第11話 「風の唄」

 剣に宿る白い光りが、闇に潜んでいた岩の壁を照らし出す。か細い息が矢継ぎ早に吐き出され、疲労困憊の足が、危な気ない運びを見せながらも、どうにかしっかりと大地を踏み締めていた。ひたすら続く洞窟の坂道をレイチェルは挑むように歩み続けている。彼女は立ち止まらなかった。そうしたがために進む方向を間違うことを危惧していたからだ。

 空腹と渇きで頭がぼんやりとしている。もはや先への警戒に、気を割く余裕はとうに失われていた。盗賊の男を殺した蛮族が、ここから進入してきたことは明白だが、この歩き通しの最中に、それらと遭遇することは一度も無かった。

 外の日差しと、小川のせせらぎ、そして魅力的な色をした数々の木の実。それらが絶えず彼女の脳裡をぐるぐる渦巻き、幸か不幸か幻想の虜にしていた。

 やがて、重たい剣の切っ先が、足元の砂利を引き摺った時、ようやくレイチェルは我に返ったのであった。

 借り物の剣を傷つけるわけにはいかない。それでも両腕はまともに動こうとはしなかった。鉛の様に重く強張り、筋という筋に鈍い痛みが走っている。レイチェルは途方に暮れていた。剣を鞘に収めるべきか。そこで短剣のことを思い出した。変異した魔術師が身に着けていた妙な形をしているあの剣だ。

「鎖断ちの剣」よりは軽いだろう。彼女はそう思って剣を鞘に収めようとした。

 彼女の目が、偶然にも先に開いた虚空の姿を捉えた。レイチェルは愕然とした。黒っぽい青色の空に、幾つもの星が瞬いている。夢だろうか。

 レイチェルは己の手首を甘噛みし、幾度か強く瞬きした上で、ようやく安堵と感動の波にその身を委ねたのであった。涙が出そうだったが、それを押し止めた。もしかすれば、悪い事態が起きるかもしれない。手が届きそうな時ほど、そういうものに襲われるのだと彼女は警戒した。今一度、力いっぱい「鎖断ちの剣」を持ち上げ、白い刀身を先に突き出しながら、しっかりと大地を踏み締め進んで行く。その度に、まるで夜空が彼女に迫ってくるように大きくなっていった。

 外に出たら、とにかくお尻をつけて一休みしよう。

 そして彼女は、いつの間にか洞窟を踏破していた。待ち侘びた夜空は、キラキラ宝石を散りばめた青い絨毯かカーテンのようであった。周囲で秋の虫達が遠慮がちに鳴き始める。何と、外の素晴らしいことか!

 レイチェルはへたり込む前に、恐々と後ろを振り返った。通路の穴は、地面に程近い岩壁にひっそりと口を開いていた。ささやかな茂みが、それを覆い隠している。きっと二度と見つけられないだろう。勿論、それで構わない。あのホムンクルス達のためにも、その方が良いだろう。

 彼女はその場を後にした。

 茂みを踏み躙る軽快な音は、彼女を励ますかのようであった。明るい夜空は、密集する木立と、丈のある叢の陰影をくっきりと浮かび上がらせている。この道なき道を、やがて陽が照らし出した時、レイチェルは自分が絶望してしまうだろうと、疲れた脳裡でそう思った。そして彼女は腰を下ろした。明日はどう動こうか。そう考え、河に出られれば方角が分かるだろうと思った。そして噛み締めるように溜息を吐きながら目を閉じていた。

 レイチェルは目を覚ます前に、自分が寝入ってしまったことを悟った。迂闊だった。そう心の中で罵るとともに彼女は目を覚ました。

 頭上には相変わらず素敵な夜空が広がっている。それほど寝入った訳ではないと彼女は思った。そして、ここがヒュドラのような怪物や、スキュラのような妖魔など、恐ろしいもの達がいる場所だということを思い出した。今夜は起きて警戒に当たるべきだ。

 しかし、方々から上がる遠吠えが、後の祭りであることを彼女に知らせたのであった。

 身が恐怖と緊張で震える。木々と茂みの影が広がる静寂の世界に、草葉の鳴る破滅の音がささやかに聞こえ始めた。

 レイチェルは方々に視線を走らせたが、その姿を捉えることはできなかった。しかし、その間にも忍び寄る音は、彼女を嘲笑うように、闇の何処からか絶えず聞こえていている。そして、絶望を齎す、敵意に満ちた獣の唸り声が、ようやくすぐ側から轟き始めたのだった。

 彼女の右手側に、小柄な四足の影が佇んでいた。明るい夜空の光りが、獣の獰猛な両眼に反射した。

 狼は続々と縫うように影の中から現れ、既に眼前に展開している。野獣達は、彼女の視線を掻い潜るように、着実に一歩ずつ忍び寄ってきていた。飢えに狂った獣の顔が、牙を剥き出し、けたたましく吠え猛る。彼女は何度も目を閉じ身じろぎした。

 何が理に適った行動なのか、レイチェルにはわからなかった。真っ白になった頭の中で、狼達は何故自分のことを見つけ出してしまったのかと嘆いていた。原因は何だろうか。既に遅いというのに、そればかりを無意味に考えていた。

 獣は嗅覚が優れている。きっと、においでわかってしまったのだろう。何せ、汗塗れであり、洞窟の最下層ではホムンクルスを満たしていた液体の残骸を引っ被ってしまったのだ。

 彼女は不意に気付き、衣服を弄ると、小瓶の感触を探り当てた。エルドの気付け薬だ。鼻が曲がり、脳に刺さるような強烈なにおいを思い出す。獣達にも効果があるかもしれない。狼の吠え声に驚きつつも、ゆっくりと瓶を抜き出し、口を塞ぐ木の栓に恐る恐る手を伸ばした。

 筋張った灰色の毛皮達は既にそこまできていた。月の色に染まった眼光で彼女を見上げ、そして食らいつかんばかりに荒々しく吠えまくり、口の端から涎の塊を飛散させた。レイチェルは栓を抜いた。そして瓶の口を獣達に向け、半円を描くように連中に向かって突き出した。

 臭気はまずはこちらを襲った。鼻に突き刺すような激痛を齎した後、鋭い臭気は激しい頭痛を引き起こした。まるで脳を鷲掴みにされたかのようであった。そのせいで目からは涙が止め処なく流れ落ちた。それでも屈せず、何度も獣達に向かって瓶を向け続けた。

 レイチェルは頭と鼻の激痛に耐えられず目を閉じていた。そして獣の一匹が妙な鳴き声を上げるのを聞いた。まるで、困惑するかのような感じではあったが、それでも別の一匹はまたしても噛み付くような吠え声を響かせた。いっその事、瓶の中身を頭から被って、その群れに飛び込んでみるべきか。ヤケクソ気味な考えが過ぎった時に、狼達の声が聴こえなくなっていたことに気付いたのであった。

 レイチェルは苦労して右目を開けてみた。涙で歪んだ先には、夜の風景が広がっているだけであった。狼達の姿は見当たらない。

 酷いにおいだ。

 レイチェルは小瓶に栓をし、服の中にしまい込んだ。そしてズキズキとする頭痛に呻いた。強い風が吹きつけた。それは今の彼女には、痛みを和らげてくれるかのような心地良さを齎していた。そのまま身を任せているうちに、風が一向に止む気配が無いことに違和感を覚えた。そしてこの強風は、頭上から吹き付けているようにも思え、ますます違和感を募らせた。

 周囲を見るが、特に何の変哲もなかった。近くの木々の枝と茂みとが相応に揺らいでいるだけであった。ただし、これも上から落ち潰すような形になっている。

 彼女は頭上を見上げた。夜空に一つの影が特大のインクの染みのように広がっている。それは両翼をしっかりと羽ばたかせてみせていた。

 レイチェルが驚く前に、影は急降下した。彼女は長く伸びた頸の影を見た。分厚い音と共に、砂塵を巻き上げる。彼女の腰に頑強な指が巻き付いた時、その両足は力任せに地上から引き離されていた。

 浮遊感に戦慄を覚えたが、既に身体は高々と舞い上がり、広大な夜の森を果てまで見下ろしていた。彼女は気が遠くなりそうになっていた。そして、腰を握り締めている怪物の足か腕かが、気紛れに力を緩めてしまった時に、自分に訪れるであろう結末を予測して恐怖した。そして、ゴツゴツする大きな手か、あるいは足の付け根に両手を伸ばし、懸命に握り締めた。鎖断ちの剣も、うっかり落とさぬようにと指に力を入れた。

 太い羽音を孕ませ、怪物のような鳥は夜空を単調に舞い進んでゆく。眼下には樹海の影が続くだけで、レイチェルはやがて恐怖を忘れ、変わりに途方に暮れ始めていた。

 エイカー、ウディーウッド、ペトリア、これだけが自分の知る世界であった。きっと、それ以外のどこかに連れて行かれるのだろう。太い頸と、そこから伸びる長い嘴の影を見て、彼女はただ溜息を吐くだけであった。こんな大きな鳥が巣を作るとすれば、それは果てしない大自然の中にある山の頂が適当だろうか。自分の知識の中に、そのような宛は無かった。結局は知らない場所に行くのだろうと彼女は嘆息した。

 それからすっかり寝入ってしまい、瞼を焼くような日差しで彼女は目を覚ました。遥か離れた眼下の様子を見て、彼女は一瞬冷やりとした。そして、初めて怪鳥の姿を目の当たりにしたのであった。

 それは一目見れば充分に竜のようでもあった。しかし、全身を覆う茶色と白の羽と、長い頸の先にある尖った嘴を見れば、怪物のような、とても大きな鳥であることに気付いた。しかし、レイチェルは自分を困らせているこれを、怪物とは呼ばず、むしろ偉大なる猛禽の長と呼ぶべきではないかと考えていた。雄雄しい姿には威厳があり、その茶色の瞳には気高さと英知とを窺わせた。レイチェルはまさかと思ったが、話しかけてみた。

「あなたはこれから何処に行くのですか?」

 しかし、大きな鳥は一瞥すらもくれず、ひたすら飛び続けていた。

 そして彼女は気付いたのだった。握っていたはずの「鎖断ちの剣」がそこに無いことを。彼女の心臓は凍りついた。イーレの大切な剣を、いつかはやるかと思っていたが、ついに落としてしまったのだ。この足元に広がる地上の何処かに……。

 見下ろすと森があり、その間を細い小川のように街道が走っていた。ずっと先には町のような建物の影が見える。しかし、空を不安定に彷徨うことや、見知らぬ土地に連れて来られたことよりも、借り物の剣に対する絶望感の方が彼女の心の中では大いに勝っていた。



 二



 早朝の日差しの下に、幾つもの高い音が響き渡る。それは村の方々で振るわれる槌の音であった。

 今やペトリア村の様相は大幅に変更されていた。焼け落ちた家屋は復旧の半ばで放置され、それに変わって村の周囲には、木の外壁が築かれ、村内の至るところに物見櫓が高々と生え揃おうとしている。それらの木材を確保するため、村を囲んでいた森の木々は伐られ、そこは見通しの良い平地になっていた。そして前線基地と化した村の外には、それぞれ小さな防衛の拠点が、森に隠れるようにして、点在している。それらの拠点には神官で構成された部隊が詰めていた。彼らはムジンリを支配する闇の子爵の斥候を見つけ、捕縛、あるいは抹殺することが主な任務である。

 ムジンリの町は、ヴァンパイアの子爵によって押さえられ、奴らの言葉を借りれば、「魔都」という畏怖すべき存在へと認められつつあった。

 未だ向こう側からの動きは無いが、こちらも闇の天敵である神官が不足しているため、攻勢に出れずにいた。

 クレシェイドは広場にいた。後方の都市より募られた職人や、傭兵代わりの冒険者が忙しく拠点を築いている様を、丸太に座りぼんやりと眺め渡していた。

 先の戦いでは、勝利を収められなかったばかりか、大切なものを彼は失っていた。それは、老魔術師のグレン・クライムであり、クラメント神父、そして愛用の得物として相応しかった長柄の大斧「岩崩し」であった。それらの姿が絶えず彼の虚ろな脳裡を駆け巡り、その終着点には、彼が長い間追っていた屍術師マゾルクの姿が立ちはだかっていた。

 仮面を被った真紅の仇敵を前に、クレシェイドの心は不思議と燃え上がることは無かった。敵を傷つける得物が無いことも理由の一つなのだろうが、今回に限り彼は敵との運命を感じるような気がしたのだ。突き進んで行く限り、その最後にはあの男と必ず鉢合う。そう思っていた。

 彼は目の前を行くエレギオンの神父の姿に気付いた。

 厳しい顔付きのドワーフの神父は、白い衣装の上に鉄と革できた胴鎧を着込んでいた。神父は遠くを見て、その口元を綻ばせる。誰かを見付けたようだ。程なくして、相手が現れた。

「エレギオン神父、よくぞ御無事でいらっしゃいました!」

 そう言いつつ、合流したのは壮年の男の神官であった。痩せぎすで温和な顔立ちしている。

「ラースクリス神父、エイカーより来て頂けるとは! ありがたい!」

 二人は親しげに握手を交わしていた。そして茶色の髪のラースクリス神父が、後ろを振り返り、誰かを呼んだ。すぐさま、慌しい足音と、甲冑の軋み擦れ合う音を鳴らしながら、武装した神官達が三十名ほど馳せ参じたのであった。

 ラースクリス神父は、エレギオン神父を振り返って言った。

「エレギオン神父、この窮地を前に、我々は共に聖なる神々に仕える者として、一致団結し事に臨まねばなりません。あなたを盟主として、ここに我らは神官戦士同盟を締結させようではありませんか」

 その訴えにドワーフの神父は頷き、腰に佩いていた斧を掲げた。すると、ラースクリス神父と他の神官戦士達も、各々抜き身の得物を掲げ持ち、互いにその刃先を二度ぶつけ合った。

「おや、神官の助っ人が来たのか」

 クレシェイドの隣に座り、冒険者のアディオス・ルガーが満足げに言った。

 そしてクレシェイドは、自分の周囲に他にも見知った面々が集っていることに気付いたのであった。

 三日月刀のショウハに、鉄鎖のキライ、そして若い魔術師のバーグソンという、この度の窮地に置いて知り合った人々である。あるいは、ここにグレン・クライムの姿もあったはずだ。彼は命の恩人の幻影を遠くに見て、静かに嘆息した。

「銀製品はまだまだ少ないが、代わりにトネリコの槍がたくさん作られている。君らも充分戦力として数えられてるということだ」

 魔術師のバーグソンが、屯する戦士の面々を見て、励ますようにそう言った。ヴァンパイアを死滅するトネリコの杭の存在を、クレシェイドに知らせたのは、亡きクラメント神父であった。闇の者に対抗する手段は少なかった。むしろ神官でなければ抗えることができないだろうと、現在ではそのように考えが根付いてしまっていた。そのため、戦士がその力と胆力を、手持ち無沙汰にさせるところであったのが、この忘れられた対抗手段が、彼らに闇を切り裂く力を与えることとなった。

 鉄鎖のキライが咳払いし、周囲の注目を集めた。彼は仲間達の顔を見ながら、口篭りつつ言った。

「なぁ、お前らよ。こういうこと言うのは、照れ臭いんだが……。俺らは死地を戦って生きて帰って来た集まりだろう? その縁にあやかって、俺らも今のあれをやらねぇか?」

「今のあれって?」

 アディオスが首を傾げると、魔術師のバーグソンが応じた。

「おいおい、まさか、神官戦士同盟の契りをか?」

「おうよ」

 荒っぽい無精髭の面を綻ばしキライは言った。

「そらそら喜べ、このキライ様がお前らを盟友に認めてやるってことだよ。それに、神官連中も言ってたように、一致団結することが大事だ。ムジンリの戦いで、俺はそいつを痛いほど思い知ったんだ。エレギオン神父に引っ張られた民衆の姿を見たろう? あのものすげぇ大魔法をよ。俺らは戦士だから、あれと同じってわけにはいかねぇが、それでも……」

「冒険者はしがらみに囚われるものではない」

 熱くなるキライの言葉に割り込んだのは、対照的な涼やかで鋭い、東方の男の声であった。そしてショウハは砥石と三日月刀を腰に収め去って行ってしまった。

「あの男の言うとおりだな。魔術師もまた自由であるべきだ。魔道に対する探究心を縛ることはできないぜ。それに俺は、ひたすらグレン老師を目指したい。あの人にはなれないだろうが、近付く事はできるはずだ」

 爽やかに言うと、薄手の外套を翻し、バーグソンも丸太から腰を起こして去って行った。

「なら、俺らが付き合うよ。良いだろう、クレシェイド?」

 アディオスが笑いながら言った。

「俺で良いならば」

 クレシェイドは話半分で聞いていたが、ムジンリの戦の折、キライに助けられたことを彼は感謝していた。それに彼はなかなか良い奴だ。クレシェイドは立ち上がり、脛に差している短剣を抜き放った。アディオスも火走りの剣ユースアルクに手を掛けたが、キライ本人がそれを止めた。彼は不機嫌そうに言った。

「もういい、聞かなかったことにしてくれ。あの薄情者どものせいで、今の俺は心底惨めな気分だ。あばよ」

 鎖を担ぎ、彼もまた行ってしまった。

 アディオスは乾いた笑顔と共にその背を見送った。

「やれやれ」

 そして彼はおもむろに懐に手を入れ、畳まれた羊皮紙を差し出した。

「クレシェイド、前線基地司令官代理のアディー・バルトン殿から、お前さん宛にだよ。個人的な依頼だとか言ってたな」

 クレシェイドは手紙を受け取り読み始めた。それは、ブライバスンの町への手紙の配達を頼む旨の申し入れであった。相手はブライバスンの魔術師ギルドの支部長ゼーロン・ゴースという名の人物のようで、相手宛の封筒も添えられている。アディー・バルトンの手紙には、その足でブライバスンからアルマンへも行くようにも記されていた。表面的にはお嬢様の安否確認ということだが、こちらの仲間達を合流させたいというドワーフの従者なりの気遣いもあるのかもしれない。

「用事ができた。行って来る」

「ああ、また会おう」



 三


  

 街道を二頭の馬と二人の乗り手が行く。

 大きな葦毛の馬に跨ったクレシェイドは、栗毛の馬の騎乗者である有翼人の少女の背を追っていた。彼女もまた、ドワーフの従者から同じ依頼を頼まれたのだ。

 しかし、今のところ二人は言葉を交わしてはいなかった。クレシェイドがムジンリから帰還した際も、彼女は一度も顔を見せなかった。そして今回、既に彼女は村の入り口で待機し、こちらの姿を見ると先に馬を走らせたのだった。

 彼女の気に障るようなことをしたとすれば、それは「岩崩し」の斧を失ったことだろうか。表向きは村の警備兵のアーチボルトがよこしたということだが、あの斧の素晴らしい特性を考えれば、こんな偶然は考えられないことだ。やはり、ティアイエルが用意したのだろう。

 このまま無言で居ても埒が明かない。この先にはウディーウッドがあるが、彼女が立ち寄るのかどうか、それぐらいは聞いておくべきだろう。

「ティアイエル、君はウディーウッドに用事はあるか?」

 クレシェイドがもう一度尋ねると、ようやく前を行く相手が振り返った。

「ふーん、アタシは無いけど。アンタは丸腰で良い訳ね?」

 冷ややかな口調で彼女は言った。クレシェイドは脛に短剣を差しているだけであった。どのような剣を使っても、もはや闇の力には耐え切れるものではない。そのような諦めが、彼の準備不足を招いたのであった。そう思えば、無駄だとしても、長剣を佩いて来るべきだったのかもしれない。オルンドムの店ならば、あるいは耐えるだけならばマシな物が置いてあるかもしれない。

「すまない、ウディーウッドに寄ろうと思うのだが」

「さっさと済ませなさいよ。少しだけなら待っててあげるから」

 彼女はそう言い放つと、前に向き直ってしまった。

「ただ、アンタにとって、まともな物があるとは思えないけどね」

 有翼人の少女は淡々とそう言った。クレシェイドは彼女に「岩崩し」の斧の件を尋ねるべきか、あるいは結末を話すべきかと思った。

「で、あの斧、どうしちゃったわけ?」

 こちらを振り向かず、気にしていた話題を彼女の方から尋ねてきた。その口調から、やはり彼女が斧に対して関わりがあったのだとクレシェイドは悟った。申し訳なく思ったが、彼は結末を話した。不甲斐無く奪われ、敵の手に落ち、凶刃としてこちらに立ち塞がったことを。そして浄化する以外に道が無かったことを、彼はクラメント神父のことを交えて話して聞かせた。ティアイエルは前を向いたまま話を聞いていた。

「あくまで他人事だけど、それでも不甲斐無くて頭にくるわ」

 ティアイエルは冷たく答えた。

「トロルに圧し折られた次は、ヴァンパイアに利用されるだなんて、相当な間抜けよ。年相応に耄碌しちゃってるんじゃないの?」

「すまない。返す言葉もない」

「べ、別に、あの斧は、私がアンタにやったわけじゃないもの。あれはアーチボルトって人が、自分のところの倉庫で見つけたんだから。だからアタシに謝っても無意味ってことよ。そう、そうでしょ?」

 彼女は咳払いしつつ早口で応じた。クレシェイドは己が惨めに思えた。彼女の言うとおりだ。「城壁の剣」はトロルごときに圧し折られ、「岩崩し」の斧は、サルバトールに良い様に利用されてしまった。それにクラメント神父が浄化しなければ、その刃はこちらの仲間の血を吸っていたかもしれない。

 ふと、頭上を大きな鳥の影が横切って行った。乗っていた馬が、恐れ慄いて棹立ちになる。クレシェイドは懸命に落ち着かせながら、頭上へ目を凝らした。

 朝の柔らかな日差しの側を、巨大な鳥が重々しい羽音を響かせて飛行している。何と大きな鳥だろうか。その全長は貴族の大きな屋敷を丸々飲み込めるほどはあるだろう。

「何よ、あれ?」

 ティアイエルも暴れる馬を宥めつつ、空を見て声を上げていた。怪物のような鳥と言えば、見たことは無いが、その名に心当たりがあった。クレシェイドは声を上げた。

「たぶん、あれがロック鳥か」

 するとティアイエルが被りを振ってこちらを睨んだ。

「ルフって言いなさいよ。ここ北国じゃ無いんだから、それじゃあ通じ無いわよ」

「ルフ……」

「そう、ルフよ」

 二人は怪鳥の行く末に見惚れていた。茶色と白の羽毛に包まれた大きな身体は、鳶の様に優雅に弧を描いて飛んでいる。

「で、アンタ北の方の出身なの?」

 クレシェイドは頷いた。そうは言っても、真紅の屍術師によって滅ぼされ、更に幾百という時の中で彼の故郷は完全に失われてしまったはずだ。今更故郷にも北にも感慨が湧いたりはしない。それを感じるとすれば、拠点を置くウディーウッドに対してだろうか。

 ティアイエルはこちらを見ていた。知性に富んだ双眸が、興味深げな光りを帯びていた。

「北ってどんなところなの?」

「西には広い砂漠がある。それ以外の地域は冬になると大雪が降る。街道は寸断され、孤立する町や村が、毎年後を絶たなかった」

「雪ね。確かに、こっちじゃ降らないけれど、もっと違うものは無いの?」

 ティアイエルが予想外に食いついてきたので、クレシェイドは思わず狼狽するのをどうにか押し隠していた。彼は思案した。彼女の満足する話をどうにか聞かせてやりたい。何故だろうか。それは、自分が彼女にできる罪滅ぼしと恩返しはこのぐらいのものだからだ。

 彼は何気なく頭上を見やっていた。巨大な鳥は緩やかに旋回している。ふと、その足から何かが落下した。小さな影だ。彼は闇の力を視覚に集中させた。影は細長い。鉄色をしている。それは剣であった。切っ先を下にし、ティアイエルの頭上へ真っ直ぐ向かっていた。彼は慌てた。

「まずい!」

 クレシェイドは馬上から飛び降り、そして呆け顔の美少女の方へと懸命に駆け出した。剣の影がグングン彼女へと迫っている。

「何? 何なのよ?」

 ティアイエルは正気を疑うような口調で尋ねてきた。クレシェイドは彼女の跨る馬の尻を強く叩いた。馬が悲鳴を上げ駆け出した。ティアイエルも驚愕の声を響かせ、馬上で四方に揺られながらも慌てて手綱を握り締めていた。そして、重々しい音を短く木霊させ、彼の目の前の大地に剣が深々と突き刺さった。屈強な握り手と刃を見て、クレシェイドは再び驚愕した。それを引き抜き、無骨で広く重たい刃を繁々と眺めた。これは稀に見る業物だ。

 彼はルフを見上げた。巨大な鳥は、旋回を終え、ウディーウッドの方へと進路を変えて行った。先でティアイエルも鳥の行く末を見送り、そして彼女は振り返った。

「ねぇ、脚に誰か捕まってたわよ!」

「何だって?」

 クレシェイドが尋ね返すと、ティアイエルは声を荒げた。

「誰かがルフの脚にしがみ付いてたの! 様子を見てくるわ!」

 彼女は白い翼を羽ばたかせ、飛翔して行った。

 まさか、一人であの巨大な鳥に対抗する気なのか。とにかく、行方を見失うわけにはいかない。クレシェイドは慌てて馬に戻った。


 四


 剣だ。ティアイエルは苛立っていた。あの剣が今頃、頭を貫いて、このティアイエル様の一生を無理やり終わらせてくれようとした!

 良い度胸じゃないの! 売られた喧嘩は買ったげる!

 近付くに連れて、ルフの巨体が圧倒的であることに気付かされる。彼女は風の精霊を気配を感じ取ろうとしていた。やがて、茶色の羽という羽に粒のような緑色の光りがこびり付いているのを見て、彼女は舌打ちした。精霊達にとって、あの鳥は随分と魅力的のようだ。

 彼女は歯噛みし、前方の巨体に光る苔のように張り付く精霊達を凝視し、強く念じた。謝意と、懇願、そして彼らを満足させられるほどの爽快な指揮を取って見せることへの自信とを、懸命に心の中で思い描き、緑色の光りという光りに向かって目で訴えた。

 先を行く茶色の背から、幾つかの緑色の光りが剥がれ落ちた。しかし、それらはティアイエルのもとへゆかず、空気の中へ溶け込み、姿を消してしまった。優柔不断な者達だったということだ。怪物鳥への義理と、こちらの魅力的な誘いに挟まれ、悩んだ末に中立の立場をとったということだ。そして他の精霊達は未だに鳥の身体中にへばり付いている。

 あっかんべー。

「生意気!」

 茶色の羽という羽に残る無数の緑色の粒を見て、ティアイエルは悪態を吐いた。

 彼女は身一つで挑むことにした。手に提げている収納式の槍を一振りで伸ばす。

 彼女は怪鳥の白い尾羽を追った。長く伸びた尾羽は大きな両翼の羽ばたきと共にヒラヒラと揺れていたが、不意に殺気を感じたかのように、不自然な揺らめきを見せた。途端に、彼女は、風の精霊がこちらに襲い掛かってくるのを見止めた。緑色に光る渦が、旋風となって、こちらへ放たれた。ティアイエルは事前に身を避け、渦が通り過ぎる圧倒的な余韻をその身に感じつつ、速度を上げ真下から巨大な鳥へと向かった。

 彼女は鳥の腹を見上げていた。白い羽毛に覆われた腿から、蛇のような鱗に覆われた太い足先が伸びている。そのうちの左側に人が捕らえられていた。様子を見るに、ルフを操っていたわけではなさそうだ。その囚われ人は、両手を鳥の足へと伸ばし、必死な様子で抱き締めている。

 汚れているようだが白い服装をしている。遠目では人の外見はこれぐらいしかわからなかった。遥か先にはウディーウッドの町並みが見えた。

 ルフの茶色の両翼が緑色に輝き、途端に二つの風の鞭がその翼の先端に現れた。まるで新たな翼が生えたかのようであった。それは空と一体化しているが、ティアイエルには風の精霊が形作っている輪郭の様を見破ることができた。

 翼の羽ばたき共に、大きな風の鞭は撓り、左右から襲い掛かった。太い唸りが身を揺るがした。彼女は懸命にそれらを避け、前へ前へと距離を詰めた。黄色い鱗のような足と、分厚い岩を研いだような爪が見える。それに挟まれるように囚われている人間がこちらを見ていた。

 やはり白い服をしている。それと青い髪をしていた。

「危ないっ!」

 女の声が叫んだ。

 背後から迫る半透明な帯のような鞭を彼女は辛うじて避けた。二つの鋭い音が頭上を通り過ぎた。翼が上がり、離れてゆくそれらを見送っていると、何の前触れも無く、風の精霊の結晶達が彼女の前に姿をみせた。

 ティアイエルはここぞとばかりに、手を貸すように念じた。緑色の軌跡を残すと、彼女の傍らで精霊達が星の如く瞬いていた。

 所詮は鳥獣ということだろうか。

 鞭が再び迫ったが、それらは途中でバラけてしまった。緑色の粒が当たり一面に散らばった。ティアイエルは彼らを呼び止め、こちらへ招いた。

 もっともっと大掛かりなことをしてみせるから、アンタ達、協力しなさいよ! 彼女の背には無数の灯かりが集っていた。

 彼女は先を行く鳥の姿を凝視し、己の想像する様を念じて、全力で精霊達に伝えた。敵を睨みながら槍を振るうと、精霊達の光りがコガネムシの群れの様に空を駆け、あっと言う間に怪物鳥を追い抜き、光る壁のように行く手に立ちはだかった。

 しかし、ルフは意に返すことも無く、本能のまま先へ先へと飛んで行く。ティアイエルは身体中の力を振り絞って、頭の中で呼び掛けた。向かい風よ! 精霊達が姿を消す。すると、ルフの全身の羽毛が激しく揺らめいた。

 怪鳥が甲高い咆哮を響かせた。ティアイエルは動きの鈍った大きな身体から目を離さず、ゆっくりと槍を掲げ始めた。怪鳥の身体がジリジリと上向きに傾き始めた。彼女は一気に槍を下ろした。

 怪鳥の巨体が地面へ向かって押し付けられて行く。鳥は困惑気味の悲鳴を上げ、逃れようと翼をバタつかせた。茶色の羽と、白い羽毛が散らばった。ティアイエルは尚も集中していた。下ろしきった槍を握る手にも全力が注がれている。

 街道の脇の木々が、圧倒的な風を受けて、大きく撓り、葉という葉が吹雪のように飛んでゆく。ルフの翼が打ち付け幾つもの木々を圧し折っていた。

 さあ、これからどうする。砂塵を巻き上げて街道に巨体を見下ろしつつ、彼女は歯噛みした。すると、すぐに馬を飛ばしてクレシェイドが駆け付けて来た。

 あいつに頼るしかない。ティアイエルはそう決断を下すと、更に集中し、頭上からの暴風で鳥の身体を更に押さえ込んだ。

 黒い戦士は離れたところで馬から降りると、風の勢いに苦労しながら怪物鳥の方へと歩みを進めて行った。

「急ぎなさいよ、馬鹿!」

 集中力の限界と、引き締められ続けた身体中の筋肉の限界を感じ、彼女は己を鼓舞するつもりで仲間を罵った。細い木々の幾つかが、根っ子から引き抜かれて飛んで行ってしまった。生き残った木々もまた、夏の余韻のある秋の始まりだというのに、葉を毟られ、枯れ木の如く素っ裸になってしまっていた。バツが悪い思いを抱くのはまだ先だ。彼女は己の所業を、今はそう切り捨てた。

 白く長い尾羽の脇を過ぎ、クレシェイドは身を這わせ、片翼の下へと潜り込んで行った。程なくして彼は這い出て来た。漆黒の鎧の胸の中には、白い服の少女が抱えられている。

 ティアイエルは彼らが後退するまで、気力を振り絞って精霊達をけしかけ続けた。

 そして彼女はようやく力を抜いた。怪鳥は地面で何度かバタつくと、ようやく感覚を取り戻したように翼を動かし飛び上がった。そして、ほうほうの体で、困惑気味の鳴き声を上げつつ、虚空へ中へと消えて行った。

 ティアイエルはようやく一息吐いた。風の精霊達が軌跡を残して空気の中へと消えて行く。彼女も仲間の下へと舞い降りた。

 クレシェイドが助けた少女を抱えて、何やら呼び掛けていた。

「レイチェル! 大丈夫なのか!?」

 戦士の声を聞いて、ティアイエルは度肝を抜かれた。まさか、逢うには方向が逆のはずだ。そう理性が呼び掛けた。しかし、白い服と、青い髪を思い出し、そんなレイチェルという人間は、この辺りでは自分の知っている娘一人だけだろうとも考えた。

 はたして、彼女は驚き、悲鳴を上げていた。

「レイチェル!? アンタ、こんなところで何やってるのよ!?」

 普段はぼんやりとしてそうな顔は、土と微量の乾いた血で汚れていて、疲労に満ち、もはや生気が失われているようであった。彼女は両目を閉じている。ティアイエルは、異質な生臭い臭気を嗅ぎ取り眉宇を顰めた。レイチェルの着ている神官の衣装は、汚泥のような緑色の染みが残っていた。

 彼女は一体どんな目に遭ってきたのだろうか。サンダーに、お嬢様の行方に、合流するはずのヴァルクライム達とはどうなったのか。レイチェルは傷つき、極度の疲労に見舞われているが、訊くべきところを聞かねばならない。心が痛んだが、彼女はレイチェルの顔を覗き込んだ。

「レイチェル、ジミーとお嬢さんはどうしたのよ?」

 クレシェイドが咎めるようにこちらを見たが、睨み返すと、彼は妥協するように傷ついた仲間へ視線を戻した。

「彼女は相当に疲れている」

 それでもクレシェイドは囁くように訴えた。

「見れば分かるわよ」

 釘を刺すような言い方に、ティアイエルは苛立って応じた。やがて、右の瞼を弱々しく動かして、レイチェルは目を開いた。

「アンタを休ませたげたいけれど、今の質問だけには答えて頂戴」

「夢みたいですね……。色々あって、お腹も空いて……」

 レイチェルは声を震わせて、噛み締めるようにそう言った。彼女の目尻に涙が覗いたとき、ティアイエルの心は傷み、もう充分だと彼女は結論付けた。ウディーウッドで休ませよう。しかし、レイチェルは話を続けた。

「大丈夫です。……2人には、色々な人達がついてます。イーレさんに、エルドさん……。アネットに……。そういえば、剣を……」

「レイチェル、これのことか?」

 クレシェイドは空から降ってきた剣を見せた。レイチェルは頷き、そして彼女は気を失った。ティアイエルは労わりを籠めて、彼女の額を撫でた。

「何があったと思う?」

 立ち上がりながらティアイエルは戦士に尋ねていた。

「馬車の件もある。そして見知らぬ者達の名前も口にした。新たな面倒ごとに巻き込まれたのかもしれない。ただ、サンダー達も、無事とみて良いだろう」

 その言葉を聞いてティアイエルも確信を持つことができた。ふと、安堵する己に妙な違和感を覚えた。彼女は戦士を振り返った。彼はレイチェルを抱えて馬の方へ戻っている。「何があったと思う?」彼女は自分が相手に対し、そう尋ねたことに今更ながら驚いていた。



 五


 

 街道沿いの村で休憩を挟み、そこから二日目には、一行は目指す町ブライバスンの側まで来ることができた。クレシェイド達がそうまでして急いだのは、対峙する闇の者達のことを思えばこそであった。ドワーフの従者がどのような書面をしたためたのかはわからないが、魔術師ギルドの有力者宛ということならば、自ずと内容を察することができる。闇の者への備えについてに違いない。

 馬に同乗するレイチェルは、彼の前に座っていた。ウディーウッドで身を清め、そして飢えと渇きを満たし、旅の最中に睡眠をとっていたので、彼女も大分顔色が良くなっていた。それでもアルマンへ行く前に、ブライバスンでは一晩じっくり休むことを、ティアイエルは提案し、クレシェイドも同意している。

 レイチェルは、自分の身に起こった事を二人に話して聞かせた。サンダーと二人でお嬢様を護ったことと、森での出来事、出会いのこと、闇の竜と邪悪なる神官のこと、そして洞窟の下にあった大量のホムンクルスを製造する設備のこともだ。

 ホムンクルスと聞いて、クレシェイドは、自身が対峙した古の猛者達のことを思い出していた。奴らはあそこで生まれたのだろう。そして猛者どもはサルバトールの都を護っていた。闇の子爵と、レイチェルが潜入した洞窟の一味には繋がりがあるとみるべきだ。そして、裏で糸を引いているのは、他ならぬ仇敵のマゾルクとみて間違いは無い。

 真紅の屍術師のことを、クレシェイドはティアイエルに話していなかった。ただ、生き残った冒険者達が、闇の子爵のことも含めて、その姿を人々に触れ回っていた。幸いティアイエルには感付かれてはいないようであった。話すとすれば、時を選ぶべきだと彼は決めていた。全員が集い、彼の敵の居場所を突き止めたときこそが、その機会だ。しかし、彼女達を巻き込んでいいものか、彼は悩んでいた。ムジンリの一件でも、マゾルクは人々を容易く呪われた屍へと変化させていたのだ。

 やはり仲間達を危険な目に合わせるわけにはいかない……。

「ぴったりの剣が見付かると良いですね」

 胸の下でレイチェルがこちらを見上げている。彼女は柔らかい笑みを浮かべた。クレシェイドは頷いた。

「ブライバスンは魔導師の名を持つ町だ。面白い武器があるかもしれない」

「面白い武器ですか?」

 レイチェルが腑に落ちないというように尋ね返した。

「世界には魔術の施された武器も存在する。アディオスの剣は、エルフの打った魔法の剣なのだが、剣先から炎を燃え上がらせることが可能だ。その灼熱は甲冑をも溶かして、難なく敵の肉体を斬ることができるだろう」

 レイチェルは目を丸くしてこちらの話しに聞き入っていた。ただし、単に魔法の剣というだけでは、この内側に流れる闇の膂力に耐え切れるものではないだろう。もしもの時は、外見に拘らず、大量の鋼の延べ棒でも持ち出すしかない。

「クレシェイドさん、これって魔法の剣ですか?」

 レイチェルは腰から鞘に収まった短剣を取ってみせた。

 鞘は木製であった。木の節々が瘤となって残り、それごと滑らかに加工されている。短剣だが、大き目の鞘であった。そして鍔から柄に掛けて、握り手を護る様に、二枚の金属の板が優美な感じに弧を描いて伸びている。銀色のその先端は柄の尻に金具の隣にまで達していた。

 レイチェルは、短剣を静かに鞘から抜き放った。幅のある両刃が鈍い鉄色を放っている。刀身の中ほどから三叉に分かれ、それらは鋭く尖りながら、鉤形に曲げられていた。

 奇妙な剣だが、特別魔術の力が施されているわけでもなさそうだ。そのようにレイチェルに答えようとしたが、ティアイエルが馬を寄せて来て、短剣を覗き込んだ。

「ふーん、ゴブリン屠りよ、これ」

 彼女は特に驚く風も無くそう言った。二人の視線を受けると、ティアイエルは淡々と話を続けた。

「名前の通り、ゴブリンを一突きで倒せるらしいけど、真相はどうだかね。それというか、これはエルフ族の御守りのようなものなのよ。あいつらが外の世界に出る際には、証としてこれを持たされるの。ついでに外に出たエルフは、百年は故郷に立ち入ることが禁止されるわ」

「百年もですか?」

 レイチェルが驚いて尋ねた。

「ええ。その目的が故郷に持ち帰る唄を作るためだなんていうんだから、まったくあいつらは意味不明だわ、もう」

「そういえば、この剣ですが、エルフから奪ったと言ってました。えっと、洞窟にいた悪い魔術師がです」

 レイチェルは答えた。そして彼女は表情を曇らせた。

「大切なものでしょうし、どうにかして、持ち主に返したいですね」

「奪われたなら、案外持ち主は殺されている可能性も高いわよ」

 ティアイエルが言うと、レイチェルは顔面を蒼白にさせた。ティアイエルは呆れたように溜息を吐いた。

「まぁ、好きにしたら。これからどこかでエルフに会えれば、その時にでも押し付けてやれば良いんじゃない。あいつら、淡白そうに見えて、意外と仲間意識強いのよね。まったく、意味不明よ」

 正面から荷馬車の一団がやってくる。御者は商人のようであり、馬車の周囲を冒険者の若い戦士達が付き従っている。戦士の何人かが好奇の目でこちらを見た。漆黒の鎧に身を包んだ男の得物はどんなものだろうか。と、いうように。だが、クレシェイドは武器を持ってはいない。相手はそれを知る由も無く、見つけられなかったというように諦めて前を向いた。単調な車輪の音を響かせて四台の荷馬車は過ぎ去って行った。程なくして一行の目の前に、平坦な町並みが姿を現した。

 ブライバスンの家屋は不思議なことに、店も民家も一階建てで統一されていた。そして道路はレンガや石畳で舗装されてはおらず、茶色の土が剥き出しになっている。新参のレイチェルは想像していた光景とは違ったとばかりに目を見開いていた。

 クレシェイドとティアイエルは彼女が立ち止まっている様に気付き、揃って振り返った。

「どうしたのよ?」

 ティアイエルが尋ねると、レイチェルは我に返り、何でも無いと答えた。おそらくは、彼女が思っていたよりも田舎に見えたのだろうと、クレシェイドは察した。

 魔術師の町ブライバスンは、西の樹海に居城を持つヴァンパイアロードと、長い間睨み合って来たのだ。それ故、奴らの狡猾な手段に内側から翻弄されることもあった。そのため、家屋は二階建てを廃止したのだ。家主の目が隅々まで届くようにし、奴らが知らず知らずのうちにコウモリの如く隠れ住まうのを防ぐためだ。ティアイエルは、後輩の疑念を察したかのように、淡々とそのように説明していた。

 仲間の声を聞きながら、クレシェイドは町を行き交う人々を眺めていた。一時期に比べて往来が少ないような印象を受けた。おそらくは、冒険者達がペトリアの救援に出払っているのだろう。町人の他に残っているのは、丈のある暗めの衣装を羽織った魔術師達に、白い法衣を纏った神官達であった。素朴で、どこか開拓時代の風景を思わせる広々とした剥き出しの茶色の通りを、彼らは穏やかな面持ちで、緩やかな時の流れに身を委ねながら歩き回っていた。

 そして、三人は、見通しの良い道を北に進み、魔術師ギルドの扉を叩いたのであった。

 その建物は町の中でも特に大きな建物であった。古めかしい木の扉には、銀製の輪と、その下に同じく銀製の受け皿が貼り付けられていた。扉の隣には、木の案内板が立てられている。それには優雅でありながらも気難しさも感じさせるような筆記体で「来客用入り口。銀のノッカーでお知らせになるべし」と記されていた。

 クレシェイドは、サルバトールとの一件で、「鉄鎖のキライ」に助けられたことを思い出していた。彼は銀の防具を纏っていたのだが、それのせいで、クレシェイドの中の闇の力が僅かだが浄化されてしまったのだ。

 それを知って知らずか、ティアイエルが進み出て、輪で皿を叩いてみせた。軽快な音が三度鳴り、扉が僅かに振動した。

 向こう側に人が立つ気配がした。

「御機嫌よう、見知らぬお三方よ。本日は、当ギルドに如何なる御用か?」

 気難しそうな老人の声が言い、クレシェイドが応じた。

「我々は冒険者だ。サグデン伯爵の従者にして、ドワーフ族のアディー・バルトン殿から、そちらのゼーロン・ゴース殿宛の書状を届けるように依頼されて参った次第だ」

「入り給え」

 どこか冷ややかな口調で老人の声が言った。そしてこちらが手を伸ばす前に、両開きの扉が揃って内側に引かれていった。

 ぼんやりと明るい部屋の中に、黒っぽい胴衣を纏った魔術師達が横並びになって待ち受けていた。彼らがすぐさま腰から剣を抜き放つや、クレシェイドは二人の仲間を押し退けて慌てて敵の前に立ちはだかった。そして腰に手を伸ばし、剣が無いことを思い出したのであった。

「よろしい。疑いは晴れた」

 先程の老人の声が何処からか聞こえ、身構えていた魔術師達は、再び剣を鞘に収めた。そして左右に分かれて道を開いた。その先には磨かれた木製の横長の卓がある。向こう側に老人が座り、無言でこちらを見据えていた。

 剣を構えていた魔術師達は、既に左右に控える扉の中へと去って行った。

 クレシェイド達は老人の下へ歩み寄った。その際に、目の端には内部の様子が絶え間なく舞い込んできていた。建物全体を形成する木材は殆どが丸太のままであり、磨かれた表面は柔らかな光沢を放っている。壁の左右には二つずつ窪みがあり、そこに蝋燭の燃えた燭台が置かれている。その僅かな炎を、部屋中全ての木材の表面が抜け目無く捉え、穏やかな光りとして反射し照らし出している。壁には古いものから新しいものまでの羊皮紙が貼られ、アリのような小さな字が、何やら気取ったような形で内容を記していた。

 老人は白髪で、そこそこの老いを感じさせていたが、双眸はしっかりとしており、落ち着いた知性と力強さが宿っていた。灰色の薄手の外套を、暗い緑色の魔術師の胴衣の上に羽織っている。

「私がゼーロン・ゴースだ」

 老人は三人を順繰りに見た後、クレシェイドを凝視した。ティアイエルがアディー・バルトンからの書状を差し出そうとすると、老人は多少表情を険しくして有翼人の少女に言った。

「さて、お嬢さん良いのかね? あなたは本当に私がゼーロン・ゴースという人物と思うのかね?」

「何よ? いらないなら破るけど?」

 ティアイエルが睨むと、相手は顔色を変えず鼻を鳴らして自らを嘲った。

「からかってすまなかったな。手紙を頂こうか」

 ティアイエルから受け取ると、ゼーロン・ゴースは馴れた手付きで木のナイフを扱い書状を開封した。老人は熱心に読み耽っているので、手持ち無沙汰になったように、レイチェルが落ち着か無げな視線をクレシェイドに向けて来た。用は済んだ。彼もそう思った。

「では、確かにお渡しした。我々はこれで失礼する」

 クレシェイドが言い、ティアイエルとレイチェルが先に踝を返して行った。木の扉は再び勝手に開け放たれた。レイチェルが小さく驚きの声を漏らす。ティアイエルは不満げに内部に一瞥を向けて出て行った。

 クレシェイドも続こうとしたとき、ゼーロン・ゴースの声が彼の背中に投げ掛けられた。

「ムジンリの惨状は聞いている。グレン・クライムの死も」

 クレシェイドは老人を振り返った。相手は手紙を置き、力のある双眸をこちらに向けていた。

「おおよその魔術師の本懐とは、その目に適う偉大なる勇者を見つけ、彼の者と表裏一体の関係を築くことに他ならない。グレンは貴殿にそれを見出したのだろう」

 ゼーロン・ゴースはおもむろに懐に手を伸ばし、そして掴んだカードのような何かをこちらに放り投げた。

 クレシェイドは受け取った。掌に軽めの金属が当たる音と、鎖が揺れるのを聞いた。それは一種の通行証のようなものに見えた。鎖に通された小さな鉄の板に、頭巾を被り顎鬚を生やした魔術師と思われる横顔が彫られていた。そして下の方には勢いのある筆記体で文章が記されていた。「彼の者は魔術師ギルドの客人なり」刻まれた文字を黙読すると、クレシェイドは合点がいかず、相手を見やった。ゼーロン・ゴースは表情を変えずに応じた。

「我々ほどの使い手となると、他人が隠しながらも纏っているあらゆる種の魔の力感じ取ってしまえるものだ。そして、この町には西の居城に住まうヴァンパイアロードに備えるため、多くの神官達が昼夜を問わずして徘徊している。彼らもまた、敵対する不浄なる力に対しては敏感に察してしまうだろう。自分で言うのも何だが、私は顔が広い。今後、そのような事態に見舞われたのならば、私の客人として名乗り、それを見せるが良い」

 クレシェイドは驚きながら答えた。

「何故、俺にこのような御配慮を?」

「グレンが逝った今となれば、彼が見出した猛き勇者を見守ることこそも、我が魔術師ギルドの役目だと思ったからだ」

 ゼーロン・ゴースは淡々と言うと、これで終わりとばかりに小さく溜息を吐いた。

「さて、グレン・クライムの友人よ、私が力になれるのはここまでだ。その手に収まる剣は、早いうちに御自身の目で見出されるが良い」



 六



 魔術師の町には、すっかり夜の帳が降りていた。本当ならば静寂が包むものだが、あいにく町の宿「吠える老翁亭」の食堂は、空いている席が殆ど無いほどの賑わいをみせていた。

 正面の扉を潜れば、そこには長い卓がある。その向こう側で客を待ち受けるのは、威勢の良い黒髪の少女であった。年の頃は、クレシェイドの仲間の少女達と同じぐらいだろう。

 旅人と神官に魔術師達、客が絶えないのは良いことだが、連日訪れるのは大人の男達ばかりで、辟易していたと彼女は言っていた。メイベルと名乗り、隙があらばティアイエルとレイチェルに向かって、にこやかに手を振っていた。レイチェルは料理に舌鼓を打ち、嫌な顔一つもせず、何度も若い店主の求めに応じていた。一方、ティアイエルは三度目になると、そちらを見るのも億劫な様子になっていた。それでも彼女はお義理で軽く手を振り返していた。

 入り口から左右に食堂は広がっており、寝室へ繋がる扉が、それぞれ一つずつ奥に設置されていた。店主のメイベルは時折、探るように食堂全体を見回し、そして胸を撫で下ろしていた。

「何か困ったことがあるんでしょうか?」

 野菜の盛り合わせを口にしながら見兼ねたようにレイチェルが言った。彼女の口の周りは、野菜に振りかけられていた卵とチーズを溶かしたソースでべったりと汚れていた。

「アンタ、口の周り拭きなさいよ」

 ティアイエルが布巾を差し出した。彼女は気だるそうに頬杖をつき、時折、果物と肉をまとめてフォークで刺して口に運んでいた。

「ごめんなさい」

 レイチェルは苦笑いをして布巾で口を拭っていた。その様子を見ながらティアイエルが先程の疑問に答えた。

「ヴァンパイアに決まってるでしょ、彼女が気にしているのは。でも、落ち着きが無いところをみると、最近奴らが現れたのかもしれないわね」

 メイベルがこちらを見た。そして明るく笑って手を振る。今度はティアイエルも幾分、真剣に応じてみせていた。

 三人の席は、入り口から見て左側であった。メイベルとの間には、ドワーフの戦士と人間の旅人が座る卓を挟んでいる。この二名の客は、すっかり酒に呑まれ、怪しい呂律で、互いに噛み合わない話をしたり聞いたりしながら、大笑いを発していた。ティアイエルが忌々しげにその二人を睨むのを、クレシェイドは幾度と無く目にしていた。

 間の抜けた鈴の音色が響き、扉が開かれた。白い衣装の上に革の鎧を着た壮年の神官戦士が二人連れで現れた。メイベルは親しげに客を迎え、相手の問いに何度か頷くと、右手の方を見て、空いている座席を指差した。

「葡萄酒を頼むよ。チーズと、パン、後は羊の炙り肉をね。まあ、つまるところ、いつものやつだな」

 神官戦士がそう言った。彼らは座席へ向かい、メイベルは布で仕切られた後ろの入り口に向かって明るい声を張り上げていた。

「チーズを一塊と、パン六つ。羊の炙り肉を大皿で! 後は野菜の盛り合わせ、調味料は一切抜きで!」

 羊の炙り肉か。当然だが、未だにクレシェイドには食欲というものが戻っては来なかった。だが、彼は香りとして、かつて口にしたものの味を忘れてはいなかった。料理に、葡萄酒、そして戦場で舐めたはずの泥や、血、汗の味まで大雑把にだが思い出せる。しかし、それらは噎せ返るほどではないが、彼の気持ちを幾分不快にさせるだけであった。この食堂に立ち込める濃密な食材や香辛料のにおいに彼は酔い始めていた。二人を残して先に部屋に去るべきか。彼はそう決断を下そうとした。

 鈴が鳴り、また新たな客が現れる。神官戦士と魔術師が二人ずつであった。

「満員にも見えるが、席は空いてるかね? 我らは食事だけしたいのだが……」

 困惑気味に周囲を見渡しながら、初老の魔術師が尋ねた。クレシェイドは右側の奥にある最後の空席へ目を向けていた。すぐにメイベルがそこを見つけて声を掛けて客達を誘導した。

「これで食堂は満員ね。でも、部屋の方は二つ空いてるみたい」

 メイベルが帳簿を見下ろしながらそう呟くのをクレシェイドは聞いていた。彼らは長らく居座っている方の一組なので、そろそろ切り上げるべきかとクレシェイドは思った。レイチェルの前にあるたくさんの皿も、ティアイエルの分の皿も空になっている。潮時だな。

「今日はもう休もう」

 彼は仲間達に言った。それぞれの表情で二人は揃って頷いた。

 鈴が鳴り、客が店に入って来た。メイベルが困ったように食堂を見回しながら出迎えた。

 客は茶色の外套を羽織り、頭陀袋を担いだ青年であった。良い体格をしていると、クレシェイドは思った。そして相手の腰に差してある長剣を見ていた。握り手には赤い布が巻かれていて、下の形に添って凸凹に隆起していた。鞘は幅があるが、何よりも鍔が特徴的であった。まるで小さな盾の様に広がっている。

 メイベルは最初、相手が誰か気付かなかったようだが、彼女の目は次第に驚愕で見開かれ、そして卓の向こうから、相手の大きな身体を抱き締めた。

「兄さん、お帰りなさい」

「傍に居てやれなくてすまなかったな。メイベル。だが、これからは俺も手を貸すよ。お前に良い相手が見付かるまでは、二人で宿を切り盛りしてゆこう」

 そのささやかな温かい様子を見ていたのはクレシェイド達だけであった。そしてティアイエルがおもむろに立ち上がった。

「こっち空いたから、その人に何か食べさせたげれば?」

 メイベルの兄が振り返った。精悍な顔つきしている。

「良いんですか?」

 彼の目は二人の少女を見た後、クレシェイドに向けられた。

 クレシェイドが頷くと、二人の兄妹は顔を輝かせた。

「兄さん、何食べたい?」

「そうだなぁ……」

 鈴が鳴り、新たな客が訪れた。兄と妹は揃って歓迎の声を上げる。スラリと伸びた脚が見え、背の高い壮年の男が現れた。まるで庁舎にでも勤めているかのような、畏まった身形をしている。青白い横顔が見えた。顎の尖った端正な顔立ちしている。

「美味しい葡萄酒を頂けるかな?」

 相手は宿の娘に近付きながら言った。その声は心を引き寄せるような甘美な響きを帯びていた。クレシェイドは、どうにも怪しい含みを感じ、様子を見守った。もしも、権力を傘にする酔っ払いだとすれば、メイベルやその兄だけでは追い払えないだろう。あるいは、ゼーロン・ゴースの手形が役に立つかもしれない。

「ありますよ。座席は、えっと……」

 メイベルがこちらを見た。客の切れ長の目が怪しく歪んだ。クレシェイドはまさかと思ったが遅かった。男は長く伸びた一対の牙を剥き出し、恐ろしい形相で、メイベルに掴み掛かっていた。

 一筋の細い影がクレシェイド達の卓を横切った。それは、異変に気付いたメイベルの兄の側を瞬く間に通り過ぎ、ヴァンパイアの腋に突き刺さった。

 甲高い悲鳴が宿中に木霊し、人々は声の主を振り返った。

 メイベルの前で、ヴァンパイアの男は悶え苦しんでいた。その蝋のように白く骨張った長い腕がメイベルを掴もうと、枝垂れ柳の枝の様に虚空を彷徨い、そして闇の者はうつ伏せに倒れた。

 近くにいた神官戦士とティアイエルが慌てて駆け付け、ヴァンパイアを取り囲んだ。神官戦士が顔を上げ、人々に向けて言った。

「安心しろ、もう終わった。矢は闇の者の冷たい心臓を射抜いている。この矢は最近話題のトネリコの木で作られているようだな」

 人々は胸を撫で下ろし、宿屋の兄は妹を抱き締めた。クレシェイドは後ろを振り返った。今や人々の視線を一手に集めている男は、一番奥の座席で、白い顔に穏やかな笑みを浮かべていた。

 細面で、身体もまた華奢な雰囲気であった。深緑色の薄手の外套を羽織った旅姿の男は、砂色の長い髪の下に突き出るように尖った耳を持っていた。

「エルフだ」

 誰かが驚くようにそう言った。エルフは構えたままの木製の大弓をようやく下ろして、椅子に座った。

「今宵はもう闇の者は訪れはしないでしょう。さあ、皆さん、料理が冷めてしまいますよ。それに今日という日を楽しむには、もうあまり時間が残されておりませんよ。あなたの前にある葡萄酒を今日という日の内に呷ってしまいなさい。そして明日には明日の葡萄酒がその咽を潤しましょう」

 唄うように陽気な面持ちでエルフは人々に呼び掛けた。すると、客達は、煙に撒かれたように半信半疑のまま「それもそうだ」と頷き、やがて食器がカチャカチャ音を立て始めると、再び互いの話しに興じていったのだった。

 宿屋の兄と妹がエルフの前に行き、丁寧に礼を述べると、エルフは朗らかに笑って、出された料理の感想を事細かに口に出して褒め称えていた。メイベルと兄は、クレシェイド達の卓に来て軽く礼を述べた。メイベルの窮地に、クレシェイドも立ち上がっていたが、どうやら二人の仲間も即座に腰を浮かしていたらしい。クレシェイドはティアイエルはともかく、新米のレイチェルがそこまで素早い行動を見せたことに驚きつつ嬉しくも思った。

 二人が去り、程なくして三人連れの神官戦士達が密やかに扉を潜り、苦い表情を浮かべて宿屋の二人に頭を下げた。どうやら、彼らが警備に当たっていたらしい。闇の者の亡骸は颯爽と彼らの手によって運び出されて行った。

「あのエルフの方に、この剣をお渡しした方が良いでしょうか?」

 レイチェルが困ったようにクレシェイドとティアイエルを見た。彼女の手には鞘に収まった「ゴブリン屠り」が握られている。

「さぁね。自分で決めたら。アタシは先に寝てるから」

 ティアイエルは素っ気無い口調で答え、席を立った。そして奥の扉の前で振り返った。

「アンタも、さっさと部屋に戻るのよ」

 そして彼女は扉の向こうへと消えて行った。

 クレシェイドはレイチェルに向かって頷いた。

「俺が付き合おう」

 レイチェルは喜びに顔を輝かせた。

 二人が歩んで行くと、エルフの男は紅茶を啜り、爽やかな表情で二人を歓迎した。

「戦士殿に、神官殿、今宵もぐっすりと眠れますよう」

 エルフ式の挨拶を述べられ、レイチェルの方は困惑していた。クレシェイドは微笑ましく思い、挨拶を返した。

「あなたの眠りに、素晴らしい夢の世界が訪れんことを、エルフの方よ」

 エルフは二人に席を勧めた。座席に着くと、レイチェルは緊張しているかのように口篭りながら、短剣を差し出してみせた。

 するとエルフは彼の一族にしてみれば苦笑いのような微笑みを浮かべて剣を受け取った。

「我が一族が旅立ちの際に持たされる護りの剣に違いありませんね」

 彼は鞘から抜き、三叉の鉤爪となった切っ先を繁々と眺めて、満面の笑顔を浮かべた。

「これは同じ郷里に住むサナトゥースの持ち物のようです」

「わかるんですか?」

 レイチェルは驚きの顔で尋ねた。

「ええ」

 エルフは笑みを崩さずに涼やかに頷いた。

「で、でも、名前は書いてなかったように思うんですが……」

「そのとおりです」

 エルフはまるで楽しむように言いながら、短剣の柄の末尾についている金具を摘んで軽々と引き抜いた。

「分かるでしょうか? この中には風の精霊が封ぜられているのです。見得ざる森の中にある我が故郷で、神々しい太陽の光りを吸い育った大きな木々の吐息から生まれた風の精霊です。その精霊が、剣の持ち主たるサナトゥースのことを告げています」

 エルフは首を傾け、天井を見詰めた。まるでそこに本当に精霊がいるかのように彼は穏やかに頷き、まるで聞こえない声に耳を傾けているかのようであった。

「サナトゥースは、旅の途上で、悪い人間に襲われたようですね。彼自身は辛くも逃れたようですが、この剣は悪者の手に落ちてしまった。おや……」

 エルフは驚いたように天井を見回し、やがてその視線は扉の前に佇む有翼人の少女へと注がれていた。

 ティアイエルは怒っているようであった。レイチェルはバツが悪そうに顔を俯かせ、クレシェイドもいささか狼狽してしまった。それにしても、さほど時間は過ぎていないはずだ。そう思い、クレシェイドは、ティアイエルが気になって引き返してきたのだと考えた。

「ごめんなさい、もう寝ますので……」

 レイチェルは萎縮し切って声を震わせた。

「そうしなさいよ。アンタが一番疲れてるんだから、自覚を持ちなさいよね」

 ティアイエルは一喝した。

「そちらの有翼人の方、風の精霊を掴まえては頂けませんか?」

 エルフが陽気に声を掛けると、ティアイエルは双眸を閉じ肩を怒らせた。そして素早く右手を伸ばして、宙を漂う何かを捕らえた様であった。彼女は冷淡な眼差しで一座を見据えながら荒々しく近寄って来た。そして手を差し出すと、エルフは両手で包むように、クレシェイドには見えない風の精霊を掴むと、短剣の柄の中に押し込み、素早く金具で蓋をした。

「ありがとうございます。やはり、大空を行かれる一族の方々には、風の精霊が見えるのですね」

 エルフは微笑みながら礼を述べると、言葉を続けた。

「もしかすると、あなたには既に武具に宿る精霊の存在を、お見通しだったのかもしれませんね」

「え? と、当然じゃない! 持ち主の名前だって、とうの昔にアタシは知ってたわよ」

 ティアイエルは言葉を詰まらせながら尊大な態度で応じた。クレシェイドはレイチェルと顔を見合わせ、笑うのを堪えなければならなかった。エルフはティアイエルを爽やかな顔で褒め称えたので、ついに彼女は居心地が悪くなったかのように扉の方へと向かって行った。

「レイチェル、アンタも来るのよ。寝坊したら置き去りにしてくんだから」

 鋭い声音で言われて、レイチェルも観念したように席を立った。

「じゃあ、私もこれで失礼します。えっと……」

「エスエリエリクトスです。神官殿」

 エルフは涼やかにそう名乗った。

「エスエリ……えっと」

「そうですね。人族の方々は皆さんそこで躓いてしまうようです。ですから、人族の方達は必ず私をエースと呼ぶことでお互い妥協します。ですが、私としては故郷で呼ばれていたエリーという方で呼んで頂ければ本当は嬉しいのです」

 エルフは少しだけ悲しげに言った。相手のその様子を見て、レイチェルは生真面目に頷いていた。

「エリーさんですね。私はレイチェルです」

 レイチェルが名乗ると、エルフのエリーは満面の笑顔で頷いた。

「お会い出来て光栄でした、神官のレイチェル殿。そして我が同胞の大切な落し物を届けて下さったことにもお礼を申し上げます。この護りの剣は必ずやサナトゥースのもとへと私が届けることに致します」

 エルフのエリーは、感謝を込めてレイチェルの手を両手で包むように優しく握った。

「あなたは、エルフを助けて下さいました。ですから、エルフの力が必要なときは、心の底から私の名前を呼んで下さい。必ずやお力になりましょう」

 そして二人の少女は扉へ向かって行った。それが閉じる直前にティアイエルが顔を覗かせた。

「ねえ、アンタ。それ、ゴブリン屠りよね?」

「護りの剣の異名をよくぞ御存知ですね。まさか、外の世界でその名を知っている方がいるとは思いませんでした」

 エルフのエリーは心から驚いたように言うと、ティアイエルは胸のつかえが取り払われたかのように、去り際に得意げな表情を見せていた。彼女達が居なくなり、クレシェイドもまた今宵はもうエルフの前から失礼しようとした。しかし、眠れぬ身体で自室にいたところで退屈なだけである。そう思いつつも、既に心は決まっていた。

「夜の散策に出られるのですか?」

「そのようなところだ」

 するとエルフも立ち上がった。

「私も同伴してよろしいですか?」

 その申し出を少しも鬱陶しくも思わなかったのは、エルフの唄うような声の成せる業なのかもしれない。クレシェイドはただ頷くだけであった。

 二人が出ようとすると、椅子に座り、互いに遅い食事を取りつつ談笑しあっていた兄と妹が顔を振り向かせた。妹のメイベルが「お出掛けですか?」と問い、エルフが頷くと、彼女は素早く立ち上がって店の奥へと駆け込んで行った。すぐに彼女は現れ、灯の点いたカンテラを二つ差し出した。兄の方もクレシェイドが丸腰なのを見ると、妹と同じく店の奥へ駆けて行き、鞘に収まった剣を差し出してきた。「夜道は危険です。どうか、これを持って行って下さい」

 客がまばらになった店内から二人は外に出た。既に人家の多くが明かりを消している。どこか遠くで男達の盛り上がった声が霞の如く耳に届いてきた。夜空には薄い雲が掛かっている。満月と、星の海は時折だが姿を見せた。二人は町の北側へ向けて歩みを進めて行った。

「私は夜目が利くので、本当はこれがなくても大丈夫だったのですが」

 エルフはカンテラを持ち上げて興味深げにガラスの向こうに瞬く火の光りを見ていた。

「俺も、似たようなものだ」

 クレシェイドが応じ、エルフが言葉を引き継ぐように言った。

「でも、そのお気遣いは身に染みるものです」

「確かに」

 二人は歩いた。カンテラの光りが巡回中の神官戦士達を幾度となく照らした。向こう側はエルフの姿を見て安心したように、温かな挨拶をしてくれた。

 慈愛の神を祭る小さな教会が見えてきた。その隣には無数の墓石が整然と並んでいた。

 墓地の入り口にある鉄格子の戸を開き、二人は静かに中に踏み入った。近くに来て墓石の数が予想よりも多いことに気付いた。

「私もお手伝いしてもよろしいですか?」

 クレシェイドはエルフの申し出を受け、探す相手の名を告げた。

 カンテラの灯かりが、永久の眠りについた人々の名前をゆっくりと照らしてゆく。大分時間が経ったところで、少し前を行くエルフが彼を呼んだ。その声は、やはり唄のようであった。かつて賑やかな食卓に相応しい陽気な音色を奏でたように、彼の声はこの静寂を微塵も波立たせぬような鎮魂歌そのものの様であった。

 クレシェイドは早足で歩んで行った。エルフが退いた。彼は灯かりを墓石に向けた。

 グレン・クライムここに眠る。全てを一人の猛き者へ。

 墓石には刻まれた文字を見下ろし、彼は老魔術師との思い出に浸っていた。互いに出会って僅かだが、魔術師の一挙一動が鮮烈な記憶となって彼の脳裡に焼きついていた。彼は常にクレシェイドの傍に居た。その身を理解し、案じ、そして救ってくれた。狼のような面構えを、豪放にも冷静にもし、その大半は隣で笑っていた。何と頼もしい男だったのだろうか。

 横合いから強い風が吹き付けてきた。その鋭い音を耳にしながら、彼は今一度黙祷を捧げ、その場を後にしようとした。

 私はきっと幸運だったのかもしれない。

 クレシェイドは思わず足を止めた。風の奏でる激しい音色の中に、老魔術師の声を聞いたように思えたのだ。彼は墓石を見下ろした。吹き荒れる風はまた告げた。

 最後の最後で、理想の男と友誼を通じることができたのだから……。

 グレン!? どこだ!? 俺は、確かにあなたの声を聞いたぞ!

 クレシェイドは墓石を見下ろし、そして必死になって周囲に目を走らせた。

 何をやっているんだ俺は……。彼は己の取り乱しようを恥ずかしく思った。きっと、これはその場の勢いなのだ。夜の墓地、静寂、これだけの素晴らしい条件に刺激され、都合良く感傷に浸りたくなったのだろう。

 自嘲気味にゼーロン・ゴースの言葉を思い出し、そして墓碑銘を今一度見下ろした。そら見るがいい、急にグレン・クライムが恋しくなった。所詮はそういうことなのだ。

 彼はエルフの姿を探した。相手は少し離れたところに立っていた。目を閉じつつも、顔は上へ向けられている。風がエルフの長い髪をサラサラと弄んでいる。エルフは安らかな顔をし、その身を風に委ねているようであった。

 相手に声を掛けることも憚れ、仕方無しに、クレシェイドも頭上を見上げた。そして驚きのあまり息を呑んでいた。視界に広がる満天の星星の全てが、まるで彼に語りかけるように、踊るような瞬きを放っていた。

 愕然とする彼の耳に鋭い風の音色が聞こえ、そして渦巻く流れの中に、グレン・クライムの明朗な声が木霊した。

 さらばだ、我が愛する猛き男よ。

 老魔術師の声に応ずるように、全ての星が燃え上がるように光った。彼は確かにその光景を見た。そして気付けば辺りは来た時と同じ夜の風景に戻っていたのであった。風は止み、月と星の瞬きも、煌びやかだが小さな宝石程になっている。クレシェイドは弱々しくその場に崩れ落ちていた。

 心に張り巡らされた無数の琴線が揺れ動いて圧倒し、彼を感動と後悔とに苛ませていた。とても胸が苦しかった。彼は心の中で涙を流し、その思いを叫んでいた。

「俺は、あなたに生きていて欲しかった。だが……どうか、安らかに眠っていてくれ」

 クレシェイドは立ち上がった。エルフを見ると、相手は未だに同じ体勢のまま佇んでいた。変わっているところといえば、彼の髪を弄んでいた風が既に止んでいることだろう。眠ってしまったのか。そう思い始めたときに、エルフは目を開き、ゆっくりと顔を下ろすとこちらを見た。穏やかな笑顔を浮かべ、彼は言った。

「今宵は、とても良い夜ですね」

 クレシェイドは、不意に全てはこの人物の手掛けた事なのだろうかと感じた。しかし、かといって悪い気はしなかった。すっきりしたからだ。彼は頷いて応じた。

「先程の風の中に、友人の声を聞いた気がする。今、この墓の下で眠る偉大な男の声を……」

 こちらの言葉を聞くと、エルフは顔色を変えず、興味深げな口調で答えた。

「それは風の唄を聞かれたのですね」

「風の唄とは?」

「生命が尽きる時、その者の魂の遺言を、風に吹かれた精霊達が代わって汲み取ってゆくことがあるのです。亡くなられた方の最後の思いが、風の精霊達の心の糸に大きく触れたのでしょうね。彼らは日頃はそそっかしくもありながら、とても情に厚い精霊達なのです。きっと役目を果たす時を、ここでずっと待っていたのでしょう」

「そうだとすれば、おかげで、俺も友人も大いに救われたことになる」

 エルフにこやかに頷いた。

「さて戦士殿、今宵はもう宿に戻りましょう。メイベルさん達は、我々の帰りを持っているはずですよ。彼女も今日はとても疲れたはずです。早く休ませて差し上げましょうよ」

 エルフの言葉にクレシェイドは同意し、二人は並んで墓地を後にした。

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