第12話 「ミノスの里(前編)」

 昨晩助けたエルフの男は、危いほどの重傷であったが、四人の神官と、薬師の少女の必死な看病が功を奏し、明け方には流暢な言葉で、人々に礼を述べられるほどにまで快復していた。

 彼は邪悪な魔術師達に襲われ、ここまで逃れてきたのだという。川沿いの葦の茂みに潜むように倒れていたのを、背の高い神官戦士エルドが見つけたのだ。

 エルフは華奢な身体に、丈夫な布で編まれた鎧を羽織っていた。それ以外は、武器も含めて全てを奪われてしまったらしい。サナトゥースと名乗った哀れな彼は、穏やかでそしてエルフ本来の奔放そうな口調で、他人事のように語って聞かせてみせた。そんな彼が特に悔やんだのが、護りの剣という短剣を消失してしまったことだ。

 その純朴そうながらも気品のある美男と、星の様に優美な双眸を前に、戦士ではない女達は己の境遇も忘れたしまったかのように、深い同情の念を表して見せていた。

「しかし、忘れていました。このような時には風の精霊に訊けば良いのでしたね」

 エルフのサナトゥースは、ふとしたように顔を希望に輝かせ、ヴァルクライム達を残し、葦の中へとズンズン入って行きながら、右手を空へと掲げた。その足先が水を踏んだところで、彼は立ち止まった。

「何をやってるんだろう?」

 サンダーが誰にともなく尋ねた。

「精霊を掴まえているのだよ」

 しばしの沈黙の後、ヴァルクライムは答えてみせた。エルドを抜いた戦士達と女達が揃って彼に注目した。そして手に残った剣を恐れ戦くように一瞥した。ギラ・キュロスは今もヴァルクライムから闇の魔力を奪い取っていた。エルドが一時的に中和したといえ、邪竜デルザンドから奪った闇だけは消えず、本当にゆっくりだが、刀身の覆う漆黒は再び膨れ上がってきている。

「どういうことだ?」

 ライラが続いて尋ねた。その問いに対する答えは、エルフ本人によって齎された。彼は穏やかな笑みを浮かべながらも陽気そうに手を振って葦の茂みの中を引き返してきた。

「私の護りの剣は、既に善意ある方の手によって仲間のエリーへと届けられたようです」

 そして彼は、陽気で奔放な顔を曇らせた。その視線が真っ直ぐこちらを見ていることを知り、ヴァルクライムは何事かの悪い知らせに対して、覚悟を決めた。

「精霊達が言っていました。ヴァルクライム殿の伯父君、グレン・クライム殿がお亡くなりになられたそうです」

「伯父貴がか……」

 同情と困惑、そして興味の視線に、今は居心地の悪さを覚えた。

「知らせを感謝する」

 彼は努めて冷静に応じた。心の動揺は凄まじいものであったが、レイチェルを失って間もないというのに、ここでサンダーとライラの心まで掻き乱すわけにはいかなかった。私はしっかりしなければならない。皆の背後に立つ魔術師なのだから。

 クレシェイドと伯父はきっと馬が合っただろう。本人達の自覚が無くとも、お互いが求めていた同士だからだ。今はもう古い、戦士と魔術師の関係だ。このヴァルクライムはまだまだ未熟故、クレシェイドの支えになるには今少し役不足であろう。

「おっちゃん……」

 サンダーが同情する様に目を潤ませて見上げてきた。

「私なら大丈夫だ、少年。私の伯父は年を重ねつつ、ただ虚しくクレシェイドのような男を求めていた。お前とレイチェルが村を発った後、伯父はやってきた。私はこれこそ運命の巡り合わせだと思い、伯父にクレシェイドのことを託してきた。ムジンリで一戦あったのかは不明だが……いや、グレン・クライムが死んだということはムジンリで激闘があったのだろうな。二人はきっと背中合わせに戦ったのだろう。それだけで、あの伯父は幸せだったのだと私は思っている」

 見詰め返して応じると、少年は半信半疑という様子で頷き、再びエルフへ顔を向けた。

「もう一つ、風の精霊が告げています」

 人々が見守る中、サナトゥースは、こちらに遠慮するように、僅かに顔を綻ばせて言った。

「私の剣を保護してくださった善意ある方は、イーレさん、あなたの帯びている剣と似たような代物を腰に佩いているそうですよ」

「鎖断ち!」

 そう叫んだのは、イーレとサンダーであった。ヴァルクライムも、他の者達も二人を見ていた。サンダーが、どうにか事情を説明しようと口を開いたが、領主のお嬢様の問いの方が先であった。

「そういえば、イーレは、二つの剣を持っていたのお。どちらも丈夫そうで瓜二つであった」

「そうよ。だとすれば、レイチェルが……」

「生きてる! そういうことだろ!?」

 薬師の少女の後を引き継いでサンダーが言った。そして周囲が事情を理解する前に、少年は薬師の少女の手を握った。心から喜ぶ笑顔を見せられて、相手の少女が顔を赤らめるのをヴァルクライムは見たのであった。そして二人のもとにズカズカとライラが向かい、慎重な態度で問い質した。

「レイチェルが生きてると言ったな? そうなのだな?」

「うん、そうだよ! 間違いないよ!」

 サンダーが答えると、ライラはその場にガクリと膝を着き、肩を震わせて静かに泣き始めていた。

「あの、サナトゥースさん、それは本当なのですか?」

 レイチェルの友人、シスターラースクリスが冷静な態度でエルフに尋ねた。

「神官姿の若い女性ということです。髪は青いそうです」

「そうです。きっと彼女です」

 女達も事情を察したようだが、彼女達はぎこちなく微笑み合うだけであった。レイチェルとの間に些細な一悶着があったということだろう。

「それが双子のような剣ならば、共鳴を引き起こせますよ。そうすれば、そのレイチェルさんとも話せるでしょう」

 エルフのサナトゥースが朗らかに言った。そして殺到する幾つかの視線を受けて、彼は怯みもせずに言葉を続けた。

「ただし、夜に限ります。夜は空気に乱れがありませんので。私の持てる限りの力でやってみましょう。ええ」

 サナトゥースは彼らに頷いて見せた。


 

 二



 明朝、三人は魔術師の町ブライバスンに別れを告げた。

 エルフ族のエリーの他、宿屋の兄妹までもが、町の玄関口まで一行を見送ってくれた。

 町を離れるにあたり、昨夜のヴァンパイアの一件が、レイチェルを不安にさせていた。あれだけの神官戦士と、魔術師達が町中に溢れていても、その目を掻い潜ることは可能なのだ。もしも、またメイベルが襲われてしまったらと、彼女は落ち着かない気持ちであった。しかし、そんな気持ちを知ってか知らずか、エルフのエリーが、魔術の見聞を広めるために宿にしばらく滞在する旨を口にしたのだ。彼は後からクレシェイドと並んで歩いていたので、レイチェルは偶然飛び込んできた言葉に、人知れず安堵の息を吐いていた。

 レイチェル達は街道をアルマンに向けて進んでいた。彼女はクレシェイドと共に葦毛の大きな馬に跨っていた。ブライバスンへ来る際にもそうだったように、彼の広い胸の前に彼女は座っていた。ティアイエルの方は、隣で栗毛の馬を慣れたように操っている。三人は殆ど喋らなかったが、レイチェルは時折、ティアイエルが意味有り気にこちらを見ていることに気付いたのであった。

 一度、気になって彼女が尋ねようとすると、有翼人の少女は慌てて目を逸らしたのだった。

 レイチェルは自分に不備があっただろうかと、今朝のことから殆ど変哲の無いような、日常の様を思い返したが至らぬ点が見出せず、返って悩んでしまっていた。結局のところ、自分はまだまだ冒険者として日が浅いから、何をするにも相手に気を遣わせてしまうのではと仮に結論付けたのであった。

 朝は晴れていたが、いつしか日差しは雲に遮られていた。本来ならば、昼の太陽が空の中央に居場所を決める頃だが、徐々に厚みを増した灰色の雲が陽光を遮り、弱々しく伸びた帯の名残が、森に挟まれた街道を薄暗く照らしていた。

「一雨来るだろうな。早いうちに野宿ができそうな場所が見付かれば良いが……」

 レイチェルの上で、クレシェイドの懸念する声が聞こえた。彼は天を仰いだ後、周囲に視線を走らせていた。

「アルマンまではどのぐらいなのですか?」

 レイチェルが問うと、戦士に代わってティアイエルが横から答えた。

「四日ってところよ。その間に幾つか村があるけれど、それでも最初に見えるのだってもう半日ぐらい掛かるわね」

 彼女が言い終わると、クレシェイドが声を上げ、手綱を引いて馬を止め始めた。穏やかな足取りで二頭の馬が止まると、前方に、街道いっぱいに広がった羊の群れが姿を現した。

 羊達はのんびりとした声でまとまりのない合唱を聞かせつつ、ふらふらと道を彷徨っていた。

「ちょっと、何なのよこれ」

 ティアイエルが戸惑い気味に言った。

「羊だな」

「んなことは、知ってるわよ。何でこんなところで群れてるのかって、アタシは訊きたかったわけ」

 クレシェイドが応じると、ティアイエルは苛立つようにそう言った。レイチェルは二人が険悪にならないように祈りながら、先輩冒険者達と、羊達とを順繰りに見回していた。

 こちらの馬が嘶いても、羊達は何処吹く風というように、路辺の草を食み、あるいは道の真ん中に糞を落としていた。

「埒が明かないわね。風の精霊を呼んで追っ払ってやるわ」

 ティアイエルが馬上で槍を振りかざすと、脇の茂みを派手に揺らして、老人が飛び出して来た。

「いや待ってくれ! 待つんじゃ、それはワシの羊達じゃ!」

 老いた男は必死な叫びを上げた。茶色の平服を纏い、頭巾を被っていたが、上から下まで木の葉に塗れていた。そして老人は肩で息をしながら、杖を使って羊達を掻き集めた。毛むくじゃらの動物達は、杖が足元を叩くと、ピクリと顔を動かし、そして気だるげに老人の傍へと集い始めた。予想以上の手際の良さは、レイチェルを感心させた。

 老人は街道の片隅に羊を寄せて道を開いた。

「すまなかったな」

 老人は息を切らしながら、三人に向かって言った。

「こちらこそ、急かすようで申し訳なかった」

 クレシェイドが丁寧に礼を述べると、老人は僅かに顔を驚愕させた。

「いやはや、外見では粗暴そうだと思ったが、何とも紳士な方であったか」

 そして老人はレイチェルとティアイエルを見て、なるほどとばかりに頷いた。

「では、御老体、我々はこれで失礼する」

 クレシェイドがそう述べると、彼は馬を歩ませ始めた。しかし、程なくして老人に呼び掛けられた。

「空の天気も大分崩れてきたが、あんた方、今宵は野宿なさるおつもりかね?」

「そうだけど」

 まるで振り払うように、ティアイエルが語気を荒げて応じた。

「それならば、この近くに今は廃墟となった教会があるのじゃが、そこで雨風を凌いだらどうじゃろうか。屋根も壁もまずまずじゃが、外で過ごすよりは良いはずじゃろう」

 レイチェル達は顔を見合わせた。老人は言った。

「戦士殿は鎧を着ておられるが、お嬢さん方はそうではない。雨に打たれて風邪でも引いては大変じゃろう?」

 老人はクレシェイドの方を見ていた。声こそ穏やかであったが、双眸には願とした強い光りが宿っていた。もしも、断りの返事をすれば、相手は大いに気を損ねるだろうか。レイチェルは不安に思いながら成り行きを見守っていた。

「では、ひとまず場所を教えて頂こうか。ここより近いということだそうだが……」

 クレシェイドが尋ねると、老人は顔を得意げに輝かせて、街道の先を指差した。

「何、単純な道のりじゃよ。少し進むと、左手に森へ続く小道が見えるはずじゃ。道なりに進んで行けば、建物が見えてくるじゃろう」

 クレシェイドは頷くと答えた。

「迷わずに行けそうだ」

 老人も満足げに顎を縦に振った。

「ティアイエル、どうする?」

「良いんじゃない」

 有翼人の少女は、素っ気無い様子で応じた。レイチェルは老人を振り返った。温厚そうに歪められた目が、クレシェイドの背を見ている。しかし、一瞬のことだが、その目が険しい光りを帯び、戦士の左右の腰に提げられた剣を盗み見たように思えた。レイチェルは驚いて瞬きした。改めて老人を見ると、今はその顔に浮かんでいるのは屈託の無い笑みであった。気のせいだったのだろうか。しかし、悩む間もなく機先を制するかのように老人がレイチェルの方を見たため、彼女は度肝を抜かれた。

「何、確かに建物は廃れてしまってはいるが、強い雨風如きでは崩れはせんよ」

 諭すような言葉に対して、レイチェルは声が出せず、とりあえず頷いてみせた。後ろでクレシェイドが動いた。

「それで、御老体の方はどうされる? ブライバスンに御住まいなのならば、こちらとしても一安心というところだが……」

「うむ。ならば、アンタ方は心置きなく安心されることだ。幸いにもワシの住まいはそちらにある故な」

 老人はカラカラと笑いながら答え、集った羊達を杖と口笛とで追い立て始めた。

「では、これにてさらばじゃお若い方々よ。雲行きも一段と怪しくなってきた故、急がれることをお勧めするぞ」

 老人は満足そうに踝を返し、魔術師の町の方へと羊と共に歩んで行った。クレシェイドが短く別れを述べたが、羊達ののんびりとした鳴き声に阻まれたのか、相手は振り返らなかった。

「ねえ、ちょっと! 教会って、もともと何の神様の教会なわけ?」

 ティアイエルが声を上げて尋ねたが、やはり老人には聞こえなかったようだ。気付けば、相手と羊達の姿が豆粒程になるまで、三人は無言で見送っていた。しかし、レイチェルもそうだが、誰もが一抹の不可解な疑念を覚え、思案に暮れているようであった。レイチェルの考えていたことは、老人が、クレシェイドの剣を、本当に盗み見ていたのではないかということであった。ティアイエルの問いは単純に相手の耳に届かなかったのかもしれない。いや、そうは思えなかった。だが、老人が自分達を教会か、あるいはその何処かへ導いたとして、その目的に見当がつかなかった。自分やティアイエルだけならともかく、クレシェイドの容貌と、新品の二振りの長剣をわざわざ見ておいて、例え隠れ潜んでいる他の仲間達がいたとしても、追い剥ぎのような行為を仕掛けるとは到底思えない。だからこそ、見たことも含めて考え過ぎなのだろうという結論に達するしかなかった。

 結局、三人を急き立てのは、頭上に轟く雷の音であった。僅かの間に、空はすっかり黒々とした雨雲に覆い隠されていた。



 三



 老人の言うとおり、小道はすぐに見付かった。

 葉の落ちた木々の枝が、枝垂れ掛かっていたが、森の奥へと続く水路のような道を、馬上から探し当てることは容易かった。しかし、問題は馬である。草こそ踏み拉かれていたが、馬の体躯に対して、邪魔となる木の枝は切り払う必要があった。その役目はクレシェイドが努めた。道を阻む枝は、二人の少女にとっては問題が無かったが、長身の自分に対しては、容赦無く視界を阻み、鋭い先端で鎧を擦りつけてきた。彼は新品の長剣の一つを振るっていた。それは、出立の前に、間に合わせのつもりで、町で一番朝の早い武器屋から買ったものである。とはいえ、最上級の物を求めたため、当然、値が張る代物であった。切れ味はともかく、頑健さは申し分は無い。あくまで鎧の内側に住む闇の精霊に力を求めなければ、行過ぎた負荷を剣に掛けることも無く、むやみに剣を壊すことは無い。しかし、魔物相手に手加減することを彼は危ぶんでいた。たかがゴブリンといえど、この鎧をどうこうできるわけでもないが、守るべき者達がいるのならば話は別だ。剣を惜しみ、手加減したために、虚を衝かれ、誰かを傷つけさせるという憂き目には遭いたくは無かった。全力で五回ほどだろうか。重厚な刃を見て、彼は心中で溜息を吐いた。

 それにしても、この道は何のために作られたのだろうか。剣を振るう傍ら、踏み拉かれて枯れた草が織り成す一筋の道の先を見ながら、彼は街道での物思いの続きに没頭し始めていた。

 どうにも腑に落ちないことがある。ブライバスンに、あれだけの羊を飼っている家が存在するだろうか。西のヴァンパイアに備えて、建物という建物は平坦で、道も見通しが良いように作ることを強いている町である。多数の羊を収めるためには、広大な場所を確保しなければならないだろう。町中の目が常に光るような中で、一軒だけ遠く離れた場所にというのも、ヴァンパイアのことを危惧すれば無謀ともいえる。むしろ、あの老人は、本当はこちらの行く手にある村に居を構えているのではないのだろうか。そして、疑いを殊更深めたのは、最後のティアイエルの問いに対する返答が無かったことだ。彼女の声は自分と比べるまでも無く澄んでいて明瞭であった。そして、あれだけ熱を入れて教会へ促したような人間ならば、むしろ自分の得た知識を雄弁に語りたがるものではないだろうか。しかし、本当に彼女の声が聞こえなかったならば、疑いもそれまでだ。無事な一夜を明かして、自分の神経質さに苦笑いするだけだろう。

 レイチェルが横に並び、剣を振るって枝を払い落としていた。クレシェイドは自分の手が休んでいたことに気付いたのだった。

「代わりますよ」

 レイチェルは励ますようなキラキラとした顔を見せて、両手で握った業物の剣を振るった。「鎖断ちの剣」というらしい。自分が使うには少々小さいが、それでも無骨で屈強な造りはとても魅力的であった。レイチェルが剣の重さに揺られているのを見て、クレシェイドは押し止めた。

「後は俺がやろう」

 そう答えると、レイチェルは気まずそうに顔を歪めていた。クレシェイドは、どう声を掛けるべきか戸惑ったが、後ろでティアイエルが後輩の冒険者に向かって声を掛けた。

「アンタの背じゃ、届かないでしょう。大人しくコイツにやらせりゃ良いのよ」

 レイチェルは納得した様子で、苦笑いを浮かべていた。レイチェルの積極性は、単に新人の感じる重圧からというわけでもなさそうであった。おそらくはそのような感覚が自然と身についてしまったのだろう。詳しくは聞いていないが、ペトリア村で離れ離れになった時からの危険な旅路の最中で、幾度も訪れた危機に挑んでいるうちに、思わぬ程の経験を積んでしまったのだろう。レイチェルと同行したサンダーも、自分やティアイエルが驚くほどの成長を成し遂げているはずだ。クレシェイドは彼に会いたかった。ヴァルクライムとライラとは村で僅かながらの時を共に過ごした。思わぬ出来事でレイチェルとも合流し、彼が会っていないのは少年だけとなった。クレシェイドは、馬の鞍に括りつけた皮袋の1つを思い出していた。その中には小剣が入っている。出立の前に、店で自分の武器を選ぶ際に目に止まったので、思わず購入したのだ。「飛礫の小剣」と名付けられた魔法の剣である。物腰穏やかで知性に富んでそうな店主によれば、刃で地面を穿てば、土塊が強烈な勢いで飛散するということだ。小柄な体躯では、時に工夫を凝らさねば勝てぬ時がある。その簡単な助けとなってくれれば良い。レイチェルと領主の令嬢を連れて、彼ならば男として先頭に立ったはずだ。その行いに報いてやりたいことと、同行できなかったことへの罪とその侘びの意識もあった。

 ふと、己の腕はおろか、歩みまでも止まっていることに彼は気付いた。

「道に迷ったとか言わないわよね?」

 ティアイエルが皮肉るように言った。

「いや。すまない、考え事をしていた」

 クレシェイドは、踏まれた草の続く道を再び歩み始めた。

「クレシェイドさん。さっきのおじいさんのことですか?」

 レイチェルが決然とした面持ちで、こちらを見上げた。彼女もまた思うところがあるようだ。そして、おそらくはティアイエルもそうだろう。しかし、確証がない。いや、それを得られたときには既に時遅しということにもなっているかもしれない。そして頭上を震撼させる雷に、もうすぐ降り注ぐであろう豪雨の気配とを思えば、今は疑いであるならそれはそれとして止め置き、先へ進むしかない。

「俺の考え過ぎかもしれない。それに、今は雨風を凌ぐことが先決だ。行こう」

 もしも、老人が徒党を組んで悪者として襲撃を加えて来たとしても、相手が人である限り、負ける要素はほぼ皆無だ。唯一神官が居たとすれば窮地に成り代わるが、神官が小利のために悪へ寝返るなど、まず考えられぬことだ。

 教会の尖塔が見えて来たのは、そのすぐ後であった。

 林の中の開けた場所に、朽ち果てた建造物がひっそりと佇んでいる。遠目だとそれは風格のある古城のようにも映っていたが、実際は、こじんまりとした小さな建物であった。

 石組みの外壁は苔生し小さな穴だらけであった。屋根は朱色をしていたようだが、今ではすっかりくすんでいる。一本だけの尖塔は屋根の中央から空へ真っ直ぐ伸びていた。

 崩れたりはしないだろうか。クレシェイドは荒廃した教会の側面を見上げ、切り揃った長方形の穴の数と場所とを観察していた。尖塔の屋根は大きく剥がれ落ちていたため、彼は不安に思っていた。自分の鎧ならば降り注ぐ石の雨にも耐えられるとは思うが、仲間の少女達はそうはいかない。彼は外壁を全て調べて回りたかったが、堰を切ったような豪雨がそれを妨げてしまった。

 少女達は揃って小さく悲鳴を上げた。雨粒は剥き出しの大地に忽ち水溜りを作り、そこから生える雑草を強かに打ち付けた。

「中に入るわよ」

 ティアイエルが馬を引っ張りながら二人に呼び掛けた。彼女の目はクレシェイドを見て、何かに気付いたかのようにその後ろに注がれた。

 見ると、物置小屋と思える建物があった。教会と同じく石造りで扉はなかった。クレシェイドは彼女の意図を察し、声を掛けた。

「馬達はそこに繋いで置くか」

 彼が手を差し出すと、有翼人の少女は少しだけ驚いたように目を向け、そして手綱を差し出しながら目を逸らした。

「そうして」

 彼女はそう答えると、神官の少女を連れて小走りで建物の角へと消えて行った。そして扉を開いたような音を耳にし、別段騒ぎも無いことを見届けた後、彼は物置小屋へと向かった。



 四



 大き目の木の扉を前にし、レイチェルは踏み止まらずに押し開けてしまっていた。

 服を濡らすことにばかり気が向いていて、警戒を怠ったことをすぐに気まずく思い、ティアイエルが何か言うだろうかと、彼女は少しだけ萎縮して身構えていた。しかし、有翼人の少女はこちらの脇を過ぎ、先に建物の中へと踏み入った。レイチェルもその綺麗な白い翼越しに内部を窺った。

 室内は薄暗かったが、平坦な作りだったため、大雑把に様子を見て取ることができた。カビと土埃の濃いにおいの中には、朽ち果てた長椅子達が残されている。神官である彼女は予想していたが、真っ直ぐ先には段が設けられ、祭壇はその上に横倒しになっていた。

 忘れられてどれぐらいの月日が経っているのだろうか。そしてどんな神を祭っていたのだろうか。レイチェルは、念入りに手掛かりを得ようと辺りを見回した。左右の壁には、ガラスの失せた幾つかの窓枠がある。そこから吹き付ける雨が石の床に溜りを作っていた。頭上には複雑に渡してある木の柱が見える。尖塔はその向こう側にあるようで、祭壇の左側の壁に上へ続く階段があったが、木でできたそれも、今ではすっかり形は失われていた。

 その時、不意打つような雷鳴が轟き、レイチェルは危く心臓が止まるかと思った。そして彼女は右手に温かい感触を覚え、驚きながら目を向けると、ティアイエルの手がこちらの手を握り締めていたのであった。

「お、大きい音は苦手なのよ」

 ティアイエルは青ざめた横顔をみせてそう答えた。

「私も吃驚しました」

 レイチェルは安堵の息を吐きつつ答えた。雷鳴の轟きは尾を引き、今も彼女の心臓に早鐘を打たせていた。

 とりあえず二人は手を放し、揃って祭壇の方へと歩んで行った。そこに信仰する神の手掛かりが残されているものと思ったが、木製のそれは劣化し、紋章が刻まれていたかもしれない表面は、既に剥がれ落ちていた。

「何の神様なんだろう」

 レイチェルは悩みながらそう漏らしていた。不意に周囲に稲妻が煌き、二人は弾かれて後ろを振り返っていた。程なくして地をどよもすような雷鳴が轟くと共に、入り口に黒い影が佇んでいるのを見たのであった。

 レイチェルは腰に手を伸ばし、「鎖断ちの剣」引き抜いたが、ティアイエルの手が彼女を制したのであった。

「落ち着いて。アイツよ」

 そう諭され、目を凝らすと、見覚えのある甲冑の輪郭に気付いた。クレシェイドが中へ踏み入ろうとすると、突然、ティアイエルが叫んだ。

「待って! 駄目よ!」

 必死に慌てる声が建物内部に響き渡った。

「いや、大丈夫だ。ここは既に聖なる加護が失われているようだ。身体の闇に変化は無い」

 クレシェイドは落ち着いた声で答えた。レイチェルの隣でティアイエルが胸を撫で下ろしていた。そして、教会という建物がクレシェイドの闇の身体にとっては致命的だという事に彼女は気付いた。

 クレシェイドは荷物を抱えていた。毛布に、皮袋に、カンテラだ。クレシェイドとティアイエルの新たな持ち物である。二人はウディーウッドで準備を済ませていたのだ。レイチェルもせめてブライバスンでそうすべきだったが、失念していたのであった。

「寝床作ってくれるなら、毛布貸したげるわよ」

 ティアイエルが淡々とした口調でレイチェルに言った。無論、彼女はその提案を受けた。少しでも落ち着いて眠るためには、寝具である毛布の魔力は実に魅力的であった。

「何処に作れば良いでしょうか?」

「雨風が当たらないところよ。そこいらにでも作れば良いんじゃない?」

 有翼人の少女は祭壇の傍を指し示して答えた。

 レイチェルは、床に散らばった埃を布切れで丹念に拭き取り、そこに毛布を敷くことにした。彼女がそう告げようと顔を上げると、クレシェイドが立ち去ろうとしていた。レイチェルの視線に気付いたように、彼は応じた。

「俺は馬のところにいる。あいつらを狙う猛獣か、魔物どもが出てくるかもしれない。ここに二人だけでも大丈夫か?」

「当然よ」

 ティアイエルがすかさず応えた。クレシェイドは念のためにレイチェルの方にも視線を向けてくれたので、彼女も頷いてみせた。

「何かあったら呼んでくれ」

 戦士は生真面目そうに言うと、外へ出て行った。ボロボロの木っ端に成り掛けている両開きの扉がきつそうな軋みを上げて閉じられた。室内は少しだけ真っ暗になったが、すぐにティアイエルがカンテラに火を灯した。

 灯かりを囲んで二人は粗食を摂った。干し肉、干した果物、ビスケットのようなパン、それらのせいでパサパサになった口の中に水を流し込む。宿の晩御飯のことを思えば、どうしても物足りなさを感じていた。しかし、どうにか彼女は割り切り、食料を分けてくれた先輩へ礼を述べた。

 二人はそれから話をしなかった。だが、その静寂は少なくともレイチェルには居心地の悪いものではなかった。ティアイエルとの関係と、あとは冒険の空気に馴染んだのだろう。有翼人の少女はというと、羊皮紙の束を開いて熱心に目を通していた。カンテラの灯かりが知的で美しいその横顔を照らし出している。自分も少し痩せれば綺麗な顔になれるだろうか。しばし外を打つ雨の音に耳を傾け、レイチェルはこれまでの冒険の日々のことを思い返していた。出逢った人々のことと、対峙した怪物や悪意を持つ者達との記憶を掘り起こし、懐かしさや、恐怖に心を震えさせていた。

「寝たければ先に寝ても良いわよ」

 書面から目を上げ、ティアイエルがこちらを見た。そうは言われたが、レイチェルは戸惑った。夜の様に暗いとはいえ、時刻はまだ夕方に差し掛かった辺りだろう。

「今寝るなら夜中に起きて朝まで見張りになるけど、アンタはそれで良い?」

 そう言われ、ここが危険な外の世界であることを彼女は思い出した。でも、レイチェルは考えた。ティアイエルとしては、夜中まで寝るのと、そこから朝まで寝るのとどちらが良いのだろうか。グズグズしていると、有翼人の少女は再び書面の方に目を落としていた。レイチェルは焦りつつ、恐々と述べた。

「今から夜中まで寝ます」

「そう。じゃあ、おやすみ」

 ティアイエルは顔を向けず、素っ気無く応えた。レイチェルとしては、やはり人間は朝に起きた方が気分が良いだろうと、相手のことを思いやったつもりであった。だが、相手の気の無い返事を聞いて、冒険者の心構えは、こんなものなのだろうと、しみじみと感じたのであった。

 彼女は二枚重ねの毛布の上を捲り、身体を滑り込ませた。そのままボロボロの天井を見上げ、本当に今から眠れるのだろうかと嘆息していた。しかし、知らぬ間に目を瞑っているうちに彼女は寝息を立て始めたのであった。

 そして彼女は夢の中でイーレに会っていた。

 ラミア族の黒髪の少女は、見覚えのある茶色の頭巾を被り、茶色の薄手のマントを羽織っていた。レイチェルは知らない町中に居り、行き交う人込みの中で相手の背を見付けたのであった。レイチェルは大慌てで彼女を呼び、そして人々を掻き分けながら駆け付けた。そして相手が振り返ったときに、彼女は腰から鞘に収まった「鎖断ちの剣」を引き抜いて差し出した。

「イーレさん、ずっと持ちっ放しですみませんでした。この剣をお返しします」

 するとイーレは平素からの落ち着いた瞳を彼女に向け、頭を振った。

「いいえ、レイチェル。この剣はあなたが持っていて」

 レイチェルは驚いて相手の顔を見詰めた。

「でも、こんな大切な物を私が頂くわけには……」

 するとイーレは少しだけ表情を鋭くした。

「あなたは、まだ私のところへは来ていないもの。ここはあなたの夢の中。レイチェル、目を覚まして。あなたの傍に何者かが迫っているわ」

 レイチェルは跳ね起きていた。

 床に置かれたカンテラが目に入った。その灯かりは近辺の闇を柔らかい光りで打ち消している。そして床に置かれた羊皮紙の束も照らしていた。イーレの警告の声が脳裡に呼び起こされ、レイチェルは慌ててティアイエルの姿を探した。薄暗い建物の何処にも彼女の姿は無いように思えたが、入り口の前に相手の背中と白い翼とを見付け、彼女は声を上げていた。

「ティアイエルさん! 下がって!」

 相手は扉に手を掛けているところであった。有翼人の少女は訝しげにこちらを振り返ったが、余計なことを口にせずに、こちらの言に従って扉から大きく間合いを取った。

「ここです、勇猛にして偉大なる雄牛の王よ」

 すぐに外から人の声が聞こえてきた。レイチェルは外の何者かの言う意図がわからなかったが、あの羊飼いの老人にしてやられたのだと確信した。

「今回の貢物は二つございます。いつものように、いずれも活きの良い生娘です」

 別の声が言った。そのおぞましい言葉に、レイチェルは急激な恐ろしさに呑まれ、腰砕けになりそうであったが、有翼人の少女がそっと駆け寄ってきたため、辛うじて心を持ち直すことができた。ティアイエルは険しい表情で扉を睨んでいた。

 不意に激しい雨の音に混じって、泥濘を弾く忙しい足音が幾つも近付いて来るのが聞こえた。ガラスの失せた薄暗い小窓の向こう側に、頭巾を被った人影が現れた。男だったように思う。顔を覗かせた後にすぐに引っ込めてしまった。泥を踏み散らす音が遠ざかって行った。

「奴ら気付いてるぞ。雨だってのに、声が聞こえちまったらしい。だが、女が二人だけだ。話に聞いてた戦士の男がいなかった」

 強烈な雨音の中でもその声は良く聞こえた。レイチェルは、たった一人で馬のもとに居るクレシェイドの身を案じた。

「誰よ、アンタ達は?」

 ティアイエルが扉に向かって声を荒げて問い質した。答える声は無く、無限に地を打ち続ける雨の音だけが聞こえていた。有翼人の少女は呟きを漏らしていた。

「勇猛で偉大なる雄牛の王……。そういうことね」

 希望を持ってティアイエルの横顔を見たが、彼女の表情は険しいままであった。ティアイエルは敵の正体を知ったようだが、どうやら難しい相手らしい。レイチェルは「鎖断ちの剣」を抜き、イーレがここに居たらどれほど救われただろうかと考え、そして頭を振った。切り抜けるんだ、自分の手で。

 不意に、凄まじい音と共に木製の木の扉が粉砕された。処刑台にあるような大きな白刃が石の床を穿っている。木製の太い長柄が外から伸びていた。その大きな刃が浮き上がり、長く屈強な腕と肩とが入り口を潜り、その顔が現れた。

 長い鼻面と、頭の左右に湾曲して生える二本の角がある。鈍重そうなその顔だけを見れば家畜の牛そのものであったが、双眸は自ら紫色の禍々しい光りを放っていた。牛はもう一方の肩を潜らせ、最後に二本の脚が続くと、その全貌を目の当たりにさせたのであった。強靭な両脚で立つ、人のような牛だが、黄金色の薄い体毛に覆われた体は筋肉で引き締まり、その長い両腕には人間では扱えないような、長柄の巨大な斧を握っていた。

 怪物の身体をよく見ることができたのは、その巨体の後ろに控えるであろう、悪い人間達の持つ灯りのせいであった。

「顔を見せなさいよ、この卑劣漢達! アタシ達を生贄に捧げようって魂胆なんでしょう!?」

 ティアイエルが怒鳴った。牛の怪物は微動だにせずに二人を高い位置から見下ろしている。すると、まるで苦悩するような男の声が怪物の後ろから聞こえてきた。

「そうしなければ、我が村から娘達を差し出さねばならぬのだ!」

「だったら、素直に警備兵か冒険者に討伐を依頼すれば良いでしょう?」

 ティアイエルが叫び返した。

「部外者にはわからんだろう!」

「わからないわよ!」

「この偉大なる雄牛の王には、同じ姿を持つ屈強なしもべが二十以上もいるのだ! 我々が迂闊な真似をした瞬間、王はしもべ達を村に差し向け蹂躙すると言った。だが、生贄を差し出せば、速やかにこの地を去ることも約束してくれたのだ!」

「二十以上もいるこのデカブツの腹を満たすのに、一体幾つの生贄が必要だか、アンタ達の脳みそは、ちゃんとわかってるの!?」

「わかってるさ! 王は望む生贄の数を五十と提示した。残念だがお前達は、三十と一人目の生贄になるだろう!」

「最低! 牛野郎と一緒にぶっ殺してやるわ!」

「その約束に従う以外、村の窮地を脱する道は無い! 悪いが死んでくれ!」

 すると、左右の壁の向こうから泥を蹴散らす慌しい足音が幾つも響き渡った。程なくして、その小さな窓の向こうに頭巾を被り弩弓を構えた人影がそれぞれ姿を現した。

 レイチェルは窮地に歯噛みして、外に立つ敵の影を見た。

「良いか皆、雄牛の王が好んで食するのは、生きたままの娘でなければならぬ! くれぐれも急所を外すよう心せい! 仕損じれば新たな犠牲者を誘わねばならん! そんなことはもうたくさんじゃ!」

 そのしわがれた声には聞き覚えがあった。レイチェル達をこの地へ導いた羊飼いのあの老人に違いなかった。彼女が驚愕と、悲しみで、そして憤りで身を震わせていると、ティアイエルの一喝が建物中に木霊した。

「勝手なこと言ってんじゃないわよ! もっともらしい御託並べたって、アンタ達に一片の同情すら湧いたりしないわよ!」

 そして彼女はレイチェルを横目で見て囁いた。

「あれはミノタウロスよ。見たまんまの怪力馬鹿だけど、それでもトロルとは段違いに頭が冴えているわ。ジミー並ってところね。それと奴は大地の精霊と癒着してるから、足元には注意して」

 レイチェルは先輩の助言を頼もしく思いながら頷いた。だが、今は言うべきことではないが、牛の怪物の知能をサンダーと以上だと評価するところには是非とも異を唱えたい気分であった。サンダーは勇敢であり、そして頭も冴えている。むしろ、鈍重な自分の脳ミソこそ、この怪物と良い勝負なのではないのだろうか。

 ティアイエルが静かな声で精霊を呼ぶ唄を詠み始めた。レイチェルは「鎖断ち」を握り締め、無防備な先輩冒険者を庇うべく進み出た。彼女は左右に並んだ窓という窓に目を走らせた。そこに見えるカンテラの灯かりは彷徨える悪霊の如く目に映っている。

「射掛けよ!」

 彼女達を欺いた老人の声が木霊した。しかし、その嬉々とした声は、同時に複数の爆音と、悲鳴とに覆い隠されてしまった。

 窓の向こうで全てのカンテラがガラスを飛散させて破裂した。そして灯かりであったはずの炎が、生命を得たかのように大きく躍り上がり、両手のように伸びた先端を空へ突き出すや、棒立ちになった村人目掛けて組み付いたのであった。村人達の全身は忽ち炎に包まれた。彼らは弩弓を落とし、熱さに悲痛な声を上げて、脱兎の如く窓から離れて行った。

 レイチェルが振り返ると、有翼人の少女は冷静な光りの宿った双眸で残る敵を睨みつけながら声高に言った。

「言うまでも無いけど、火の精霊よ」

 彼女はカンテラを掴み上げ、怪物とその背に潜む老人に向かって突き出した。老人の影は弾かれたように、巨体の背に隠れた。そして言った。

「偉大なる雄牛の王よ! 何を怯まれておるのですか! 我らはあなたの言い付けどおりにし、もはや役目は終えたも同然! ここから先はあなたの役目故、どのような結果になろうとも、こちらは用意した生贄として数えさせていただきますぞ!」

 巨大な影はゆっくりと老人を振り返り、品定めするように見下ろした。老人は畏怖したかのように、慌てふためいて、声にもならない声を絞り出していた。

 これは好機なのかもしれない。怪物の背を見据えながら、レイチェルは思った。剣を固く握り締める。もしかすれば怪物は今すぐ向き直ってしまうかもしれない。と、頭の横に生えた二本の湾曲した角を凝視しながら、これが本当の隙なのかどうか、決心できずにいた。

 雄牛の化け物は、鼻をブルルと鳴らし、老人へと一歩迫った。老人は愕然とした面持ちで怪物を見上げながら後退する。もしも、二歩目があるとすれば、その時こそ飛び掛ろう。怪物は老人に対し怒り心頭のようだ。

「オイボレメガ。オマエハ、ワシニ、メイレイデキナイ」

 片言だが、野太くそして暗い殺気を孕んだ声が、明らかにそう喋った。レイチェルはその事に驚愕したが、しかし、驚くほど冷静に頭は回っていた。これ好機だ。

 レイチェルは一歩忍び足で進んだ。そして後は一気に駆け出した。

 腐り始めの床板が軋む。足音は埃っぽくくぐもっていた。怪物は老人に向かって何か、人語で話している。「オマエハ、ワシニ、メイレイデキナイ。ニンゲンノ、オイボレ」

 巨躯の目前に達した。筋骨隆々の背には跳んだところで届かないことを思い知り、ならば剥き出しの脚を潰してしまおうと、レイチェルは駆けつつも力の限り剣を横薙ぎにすべく振り被った。

 不意に、彼女は両方の足首を何者かに掴まれ、すっ転んでしまった。埃っぽい床に強かに顔と鼻を強打した。鼻からヌルリと熱い血が流れてくるの 感じたが、それを散らしながら慌てて後ろを振り返った。

 床から両腕が突き出している。正確には床板を突き破り、そこから左右の二の腕が伸びているのだ。まるで死者ならそうするだろうか。レイチェルはすかさず、身を捩じらせて、両手で握った剣を腕へと叩き込んだ。そして、その手応えの無さに驚いた。腕を分断したが、それは砂の様にサラサラと崩れ落ちた。しかし、依然として彼女の足首は気味の悪い手に掴まれている。だが、自由に動けた。レイチェルは素早く立ち上がった。雄牛はこちらを見下ろしている。その顔に炎が吹き付けられ、雄牛は苦悶の声を上げて仰け反った。風と共にティアイエルがレイチェルの隣に並んだ。有翼人の少女はカンテラを突き出し、そこから炎が噴きつけていた。

 レイチェルはよろめく雄牛の化け物の姿を見るや、再び切りかかった。途端に雄牛の化け物は崩れた体勢から、斧を横合いからぶつけて来た。

「レイチェル!」

 ティアイエルの声が無ければ、彼女の頸は飛んでいたはずだ。迫る刃へ咄嗟に剣を向け、その物凄い衝撃とそれが起こした身体の痺れに呻き声を上げて、レイチェルは吹き飛ばされていた。彼女の身体は瓦礫のような腐った長椅子の中へと吸い込まれ、それらを木っ端に仕立て上げていた。彼女は身体中の痛みに再び呻き声を上げた。

「アンタ、無茶苦茶よ!」

 傍に舞い降りると、開口一番にティアイエルが怒鳴りつけた。その鋭い声にレイチェルは全身の痛みを忘れ、身を竦ませていたが、相手の手に「鎖断ちの剣」があるのを目にし、少しだけ安堵していた。そしてレイチェルは悟った。自分自身が死ぬよりも、良い人達の信頼を失う事の方が怖いのかもしれない。

「これは、アンタには過ぎたものだわ。身に合っていないもの」 

 ティアイエルに鋭く言われ、レイチェルは少しだけ頭にきていた。じゃあ、ティアイエルさんが使って下さい。彼女は、己の胸の内で燃え上がる荒ぶる意思のままにそのように述べそうになっていた。そうならなかったのは、相手が剣の柄を差し出してきたからであった。レイチェルは呆気に取られていた。

「でも、今はこれしか無いから、返すわ」

「すみません」

 レイチェルは己の内面に生じた憎悪を恥じつつ、剣を受け取った。

「そうよ、しっかり反省なさい。それにしても、あの馬鹿は何やってるのよ」

 有翼人の少女は嘆息し、そして敵へと向き直った。レイチェルも釣られてそちらを見た。雄牛の怪物は未だに炎に顔を包まれ焼かれながらも、悠然と斧を携え、こちらを凝視していた。

 これは自分達では勝てる相手ではない。レイチェルは戦慄を覚えながらそう感じた。だがティアイエルの言うとおり、クレシェイドならば、勝てるかもしれない。

「ここはどうにか逃げて、クレシェイドさんと合流するべきじゃないでしょうか?」

 レイチェルは必死な面持ちで提案した。ティアイエルとクレシェイドの仲が本当に大丈夫なのか、危惧したからである。ティアイエルは途端に意固地になって、ここでどうにか踏ん張り続けると言ってしまうかも知れない。そして、それならば最初から口を出さず、むしろティアイエルの方から、自然にそう言うのを期待すべきだったのかもしれない。

「ふーん、なかなか冷静じゃないの」

 ティアイエルは意外そうに目を丸くして言い、頷いたのだった。



 五



 強烈な雨音のせいだったからか、最初に気付いたのは、傍らに繋がれている二頭の馬達の方であった。

 彼の身体は、気を失うことはあっても、眠ることはできなかった。最初こそ不安であり、苛立ちも覚えたが、永遠と続いた日々の夜の中で、自分の身体は既に眠り続けているのだと仮定し、いつしか眠りを噛み締めることを諦めていた。

 月が出れば月を眺め、風があれば風の音に耳を傾け、そして時折剣を磨いたりもしたが、その全てにおいて、彼は石になってしまった天真爛漫なハーフエルフの少女のことを思い返していた。

 そのリルフィスについては謎があった。それを思う度に考え過ぎだと戒めて終わるのだが、どうにも腑に落ちないことがある。故郷の村でマゾルクに死人とされ、陽の光りに晒され、その冷たい身体ごと魂が浄化されようとするところに、彼女が通り掛ったのだ。そして憎き敵が、置いていった甲冑を着せることを誰かから言い聞かされたかのように、そうしてくれたのであった。

 永きに渡る復讐の旅に、リルフィスが加わったことは大きかった。標的の手掛かりや、身に降りかかった呪いを解くのに、時には神聖なる場所へと足を運ばねばならなかった。彼女はこの歩く死人を恐れず、いつも明るく、こちらを気遣い、代役を買って出ていた。

 それを不覚にも、再びマゾルクに奪われた。長年を費やして辿り着いた敵の前で、血煙クラッドの持つ落雷ような膂力は実に無意味な産物であったことを思い知らされる。そしてリルフィスは石とされ、もう一つの心の支えであった愛剣クレシェイドまでもが粉々にされてしまった。

 そのような夜を過ごし始めたのは本当の孤独になってからであった。

 荒廃した物置小屋を強烈な雨が打ち続けている。彼は身を起こし、腰に佩いた頑強な剣の一本を引き抜いた。生前ならば、更に鍛えに鍛えなければ振り回せる代物ではなかっただろう。断ち切りの剣というよりも、打ち砕きの剣と呼ぶべき鉄塊のような代物である。それを造作も無く掲げ上げ、離れた脇の茂みから出てきた大きな影を注視した。

 トロルよりも巨躯であった。そして頭の両脇からは弧を描くように曲がりくねった角が夜空に向けて突き出ている。目の良い人間ならば、巨大な身体に疑念を抱きつつも、あれを兜飾りだと合点するだろう。しかし、夜目の利くクレシェイドは違っていた。あれは角だ。そして劈く様な雨音の中にもはっきりと、太い呼吸の音が識別できた。兜を被ったトロルか。彼の目が更に鮮明になってゆく。そしてトロルとは違う、怪物なのだということに気付いたのであった。既に距離は縮まっていた。身体に宿る闇の精霊は、あの時の一匹のままだ。だからこそ、暴君とも言われるミノタウロスだと気付くことに大分時間を費やしてしまっていた。

 そして長い旅路の中で、未だにやり合ったことの無い相手でもあった。噂を鵜呑みにするならば、こいつは話し合いの通じる相手ではない。ふと、その背にもう二つの影が見えたとき、クレシェイドは胸騒ぎを覚えた。ティアイエル達は大丈夫なのだろうか。

 彼は小屋から駆け出し、猛然と一匹目の怪物に切り込んで行った。

 見上げるほどの巨躯に、広い両肩からは鍛え抜かれた腕が見える。その手に握るのは、断頭台の刃を思わせる大きな長柄の斧であった。

 突き出た鼻面と、淡い赤の光を帯びた邪悪なる双眸がこちらを睨んだ。大上段で大斧が振り上げられたとき、クレシェイドもまた剣を下段構えから力の限り振り放った。

 これほど重い手応えを彼は久々に見知ることとなった。剣は圧し折れ、斧の刃の中ほどにその切っ先は減り込んでいた。

 クレシェイドは即座にもう一本の剣を抜き放った。その一撃をミノタウロスは左の二の腕を盾代わりとして凌いでみせた。鮮血の塊が影となって飛散した。骨を断てなかったが、寸前までは通っただろう。

 ミノタウロスは口をあんぐり開け、己の腕についた深い傷跡と、止め処なく流れる血に目を奪われていた。

 これは好機だが……。一方のクレシェイドも、自身の肩に違和感を覚えていた。当然痛みとは無縁であるが、それでも幸い骨が外れたわけではないようだ。しかし、敵の第一手がそれを寸でのところまで軋ませたということだ。しかし、敵が当然待つわけではない。

 負傷した者には期待できぬとばかりに、二匹目が襲い掛かってきた。蹄が地を唸らせ、クレシェイドは身構えながら緊張を感じていた。真っ正直に大斧が大上段に振り上げられる。避ける腹積もりでいたが、クレシェイドの目は、木製の長柄を捉えた。

 斧が突風を巻き上げ、頭上に振り下ろされる。クレシェイドは踏み止まり、力の限り剣を薙いだ。

 柄から分断された刃は僅かに力を失い、クレシェイドのすぐ隣で地面を穿っていた。

 唖然として折れた柄を見下ろす相手の背後から三匹目がヌッと現れ、斧を横薙ぎに振るって来た。嵐の様な猛攻をクレシェイドは後退しつつ、どうにかやり過ごし、そして勢いが落ちたところで一挙に地を蹴り懐に飛び込んだ。彼は剣を突き出そうとした。

「マツノダ! ニンゲン!」

 野太く奇妙な声を正面の敵が上げた。そして狼狽しつつ、相手は得物から手を放したのだった。

「お前が喋ったのか?」

 重々しく地面に転がる斧を一瞥し、クレシェイドは尋ねた。どうにも妙であった。噂も外見もこの魔物どもは凶暴、残虐の代名詞とも言って差し支えないようだが、思えば最初から死力を尽くす気配が見えなかった。おまけに、今では理知的で、むしろ亜人という目で自分が見ていることにも気づいたのだった。

「ソウダ。デルー、ガ、イッタ」

 そう答えると共に、デルーというらしい目の前の亜人は跪き、他の二人もそれに続いた。豪雨は、彼ら三人の長い鼻面を強かに打ち付けていた。

 クレシェイドが戸惑っていると、デルーが顔を上げて答えた。

「ワレラハ、キシ。オウヲマモル、ミノスノ、サンキシ、デ、アル」

「ワレハ、デッツ。デルーノイウトオリ、ミノスノ、サンキシ、デ、アル」

 腕を負傷したミノタウロスが答え、柄を折られたミノタウロスは、せかせかと二度頷いて見せた。

 ミノスの三騎士ということだろうか。このっ滑稽さは、油断を誘うものなどではなさそうだ。敵意無しとしてクレシェイドは尋ねた。

「俺はクレシェイド。まずは、俺を襲った理由を聞こう」

 その時、土砂降りの雨の中に、人の悲鳴が聞こえた。見れば、教会の向こうから幾つかの大きな炎が、踊り狂うように忙しなく動いていた。彼の眼が、それは人だと見止め、一杯食わされたのだと悟った。

「夜盗とグルだったのか!?」

 クレシェイドは教会にいるはずの二人の少女を思い、己の様を恥じ、怒号を飛ばしていた。

「チガウ、チガウ!」

 ミノスの三騎士のデルーとデッツが揃って、不器用に言い、残る一人は何度も何度も頷いていた。

「何が違う!? 俺の仲間を襲ったのだろう!?」

 尚も、踏ん切りを付けずにいる己にも苛立ちながら彼は捲くし立てていた。

「ナゼナラバ。オウガ、アルジノ、デズモンドガ、ソウハサセナイ!」

 デルーが、頑とした面持ちでこちらを懐柔するように言ってみせた。クレシェイドが応じる前に、デルーは畳み掛けるように言った。

「ワレラハ! オウノ! ワレラガアルジ、デズモンドノ、ヨメヲ、サガシニキタノダ!」

「オウモ、ワレラモ、ニンゲンニ、ヒドイコトハ、シナイ。ダイジョウブダ」

 ミノタウルス達の肩の向こうで、燃え続ける人間達は、泥の上を忙しく転がり、火を消そうと躍起になっていた。少なくとも、奴らをあのようにできるのはティアイエルだろう。それか、目の前の亜人の騎士達がいう、王のデズモンドか。何はともあれ、教会へ急行すべきだ。彼は跪いたままのミノスの三騎士の隣を駆け抜けて行った。

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