湯浴みをしよう。その方が気分よく眠ることができるぞ」

 少年はまるでここが何処だか思い出したように、ハッとして、頷いた。

 二人が並んで出ると、使用人は戸惑い気味に声を掛けてきた。

「あの、お風呂は一つなのですが……」

 それはそうだろうとライラは思った。すると、使用人はおずおずと尋ねた。

「真に恐縮ですが、お二人は御姉弟なのでしょうか?」

「いや、そうではない。だが、私にとっては弟みたいなものだ」

 ライラはそう答えたが、何故かサンダーの方が慌てて声を上げた。

「俺は後で良いよ。姉ちゃん、先に入って良いから」

 疲れ果てているというのに、何と健気なことを言うのだろうか。ライラは胸が篤くなった。

「お互いくたびれているのだ。そういう気兼ねは無用だ。一緒に入るぞ」

 サンダーはまだもたもたと、遠慮しているので、ライラは溜息を一つ吐き、その身体に手を回して持ち上げた。

「すまぬが、案内をお願いする」

 サンダーは暴れはしなかったが、まだ譲る譲ると声を上げていた。使用人はとんでもないと言う様に顔を横に振った。

「申し上げ難いのですが、こちらのサンダー・ランス様も、こうおっしゃっておられますし、お一人ずつの御入浴の方が……」

 サンダーは使用人の言うとおりだと、幾度も頷いた。ライラは、彼を労うために、背中を流し、頭を洗ってやるつもりだったので、思わず気落ちした。だが、サンダーは照れているのだと彼女は思い直した。そういう年頃なのだろう。ならば仕方が無い。ライラはサンダーを下ろし、先に風呂に入るように促した。少年は頑なに、先を譲ろうとしたが、こればかりは姉の名誉にかけて認めるわけにはいかなかった。サンダーも諦め、先に使用人について廊下を行き、やがて階段を下って見えなくなった。ライラは、部屋に戻ろうとしたが、ふとサンダーが湯浴みの最中に浴槽で転寝し、溺れ死んでしまうのでは無いかと不安になった。慌てて廊下を駆け、階段の下で二人に追いつくと、彼女は使用人にくれぐれも目を放さぬようにと頼み込んだのだった。



 二



 薄手か、厚手か、魔術師にとって秋は微妙な時期である。その丈のある胴衣を纏うにあたり、果たしてどちらにすべきだろうか、ふと思案に暮れる時がある。そもそも魔術師は何故鎧を好まないのか……。そのような議論を端っこでする二人の若い魔術師の言葉が耳に届いてくる。なるほど、と、ヴァルクライムも思った。だが、どうだろう。この私がフードを捨て、兜を被ったとしたら、どうにもちぐはぐな人間がそこに出来上がるのではないのだろうか。正解は、身軽であり続けるためだ。魔術を詠み、集中できる場所を確保しなければならない。だからこそ魔術師の胴衣は、周囲の風景に溶け込めるよう、暗い色を基調とされているのだ。残念ながら、若い魔術師達の議論はそのまま平行線になっていった。

 アルマンの魔術師ギルドには三つの受付けの卓がある。彼はその左端で、ギルドの長のロスト・フォトンが戻って来るのを待っていた。ギラ・キュロスの剣を他のギルド員と共に捧げ持ち、そのまま奥の間へと引っ込んでしまったのだ。第一印象だが、ロスト・フォトンはそこそこの使い手だと彼は感じた。面識は無いが、アルマンのギルドの長と、魔術師の家系クライムの名を、お互いに知ってはいた。

 卓の向こうには蔵書が山積みになっている。過去の歴史を解明し、整えて公にすることも魔術師ギルドの役目であった。大概、ギルドに積まれているものは、そのための手掛かりと思しきものだと決まっている。それが本当の手掛かりになるかと問われれば首を傾げなければならないが……。

 奥の扉が開き、ギルド員の魔術師が二人係で、長い木箱を運んで来る。その後ろを、まだ年若い男が続いて来た。彼こそがロスト・フォトンだ。そしてヴァルクライムはさすがに察したのだった。この棺桶のミニチュア版のような木箱の中にギラ・キュロスが収められているのだ。これが鞘代わりということだろう。

「何とも恐ろしい剣だ。我々はどうにか耐えたが、ソードンの奴が、剣に魔力を吸われて気絶してしまった」

「彼は無事なのか?」

 ヴァルクライムが尋ねると、ロスト・フォトンは、生真面目そうな顔を頷かせた。

「強い聖水を幾つか振りかけて、どうにか呪いの浸食を振り払えた。しかし、あなたは、さすがはクライム家の方だ。一人で何日、この剣を相手にしたのですか? 刃先と柄に手を置き、闇の浸食を剣と身体とを循環させて、永久に乗り切るだなんて……。いっそ、神官に頼んで、全てを浄化して無にしてしまえばよかったのではないですか?」

「それでは駄目だ。台無しになってしまう。この膨大な闇の力こそが今の私にはどうしても必要なのだ」

 ヴァルクライムが言うと、ロスト・フォトンは、解りかねるというように渋面を浮かべた。

「これだけの闇を受ければ、呪いが浸食する前に、圧死するでしょうね」

 ロスト・フォトンは、ヴァルクライムの顔を真っ直ぐ見詰めて言った。そのようなものを何者に向ける腹積もりなのか、是非窺い知りたいと、訴えているようだが、無駄だとわかると相手はギルド員に箱を卓に載せる様に言った。それは一見すれば素晴らしい木の箱であったが、そうではないと、彼は見抜いていた。すると、ロスト・フォトンが言った。

「当然ですが、裏側にはミスリルの板を貼り付けて覆ってあります。これが、剣と外とを遮断してくれるでしょう」

「ありがたい。まさに、求めていたものだ」

 ギルド員が誓約書の羊皮紙を差し出し、ヴァルクライムはサインした。ギルドに属していたおかげで、割安で借りることができたのだ。今日こそ、魔術師ギルドの素晴らしさを感じたことは無かった。彼が木箱を背負うと、周囲にいた魔術師の客らが、好奇の視線を向けてきた。だが、誰もヴァルクライムに話しかけようとする者はいない。目が合うと、畏怖されたかのように伏せてしまう。彼らにとって、クライム一族とはそういうものらしい。ロスト・フォトンも他の者からの質問攻めに合うのを嫌ったのか、奥へと引っ込んでしまった。

 さて、後はクレシェイド達を待つばかりだ。ヴァルクライムはギルドを後にした。

 その日の夕食は、伯爵の屋敷で賑やかに行われた。招待客は、ヴァルクライム達の他に、エルドら三人の神官達も招かれた。

 サンダーもライラも、大きな円卓を埋め尽くす、鮮やかな料理の数々に舌を巻き、緊張のあまり、その手は半ば凍り付いているかのようであった。ヴァルクライムも、このような豪勢な晩餐は生まれて初めてだったため、思わず感心をしていた。二人のように恐縮すべきだったのだろうが、そのような性質ではなかったため、次々と料理を味わい、上等なワインを口にした。その姿に鼓舞されたかのように、仲間の二人も悪戦苦闘しながら、フォークやナイフを動かして、その甘美な味わいに呑み込まれていった。そして、少し遅れて、二人の女性が姿を現した。艶やかな黒い衣装に身を包んだ貴婦人と、ピンク色のドレスを着た黒髪の少女であった。前者は伯爵夫人、後者はサンダーとレイチェルの恩人でイーレと名乗った薬師の少女だ。

 伯爵夫人は一同に軽い口調で挨拶した後、イーレを座席に導いた。彼女はシスター・ラースクリスの隣に行き、こちらと向かい合う座席に腰を下ろした。

「おお、イーレ、似合ってるじゃんよ」

 サンダー少年は、相手の変わり様に驚き戸惑いながらも、素直な感想を述べていた。その時、相手の少女は居心地が悪そうに視線を俯け、程なくして、短く素っ気無いような口調で礼を述べた。伯爵夫人は微笑ましそうに、あるいはからかう様な視線を二人に向けてそっと笑んでいた。なるほど、女の勘という奴か。と、ヴァルクライムは恐れ入ったのだった。それからは伯爵と夫人の間にいるシャロンお嬢様が語るお話しの独壇場が続いた。彼女は脚色無しに正直に、声高く語り続けた。その多くを共にしたレイチェルと、サンダー、そしてイーレがいかに苦難に立ち向かったのかという内容であったが、居合わせた誰もが興味深く彼女の話しに耳を傾けていた。そしてお嬢様はエルフのサナトゥースとの出会いと、彼の力による双子の剣の共鳴で、レイチェルが無事だと知ったときの喜びようを語って、終幕となった。そして咳払いを一つすると、お嬢様は得意げに言った。

「イーレは、今後、この屋敷に住まい、わらわの精霊魔術の師となってくれたのじゃ」

 すると、エルドの従者クレソナスが、第一声に大げさなほどの祝いの言葉を発し、居合わせた人々も次々に賛辞を述べた。イーレは冷静な声で、一同に礼を言った。そして賑やかな座は閉幕となった。それが昨晩の話しだ。それから三人は朝餉の後、伯爵亭を出て、冒険者ギルドに向かった。ヴァルクライムとしては、リザードマンの忠実な従者ロブと、挨拶を交わしたかったが、彼もまた休む間もなく役目を果たしに出向いたため、望みは叶わなかった。

 ベッドは上等だが堅苦しそうな伯爵家での滞在を辞し、冒険者ギルドにして、宿泊施設でもある「跳ねる翁亭」へ入った三人は、依頼の報奨金を貰い、思い思いの時を過ごしに出て行った。と、言ってもライラは大きな町に戸惑い気味だったので、サンダーが一緒について回ることになった。彼女はレイチェル達の到着を心待ちにし、まずは西の門に行こうとサンダーに提案した。レイチェル達が現われなければ、その後は戦神の教会に顔を出しに行くらしい。サンダーは嫌な顔一つせずに年上の女性を引っ張って行った。

「跳ねる翁亭」は、ウディーウッドの「走る親父亭」と同じで、一階は食堂と事務所を兼ねていた。ヴァルクライムは食堂の隅のテーブルに腰を下ろし、ハーブの入った茶を啜りつつ、出入りし、屯する冒険者達の姿を眺めていた。老若男女の冒険者達が掲示板の前を行き来し、新たに張り出された依頼を眺めている。そして気に入れば、掲示板から羊皮紙を剥がし、ギルド長のモルドン老人の方へと持って行く。モルドン老人は、老齢だが小柄な背筋はシャンとしており、言葉も明瞭であった。ただし、目が悪く、よく細めて、物や人を見たり、応対したりするので、いつしか、睨みのモルドンという渾名で呼ばれるようになっていた。

「ヴァロウ・クライムよ、お前さんは、一体何を待ってるんだい?」

 若手の二人の冒険者に依頼を紹介した後、モルドン老人はヴァルクライムを凝視しつつ言った。離れているが、老人が目を細めているのが動作でわかった。

「竜退治の依頼なんかが舞い込んでこないものかと思ってるのさ」

 ヴァルクライムは本音を述べた。彼は邪竜デルザンドに関連する話題が舞い込んで来ないものかと気になっていたのだ。あの大きな身体が空を行く影を誰かが目撃していないだろうか。クレシェイド達に話さなければならないが、当面は、邪竜の行方を捜し、討伐するために動くことになる。そうでなければ、エルドとの約束を違える事にもなるし、闇を吸い力とするクレシェイドの剣を返上しなければならなくなる。クレシェイドの追う、マゾルクとやらに勝てる要素が皆無となってしまうのだ。ギラ・キュロスこそ、クレシェイドの最後の希望だろうと、ヴァルクライムは固く信じていた。竜の纏う闇を今一度、この剣に吸わせれば、もはやこの世に討てぬものはなくなるはずだ。

「昔はともかく、ここしばらくは、竜なんぞ聞かないな。山の亜竜どもなら時折、退治依頼が出るようだがの」

 老人はしばし考えるとそう言った。

「だが、最近は怪鳥ルフの飛んでく姿を見掛けるのが多くなったようだ。あるいは、竜のような存在に塒を奪われたのかもしれんな」

 ヴァルクライムは老人の言葉に驚愕した。筋が通っている。まさしく言うとおりの展開なのかもしれない。

「どの辺りでルフを見たのだ?」

「どの辺りと言われてもなぁ、ワシが見た訳でもない。しかも、どうにも一羽だけとは限らんようだしの……。だが、大体目撃者の話をひっくるめると東の方になるだろうよ」

「東か」

 当ての無い旅になるかと思ったが、早くも光りが差してきたようであった。


 三


 馬の足音が変わった。剥き出しの土から、舗装された石畳へと、道が変化したのだ。目指すアルマンは目と鼻の先である。それぐらいはレイチェルにもわかっていた。

 クレシェイドがこちらを振り返り、馬を降りる様に言った。見ると、前方には長槍を手にした衛兵が二人居り、彼らはこちらを凝視しつつ、互いに槍を合わせて進路を塞いでいたのだ。

 レイチェルはティアイエルと同じ馬に乗っていた。クレシェイドにはミノスの大太刀が加わったので、さすがに大きな馬でも、更に人一人を乗せることには限界があるだろうと、話し合った結果である。ミノスの里を後にしてからは、ティアイエルの後ろに座り、自分とはさほど年の違わない先輩の、巧みな手綱捌きに幾度も感心させられた。何処で習ったんだろう。自分が教会で教えを受けている間にも、ティアイエルは既に冒険者をしていたのだろうか。ティアイエルはお喋りではなく、レイチェルもそうだった。だからこそ、道中は沈黙が流れたが、別段居心地の悪さを感じることは無かった。むしろ、寡黙そうなクレシェイドが、二人の身体の疲労を気遣い、声を掛けてくることが多かった。

 ティアイエルが馬から降りると、レイチェルも後に続こうとした。だが、不慣れなため、身体のバランスを崩し、強かに尻を地面に打ち付けながら一応は降りたのであった。

 行き交う人々が、視線を向けてくる。そして、前方の衛兵達も、彼女を注視していた。もしや、気を引いてしまっただろうか。彼女は面倒ごとになるのを恐れていた。それはクレシェイドのことである。もしも、鎧兜を脱いで姿を確認させろなんて言われたら、どうすれば良いだろうか。

「アンタ、何やってんのよ」

 ティアイエルが呆れ顔で言いながら、こちらを見下ろし、クレシェイドが手を差し出してくれた。その鉄の手を握り、レイチェルは立ち上がった。彼女は衛兵達の姿をチラリと横目で盗み見た。まだその場に立ち、槍を合わせて、通せんぼしている。余計な注意を引いてなければ良いのだが……。彼女はそう悩んでいたが、当のクレシェイドは馬を引きつつ堂々と歩いて行っている。ティアイエルも馬を引きつつ後に続いた。レイチェルもその後に従った。衛兵は壮年の男と、年若い男であった。目付きを鋭くさせ、向かってくる三人の姿を確認している。そして、槍が後ろへ引かれた。通行を許されたのだ。

 レイチェルは驚いていた。こういうのは、身分証明をするものではないだろうかと、信じ込んでいたのだ。そのまま衛兵の間を通り過ぎて行く。彼女がティアイエルに尋ねようとしたときに、壮年の衛兵が一行の背に、いや、レイチェルへ声を掛けた。

「神官のお嬢さん、アンタ、怪我などしなかったかね?」

 レイチェルは恐縮しつつ、言葉を探した。確かにお尻は痛いけれど、これは怪我に入らないだろう。レイチェルが頷くと、衛兵は言葉を続けた。

「昨日の事なんだが、冒険者の一人が、やっぱり馬から降りるのを失敗してね、不幸にも彼は足の骨を折ってしまったのだよ。だから、気を付けなさいよ」

 レイチェルは「はい」と返事をした。そして衛兵が背を向けるのを見て、心底安堵したのであった。考えてみれば、たくさんの冒険者達が始終出入りをしているのだ。少しでも身形が怪しいような人物などたくさんいるだろう。いちいち気にしていられないはずだ。

「まったく、心臓が縮んだわよ」

 ティアイエルが呆れ顔でレイチェルを見ながら言った。

「アイツのことで色々面倒になるのは、ごめんなんだから」

 レイチェルは誤魔化すように笑うしかなかった。クレシェイドは先へ進んでいたが、その背が不意に歩みを止めた。そして彼はこちらを振り返って言った。

「サンダーと、ライラが出迎えに来ているぞ」

 その言葉に二人の少女は驚き、顔を見合わせた。レイチェルはティアイエルの顔が嬉しさで輝き、彼女がそれを慌てて引っ込めるのを見逃さなかった。

「ふーん、来てたんだ」

 ティアイエルは仏頂面でそう言った。

「嬉しくないんですか?」

 レイチェルは思わず口を滑らせた。

「さぁ、どうかしらね」

 有翼人の少女はそのままの顔で言った。

 出迎えの二人がクレシェイドのもとへと駆けて来た。ライラの大きな姿の後に、サンダーが続いている。相手の二人の喜びようは凄かった。そのため、しばし人々の注目を受けていた。クレシェイドがこちらを指し示すと、ライラとサンダーは、すかさずすっ飛んで来た。

「レイチェル! 本当に生きていたのだな!」

 ライラは声を張り上げ、その身体を抱き締めてくれた。相手の身体と心の温もりとを感じ、心に安らぎを感じた。

「俺も姉ちゃんが死んだとばかり思ってたよ」

 サンダーが言った。

「だって、天井が崩れて、洞窟はすっかり埋っちゃったんだから」

「私も駄目だと思ったけど」

 レイチェルは照れ笑いを浮かべながら応じた。思い返せば、本当に奇跡的であった。崩落した岩と砂とに囲まれ、それも上手く掘り進んで逃れることができたのだから。レイチェルはその後のことを話そうとした。大きな鳥に運ばれ、ティアイエルとクレシェイドと丁度合流できたこと、他には洞窟でのちょっとした冒険のこともだ。しかし彼女は開こうとした口をゆっくりと閉じていた。同時に心が悲しみと感謝で震えていた。こうして無事に出てこれたのは、一つはイーレが預けてくれた鎖断ちの剣のおかげでもある。そして、もう一つ、死んでしまった盗賊の男のことを忘れてはならない。だが、サンダーは、相手の足を切り裂いているのだ。聞かせればバツが悪い思いをするに違いない。レイチェルは首を振って、少年に言った。

「そうだ。イーレさんに、この剣を返さなきゃ」

 少年は頷いた。

「イーレは、お嬢様のお師匠様になったよ。今はお屋敷にいるんだ。後で返しに行こうよ」

 少年はニコやかに言ったが、その口が不意にあんぐりと開いた。彼の視線の先で、ライラが両腕を広げて、ティアイエルに歩み寄っていた。その有様は捕食動物が、獲物を追い詰めているかのようにも見えた。

「ライラ、私はいいのよ。ね?」

 ティアイエルは狼狽するように言ったが、ライラはゆっくりと彼女に近付いて行く。ティアイエルの背中の白い翼が馬の横腹にぶつかり、有翼人の少女は軽く悲鳴を上げた。そして迫り来るその腕の中に落ち、篤い抱擁を受けたのであった。

「本当に久しぶりだな、皆」

 ライラは一同を見回して言った。

「そうですね」

 レイチェルは同意しつつも、ヴァルクライムの姿が無いことが気になっていた。すると、その表情から読み取ったのか、サンダーが応えた。

「おっちゃんは、ギルドにいると思うよ」

 そしてサンダーの以外の者は、噂の当人がずっとその背後に現われたのを見たのであった。

「三人とも、ようこそアルマンへ」

 魔術師はからかうように言い、親しげな視線をレイチェルに向けた。

「嬢ちゃん、いろいろ大変だったな。よく無事でいてくれた」

 レイチェルは苦笑いをした。

「ティアの嬢ちゃんも、クレシェイドも、また会えて嬉しい限りだ」

 ティアイエルは仏頂面で応じ、クレシェイドは頷いて言った。

「俺もだ、ヴァルクライム。だが、まだ役目が済んでいないので、積もる話は後にしよう」

「お嬢様の護衛の報奨は頂いたが、他に何かあるのか?」

 ヴァルクライムが尋ねた。

「俺達は、ペトリア村の状況を伯爵に報告せねばならない。あとは、ムジンリの顛末も……」

 クレシェイドは意味ありげに声を落としたが、ヴァルクライムは悟ったように頷いていた。レイチェルは訳が分からず、他の仲間達の顔を見たが、皆同じように意味を推し量るように見詰め合っていた。

「後は、馬を返さねばばならない。ペトリア村の共有財産だからな」

「だったら兄ちゃん、俺が領主さんのお屋敷まで案内するよ」

「すまない、サンダー。その役目はヴァルクライムに頼もうと思う。そのお詫びと言う訳ではないが……」

 クレシェイドは鞘に収まった小剣を馬の鐙から外した。そして少年に差し出したのであった。

「これは飛礫の小剣という、ちょっとした魔法の剣だ。良かったら使ってくれ」

 サンダーは息を呑み、そして剣とクレシェイドとを交互に見て、ようやく両手で受け取った。

「貰って良いの?」

「勿論だ。それは店主の話では、岩を殴りつけると、その名の通り、砕けた欠片が飛礫となって飛散するらしい。気に入ってくれれば良いのだが」

「ありがとう、兄ちゃん。俺の戦略の幅が広がりそうだよ」

 サンダーは驚喜して剣を握り締めた。

「ほぉ、なるほど、戦略か。頼もしいことを言うな、少年」

 ヴァルクライムは心底感心するように言った。そして魔術師はティアイエルから手綱を受け取った。

「ティアの嬢ちゃんは休むといい。いや、そうもいかないか。悪いが、皆の面倒を見てやってくれ」

「まぁ、良いけど」

 有翼人の少女は、少しだけ鼻を高くして応えた。それから一行は、クレシェイドと、ヴァルクライムと別れ、「跳ねる翁亭」へと向かったのであった。



 四



 クレシェイドが伯爵亭での報告を終えたのは夕暮れも間近の時であった。話しが始まったのは、太陽が昼を半ばほど過ぎた辺りの頃合であった。ただの報告ならばすぐに終わったはずだが、報告することが多く、その上、鎧兜を脱がずに謁見しようとする様を、門番達が当然の如く頑なに拒絶したのだ。当然、クレシェイドも覚悟はしていた。事が大きくなり、屋敷中の衛兵達が駆け付けて来る有様にまでなった。だが、それが良かったのだ。騒ぎを耳にしたシャロンお嬢様と、茶色の外套に身を包んだ黒髪の少女が現われ、お嬢様がこちらの身元を保証してくれた。そしてサグデン伯爵が武人気質だったことが救いでもあった。伯爵はこちらの鎧兜に見入り、そしてミノスの大太刀に非常に興味を持った。それがミノタウロス族の話になり、彼らの純朴な素性を伝えると、伯爵はミノタウロス族に興味を持ち、彼らが安全に外へ出られるように、力を貸せるときはそうしようと、述べたのであった。そして話は本題に入った。ペトリア村が前線基地と化していること、ドワーフの従者アディー・バルトンが止む無く指揮をとっていること、そしてムジンリの顛末を、体験を交えて話し伝えたのであった。

「ヴァンパイアの子爵が、それほどまでも手強い者だとはな。だが、高名な神官戦士エルド・グラビスが呼びかけに応じてくれた。門さえ破壊できれば、ペトリアの戦力と挟み撃ちができるだろうが……。その前に、周囲を警護する邪悪な石像、ガーゴイルの群れをどうにかせねばならん。剣を弾き、あるいは圧し折り、魔術の炎に焼かれ、あるいは凍りも、雷もものともせん。奴らは特別な石で作られたのだろうな」

 それを聞き、クレシェイドは内心気まずい思いをしていた。かつて彼の手にあった岩崩しならば、石像を打ち砕き、あるいは裂くことも可能だったのかもしれない。そして斧はサルバトールの闇を帯び、最強の凶器となったため、クラメント神父が浄化し消滅させたのだ。もう少し早く、岩崩しの性能に気付いていれば……。伯爵が口を開いた。

「だが、石像に宿った邪悪なる魂を、聖なる力ならば剥ぎ取れるかもしれん。それ故、今は神官戦士の勇士達を中心に兵を募っているのだ」

 そしてクレシェイドはマゾルクのことは隠していた。予め知っていたとしても、対策の打ちようが無いからだ。奴が目を向ければ、そこには生命を昇華された屍達が乱立するだろう。それを塞ぐ手立ては無い。それに、マゾルクが再びサルバトールに力を貸すものかが確信できなかった。真紅の屍術師は惨忍なほど気まぐれな性質のように思えた。そのような不確かに現われる存在を憂慮するあまり、討伐の気が削がれる事を彼は心配したのだ。サルバトールならば、単純に聖なる魔術が弱点だ。マゾルクの気まぐれが起きる前に、討伐できることを願うしかない。

「トネリコの杭も、闇の者には有効です。銀と同等の威力を発揮します」

 クレシェイドが伝えると、伯爵は顔を輝かせて喜んだ。

「ならば、戦士達も大いに活躍できるということだな。大急ぎでトネリコの材木を取り寄せなくては」

 伯爵はすかさず使用人を呼び、その旨を申し伝えたのであった。

 それから二人は屋敷を後にした。

「奴が現われた」

 クレシェイドは、道すがらヴァルクライムにそう言った。

「残念だが、今の俺で勝てる自信は無い。一つも手立てが見付からない」

 彼は思わず愚痴をこぼしていた。

「仮に望みがあるとすれば、どのようなものだと考えているのだ?」

 魔術師の問いに、クレシェイドは言葉を詰まらせ、思案した。

「この身体では鍛えようも無い。今はミノスの大太刀という素晴らしい得物を手にしているが、これで奴に致命傷を与えられるかと考えればどうにも疑問に思う。そうだな、それでも俺は戦士だ。だからこそ、得物に頼るしかないのだろうな。この全身全霊を越えるほどの剣が存在するのかどうか……。もう、この大陸にそのような品は無いだろう。あるいは、グレンのような魔術師と共闘できれば……」

 ふと、漏れ出た言葉にクレシェイドは慌てた。傍に立っている魔術師では力不足だと評したようなものだ。更に、そのグレンはこの魔術師の伯父であり、自分を助けるために命を散らせたのだ。

「確かに、今の私では伯父貴のようにはいかんな」

「いや、すまない。そう意味で言ったのではない。それに、ヴァルクライム、グレンは……」

「友よ、心配無用だ。既に知っていたのだ。旅のエルフが教えてくれた。だが、詳しいところは与り知らぬ故、良かったら、事の顛末を聞かせてくれないか?」 

 クレシェイドは、グレンがどれほど命懸けで人々を鼓舞し、自分を支えてくれたのかを話した。そして、サルバトールの手により、自分の兜が外れ、それからグレンがどのようにして自分を助け出し、死んだのか、記憶が曖昧なため、憶測を交えて聞かせた。

「伯父貴は残念だった]

 ヴァルクライムはそれだけ言うと顔を上げ、真っ直ぐこちらを見詰めた。

「友よ。私はお前に相応しい魔術師になることを誓おう。そして、どこまでも着いて行くぞ」

 生真面目な表情の最後に力強い笑みを浮かべて彼は言った。その申し出はクレシェイドを感激させた。俺のような男に何とも勿体無い、身に余る言葉だ。

「忝い。よろしく頼む」

 魔術師は頷き、そして言った。

「さっそくだが、朗報があるかもしれない」

 クレシェイドは無言で先を促した。

「我々は、旅の過程で、とある剣を手に入れたのだ。私はそれこそが、お前さんの大きな力に成り得るものだと信じている」

「それはどのようなものだ?」

 クレシェイドは驚いて尋ねた。

「闇を糧とする強力な剣だ。ギラ・キュロスという。闇を食らい成長する剣だ。内側で闇を生成できる今のお前さんの身体ならば、永続的な破壊力を秘めさせる闇の得物とすることが可能だろう」

「つまりは、本当の意味での俺の全力を放てる剣か」

 クレシェイドは声を上げ武者震いした。

「その剣は今何処に?」

「宿に置いてある。戻って試してみるか?」

「それは、勿論だ」

 二人の男は足早に宿へと戻った。



 五



 男達の部屋へと、ティアイエル達は呼び出された。「跳ねる翁亭」の二階の隅の部屋であった。

 彼女達とサンダーが入ると、クレシェイドとヴァルクライムが部屋の中央で待ち受けていた。彼らの足元には、一つの大きくて長い木箱が置かれている。まさか、箱が開かないから呼んだのだろうか。

 ティアイエルがそう訝しく思ったときに、ライラが言った。

「ギラ・キュロスか」

 その言葉を肯定するように、ヴァルクライムは表情を僅かに緩めた。

「それって、おっちゃんが持ってたあの剣だよね?」

 サンダーが畏怖するように木箱を一瞥し、魔術師に尋ねた。

「その通りだ。少年」

 ティアイエルには話しが見えず、苛々してきた。早く箱を開ければ良いだけじゃない。そして彼女は思った。サンダーは剣と言った。仮にこの木箱に剣が入っていたとすれば、大きさからして扱えるのはクレシェイドのみとなってしまう。ライラも扱えそうだが、彼女はきっと長柄の得物の方を好むだろう。だが、もったいぶる様な態度の面々にティアイエルは少々腹が立ち、サンダーに問い質そうと心を決めかけていた。

 クレシェイドが腰を落とし、箱の縁に両手を掛けた。

「下がった方が良いかもしれない」

 クレシェイドは居合わせた仲間達に向かって告げた。レイチェルとサンダー、そしてライラが後退した。

「ティアイエル?」

 クレシェイドが彼女を見る。

「わかったわよ、下がれば良いんでしょう」

 彼女が動き終わると、クレシェイドはまるでもったいぶる様に、慎重に蓋に手を掛けて開いたのであった。

 まず彼女は、煌びやかな銀色の世界を見ていた。そしてその中に横たわる、重厚な柄と、黒い闇に埋もれる長い刀身を見て、一瞬、これが剣なのだろうかと思案している己に気付いた。そして、彼女は正気に戻った。それは焦りであった。何と、クレシェイドの手が銀の箱に触れたではないか。銀は闇を浄化する魔力を秘めている。彼女は叫んで、箱を蹴り飛ばそうとした。

「何やってんのよ!」

 だが、剣のせいか箱は重く身動き一つしなかった。代わりに彼女は爪先を嫌というほど打ち付けてしまった。

「アンタ、それ銀よ!」

「いやいや、ティアの嬢ちゃん、よく見てみろ。これは銀ではない。ならば何だろうか?」

 ヴァルクライムのまるで悠長な言葉にムッとしたが、ティアイエルもよくよく観察して、それが銀ではないことに気付いたのであった。箱の内側に張られている金属は、銀のように白いが、光りの反射と見る角度によっては、僅かばかり青い姿を確認することができた。銀のようで、そうではない。それは、つまり……彼女は驚嘆した。それはあまりにも珍しい金属であったからだ。その名を口にしようとしたが、サンダーの方が早かった。

「これって、ミスリル?」

「そのとおりだ少年」

 ヴァルクライムが得意げに笑った。ティアイエルはお株を奪ったサンダーを睨んだ。少年はそれに気付かず、ミスリルの貼られた箱と、剣に見入っていた。彼女は舌打ちした。ヴァルクライムがティアイエルを見て、穏やかな口調で言った。

「だから、心配いらん。クレシェイドが触れても何ら影響は及ぼさない」

「そうよ。それくらい、知ってたわよ。本当に」

 ティアイエルは慌てて応じた。

「闇を食らい闇に染まる妖剣だ。ギラ・キュロスという」

 ヴァルクライムが、主にティアイエルとレイチェルに向けて言った。

「かつてキリオンという英雄が、邪竜を討った時に振るった剣だ。それを旅の途中、私とライラ、ロブ殿で見つけたのだ」

「邪竜って、もしかして……」

 レイチェルはそう言い、サンダーと顔を見合わせた。

「そうだな。二人がエルド殿や、イーレ殿達と、戦ったあの竜に違いは無いだろう。竜もキリオンの手によって死と言う眠りについたのだ。しかし、何者かの手によって再び生を受けたのだ。我々はこの剣を持って、何処へ飛び去った邪竜デルザンドを葬りに行かねばならない」

「何でよ? そういう依頼ならわかるけど、そうじゃないみたいじゃない」

 ティアイエルがすかさず尋ねると、ヴァルクライムは頷いた。

「そう我々は邪竜を討つために行動するが、その間にこの剣を借り受けることができるようになった。もしも、クレシェイドが追う、マゾルクという真紅の屍術師が現われたとしたら、この剣の特性はクレシェイドにとって大きな力になるだろう。皆、そういうことなのだ」

 ヴァルクライムが言うと、クレシェイドが身を起こして言った。

「皆、当てのないことに付き合わせてしまうようですまない。だが、この剣ならば、俺が追っている男に、万に一つ、痛手を負わせることが可能かもしれない。いや、望みはこの剣のみだと思っている」

 悲痛な面持ちで訴える彼の肩を、魔術師は労わるように手で叩いた。

「この剣は、神官に関わりのある祠で見つけたものだ。つまり、本来は教会の管理下に置かれるべき代物なのだ。しかし、邪竜討伐の間だけ一時的に借り受けることとなった。このクレシェイドの追う者と運良く出会えるかはわからないが……もしもという時がある。だが、我々の最優先は竜を追うことだ。私情で竜を野放しておくわけにもいかないからな」

 ヴァルクライムは言葉を続けた。

「それに、確証は無いが、東の方に手掛かりがありそうだ。と、いうのも、竜は人里離れた場所を本来は寝床とする。同じく、そのような場所に住むルフという怪鳥が東の方から飛んできているらしい。実はここのギルド長のモルドン老の考えなのだがな、竜が鳥たちの住処を奪ったのかもしれない。と、いうことなのだ」

 魔術師は意見を求めるようにティアイエルを見た。すると、誰もが彼女を振り向いたのだった。多くの不安げな視線を一身に受け、彼女は考えることすら億劫になり頷いた。

「良いんじゃない。ついでに東に行く依頼を抱えて行けば良いわけだし」

「では、決まったな」

 ヴァルクライムが言い、彼はクレシェイドを振り返った。

「待たせたな。剣を手にしてみてくれ」

 クレシェイドは再び腰を落として、木箱に手を伸ばした。彼の右手が柄を握り締めた。闇に埋もれた刀身がゆっくりと持ち上がって行く。クレシェイドはもう片方の手を添えて、その剣を繁々と観察していた。そして刃を包む闇の色が、炎が燃え上がるかのごとく、一挙に膨れ上がった。

「うっ」

 クレシェイドが呻いた。途端に彼の身体はよろめき出し、剣を取り落としていた。剣が重々しい音を立てて床に落ち、続いて彼の身体も大きく前に傾いた。ヴァルクライムと、ライラがすかさず手を伸ばして、漆黒の戦士の身体を支えた。

「クレシェイド?」

 ライラがその顔に呼びかけたが応えが無かった。ティアイエルは愕然とした。ヴァルクライムが言ったことが彼女の脳裡に響き渡った。「闇を食らい、闇に染まる剣」彼女は全身の血の気が失せて行くのを感じた。

「ちょっと、それって……」

「いいや、彼の中の闇の力は吸い尽くされてはいない。だが、気を失うほど、剣に奪われたのは確かだ」

 ヴァルクライムの半ば楽観的な言葉を受け、ティアイエルは腹を立てていた。

「何言ってんのよ! あと少し遅かったら、コイツ、本当に死んでたところなのよ!」

 ティアイエルは剣の闇に目を向け、その中に潜む闇の精霊の所在を探した。炎のように揺らめく刃の闇の中に、無数の精霊達が草原を行き交う虫のように蠢いているのを彼女は見つけた。片手を掲げ、唄を口にし、闇の精霊達を呼び寄せようとした。だが、彼らは闇の炎の叢の中で踏み止まり、こちらに移ろうとはしない。それはそうだとティアイエルは思った。剣の闇の凄まじさからすれば、精霊達もそちらに居た方が活き活きと過ごせる。彼女は説得を諦めようとした。しかし、傍でヴァルクライムが唄を詠み初め、彼の掲げた杖先に闇の光りが現われ始めた。それは魔術師自身が、己の力を糧として作り出すものに他ならない。つまりは闇の精霊は空っぽの状態なのだ。すると、魔術師の手に宿る光りの方へ、剣の闇に宿っていた精霊が数体、飛び移って行った。

 クレシェイドが意識を取り戻し、彼は力なく床に跪き、片手で剣を引っ掴むと、ミスリルの貼られた箱へと押し込み、僅かな全力を振り絞るようにして叩くように蓋を閉めた。そして彼の身体は床に崩れ落ちた。

 ヴァルクライムが魔術の闇の力を弱め始めた。精霊達が大慌てで、蠢いている。ティアイエルには魔術師とクレシェイドが何を考えていたのかがわかった。彼女が再び唄を詠み、手を掲げると闇の精霊達は魔術師の手から、彼女の掲げた手の中へと避難してきた。そして精霊達が集うと共に、彼女の手に闇の力が練り上げられていった。

 ライラがクレシェイドの半身を起こし、ティアイエルは闇の精霊の宿った手を戦士の鎧に押し当てた。闇の精霊達が自分の手から鎧の表面へ消えて行くのを彼女は感じた。精霊達は、鎧の内側で慌てて闇を生成し始めている頃だろう。後はそれらが彼の意識を取り戻す程まで満ちて行くのを待つほかは無かった。

 レイチェルと、サンダーが心配そうにクレシェイドを見詰めている。

「クレシェイドさんは?」

 レイチェルがおずおずとした口調で尋ねてきた。

「心配要らないわよ」

 彼女が言うと、二人は安堵の息を漏らしていた。そしてサンダーが危惧するように口を開いた。

「本当にこの剣を使って大丈夫なのかな」

「確かに、長くは握っていられないだろう」

 ヴァルクライムが言葉を続けた。

「そうだな、言うなれば、一撃必殺の剣といったところになるやもしれんな」

 魔術師は軽く悩むようにそう言い、ティアイエルを見た。

「内側にいる闇の精霊を増やせば、少しは剣を手にする時を稼げるかもしれない」

 ヴァルクライムがティアイエルを見る。

「わかったわよ。やればいいわけね」

 ティアイエルはそう答えたが、ここでは闇の気配が無いことを察してもいた。もう一度剣の闇から精霊を得るべきだろうか。だが、先程移ってきた者達以外に引っ越そうという意思のある精霊達はいなかったのだ。夜まで待てば、外を彷徨う闇の精霊達を呼び寄せることができるだろう。しかし、夜の帳が下りるまでは、少しばかり時間があった。

 彼女は気を失った漆黒の戦士を見やり、どうにもいたたまれない気持ちになった。そして二つあるベッドの下を覗き、その小さな薄闇の中に、紫色に光る粒のような精霊の姿を幾つか確認したのであった。これだけでもクレシェイドの力にはなってくれるだろう。

 彼女が手を差し出すと、闇の精霊達はそろそろと指先に集まってきた。そのアメジストの欠片のような輝きに見惚れていると、横で魔術師が言った。

「ここはティアの嬢ちゃんに任せても大丈夫か?」

 ティアイエルが訝しく思い、相手を見やると、魔術師は言葉を続けた。

「その間に我々は個人の用事を済ませてしまおうと思うのだが」

 確かに今すぐクレシェイドが復帰するわけでもないので、そう思えば善良な傍観者の存在もまた少々鬱陶しくも感じた。

「心配要らないわ」

 彼女はそう応じつつ、レイチェルの剣のことを思い出した。その立派な剣は、彼女を盲目の勇者に仕立て上げる可能性がある。剣が齎す勇猛なる奇跡はそう何度も起きるものではない。ミノタウルスとの一件が良い例だ。万策尽きた訳でもないのに、生真面目な彼女は自分のためにあっさりと命を顧みようとしなかったのだ。それこそ、剣という存在が映し出した蛮勇の化身に他ならない。とにかく、剣を取り上げるべきだ。

「レイチェル、アンタはその剣を返してらっしゃい。持ち主がこの街にいればの話だけど」

 そして彼女はサンダーに目を向けた。少年は困ったように目を伏せた。もしかすれば、レイチェルの機嫌を損ねてしまうかもと、少年は思っているようだ。だからこそ自らでしゃばりたくはなかったのだろう。しかし、その態度が持ち主がこのアルマンにいることを示していた。そしてレイチェルは頷いた。

「そうします。これは大切な剣ですからね」

 その言葉にティアイエルは満足し、レイチェルに向かって頷いた。

 仲間達が出てゆくと、部屋にはティアイエルとクレシェイドの二人きりになった。

 鎧の戦士は壁に背を預けて力無く床に腰を下ろしている。傍から見れば、既に死んでいるようだ。いや、そもそもクレシェイドは死んでいるのだが。ティアイエルは屈み込み、相手の腕を取った。大きな腕は鎧で重たく、そしてひんやりと冷たかった。それなのに、彼女の身体は熱かった。俯く鉄仮面を凝視しつつ、彼が起きていないことを幾度も確認していた。今にもあの深い音色のような声でこちらの名を呼ぶかもしれない。

 何故こんなことをするのだろう。だが、鉄の腕の冷たさが妙に心地良かった。この腕を自分の肩に回して欲しい。きっと穏やかな気分になれるだろう。彼女はそう考えていることがとても不思議であった。

 指先に輝く闇の精霊達に目を向ける。クレシェイドにはこれが必要だ。この精霊達を彼の鎧越しに内部へと送り込むのだ。だが、そんなことをすれば当然彼は目覚めてしまうだろう。彼の腕の中に入り、身を預けるのは今だけしかできないことだ。そして、今後、その機会が訪れるとは限らない。彼の腕の中は冷たいだろうが、それでも温かいはずだ。彼女は生唾を飲み込んだ。そして相手の腕をゆっくりと持ち上げ、その中へと身を預けるべく踏み出しかけた。心臓が激しく脈打っていた。

「ティアイエルか?」

 呻きつつ戦士が尋ねた。そのため、彼女は驚きのあまり悲鳴を上げそうになっていた。己の行動を相手に読まれたかもしれない。彼女の心臓は激しく鼓動を打ちつつも、持ち上げた相手の腕を、さり気無い風を装って、ゆっくりと戻す程の余裕があったのが救いだった。

「アンタ、起きてたの?」

「いや、今、目覚めたところだ」

 戦士は苦労するように顔を上げつつ答えた。

「それで、気分はどうなのよ?」

 ティアイエルは慌てて尋ねた。

「声は聞こえるし、喋れるだけマシだが、視力がまだ戻らない。あの剣にその部分を吸い取られたのだろう」

「ちょっと待ってて。今からアンタの身体に精霊を送り込むから」

「すまない。手を煩わせてばかりだな」

 クレシェイドが言うと、ティアイエルの心臓が一瞬だけ高鳴った。

「そんな言葉、別に聞きたくも無いわよ」

 ティアイエルは募った思いを振り払うように言ってみせ、彼の腕を覆う鎧越しに、手に宿った紫色に輝く粒達を注ぎ込んだ。精霊達は漆黒の鉄の中へ消えていった。



 六



 ヴァルクライムは、ライラを戦神の教会へと案内しに行っていた。ギルドの入り口で二人と別れ、レイチェルはサンダーに伯爵の屋敷に同行してもらっていた。

 腰に提げた「鎖断ちの剣」をいよいよ返す時がきたのだ。彼女はこの頼もしい鉄の重みを一生忘れないだろうと感じていた。

 人という人が行き交う大通りを二人は北方面に向かった。武具や防具、そして雑貨屋に花屋、様々な店が軒を連ねていたが、その賑わいも噴水のある大きな広場に来る頃には、遥か遠方から聞こえる霞のような音となっていた。

 広場の石畳は色とりどりで敷き詰められ、馬上の騎士を模っていた。彼女はここを「騎士の広場」と呼ぶことにした。花壇があり、木々がまばらに植えられている。若い男女や、老人達の姿があった。彼らは木陰に置かれた長椅子の上で憩い、あるいは語らいあっている。実に穏やかな空気が流れていた。

 サグデン伯爵の屋敷は、小高い丘の上に見えていた。広場の北西部に伸びている白い石畳の広い道路が屋敷へと続いているようだ。二人は騎士の広場を過ぎ、そちら道へ足を踏み入れようとしていた。だが、ちょうど緩やかな坂を下ってきた人物に呼び止められた。

「おおう、レイチェルではないか! 本当に本物じゃ!」

 シャロンお嬢様は、優美な金色の髪と、不釣合いな茶色の外套を靡かせて、駆け寄り、そして飛びつくように抱き付いて来た。

「お嬢様、お久しぶりです」

 レイチェルは相手を抱き止めながら、押し寄せる感慨の波に思わず涙ぐみそうになっていた。お嬢様の髪からは清潔な石鹸の香りがした。彼女はペトリア村からの旅路の事を思い出し、この少女は本当によく頑張ったものだと改めて感心していた。

「まったく、よくぞ無事でいてくれたものじゃ!」

 シャロンもレイチェルを見上げて感心するようにそう言った。

 レイチェルは、続いて坂道を歩んで来るもう一人の姿を見ていた。茶色の外套と頭巾を纏った姿は忘れもしない、彼女にとっては恩人の少女、イーレであった。

「イーレさん」

「レイチェル、久しぶりね」

 黒髪の少女は静かに顔を綻ばせて言った。レイチェルはさっそく、鞘に収まった剣を腰のベルトから抜き取り差し出した。

「剣をお返しします」

 イーレは頷いた。

「ありがとう」

「いいえ、お礼を言うのは私の方です。この剣が無ければ、私はきっと駄目だったはずですから……」

 鎖断ちの剣は一筋の光明であり続けた。その刃は岩と土の監獄を掘り進み、そして邪悪なる地下を彷徨う存在や、怒れる蛮族をも打ち倒せたのだから。彼女はそれらの出来事を回想し、心の底からイーレと剣に感謝していた。その重みが彼女の手からゆっくりと離れて行くと、不意に不安を覚えたのだった。剣には随分な無理をさせてしまったかもしれない。

「あの、剣の方は大丈夫でしょうか? 私、強引な使い方をしてしまったかもしれないですし……」

 レイチェルがそう言うと、イーレは剣をスラリと抜き、上から下まで見ると頷いた。レイチェルは緊張しながら言葉を待った。

「特に問題はないわ」

 彼女は剣を鞘に収め、腰に提げた。その反対側には、滝壺のヒュドラや、黒いドラゴンを裂いた「鱗斬りの剣」の姿があった。そしてイーレはレイチェルとサンダーを見て言った。

「あなた達のどちらかに、この剣を使って貰っても良いのだけれど……」

 レイチェルとサンダーはその申し出を受けて顔を見合わせた。サンダーは首を横に振り答えた。

「せっかく言ってくれたんだけど、俺にはクレシェイド兄ちゃんから貰ったコイツがあるから、大丈夫だよ」

 少年は得意げに腰に佩いている魔法の小剣を叩いて見せた。レイチェルも、ティアイエルの諌めを思い出し断りを入れた。

「すみません、その剣を握るには、私はもう少し身体を鍛えなければならないと思っていまして……」

「そう……」

 イーレは残念そうに応じ、レイチェルは心が痛んだ。すると、お嬢様が得意げに述べた。

「いやいや、二人にはその剣はやらんのじゃ。何故なら、わらわが頂くつもりじゃったからの」

「悪いんだけど、たぶんお嬢様にはまだ無理だぜ」

 サンダーが困ったように言った。

「それはそうじゃ。何もわらわは今といっている訳ではない。やがてこのイーレの教えを全うし、その時にこそ、頂くつもりなのじゃ。卒業の証としての。それでどうじゃ、我が師よ?」

 シャロンは師である黒髪の少女を振り返った。イーレは目を瞬かせ、少し思案下な顔をすると頷いた。

「良いわ」

「よし、約束じゃ!」

 お嬢様は顔を輝かせて言うと、レイチェルを振り返った。

「それにしても、どうやってお主は助かったのじゃ? 洞窟が崩れた時は、誰もが、お主は駄目なものだと思ったものじゃ」

 そこでレイチェルは、奇跡的に崩落を免れたことと、地下にあった別の出口から脱出したことを短く語って聞かせた。しかし、ライラのホムンクルスと、改心した盗賊の男、そして地下に潜んでいた魔術師の化け物のことは話さなかった。だが、狼に囲まれたことと、エルドから借りていた薬瓶のこと、鳥に浚われ、ティアイエル達と合流できたことについては喋った。

「お主のような者を、悪運の強い者と言うのじゃろうな。それにしても、一人でよく頑張ったのじゃ」

 そう言われ、レイチェルは照れ臭くなった。

「それは、イーレさんの剣があったからだと思います」

 そして二人はイーレとシャロンと別れたのであった。少し寂しかったが、アルマンに来れば、いつでも会えるということだ。それは素晴らしいことだとレイチェルは思っていた。

 続いて彼女はサンダーと共に、獣神キアロドを祭る聖堂へと足を進めて行った。

 再び混雑する大通りを、人々の間を縫うようにして通り過ぎ、北東へと歩んで行く。

 民家の連なった屋根の向こうに、鐘のある尖塔が見えて来た。あれが目指すところだろうか。と、レイチェルは緊張した。もしも、聖堂で自分自身の成長を認められれば、新たな魔術の調を教えてもらえるのだ。次はどんなものだろうか。彼女には予想が出来なかった。

 アルマンは素晴らしい。彼女がそう思ったのは、獣神を祭る大聖堂が、堂々と鎮座している姿を見たからであった。石造りのちょっとした城のようでもあった。石で築かれた横に広々と伸びた階段の上には、扉の開け放たれた横幅のある入り口があり、そこからは白い衣装を纏った男女の神官達が、絶え間なく出たり入ったりしていたのだ。そして入り口の真上には、獣の身体に竜の頭を持つ神の彫像が築かれている。その目は遥か虚空を臨み、今にもその石の両翼で空へと羽ばたいて行きそうであった。

「じゃあ、俺ここで待ってるから、姉ちゃん用事済ませてきなよ」

 サンダーが言い、レイチェルは頷いて階段を上って行った。すれ違う先輩の神官達に礼をし、返礼をされ、彼女は大聖堂の中へと入って行った。

 まず、正面に姿を現したのは広い通路であり、その先には陽光の集った広大な礼拝堂があった。ずっと向こうに獣の神の大きな石像があり、その下には祭壇と、おそらくは神官長であろう、人影が一つあった。他には跪き、石像に向かって祈りを捧げる神官達の姿も見受けられる。彼女は更なる緊張を覚えつつ、背筋を正して歩み始めた。

 四方の窓から伸びる太陽の帯が、礼拝堂の中央に集い、その下に跪く銀色の鎧を身に纏った戦士の大きな背を光らせていた。

 レイチェルは相手の大きな銀色の体躯に見覚えがあった。そして祈りを終えた相手が立ち上がり、こちらを振り返ったところで向こうも足を止めていた。

「シスターシルヴァンス」

 低く落ち着いた声音は、多少の驚きの響きを含んでいるように思えた。続いてエルドは言った。

「よく無事だった。何よりだ」

 慈しむような低い声が言い、レイチェルは慌てて頭を下げ、目上の神官に対する礼の態度をとった。

「エルド様、その節は、助けていただきありがとうございました」

「いや、それはこちらの台詞だ」

 銀色の神官戦士は首を横に振って言葉を続けた。

「あなたの行為が無ければ、少なくともアネットと、クレソナス、私の二人の弟子の命は失われていたはずだ。礼を言わせて頂こう」

 そうして相手は頭を下げた。そして頭を上げた時、レイチェルの背後から誰かが小走りで近寄って来つつ、軽く声を上げていた。

「エルド殿、準備の方が整いました」

 振り返ると、そこには神官の装束の上に鎧を纏った男が立っていた。腰に鉄製の鈍器のような物を提げている。エルドの両眼がレイチェルの肩越しに相手を見て、頷いた。そして沈着冷静な双眸がレイチェルを見下ろした。

「また会おう、シスターシルヴァンス」

 銀色の戦士はレイチェルの隣を抜け去って行った。彼女は相手の背を見送ると、自分が何をしにここへ来たのかを思い出し、その途端、激しい緊張に襲われた。

 祭壇の方を振り返り、そこに座す神官長と思われる相手の方へと、足を踏み出して行った。

 神官長は初老の男であった。祭壇からこちらの近寄って来る様を見詰めていた。レイチェルは身体中が強張り、足取りがぎこちなくなっていた。どの辺りで神官の礼をとるべきだろうか。その間隔が掴めずにいた。しかし、幸いと言うべきか、相手の方から話し掛けてきたのであった。

「話し声が聞こえてしまいましたが、エルド・グラビスは、あなたのことをシスターシルヴァンスと言ったかな」

「はい、レイチェル・シルヴァンスです。エイカーから来ました」

 彼女は慌てて応じた。

「エイカーからというと、シスターラースクリスとは同郷ということかな」

 興味ありげに相手が尋ねてきた。

「そうです」

 レイチェルは色々と喋りたくなったが、衝動を呑み込むと、短くそう答えた。相手は満足そうに頷き言った。

「ようこそ、シスターシルヴァンス。私はレーベルン・フリット。ここの神官長を務めている者です。さあ、こちらへ御出でなさい。あなたの成長の過程を見させていただきましょう」

 レイチェルは、相手の半月型の眼鏡の下にある明るいグリーンの瞳を見た。



 七



 陽はとっぷりと暮れ、街中の家々の中からは灯かりが目立ち始めていた。人の往来は減り、歩く者の大半といえば、酒場と寝床を求める冒険者や、仕事帰りの労働者達であった。

「跳ねる翁亭」の食堂にも、冒険者達が集い始め、席は満員となり、昼間と一転し騒々しくなっていた。酒に呑まれた荒くれ戦士達の御機嫌な罵声が飛び交い、食器がカチャカチャ鳴る音や、それに負けないほどのウェイターや厨房の料理人達の声が終止に渡って木霊している。クレシェイド達六人は、隅の円卓を囲み、それらの有様を遠くから眺めやりつつ、彼以外は食事に舌鼓を打っていた。和やかに過ごす仲間達の様子は、彼の心に少なからず癒しを与えていた。

 レイチェルは大きなソーセージの挟まれたパンを豪快に一口で頬張り、その横ではサンダーが肉の塊をナイフで一口大にせっせと切り分けている。ティアイエルは静かに葡萄酒を煽り、ライラはまるで摩訶不思議な食べ物というように、食べ物を口に運ぶと思案下にその味を吟味していた。ヴァルクライムはエールを煽りつつ、愉快げに若者達の様子を見詰めている。その視線がふとこちらに向けられた。

「身体の方はどうだ?」

「問題は無い。視力も完全に戻った」

 魔術師は頷き、言った。

「言うまでも無いが、ギラ・キュロスを握る際は慎重にな。ティアの嬢ちゃんのおかげで、内側の闇の精霊達は増えたわけだが、ギラ・キュロスはそれさえも、さほど労せず平らげるだろう。そのままお前さんの魂までもな」

 その言葉に、仲間達は動作を止め、不安げな視線を集中させた。クレシェイドは魔術師に頷いてみせた。

「わかっている。俺にはミノスの大太刀もある。これで凌げぬ敵はそうそう存在しないだろう。心配は要らないさ」

 仲間達はその答えに満足したかのように再び各々の食事を再開した。レイチェルが大海老の蒸し焼きを、まるで水鳥が丸呑みするようにして口に収めると、ティアイエルが厳しい視線を彼女に向けた。

「アンタの食いしん坊は治りそうも無いけれど、もう少し落ち着いて食べたらどうなの?」

「すみません」

 レイチェルは苦笑いしてそう言った。

「しかし、見知らぬ味付けばかりだ。美味かと言われればそうかもしれないが……。やっぱり私には塩のみの方が性に合っているようだ」

 ライラが肉と野菜の果実炒めを見下ろしながら言った。そして彼女は顔を上げ、クルクルと働く可愛らしいウェイトレスを見付けて声をかけた。

「すまんが、川魚の塩焼きを頼みたいのだが」

 そうしてやがて運ばれてきた魚の塩焼きを、彼女は心底美味しそうに噛り付いたのであった。その隣でサンダーは、ようやく細切れにした肉を口に運でいたのであった。

「そうだ、どんどん食べて英気を養え」

 ヴァルクライムは笑いながら一同に言うと、不意にその視線が仲間達の肩越しに止まった。何かあったのだろう。クレシェイドもその後を追った。見ると、遠く離れたギルドのカウンターに、衛兵と思われる軽装の防具で身を固めた一人の男の姿があった。相手はカウンター越しにギルドの主のモルドン老に話し掛け、やがてモルドン老がその渾名の如く、睨みの視線で真っ直ぐこちらの座席に目を走らせ、手で指し示した。壮年の衛兵は頭を下げると、騒がしい人々の座席の間を縫ってこちらへ歩んで来た。

「アタシ達に用があるみたいね」

 ティアイエルが訝しげに相手を見つつ言うと、他の仲間達も顔を上げてそちらを見た。近くに来ると衛兵は言った。

「冒険者のクレシェイド殿と言う方はこちらに居られるかな?」

 するとティアイエルが立ち上がって衛兵を睨みつけた。その鬼気迫るような様子に、衛兵は困ったようにたじろいだ。するとライラも立ち上がり、衛兵の前に歩み寄って警戒の眼差しを相手に向けた。

「いやいや、お待ちを。それがしは、決してあなた方に仇名す様なことはいたしません」

 衛兵は更に数歩後退し弁明に努めた。衛兵自身の用向きではないだろう。彼はきっと伯爵に遣わされたに違いない。彼は名乗ることにした。

「俺がクレシェイドだが」

 衛兵はこちらに眼を向けた。

「おお、あなたがクレシェイド殿か」

 相手は胸を撫で下ろし、そして表情を改めて話し始めた。

「私はサグデン伯爵閣下の遣いで参った次第でござる。実は、あなたへ、伯爵閣下からの書状をお渡しせねばなりません」

 衛兵は鎧の懐に手を入れて、折り畳まれた羊皮紙を取り出した。

「では、私はこれにて」

 クレシェイドが受け取ると、衛兵はいそいそと去って行った。

「さっさと中身を読みなさいよ。どうせ仇名す内容に決まってるんだから」

 無意識の内に衛兵の姿を見送っていると、ティアイエルが声を掛けてきた。クレシェイドは羊皮紙を広げた。

 伯爵の用向きはこうであった。明日の夜、ムジンリを奪ったヴァンパイアの子爵を討伐すべく、軍勢が出立する。クレシェイドはムジンリを生き残った者としての道案内と、討伐の軍勢に加わってくれないかという、頼みの内容であった。最後に記されたスコンティヌウンス・サグデン伯の名前を見下ろしていると、正面から書状を引っ手繰られた。ティアイエルが手紙の内容を声に出していた。レイチェル達は、不安げな表情で有翼人の少女の声に耳を傾けている。

「で、アンタはどうするの?」

 ティアイエルは書状を突き返しながら、厳しい視線で尋ねてきた。

 クレシェイドは思案していた。彼はサルバトールの強い様を思い出し、あれに挑んで勝てるのは並の人間では無理だろうと感じた。だが、前回の戦いで、ヴァンパイアの子爵の軍勢は完膚なきまでに叩きのめされている。確かに好機といえばそうなのかしれない。だが、マゾルクが手を貸しに現われるだろうか、それこそがずば抜けての気掛かりであった。奴を討つ事こそ、並大抵の人間、いや人の中の人、勇者でさえも無理なのかもしれない。仮に自分ならば討てるだろうか。彼は箱に収まった妖剣のことを思い出した。不確定が故に、今は勝てる要素はあるということだ。それに、マゾルクと遭遇できるだけでも恵まれていると言うべきであった。奴を滅ぼすことこそ、己の使命である。

「せっかく、六人揃って冒険に出れると思ったのに。何だか、俺達っていつも離れ離れだね」

 サンダーが愚痴るように言った。

「だけど、兄ちゃんが行くなら俺だってついてくよ」

 クレシェイドは少年の申し出を受けて心が痛んだ。この仲間達を連れて行くわけにはいかない。サルバトールは危険な相手だ。レイチェルやサンダーでは遥かに無理な相手なのだ。それに、ティアイエルとライラも危険な目に合わせるわけにはいかない。

「クレシェイド?」

 ライラに名を呼ばれ、クレシェイドは決意を固めて、仲間達を見た。

「皆、すまないが、俺は伯爵の頼みを受けようと思う」

 するとサンダーが深々と頷き目を輝かせた。

「俺も行くよ」

 するとレイチェルも真剣な表情で言った。

「私も行きます! ヴァンパイアの討伐は神官の役目です!」

「ならば、戦神の神官たる私もだ」

 ライラが続くと、クレシェイドはついに困ってしまった。

「皆、気持ちは嬉しいが、行くのは俺一人で事足りるはずだ。伯爵は軍勢を派遣するのだから、戦力はそれで申し分ないはずだ」

「別に、アンタが義理立てすることでもないんじゃないの?」

 ティアイエルが鋭く指摘した。

「そんな依頼放っておきなさいよ。アタシ達はただの冒険者として伯爵と関わっただけでしょう」

 有翼人の少女は厳かな双眸を向けた。そして彼女はレイチェルとサンダーを見た。

「それに、アンタ達じゃ足手纏いよ。ヴァンパイアはゴブリンみたいに甘い相手じゃないんだから。で、それでもアンタは行きたいわけ?」

 ティアイエルの厳しい視線に、クレシェイドは頷いて応じた。

「どんな事情があるのよ?」

 クレシェイドはマゾルクのことを話さねばならないかと、心を決めかけていた。だが、そんなことを知れば、彼女も、他の者もむしろ盛んに志願するだろう。彼らは仲間思いの優しい心根を持ち合わせている。それ故、マゾルクの恐ろしい贄とするわけにはいかない。

「事情なら察しがつく」

 ヴァルクライムが言い、誰もが彼に目を向けていた。

「仇討ちだ」

 魔術師が言った。クレシェイドは、魔術師の伯父であるグレンのことを思い出した。

「クレシェイドは、私の伯父と共にムジンリ解放の戦いに身を投じていたのだ。その伯父は結局、クレシェイドの隣で死んでしまった。二人の相性は抜群だった。そうだな、友よ?」

 その問いにクレシェイドは頷いて応じた。

「グレンは、俺の命の恩人だ」

「そして私にとっては素晴らしい伯父だった」

 ヴァルクライムが言い、言葉を続けた。

「クレシェイドには私がついて行こう。別れ別れになるのは残念だが、私達は、故人の思いを胸にし、一つの区切りをつけるために行かねばなるまい。必ず、二人揃って戻ることをここで皆に誓おう」

 レイチェル、サンダー、ライラが顔を見合わせていた。彼らは妥協するように渋々頷いて見せた。しかし、有翼人の少女だけは不満げにこちらを見ている。クレシェイドは彼女を説得すべく、言葉を探していた。しかし、浮かび上がる言葉は、どれも真実の思いを述べるものばかりであり、口にはできなかった。マゾルクの存在を知らせるべきではない。知ればティアイエルだけは強引にもついてきてしまうだろう。ふと、疑問に思った。俺を毛嫌いしている彼女が、何故そこまで執拗に食い込んで来るのだろうか。ヴァンパイアの危さを知り、そして賢い彼女なら、マゾルクがどの程度の相手なのかも、予想できるはずだ。それなのに、何故命を捨てるようなことを志願するのだろうか、クレシェイドは不思議に思い、相手を見詰めた。

「だったら、アタシも行くわ」

 威厳ある口調で少女は言った。クレシェイドはとんでもないとばかりに反論しようとしたが、口を開くのは魔術師の方が早かった。

「いや、ティアの嬢ちゃんには、三人の導き手になってもらいたい。私達が一区切りつけて帰って来るまで、東への旅路のリーダーを務めて欲しいのだ。邪竜デルザンドの手掛かりの方を掴んでいてくれ」

 ティアイエルは他の三人を振り返り、そして軽く思案するようにすると溜息を吐いた。

「わかったわよ。レイチェル、ジミー、アンタ達のこと精々扱き使ってやるんだから、覚悟なさい」

 先輩冒険者の凄みに、二人は食べ物を取り落とし、身震いしていた。

「私のことも、使ってくれて構わないぞ」

 ライラが言うと、ティアイエルは頭を振った。

「大丈夫よ、ライラ。冗談だったんだから」

「そうだったのか」

 ライラが答えると、サンダーとレイチェルは安堵の息を吐いていた。

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