第10話 「進撃」 (後編)

 迫る杭を敵の爪は薙ぎ払った。杭はクレシェイドの手の中で粉塵となって崩れ落ちた。寸でのところでヴァンパイアは正気に戻ったのだ。激しい憎しみに光る赤い双眸を瞬かせ、敵は身体を振り返らせた。

「異形の戦士よ、聞かせてくれ。今し方、私を滅すると、お前の口が、そう言ったのかどうかを」

 声は滑らかなままであったが、そこには魅了しようとする悪意の影は感じられなかった。それは凍て付く殺意に満ちた恫喝そのものであり、立ちはだかる者達を圧倒させてきた恐怖そのものであったはずだ。しかし、クレシェイドもまた神父を失った怒りが全身を燃え上がらせ、彼の心の隅々までを極めて大胆不敵に仕立て上げていた。

「言ったとも」

 彼は冷ややかに応じた。サルバトールは真っ赤な目に更なる憤怒を見せ声を荒げた。

「貴様は、闇の者だろうに! それほどに私と組むのが嫌なのか? いいや、この私だけでなく、全てのヴァンパイアを軽んじているつもりなのか! よく聞け、私は手駒が欲しいのだ! 有能であり、忠実な、将軍を、軍師を、側近達を! 貴様らが正にそれだった! 私を恐れ敬え! 平伏し、屈せよ!」

 途端にサルバトールの姿は消え、瞬く間も与えず、眼前に現れた。敵は兜に顔を近付け、こちらの目を捉えようとしていた。そのせいで、血色の無い白い肌の微細な皺までをも隈なく見ることができた。

「異形の戦士よ、兜を脱ぐのだ。寛大な私の最後の申し出である。それで無礼を忘れ、貴様は闇の騎士となれるのだぞ。そうすれば失った戦斧にも勝る新たな闇の剣を授けてくれようぞ!」

 ヴァンパイアが訴えた。敵は自身に燻る静かな怒りすらも鎮めて見せようとしていた。それは落ち着いた声の端々から分かる一方、憎悪がちらつく双眸からも察知することができた。僅かな静寂を感じた後、クレシェイドは電光石火の業で、背負った革帯から杭を抜き放った。

 サルバトールは舌打ちと共に後ろに飛び退いたが、尖った杭の先端は敵の衣服ごと胸の表面を深く裂いていた。

「新たな武器など、今の俺にはこれで充分だ。だが、お前のおかげで、大切な斧のことを思い出したぞ。ついでにそれの仇も討たせて貰おう」

「貴様は!」

 サルバトールが悲鳴に似た怒声を張り上げた。

「崇高なる闇の貴族を侮辱した! 主を持たぬ流れ者の分際で!」

 敵は腕を掲げた。長い爪が圧し折れ弾き飛ぶのに代わり、暗黒に染まった紫色の輝きが突如として両腕に宿り明滅した。

「この私が、頭を下げたのだぞ!? それを命知らずの恥知らずが、私を愚弄しおったのだ!」

 絶叫が木霊し、腕に宿った闇の光りが柱となって頭上の黒雲に突き刺さった。

 上空一帯の呪われた黒雲が怪しく揺れ動き、それは無数の黒い雷光を吐き出した。町中に閃光を反射させ、落雷は轟音と共に地を穿ち、大地と建物とを粉砕した。木っ端と、石とが空に舞い、地面に降り注いだ。クレシェイドは傍目で、慈愛の神の教会が崩れ去ったのを確認した。そして命令を受けて駆け付けたと思われる町長率いるヴァンパイア達の佇む影もあった。彼らもまた主の逆鱗する姿を見て唖然としていた。

「もはや貴様は隠れることすら許されぬ!」

「貴様と一緒にするな、ヴァンパイア」

 クレシェイドは横っ飛びに避けた。呪われた雷が今の今まで彼が立っていた場所を焦がし、大穴を開けていた。敵の地獄の悪鬼と成り代わった形相を一瞥した後、クレシェイドは迂回するように駆けた。その後を落雷が追い縋るが、その狙いは綿密なものとは程遠かった。ならばと、博打ではあったが、彼は突然足を止め、雷撃が周囲に落ちるのにも動ぜず、杭を敵目掛けて投げ付けた。

 ヴァンパイアの目が驚愕に見開かれたが、回転して迫る杭を叩き落とす前に、闇に光るその腕は寸断され、杭と共に遠くの地面に落下し、転がって行った。

 サルバトールは痛々しい絶叫を上げてその場に崩れ落ちた。

「閣下!」

 大勢のヴァンパイアを従えて、町長のトラム・バーハングスが慌てて駆け付けて来た。

「町長……。いや、トラムよ、その薄汚れた成り損ないを殺してしまえ! 我が右腕を冠するならば更なる功績を上げてみせよ!」

 ヴァンパイアの子爵は石の地面を見下ろしながら、肩を震わせて声高に命じた。

「閣下、仰せのままに!」

 町長はキビキビと一礼し、クレシェイドを睨み付けた。

「テレジアと、アナベルは、閣下をお守りせよ。他の者は、武器を抜き、今すぐ、あの憎き放浪者を踏み躙れ!」

 二人の若く美しい尼僧のヴァンパイアが隊列の中を抜け出てゆく。すると復讐に燃える赤い瞳が一斉にギラついた。敵が襲い掛かってきた。

 あらゆる憎しみの形相が彼の前に躍り出て、次々と凶刃を振り下ろす。クレシェイドは素早い身のこなしで避け、そして捌きつつも、左右に握った杭で、敵の身体に掠り傷程度の一撃を見舞わせることもあった。殺到するヴァンパイアの後方で、町長の叱咤激励が飛び続けている。その声に応じて、荒廃し原野のように拓けた町の方々から、新たな敵の影がチラホラと姿を現した。それは目の前の敵と同様に、平服を纏ったヴァンパイア達であり、手に手に生前の日常で見慣れた物を得物として合流してきていた。

 不意に、眼前に波の如く押し寄せてきていたヴァンパイア達が狙ったかのように左右に飛び退いた。変わってそこに姿を現したのは、建物の柱と思われる光沢のある巨大な丸太であった。それをヴァンパイア達は十人ほどで抱え、既に破城鎚の如くクレシェイドの身体に繰り出していた。

 鎧の内側で轟音が駆け巡り、両足が地面を離れるのを感じた。

 彼は一瞬意識を失っていた。そして背中から倒れた衝撃で目を覚ましたのであった。

「やったぞ。今頃鎧の中は腸塗れになっていることだろう。我らの勝利だ!」

 ぼんやりと意識を取り戻す耳に、敵達の狂喜乱舞する声が届いていた。クレシェイドは苦笑しながら立ち上がった。これは盲点だった。如何なる刃をも阻んできた鎧は、盛大な打撃にも何ら耐えて見せたが、あいにく中身の方はそう頑丈でも無いらしい。グラスに入った液体の如く、彼の闇の魔力に溶け込んでいる意識は、鎧の内側を右往左往している。その揺れが収まるにつれて、視界も回復してきた。

「そやつは人間ではない! 油断せず打ち込み続けよ!」

 立ち上がったクレシェイドに、ヴァンパイア達は一斉に畏怖の表情を浮かべた。それを見た町長がすかさず叫び彼らの意識を正した。またも丸太を持った者達が猛然と駆け始め、その脇を数人のヴァンパイアが長縄を振り回しながら追い抜いて行く。

 左右から複数の縄が放たれた。先端には岩の重石が括り付けられている。クレシェイドは敵の意図を読んだが、敵は巧みにしぶとく縄を操り、ついには四肢と首とに縄が巻きつき、動きを封じられた。その間にも丸太は迫り、縄には大勢のヴァンパイアが取り付き、こちらの抵抗を頑として抑え込もうとしていた。

 放たれた丸太はクレシェイドの胸を粉砕するかの如く打ち鳴らした。鎧の内側で闇の魔力の波が、散り散りになり、彼の意識を朦朧とさせる。敵は間髪居れずにもう一撃を見舞ってきた。それが一時だけ彼の意識を奪い去った。

 この地獄のような磔はいつまで執行され続けるのだろうか。クレシェイドは目を覚ましながら胸中で呟いた。彼の眼は霞んでいたが、再び向かってくる丸太の影を捉えていた。彼は弱々しく舌打ちするしかなかった。

 だが、向かってきていたはずの敵の影は止まっていた。敵は丸太を抱えながら周囲に気忙しく視線を走らせていた。ヴァンパイア達の驚きと疑念の会話が、揺らめく意識の中に届いた。

「今のは?」

「確かに、突然闇が濃くなったぞ。不自然だった」

 クレシェイドは自分の背後から駆けて来る足音を聞いた。

「人間達だ!」

 ヴァンパイア達がこちらへ視線を向けている。足音は止まり彼の左右に人影が現れた。

「遅れてすまんよ。だが驚くぜ、あれだけ打たれても無事だってのかい?」

 右側から聞き覚えのある声が感嘆しながら言った。しかし、姿と名前が思い出せなかった。

「縄を切ってやれ」

 同じ声が言い、連れの者達が縄に取り付き、刃物で切断した。クレシェイドは突然身軽になったために尻餅を付いた。

「頑強な鎧だな、おい。出所を教えて頂きたいもんだぜ」

 また同じ声が言い、その主は屈んで片腕を差し伸べてきた。クレシェイドが掴むと相手は両手で彼を引き上げた。

「すまない、助かった。聞き覚えのある声だが、あなたは一体?」

 相手のぼやけた輪郭を凝視した。

「忘れるなよ、俺が鉄鎖のキライだ」

 そして相手は慌てて手を離した。

「あんたの鎧を浄化しちまうところだったぜ。何せこちとら、銀を身に帯び、戦神様の聖水を頭からどっぷり振り被ってるんだ。ああ、アンタの手から、煙が出ちまってるな」

 クレシェイドは自分の手を見下ろしたが、その様子を鮮明に覗くことは適わなかった。しかし、掌に寒々とした冷気のようなものを感じていた。

「ヴァンパイアども、こっからが冒険者達の反撃開始だからな! 仲間をたくさんやられたんだ、俺達の恨みは言う以上に相当深いぜ!」

 鉄鎖のキライが叫び、飛び出して行った。その後を何十人もの冒険者達の姿が追って行く。敵の町長は憤怒の声を上げて応じた。

「蝿が! 我らの世界でよくもほざきおったな! 貴様らには死を与えてくれよう!」

 ヴァンパイア達もまた冒険者に襲い掛かった。クレシェイドには二つの光りが見えた。闇を行き交う白く輝く太刀筋と、その周囲を旋回するような無数の真っ赤な邪悪な両眼の軌跡であった。

 彼は後ろに人の気配を感じた。しかし、その前に老魔術師の方が声を掛けてきた。

「すまない、だいぶ遅れてしまった。思いの外手間取ってしまったのだ」

 グレン・クライムが傍に寄ったときに、クレシェイドの内側を満たす闇が猛るような感応を示した。老魔術師の身体を覆うのは闇の魔法力であった。

「もっと早くに気付くべきだった。お前さんを真似れば良かったのさ」

 相手はバツが悪そうに言った。クレシェイドはグレンの言っていることを理解した。

「視界が利く様になったのか?」

「そのとおり。郷に従えとはよく言ったものだ」

 グレンが鎧越しにクレシェイドの手を握ると、そこから力が送られ、それは鎧の内側に開いた空白部分を瞬く間に満たし、四方八方を漂う闇の魔力の絡みつき集結させた。

 前方では冒険者が陣形を組み、跋扈するヴァンパイア達を牽制している。彼らは果敢にも闇に向かって挑み掛かり、集団戦術で敵を着実に葬っていた。

 再び背後から音が聞こえた。最初は、慌しい車輪の音であったが、それに続いて人の声も聞こえてきた。

 声の正体は聖なる歌であった。町を閉ざす呪いを拭い去るような明朗で快活な人々の歌声であった。遥か向こうの建物の後ろから、こちらに向かって一団となった人影が歩んできている。先頭を行く者は、白い光りを法衣のように身に纏い、その光りは帯となって周囲の風景を浄化し、元の町の色へと戻していた。

 彼はクラメント神父の姿を思い出し、偉大な老神父の遺骸を目で探した。老神官の亡骸は離れた場所に先程と変わることなく横たわっていた。

「先頭を行くのがエレギオン神父だ。戦神ラデンクスルトの神官殿だが、見ての通り、今は聖女エベレッタ殿をも凌いでしまうほどの力をお持ちだ。お前さんの事情はある程度打ち明けておいたが、それでも離れて置くべきだろうな」

 グレン・クライムに促され、クレシェイドは後退しながら、食い入るように援軍の到着を見守った。

 エレギオン神父は初老のドワーフであった。背は低いが、体格は屈強そのものであり、その顔つきは冷厳なるクラメント神父とは違い、熱い怒りを顕にし、もとの気性の激しそうな顔つきに拍車を掛けていた。手には長柄の得物を持っている。柄の前後に大きな刃の付いた無骨な斧であった。そして、その後ろには、ハリソン・スタイナーと、二十名ほどの冒険者達が荷車を引きながら従うほか、民衆の一団が続いていた。生き残った彼らは、老人や少年少女らを庇うように真ん中にし、短く層の厚い列を組んでいる。誰もが厳かな顔をし、祈りの調を口にしていた。

 生き残った人々がいたことは無論クレシェイドを驚かせた。彼の闘志は俄然、怒れるエレギオン神父を超えるほど燃え上がった。ハリソン・スタイナーら、冒険者の姿もクレシェイドの心を明るくした。誰もが集う時が訪れたのだと、信じそうになっていた。しかし、そうはいかなかった。冒険者の面々の中には、アディオス・ルガーと、聖女エベレッタの姿は無く、そしてここにいる老冒険者と共に出立したはずの三日月刀のショウハの姿もなかったのだ。

「アディオスの友人、クレシェイドだったな。よくぞ生きててくれた!」

 老冒険者ハリソン・スタイナーは大手を振って親しげに激励の言葉を述べた。彼の後ろでは冒険者達があたふたと積荷の樽を下ろす作業に移っている。クレシェイドは聞きたい事が山ほどあったが、ドワーフの神父の圧倒する眼光を感じて、そちらを振り返った。神父は野太い声で尋ねた。

「クラメントは戻ってきたのだな?」

「はい。しかし……」

 クラメント神父は勇敢に戦って死にました。そう言おうとしたが、相手は察するように頷いて見せた。

「わかっておる。奴にとっては止む得ぬ取引であった。奴は生来の清廉潔白さ故に、苦しみ、ついには己の死を誓って、今一度こちらへ戻ることを決めたのだろう。もっと早く合流できていれば……」

 エレギオン神父は民衆の列を振り返った。その目は大人達を掻い潜り、真ん中に並んでいる二人の幼い姉弟を見ていた。クラメント神父の捕まっていた孫達なのだと確信させた。エレギオン神父は言った。

「我々は是非ともあやつの心意気を組み、手向けとしてやらねばならん」

 エレギオン神父の言葉はクレシェイドに感動を与え、心を熱く奮い立たせた。

 冒険者達は全員が弓を抱え、それを樽の中に突っ込んでいた。ハリソン・スタイナーは最前列にいた。彼は水の滴る大弓に矢を番え引き絞った。

「キライ、ご苦労じゃった! 退いてくれ!」

 キライ率いる冒険者達が敵を切り払い、揃って退却しようとすると、ヴァンパイア達はすかさず追撃を掛けて来た。しかし、クレシェイドの隣で老魔術師が魔術を詠むや、呼応するようにヴァンパイア達の目の前に濃い闇の霧が広がった。不意を衝かれた敵達は足を止めた。その間にキライ達は、颯爽と建物の残骸の方へと飛び込んで行った。そしてハリソン・スタイナーの後ろでは、弓を構えた冒険者達が一列に並んでいた。

「弓撃てえい!」

 老冒険者の声が轟き、並んだ光りの筋が、一陣の風の如く、敵の軍勢へと駆け抜けてゆく。光りは行く手の敵を次々と貫き、浄化の煙を飛散させていった。ヴァンパイア達は悲鳴を上げる暇さえも無かった。生き残りの集団は、眼前を舞い、地面に降り積もってゆく仲間の灰を凝視するばかりであった。その中から一人が飛び出した。それはヴァンパイアのバーハングス町長であった。

「怯むな! 我らには闇の祝福があり、更にはサルバトール様も着いておられるのだ! たかが一時の逆襲如きに何を縮こまる必要がある! 続け続け、我に続け! 忌まわしき人間どもに闇の爪牙をもって裁きを下すのだ!」

 町長は足元のツルハシを拾い上げるや、先頭を切って突進してきた。その姿を見た敵は瞬く間に意気を取り戻していた。次々に雄叫びが上がり、かつてのムジンリの住人であった闇のしもべ達は町長の背を追った。

「スタイナー卿、よろしく頼む」

 エレギオン神父が言うと、老冒険者は頷き、戦場に向かって声を上げた。

「抜刀!」

 光り輝く様々な鉄の得物が引き抜かれる中、彼は大きな鎚を両手で構えた。その鋼鉄の塊にも浄化の光りが猛々しく煌いている。老冒険者を先頭に、人間の戦士達は押し寄せる闇の群れの中へと挑み掛かっていった。

 エレギオン神父は両腕を掲げ、唸るような声で聖なる祈りを詠んでいる。民衆の声がその後に続いた。神父の腕から激しい光が明滅し始める。

 クレシェイドとグレンは闇を纏っているため、仲間達から更に距離を置くしかなかった。彼はもどかしさに杭を握り締め、ぶつかり合う戦場を傍観しているしかなかった。しかし、乱戦の最中を抜け出すヴァンパイアの一団を彼は見つけた。

 頭の禿げた中年の男のヴァンパイアが、作業具の鎌を振り上げ、従う者達を振り返った。

「よし、我らは別働隊は、戦神の教会を潰すのだ! サルバトール様のために! 我らが魔都を得るために!」

「待ってたぜ!」

 爛々と声を響かせ、行く手の瓦礫の中に伏せていた一団が立ち上がった。鉄鎖のキライ達は唖然とする敵の一団を見下ろした。

「やっちまえ!」

 光り輝く鎖が空を飛び、槍の如く先頭のヴァンパイアの頭を貫いた。狼狽する敵に、祝福された刃が次々と殺到し、厚い灰が周囲を埋め尽くした。そうしてキライ達は野獣の群れのように、互いに興奮に吼え猛り、戦場の中へと飛び込んで行った。

 俺も奴らに加わりたかった。クレシェイドはその背を見送りながら、痛切にそう思っていた。彼はエレギオン神父達の方を見た。数人の冒険者が、二人掛かりで樽を運んでいる。それらは神父と民衆達を囲むように配置されていたのだが、一つ置くごとに、樽の中の聖水から白い光りの柱が浮かび上がっていた。

「クレシェイド!」

 グレンに促され、顔を向ける。そこには町長のトラム・バーハングスが息を荒げてこちらを睨んでいた。ほぼ満身創痍となった身体からは、細い煙が幾つも昇っていた。しかし、真っ赤な双眸には執拗な憎悪が宿っていた。町長は両腕の爪を脅すように伸ばすや、地を駆け、その姿はクレシェイドの頭上へ高々と躍り上がっていた。

「貴様だ! 我らの理想郷を真に阻む、忌まわしい闇のはぐれ者!」

 双つの爪は、赤い軌跡と共に空気を唸らせた。クレシェイドは左右の杭で応戦したが、それは荒々しく粉砕された。

「哀れだな。手元にあるは、棒切ればかりか! かつての勇壮さはどこへいったのやら! 異形の戦士よ!」

「知らんのか、こいつはトネリコの杭だ。どうなるかは、お楽しみにな!」

 クレシェイドは背負った革帯から、新たにトネリコの杭を取り出した。杭を握り締める瞬間、クラメント神父の厳粛な横顔が脳裡を横切っていた。彼は思った。こいつは、クラメント神父への手向けの一太刀だ。これで必ず仕留めてみせる。

 敵は素早く身構えるや、背中から鎌を投げ付けてきた。まるで矢のようなそれを、クレシェイドは腕で薙ぎ払った。闇の加護を受ける豪腕はそれを圧し折っていた。二つに割れたそれの向こうに敵の姿は無かった。まさかと思い、目を走らせると、彼の脇を地に埋もれた丸い影が蠢き横切っていった。それは魔術師を目指していた。

「しまった、グレン!」

 彼の呼び掛けと共に、魔術師の足元から片腕だけが突き出し、赤い爪がその足に切り付けた。だが、爪は突如現れた分厚い黒い壁によって阻まれた。グレンは魔術の壁の中に手を伸ばすや、敵の腕を掴んで軽々と地面から引き摺り出した。

「おのれが! 年寄りめ、我らが同士と変えてくれるわ!」

 町長は憤怒と共に口を広げたが、その牙が喰らいつくことは無かった。ヴァンパイアは顎が外れんばかりに咽を震わせ、苦痛の声を上げた。

 グレンが手を放すと、ヴァンパイアは仰向けに倒れた。その左胸には魔術師の木の杖が突き立っていたのだった。主の名を弱々しく口にすると、やがてヴァンパイアの町長は動かなくなった。その様子を見届け、老魔術師はこちらを振り返った。

「間一髪だった。トネリコの杭とは、お前さんは、なかなかの知識人だったようだな」

「いや、俺は知らなかった。クラメント神父だ。神父が授けてくれた」

「なるほどな……。おかげで私も難を逃れることができた」

 トネリコの杖の周囲に灰が広がった。

 二人は揃って民衆達の方を見た。彼らの祈りは重々しく轟き、樽から伸びる光りの柱は頭上を覆う呪いの雲を貫いている。その雲に眩い裂け目ができた。

「クレシェイド、下がるぞ。巻き添えを喰う」

 クレシェイドは退きながら、天井の異変から片時も目を放せなかった。民衆の頭上で、雲が割れ、陽光が姿を見せた。晴天の眩く懐かしい光りは、労わるように人々を慰撫したように思えた。

「今こそ出でよ! 敵意ある闇の者どもよ、我が故郷を彷徨う魂達の怒りを思い知れ!」

 エレギオン神父の声が轟いた。

  


 二



 民衆達の周囲を、金色の霧が覆い始めた。それは大きく広がる傍ら、何かを形作るかのように忙しく揺らめいている。そう思ったのは、伸びた霧の端の一つが、柄と槍先に見えたからである。彼の予想は当たり、それは左手に大盾を抱いた金色の人影となり、祈りを捧げる人々の中に守り神の如く聳え立った。更に身に纏うように鎧兜の形作られ、最後に光りの外套を羽織った。風は無いが、外套の端と、後ろの兜飾りが靡いている。

 この金色の影は、言うまでも無く、町の中心に立っていた石像と同じ姿をしていた。

 戦神の影は右手の槍を大きく振り回した。その顔は戦場を睨むように見下ろしている。そして次の瞬間、黄金色の影は、高々と飛翔し、黒雲の一部を突き破り飛散させるや、頭上で槍を掲げた。そして、地に引き寄せられるように降下し、その途上で右手の長槍が一陣の風と共に、戦場に一振り下ろされ、一刀の下に切り裂いた。

 突風が走り、目も眩むほどの金色の光りが広がった。

 その最中に、クレシェイドは数知れぬほどの闇の者達の断末魔の声を聞いていた。

 光りが失せた先には、太陽を頂いていた時の、かつての町の色が戻っていた。戦神の影は消え失せていた。戦場の冒険者達は、互いに武器を身構えた後、安堵の息を吐くと、周囲を埋めている降り積もった灰の山を見渡していた。

 そして束の間の安息の後、誰もが敵の首領の姿を凝視した。

 サルバトールは、陽光を避け、崩れかかった家屋の陰に身を置いていた。その隣には二人の若い尼僧のヴァンパイアもいる。いきり立つ二人のしもべを、闇の子爵は残った片腕で懸命に制し、輝きの失せた赤い眼光で人間達をねめつけていた。

 その下へと歩み寄って行くのは、老冒険者のハリソン・スタイナーと、鉄鎖のキライに、彼らからやや遅れて、エレギオン神父であった。彼らの様子を見る傍ら、クレシェイドの目の端には、二人の幼い姉弟が映っていた。紛れも無い祖父の遺体を遠目に見つけ、駆け寄ろうとするのを尼僧が抱いて留めている。クラメント神父の遺体の傍には、三人の町の男が集い、一人が頭を振って、傍観者達にその様子を知らせていた。

 ハリソン・スタイナー達は、不用意にヴァンパイアには接近しなかった。誰もが奴らの狡猾な手段と、人を容易く屠る力を思い知っていた。次第に集まり始めた冒険者達も老冒険者の背中に佇み、恐々と様子を窺うだけであった。

「俺達も行くべきだろうか」

 クレシェイドが老魔術師を振り返る。グレン・クライムは皺の刻まれた鋭い顔を頷かせた。彼は額の脂汗を拭い、疲れたように大きく息を吐いていた。

「あなたには色々と迷惑をかけた」

 クレシェイドは彼に対し、多大な恩と申し訳なさを感じていた。

「気にするな。途中からは、お前さんを構うどころじゃなくなっていた。私自身、生き残るのと魔術師の尊厳を護るのとに手一杯だったよ」

 グレンは苦笑いした。

「行こうか、友よ。敵の大将の言い分を拝聴しようではないか」

 ヴァンパイアのしもべ達は、爪牙を剥き出し、エレギオン神父と冒険者達を威嚇し続けた。しかし、サルバトールは表情こそ、険しく歪ませているが、その態度はどこか落ち着き払っているようにも見えた。

「闇の大将、お前さんは黙っているだけだが、その実、強かに時を稼いでいるつもりだな」

 グレン・クライムが言うと、サルバトールは気の失せたような赤い瞳で彼を睨んだ。

「無駄だ。太陽の下では、それは通じぬよ」

 老魔術師は淡々と応じ、エレギオン神父を見た。

「神父様、早いところ決着を付けるべきだ」

 彼の声に、ハリソン・スタイナーと、キライもそれぞれ頷いていた。ドワーフの神父は主要な面々と、クレシェイドとに一瞥を向けた後、片腕を掲げた。その声が聖なる旋律を口にしたとき、ヴァンパイアの女の一人が主人の手を掻い潜り、猛然と牙を剥いて襲い掛かってきた。

 しかし、その身体は陽の光りの中で瞬く間に煙を上げ、地面に転がり、のたうつ間に、ボロボロと朽ち果て残骸と化したのだった。

「アナベル!」

 しもべの死に、狼狽の叫びを上げたのはサルバトールであった。たちまち冒険者達は訝しげな視線を敵に向けた。ヴァンパイアの子爵は、双眸から涙を滴らせていた。

「我がしもべ達が、消えてゆく……」

 ヴァンパイアの愕然とした表情には、魔力こそ無かったが、人々は僅かばかりの哀れみを覚えそうになっていた。しかし、グレンが声を上げ、それは彼の意思とは関係なく冒険者達の思慮を正したのであった。

「エレギオン神父、急いでくれ」

 老魔術師は、彼に似つかわしくないほどの急かしようであった。ドワーフの神父は改めて旋律を詠み始めた。太陽に掲げた手に煌々と白い浄化の光りが宿り始める。

 残った赤毛の尼僧のしもべが怒り狂い、飛び出そうとするが、サルバトールはその襟首を掴み、そのまま愛しげにしもべを抱き締めた。

「我が誇りにかけて、テレジア、お前まで無駄には失わせぬ」

「今更、人間の真似事かい、ヴァンパイアさんよ。はなっから、そうやって自分達の居るべき場所で暮らしてりゃ良かったのさ」

 キライが嫌悪するように吐き捨てると、彼は煙草を咥え、火打ち石を鳴らして火をつけた。しもべは彼を睨み、再び暴れ始めた。

「お前の血を吸い尽くしてやる! お前の肉と骨を地獄の番犬の餌にしてやる! 閣下を侮辱する奴は皆殺しにしてやる!」

 サルバトールは太い腕で、いきり立つしもべを引き戻す。そして、再びあの落ち着かないような、気にいらない目をしてみせた。

 グレンの言うとおりだ。こいつは何かを待っている。そう、当てになる救い主の登場をだ。やるなら、急いだ方がいい。クレシェイドは神父を見た。

 エレギオン神父の手が一際大きな輝きを放つ。その手から聖なる光りが放たれ、ヴァンパイアの主従を呑み込んだ。

 手を向けながら、ドワーフの神父が苦悶の声を上げ始めたのはすぐだった。

「これは、妙だ」

 次の瞬間、白い光りは煙となって消滅した。目の前には、抱き合ったままのヴァンパイアの主従がいる。彼らも虚を衝かれたような顔をしていた。

「何者かは知らんが邪魔が入った。警戒せよ、そやつは只者ではない」

 エレギオン神父は周囲に鋭い視線を向けた。

「いや、既に入っていたのだろう」

 グレン・クライムが言った。その意味を求めるように誰もが彼を見た。

 その赤い姿は何の前触れも無く、霧が晴れるかのように冒険者達の前にふわりと姿を現した。

 すらりとした身軽な身体には、薄手の赤い衣装と外套とを羽織っている。衣装の走るように施された黄金色の刺繍は、見覚えの無い文字列を模っているようであった。顔を仮面で覆っているがそれには奇怪で、冷たく人を嘲笑うような表情が刻まれていた。

 誰もが異形な新手の登場に困惑し、ましてや敵対すべきかなのか、己に問うている間に、一人だけ拳を握り締めた者がいる。それは他ならぬクレシェイド自身であった。しかし、そうしながらも彼は、我が眼を疑い、呆然と真紅の仇敵に見入るだけでもあった。

「貴様は、何者だ?」

 そして誰よりも行動を起こしたのは、そう尋ねたエレギオン神父であった。彼は確信するように声を荒げた。

「否! ヴァンパイアを背にしているということは、闇の者の同胞ということか!」

 仮面の下で相手は、小さく笑った。それは女の艶やかな声のようであった。クレシェイドは確信を得たが、ドワーフの神父は、既に相手に襲い掛かっていた。

 しかし、繰り出された長柄の刃は砕け散っていた。飛散する鋼の刃に誰もが見入る中、クレシェイドはその脇を掻い潜り、渾身の力と共に杭を突き出した。

 杭の先端は男の顔面を狙っていたが、そこへ達する前に、見えない障壁に阻まれた。杭もまた、神父の斧と同じ運命を辿ったが、仮面の男はクレシェイドに攻撃を仕掛けてきた。

 相手は手を刀身のように真っ直ぐ構えるや、目にも止まらぬ速さでもう片腕を伸ばし、クレシェイドの右手を掴んだ。そして造作も無く、彼を引き寄せ、よろめかせる。すると、いつの間にか白き輝きに包まれた手刀を、無防備な彼の肩口に振り下ろした。

 聖なる一撃は彼に致命傷を与える暇すら与えず、闇を泳ぐ魂を完全に消滅させるはずであった。

 クレシェイドが窮地を逃れることができたのは、相手の速さを上回るほどの敏捷さを見せた人影のおかげであった。彼と仲間達の目の前で、丈のある黒っぽい胴衣が裂かれる音がし、鮮血が中を舞い、同時に石畳には奔流の如く血が滴り落ちた。

 グレン・クライムのよろめく腰を、エレギオン神父が素早く支え、ハリソン・スタイナーが重厚な戦鎚を相手に振り下ろして牽制した。

 クレシェイドは、老魔術師の背を見ていた。彼の耳には、戦斧が弾かれる音と、神父が唱える治癒の魔術の調が聞こえていたが、それはどこか遠くのことのようにも思えた。

「大したものですね。そちらの御老体は、こうなることを見越しておいでだったようですよ。そうでなければ、私の一太刀は、確実にあなたを葬っていたずです、其処の黒い戦士の方」

 仮面の男はグレンを一瞥した後、クレシェイドを見た。初対面だと言わんばかりの、白々しい口調が彼を苛立たせたが、手を伸ばした革帯には既に杭は尽きていた。だが、そのおかげで、クレシェイドは己との因縁を無用に他者に知らせる愚に気付くことができた。互いの因縁に気付かれれば、クレシェイドの長い長い放浪の旅を語り聞かせなければならない。そして、その話を彼らが信じるとも到底思えなかった。

 闇を纏い生き永らえている死人など、生ある人間達は受け入れやしないだろう。何故なら、それは人を脅かし暴威を振るう闇の者も同然の存在だからである。そして恐れと危惧を抱かれば、そこで長らく続けてきた放浪の旅は、然るべく機関に身を置く他者の介入を持って終わりを齎されてしまうだろう。まして、こうして約百年ぶりに追っていた男と巡り合えた事実を思えば、殊更、慎重になってもいた。だが、彼自身も不思議なぐらい、興奮に胸が高鳴ることはなかった。

 冒険者達は知らず知らずのうちに、足を引き始めていた。ドワーフの神父の後退と、彼らが最強の戦士と一目置いていたハリソン・スタイナーの一撃すらも通じなかったことが、相手の底知れない強さと相俟って、彼らをすっかり怖気づかせていた。

 こちらの様子を知ってか、真紅の敵マゾルクは、ようやくといった様子で後ろのヴァンパイア主従を振り返った。鉄鎖のキライがその背を狙おうとしたが、やがて彼は畏怖するように振り上げた鎖を手元に戻した。

「手酷い目に遭われたようですね」

 マゾルクは涼やかな声でヴァンパイアの子爵に言った。その声には嘲りではないが、上の空のような労いの響きを思わせた。

 闇の子爵は、声を鋭くし、憤然とした態度で応じた。

「この様を目の当たりにされては、もはや言い訳すらもできん。私の敗北だ。貴様はこの敗北者をどうするつもりだ? 魔都を建てられぬばかりか、今や、我がしもべは一握りすらも残されておらぬ。これでは、盟友とは呼べぬであろう」

「まさか、それは有り得ない話しです。サルバトール卿、聞くところによれば、あなたは一度はこの町を支配下に置かれたそうではないですか」

 相手の慇懃な励ましに対し、闇の子爵は苦い顔を向け押し黙っているだけであった。真紅の敵は自ら頷いてその場を取り繕った。

「それに、御覧なさいな。隠れ潜んでいた者達の、今やその全てが私達の目の前にいるわけです」

 涼やかな声音に不穏な色が過ぎった。仮面の男は言った。

「それにそうです、我々は盟友なのですよ。お互いの不利を補ってこその、それでしょう」

 相手の口から危険な策謀のにおいが漏れ出るや、まずは背後から悲鳴が上がった。

 民衆達が呆気に取られながら、その目が前方の様子に注がれている。慌てて退いて行く尼僧と数人の町の男達を、死人の腕が彷徨い、彼らを掴もうと伸ばされている。しかし、白い神官の衣装を着た屍は、躓く様子も見せずにゆっくりと立ち上がっていた。

「クラメント!」

 エレギオン神父が驚愕の声を上げて見知った相手の名を叫んだ。

 飢えに彷徨える死者として老神父は今一度甦っていた。その足は民衆の方へと、石畳を確かめるように二、三歩進むと、途端に悪魔のような凶暴な唸りを上げて駆け出した。

 尼僧が祈りを捧げながら立ちはだかり、彼女の光り輝く腕が、神父を切り裂いた。慈愛の神に仕えていた神父は身体を斜めに断たれると、その場に倒れ、動かなくなった。二つの幼い子供の泣き声が静寂の一角を悲痛に染めた。

「貴様は、何ということをしおった!」

 エレギオン神父の怒号が木霊する。居並ぶ冒険者達の憤りの視線をも一手に受けながら、マゾルクは穏やかな声で答えた。

「これが我らのやり方ですよ。もう一度、お目に掛けましょうか」

 敵の指し示す方を冒険者達は振り返った。思わぬ恐怖に晒された民衆達は、互いに慰めあい、そして哀れな死者の姿を遠巻きに眺めていた。

 クレシェイドの脳裡には、最悪の瞬間が過ぎっていた。しかし、彼が声を上げる前に、再び見覚えのある惨劇が起こったのであった。

 民衆の一人が咽が裂けんばかりに絶叫し、その場に崩れ落ちた。それは若い男だった。再び訪れた異変に、民衆達は一旦はその場を離れながらも、戦々恐々の様子で近寄り、その身体を見下ろした。男が何事も無かったかのように立ち上がる。俯いた顔が、弾かれたように前を見る。そして青白く染まった力強い腕が目の前の婦人の首を掴んだ。そのまま絞め殺すものかと誰もが察したようだが、男は女を抱き寄せるように引くと、大口を開き、細い首にかぶりついた。

 悲痛な声と衝撃を受けた絶叫が響き渡るや、また一人と人々が突然苦しみ悶えて地面に倒れ伏した。そこで絶命した後、今一度甦った人々が飢えを満たすための獲物を求めて、人々を追い始める。そこはあっと言う間に阿鼻叫喚の世界に一転していた。

「当然の報いなのですよ」

 正気を取り戻し、助けに行こうとした冒険者達を冷ややかな声が引き止めた。

「何、報いじゃと!?」

 ハリソン・スタイナーが強い口調で尋ね返す。真紅の敵は頷いた。

「あなたがたは、サルバトール卿の大事な兵隊を悉く滅してしまったのです。その賠償として、あなた方のお仲間を頂こうとしているだけなのですから」

「何を調子の良いこと言ってやがる! テメェらが仕掛けてきたんだろうが! 違うってのか!?」

 キライが恫喝したが、相手は意に返す様子も無く、こちらの背後を指差した。

 悪魔の化身のように成り果てた死者達が、人々を追い回す中、その何体かが尼僧を包囲していた。恐怖で震える祈りの声がやけに鮮明に届いた。そして勇気と共に放たれた浄化の拳を、相手は横合いから軽々と掴んでみせた。彼女は双眸を絶望に見開き、かつての仲間を凝視していた。

 不意に慌しく魔術の旋律を詠む声がし、誰もが老魔術師の方を見た。エレギオン神父に支えられた男は、銀色に輝く白髪の下に必死な面持ちを浮かべ、右腕を掲げた。

 すると、尼僧の周囲に茜色の光りの壁が現れ、それは彼女を掴んでいた敵の腕だけを消し飛ばしていた。グレン・クライムは声を上げて訴えた。

「神父、聖なる光りを!」

 その声に、冒険者達は、自分達もまた危機に瀕していることに気付いた。

 エレギオン神父が慌てて浄化の調を口にし始める。

「さぁ、私の秘儀から逃れることができるのは、果たしてどなたでしょうか!」

 敵の狂喜する様をグレン・クライムの魔術が遮った。青光りする稲妻が矢のような速さで相手へと向かい、少なくともその手を煩わせた。

 エレギオン神父の周囲に白く煌いた光りが広がり始める。

「皆、中へ入れ!」

 冒険者達は我先にと駆け寄ったが、数人が、聖域へもう一歩というところで絶叫し、地面に崩れ落ちた。クレシェイドは死に行く同僚と、光りの中で事態を見守る仲間達を一瞥し、意を決して敵へと向かった。

「クレシェイド、俺も付き合うぜ!」

 鉄鎖のキライが彼に並んだ。彼はすぐさま飛び出し、鎖を振るった。それが完璧に真紅の男を捉えようとしたが、敵の足元から石畳を粉砕しながら火柱が噴き上がった。クレシェイドは拳を伸ばし、キライの片腕を掴んで間一髪、灼熱の炎から救った。

「惜しい、後少しでしたね。しかし……」

 炎の壁の向こうからマゾルクの声が聞こえた。隣でキライが苦しみに呻いたのはその時であった。クレシェイドは素早く彼を抱えると、聖域にいる仲間達へと放り投げた。彼らは降って来た男を受け止めながら、クレシェイドには疑惑の目を向けていた。彼が聖域に入らないのは何故だろうか、彼らの眼はそう疑念を語りつつ、もそや、そこに踏み込めることのない存在なのだろうかとも訴え掛けていた。

「皆、何を怖い顔をする必要があるのだ」

 老魔術師が身体をよろめかせながら一同を見渡す。

「彼は身を挺して盾になろうとしているのだ。たった今の惨状を見て、諸君の中には、この場所から非情なる死地に、進んで足を踏み出す覚悟がある者はいるか?」

 するとグレンはこちらへ歩み始める。その足が境界を越えた。

「よし我が友よ、私も殿軍に志願しよう」

 彼はクレシェイドを労うように肩に手を置いた。狼のような彼の甥そっくりの顔が、力に溢れた頼もしい笑みを見せて頷いた。その老体に走る痛々しい怪我は鎮まってはいなかった。彼はここで死ぬ気だ。そのような考えが過ぎるや、クレシェイドは身震いしていた。しかし、彼を止めることはできないのだろう。生々しく刻まれた傷を見て、そう悟るしかなかった。

 老魔術師は冒険者達に向かって言った。

「スタイナー卿、ここは速やかに撤退しよう。何故ならば……」

 彼は頭上を仰ぎ見た。そこにはいつの間にか厚い黒雲姿を現している。それは次々と繋ぎ合い、完全に合流する様を思わせた。

 凌いだはずの闇が再び訪れる。誰もが炎の壁の先へ畏怖の双眸を走らせる。

「わかった。御主らの厚意を、ワシらは生きている限り二度と忘れることはない。すまぬが、さらばじゃ」

 老冒険者は険しい表情で応じると、大柄な体躯を振り返らせた。

「エレギオン神父、我らを導いて下され」

「わかった」

 ドワーフの神父は頷くと、己の得物をグレンに差し出した。

「然るべく状態にした後に、彼へ渡してくれ。闘士の戦斧だ。失態を見せてしまったが、頑丈さだけならワシが請け負う」

「かたじけない」

 グレンは斧を受け取った。そしてエレギオン神父は、ペトリア村の方角へと歩み出し、彼が紡いだ聖域からはぐれぬ様、冒険者の一同が後に続いた。彼らが尼僧と合流したところを見届けると、グレンは武器をクレシェイドに差し出した。闘士の戦斧は、両端の刃のうちの片方を失っていた。本来ならば重い筈の武器は、今のクレシェイドにとっては造作も無いほどの軽いものであった。もしも、ここでマゾルクを斬ることができれば、この斧を途端に重く感じることになるだろう。

 死者達のあらゆる叫びが町の何処からか聞こえてくる。しかし、二人は取り合わず、赤々と聳え立つ炎を眺めていた。

「さぁ、友よ。準備は良いか」

 グレンの問いにクレシェイドは「ああ」と答えた。グレンは魔術の旋律を軽く口ずさんだ。

 老魔術師の声に応じるように、前方の炎の壁が薄くなってゆく。その先に宿敵が佇むのが見えたと思った瞬間、クレシェイドの足は地を蹴っていた。

 火の中を駆け抜け、斧を振り上げる。マゾルクは虚を衝かれたように顔を向けた。クレシェイドはその脳天目掛けて、無心で渾身の一撃を振り下ろした。

 刃は敵の頭を割り、轟音を鳴らしつつ大地を穿った。その手応えの無さに対して、彼の心は冷ややかなものであった。自分自身は、この場では、こうなることを悟っていたのかもしれない。彼は改めて眼を向ける。前方には影に身を置くヴァンパイアのしもべがいるだけであった。彼はようやく慌てた。マゾルクはともかく、サルバトールはどこだ。そしてその目が、陰の底に沈む敵の姿を捉えた。刹那、ヴァンパイアの子爵が一挙に躍り掛かって来た。

 鋭利な爪が空を裂いた。彼は焦りつつ避けながら、意気に盛んな真っ赤な眼光から何故か目が離せなかった。

 貴様は足を止める。

 クレシェイドの頭の中に唄のような甘美な声が囁いた。真っ赤な深淵を思わせる双眸が彼の眼に絡み付いて離れなかった。

 ヴァンパイアめ、もうその手は食わんぞ!

 嵐のような猛攻を彼は受け流しながら、むしろ己に言い聞かるように叫んでいた。

 お前は我が攻撃を物ともしない。

 そうだ。全て見えている!

 ならば今こそ斧を振るえ! 決して我を逃がすな! 汝が敵を断つべし!

 彼の心中で赤い双眸の影が怪しく煌いた。

 の、望むところだ!

「サルバトール!」

 クレシェイドは魂の叫びと共に斧を振り下ろした。その先に敵の姿は無かった。彼はすぐさま足元を見た。地の中を影が滑り、そして飛び出した敵は爪を振るった。鋼を打つ様な音が木霊した時には、彼の見る世界は混じり気の無い黒の世界のみであった。



 三



 兜が高々と空に跳ね上がった。

 その下から現れた戦士の顔を陽光が照らし出す。黒色の髪と、血の気の失せた青白い死人の頬を老魔術師は見た。

 しかし、それはあくまで一瞬の出来事であった。鎧の襟首から濃い紫の煙が噴き出し、相手の顔もその影すらも呑み込んでしまったからだ。まるで血煙のようだ。と、グレンは驚愕しながら思っていた。

 戦士の素顔を前に、闇の子爵もまた目を見開き、愕然と見惚れていた。そしてようやく我に返り闇の子爵は言った。

「異形の戦士とは思っていたが、これは我が想像を遥かに超えていた……」

 その言葉どおりに、血の気の失せた顔には危機感ともいうべき険しいものを浮かべている。

「相容れぬなら、これほどの脅威は、やはり早々に消すべきか!」

 敵は闇を吐き出す戦士を蹴倒した。

 甲冑を響かせ、大きな身体が石畳の上に仰向けに横たわる。その身体は微動だにしなかったが、煙の勢いが急激に増し始めていた。このままでは闇の魔力の最後の一滴までもが早々に失われてしまう。そうなれば、死人の身体はあるべき自然の摂理に従い、朽ち果てるのみだろうか。いずれにせよ、早急に兜で封をしなければ。

 グレンが目を向けた先で、サルバトールも足元の兜に気付いたようであった。グレンは素早く魔術の詠唱を終えるや、手を突き出し、魔術の光りの縄で兜を弾いてこちら側へと弾き、そして二度目で引き寄せた。敵は舌打ちしたが、頭上の雲はまだ太陽に届いてなかったため、その清き光りの中に踏み込んではこなかった。

 ヴァンパイアは言った。

「さて、その兜をどうするつもりだ? 忠告しておくが、その男の放つ闇は我ら眷属の身体すらも狂わすほど濃密なものだ。人の身で浴びればたちまち呪いに支配されてしまうだろう。そして貴様は死ぬ」

「時には、どのように死ねるものか、選べる幸運もある」

 嘲笑うわけでもなく、興味深げに相手はそう言った。むしろ嘲ったのはグレンの方であった。赤い男に負わされた怪我も酷いものだが、彼自身の身体を留まることなく極限に蝕もうとしているのは、紛れも無く呪いであった。それは、呪われた霧の中で視覚を得るために、自らの身体を、闇の魔力で覆い続けたことが原因であった。しかし、承知の上であった。後輩に当たる若い魔術師のバーグソンを壁に穿たれた出口まで送り、戦神の教会の無事を確認し、殺戮を齎す霧の中で運良く、点々と生き残っていた者達を彼は掻き集めたのだ。その全ての行動において、彼は多くの闇の追っ手に狙われ続けていた。黒き霧を見通す目が無ければどうにもならないことであったが、彼は自分の働きに満足していた。その命が尽きようともだ。

 黒金色の兜は鋼の様だが、当然それではなかった。見た目を凌駕するほどの重量があるだろうか。グレンは手早く魔術の詠唱を済ませ、己の両腕に更なる力を引き出した。足元に倒れた友人の顔は、盛んに噴き出る闇の煙のせいで未だに見ることができない。彼は鎧の襟首に目を剥け、続いて兜の裏を確認した。しかし、止め具のような出っ張りもなければ、その痕跡すら端から存在していないことを見て思案した。この兜は鎧と共に一枚の金属板で造られたということだろうか。だとすれば、戻したとしても破損部分に隙間が生じるはずだ。今よりも抑えられるかもしれないが、それも時間の問題に他ならない。

 しかし、迷っている暇は無かった。彼は死を覚悟しているとは言え、程なく訪れるヴァンパイアの世界に、不安定な友人を置き去りにするつもりは毛頭なかった。そのためには、己自身が支えとなるべく、少しでも長く生き延びなければならない。

 グレンは重い兜を両手に持つと、戦士の背中を両脚で跨ぎ、屈みこみながら襟首の向きを頼りに、真っ直ぐ兜を被せ始めた。

 闇の煙が彼の両手に鋭利な結晶のように吹き付けてくる。掌が次々と裂けるのを感じ、彼は痛みに顔を歪めたが、最後まで気を抜かなかった。兜の端が、戦士の見えない頭にぶつかり、慎重に探りながら位置を修正する。そして、次の瞬間、兜は何者かが奪ったかのように、グレンの手元から飛び出し、鎧の襟首に衝突した。黒い煙は塞がれ、そこには彼らが目にしていた黒き戦士の姿があった。

 磁力のようだった。グレンはズタズタに裂かれた己の両手を見下ろしながら、無数の新鮮な傷口の熱よりも、兜が指から抜けた時の引きの強さに感じ入っていた。いや、おそらくはそういった魔術のはずだろう。聞き覚えは無いということは、忘れられた古代の魔術の類なのかもしれない。

 彼は戦士の背に触れ、己の中で闇の魔力を生み、それを解放しながら、相手の身を癒し始めた。その最中、身体が別の闇に蝕まれてゆくのを彼は多様な苦痛と出血とで思い知ったのだった。

「クレシェイド、起きられるか?」

 頭の底から厚い幕が降りるような眩暈に耐えながら彼は相手に声を掛けた。

 右手の篭手がゆっくりと地を這い、そして戦士は関節の感覚を確かめるようにゆっくりと立ち上がった。黒い鉄の庇に閉ざされた兜が、こちらを見下ろす。しかし、戦士は何も話さなかった。先程の一件で、声を司る部分が流れ出てしまったのだろう。戦士は危な気なく大きな身体を揺らめかせていた。そして、彼が先へ促す前に仰向けに地面に倒れた。鎧が派手に鳴り響いた。グレンはその背に手を置き、辛抱強く己の生命で削った闇を送り続けた。

 頭上の黒雲が太陽に近付いていた。静かな町中に再び不気味な薄暗さを齎すまでそう長くはない。ヴァンパイア主従は無表情で、未だに僅かな陰に身を落ち着けている。

 グレンは今ひとつ魔術を唱え、己の腕を更に頑強にした。内部で骨が軋み、肉が裂けたらしく、傷口から血が四散したが、死の宣告ともいうべき、気まぐれに訪れる永遠の暗闇に追われる恐怖に比べれば、この熱い激痛も問題ではなかった。

「魔術師よ、敵ながら貴様は良くやった」

 サルバトールが心底感心するように言った。

「しかし、その男はもはや荷物も同然だ。助かりたいのならば、貴様はそいつを置いて行かねばなるまいな」

「最後の最後で、お前さんは、割と熱のあるヴァンパイアに見えたんだがね」

 グレンは相手を一瞥すると、その両腕で苦労しながら戦士の肩を持ち上げ、背負うように引き摺った。

 彼はゆっくり、ゆっくりと歩き始めた。闇の子爵の魔術のせいで、町中の東側は原野同然と化している。まずは大通りを目指し、そこでアルマンへの門が開いていることを望んでいた。この位置と歩みではクレシェイドが穿った外壁の穴までには、闇の帳が下りてしまうだろう。そうなればお互い最後だ。

 町の西側は、闇の子爵の怒りを殆ど免れたようで、建物は元通り健在であった。家主を失ったそれらが、今は閑散としてしまった大通りを囲んでいる。グレン・クライムの目は、聳え立つ大きな石の防壁へ向けられていた。彼は僅かな希望を持つように、今一度、目を凝らしたが、防壁に挟まれた鉄の門扉は閉ざされていたのであった。

 町並みを照らす陽には、既に陰りが目立ち始めている。グレンは大通りを反対側へと向かった。その途上で、殺され甦った死者達とも出会った。その者らは、目覚めたばかりの頃の貪欲なほど暴虐だった意思を、すっかり喪失しているようであった。通りの路地裏からヨロヨロと当て所も無く彷徨い出て、据わりの悪い青白い頭が偶然、獲物を見つけると、そこで自らの飢えに気付いたように歩み寄ってくる。

 死者の鈍い足取りでも、今のグレンには命取りではあった。彼はしばしばクレシェイドへの魔術の供給を中断し、得意な火を打ち出して相手を焼きながら進んでいた。

 前方に戦神の石像が見えてきた。勇壮な後姿に感慨を抱く前に、グレンは忍び寄っていた死者をまた一人焼き払っていた。ムジンリの大きな交差点を彼は通り過ぎる。荒廃した北東部の様子を目の端で一望し、今もそこに闇の子爵が封じられていることを願っていた。

 そこから行く手の門扉が閉じているのを見た。今、彼の姿を映し出す影は霞のように儚いものへとなっている。俄かに緊張が駆け巡ると、疲労困憊の身体に鞭を打ち、友を引き摺りながら再び歩み始めた。急がば回れだったか。彼は弱々しく自らを嘲笑い鼓舞した。

 彼がようやく門扉の前に来た時、ついに周囲は闇一色と成り果てていた。彼は防壁沿いに右手側を見た。やや先に外界の明かりが漏れ出ている穴がある。

 今少しだ。更なる全身全霊を籠め、足を踏ん張らせ、方角を変えようとしたとき、不意に目の前の扉が音も無く開き始めた。

 神々しいばかりの外の陽光が彼ら二人を出迎えている。グレンはあえて振り返りはしなかった。この借りはいつか地獄で返そう。口元をほんの僅かにほころばせつつ、彼は門を潜り抜けた。二人が外に出たところで、扉はゆっくりと閉ざされた。グレンはクレシェイドをすぐ傍の防壁の前に座らせた。

 彼は放浪の黒い戦士を見下ろしながら、不意に混濁し始めた意識に確実な死の訪れを悟った。彼に別れの言葉を述べようとしたが、口を開きかけたときに、身体の中で呪いが次々と破裂するように脈動を繰り返し、苦しみと激痛とに倒れていた。

 私はきっと幸運だったのかもしれない。最後の最後で、理想の男と友誼を通じることができたのだから……。さらばだ、我が愛する猛き男よ。

 揺れる視界の先に戦士の黒い足が見えていたが、その目はいつの間にか光りを失い、二度と瞬きをすることはなかった。

 それから空が夕暮れへと変わり始めた頃に、クレシェイドは目覚めた。彼は遥か彼方に広がる深い木々の向こうに、真っ赤な夕日が沈む様を見て、己に何が起こったのかを素早く悟った。そして、老魔術師の亡骸を前に、涙も声も無い慟哭を漏らした後、恩人の亡骸を抱え、陽が落ちた街道を、背筋を正して歩み去って行ったのであった。

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