第10話 「進撃」 (中編)

 クレシェイドはただ呆然と立ち尽くしはしなかった。彼は丸太を抱え上げ、門扉を何度も何度も突き、あるいは叩いた。今や街は濃い暗黒の世界へと様変わりしているだろう。唯一の希望の、聖女エベレッタの白き力も打ち消して喰らい尽くすほどの、恐ろしい者が姿を現したのだ。

 グレンを、アディオスを、エベレッタを、そしてもはや行方知れずともいうべきハリソン・スタイナーらのことを彼は思い、焦燥感に呑まれながらも、必死に扉を破ろうとしていた。その最中に気付いたことといえば、町の中からは誰の悲鳴も、他の音も絶えていたことであった。その結論を、夜空の前に君臨する、不可解な暗黒の靄のせいだと彼は決めた。

 彼の渾身の一撃に、破城槌代わりの丸太は耐え切れず、中ほどから裂けて吹き飛んでいった。ただの分厚い鉄の扉を眺めて彼は思案した。闇の力が、何らかの影響を及ぼしているのだろうか。クレシェイドは一旦、心を落ち着けた。そして防壁を一望し、東方のショウハがやったように、壁を攀じ登る方べきかと思い始めていた。防壁の頂上は暗黒の靄に埋もれていたが、幸いこの身体なら毒される事無く潜り抜けられるだろう。

 彼は急いで壁に取り付いた。だが、自分の指先ではショウハのように、手掛かり足掛かりを見つけられないばかりか、その程度の窪みではとても甲冑の重みには耐え切れず、ボロボロと崩れ去ってしまうのであった。

 這い進みながら、斧を振るって窪みを広げるしか道はないか。そう嘆息しながら、彼は何気なく「岩崩し」を壁にぶつけてみた。

 すると、刃は吸い込まれるように滑らかに、壁の中に突き刺さっていった。クレシェイドは、今更ながら、その名前の由来が単純明快な結果の下に付けられたのだと確信した。

 彼は奮起し、斧を振るった。刃は岩壁を砕き削り進んでゆく。その名の通りの働き振りに彼は感激した。

 ようやく小さな穴が開通した。しかしその瞬間、そこから強烈な勢いで黒い煙が噴き出してきた。鎧の内側で闇の精霊が活気付いた。これが呪われた煙である証だ。だが、飛び出てきたものは煙だけではなかった。その中に紛れて、紫色のベトベトした塊が甲冑にへばり付いてきたのだ。それは気色の悪いナメクジのようにヌラヌラとしていて、甲冑の上をゆっくりと這い始めていた。

 これこそが、魔術の研究によって生み出された初歩的な生命体と言われるスライムという生物であった。四肢の無い身体は紫色に透き通っていて、その中心にある唯一の器官である丸い核を見ることができた。些細な骨も無く、身体はグネグネと不定形に気味悪く蠢くだけだが、この魔法生命体は、嗅覚に過敏であり、尚且つ、動く時は大概が捕食を前提としてのことであった。人知れず研究に没頭する魔術師達にしてみれば、正に手頃な番兵というわけだ。

 クレシェイドはそいつの端を摘み上げた。甲冑には粘着質な細い糸が幾筋も垂れ下がり、見る方の気分を不快にさせた。足場を探るように身体の端々を蠢かせている様子を見た後、彼はスライムを放り投げ「岩崩し」の刃を振り下ろす。薄気味悪い生命体を真っ二つになった。それぞれの肉片は、地面の上で痙攣した後、活動を停止した。その際、置き土産として、高熱を帯びているであろう蒸気を噴き上げたのだった。

 スライムどもは、柔軟な身体を活かし、開通した僅かな隙間から、次々と現れ出ていた。クレシェイドは無視することに決め、壁に向かって止めの斧を振るった。大小の石の破片が零れ、大きな穴が開いた。そこから街を覗けたが、最後に目撃したとおり、そこは一面が濃い紫色の闇に覆われていた。まるで異界を思わせたが、厚い膜の向こう側に、おぼろげだが建物の姿を見ることができた。そして、一歩踏み出すと、身体中を行き交う闇の精霊達が、興奮とも言える様な密やかな絶叫を上げるのを確かに耳にした。

 彼はまず扉の方へ向かった。グレン・クライムとの再会を望みたい所だが、閂が外されなかったという事実は、既に老魔術師がそこにいないことを示しているのかもしれない。彼は推測を深めつつ足を進める。そもそも閂を掛けたのはグレンなのだろうか。いや、そうではなかった。ヴァンパイアの生き残りか、奴らの親玉に違いない。霧の中を掻く様に壁沿いに進んだ。

 扉に着くと、そこには太い閂が挿されていたが、それは執拗に曲げられ、動かせぬようにまで拉げていた。大した怪力だとクレシェイドは思いつつ、今のヴァンパイア達になら可能なのだろうかと訝った。彼は「岩崩し」を振るい閂を根元から切断した。

 重い鉄錠が石畳の上に落ちると、クレシェイドはさっそく扉を押し開いた。外の月明かりが見えた。すると扉が突如として動かなくなった。そして首を傾げる間もなく、まるで意思があるかのように圧倒的な力で押し戻り始めた。クレシェイドの全力の抵抗すらも退け、扉は重々しい音を立てて閉じてしまった。

 ならばと、扉と繋がっている脇の岩壁を破壊することを試みた。しかし、斧を振り上げるや、薄い霧のすぐ向こうに見えるのは、岩壁ではなく、ヒルの群れのように蠢くスライム達であることに気付いた。まさかと思い、壁を一望すると、壁面は蠢く影で溢れていた。

 ならば、この合成生命体ごと壁を破壊してしまおう。改めて斧を振り上げた時、得物の刃先を横合いから何者かに掴まれた。クレシェイドは油断したことを後悔しながら、慎重な面持ちで静止し、相手の出方を窺った。

「そいつらの核には、濃厚な闇の煙がたらふく詰まっているぞ」

 呪われた霧越しに老魔術師の声が答えた。相手は刃から手を放した。

「グレン、無事だったか」

 研ぎ澄まされた視野が、霧を通り越し、老魔術師の顔を見止めた。クレシェイドは深く安堵した。老魔術師は言った。

「戦士殿が、どうやって戻って来れたか気になるところだが……その斧しか思い当たる点は無いな」

「クレシェイドと呼んでくれ。この斧は岩を砕くことに秀でた特別な斧だったらしい。それで外壁に穴を開けて入ってきた」

「それは我々にとっては幸運なことだ。何故かというと、ここはもはや閉ざされた闇の世界そのものだ。ヴァンパイアの親玉の力と、そこの壁一面、いや、街一帯に湧き出ているスライムどもの仕業だ。しかしお前さんが穴を開けてくれたおかげでそうではなくなったな」

 クレシェイドは壁を這う魔法生物を凝視し、こいつらを裂いたときに、強烈な煙を吐いたことを思い出した。

「そうとも。お前さんの身体と鎧ならば、何ら影響を及ぼすものでも無いが、俺を含めた生身の人間達には、この闇の空間が恐ろしく身に堪えるものなのだ。見えぬとは思うが、俺の身体は魔法の皮膜で包まれている。そうでもしなければ、忽ち白目を剥いて、卒倒したが最後、終わりさ」

 クレシェイドは事の重大さに驚くばかりであった。まずは魔術を使えないアディオス達のことを考えていた。彼と行動した聖女エベレッタの力が僅かでも、この世界で及ぶことを願うほかは無い。そして、自分達は決断を迫られることにもなった。しもべのヴァンパイアにも手間取らされたことを思い出す。つまりは、まだ見ぬ親玉のサルバトールを倒すには、己の力に呼応し奴らと同じ闇に染まる「岩崩し」では、傷の一つも付けられないということだ。そして、エベレッタの築いた圧倒的な聖なる白い世界すらも、奴の闇は瞬時にして呑み込んでしまった。もはや万策尽きた。

「撤退しよう。無論、救える者達を連れて」

「それが良い。お前さんの開けた穴はどっちだ?」

 クレシェイドは指し示し、目の前の扉のことを思い出した。

「それもヴァンパイアの親玉の力さ」

 グレンはこちらの脳裡を見透かすように言った。

「そして奴には、こちらの動きも手に取るようにわかるだろう。そのうち遊びに現れるかもしれんな」

 二人は闇の霧の彼方へ目を向けていた。色濃く漂う霧の中にクレシェイドは声を聞いたように感じた。それは厚い霧に半ば吸われていたが、恐慌染みた男の叫び声であったように思う。その声はまた聞こえた。目の前の大通りを行った先だろう。そして通りの左右には、大小様々な商店の建物が軒を連ねている。闇の者達が潜み、挟み撃ちを仕掛けてくる可能性もあった。

 クレシェイドが声のこと伝え、真っ直ぐ進むべきか尋ねると、老魔術師が言った。

「迂回しようとも、どのみち建物だらけだ。挟撃に遭う可能性なら同じさ。ならば事は急を要する以上、このまま中央を行くとしよう」

 二人は紫色の霞に染められた建物の間を駆けた。敷き詰められた石畳を、鉄と革の靴底が行くが、本来聞こえるはずの忙しい足音は霧に呑まれ、低く微かな反響を残すのみであった。そうして周囲にも目を走らせたが、建物の中に蠢く影は見えなかった。

 程なくして、戦神の彫像が聳え立つ広場が見えてきた。そこは街で一番大きな交差点でもあった。

 彼らは足を止めた。槍を突き出し、大盾を構える大掛かりな戦神の像がある。その下に、一人の男が佇んでいた。相手の衣装からすれば魔術師であり、見覚えのある冒険者の1人であった。彼は忙しなく周囲に目を走らせていたが、その視線がこちらを捉えることは無かった。闇の霧のせいだろう。結局は、目前に達したところで、あくまで何者かが近付いてきている事として、相手は気付いたのであった。

「誰だ!?」

 若い魔術師は杖先を向けながら、霧の先を射るように凝視して尋ねた。

「グレン・クライムと、戦士のクレシェイドだ。その声は確か、お前さんはバーグソンだったかな、御同輩?」

 老魔術師が応えると、バーグソンは頷いたが、杖先を反らしはしなかった。

「グレン・クライム、アンタらがまだ仲間ならこれほど心強いことは無い。しかし、残念だが、目で見るだけじゃ納得はできないな」

 相手は自分の言葉に狼狽するかのように言った。

「それはこちらも同じさ。しかし、どうする? 忌まわしい首の噛み傷の有無を確認する頃には、既に互いが必殺の間合いだぞ」

 老魔術師が淡々と述べ、バーグソンは杖を落とすのも構わずに、懐に手を伸ばし、小瓶の中身を振り撒こうとした。

「それは聖水か?」

 グレンはクレシェイドに気遣わしげな一瞥を向けつつバーグソンに尋ねた。

「ああ、念のため常備してたのさ。こいつを振り撒いて、アンタらの様子が変わるか否かで、判断させて貰うことにする」

 落ち着き払った様子とは裏腹に、バーグソンの眼は凄まじい程の緊張に苛まれ、ギラギラと血走っていた。グレンは少々困り果てたように、クレシェイドに目配せをよこした。こちらが聖水の力に耐えられるかどうかを危惧しているのだ。クレシェイドは静かに首を横に振った。痛みこそは無いが、闇の力が浄化され、鎧の内側から煙が上がれば、それは身体の支えを失ったも同然だ。ついでに相手も不審に思うだろう。老魔術師は頷いた。

「ならば、俺だけが浴びよう。我が友人クレシェイドの纏う鎧は、彼の冒険の過程で手に入れた闇の力を帯びた特別ものだからだ。彼が潔白にしろ、聖水には過敏に反応を示すだろう」

「いいとも。あの魔術の火を目のあたりにすれば、今は誰だって聖女殿の次に恋しいのは、魔術師グレン・クライムなはずだ。少なくとも、この街で生き延びてる魔術師達ならそう思ってるだろう。ゆっくり三歩、前に出てくれ」

 グレンが進み出ると、バーグソンは軽く腕を振るって小瓶の中身を振りかけ、そして彼は安堵のあまり腰を抜かしていた。

「ああ! 老師グレン・クライム! 我らが偉大なる先駆者殿!」

 バーグソンは杖を拾うと感激の後に非礼を陳謝した。クレシェイドが現れると、その姿を見上げた。

「そうか。アンタ見覚えがあったが、クレシェイドっていうんだな。ところで、その闇の鎧はどうなんだ? この状況下で何ら良い影響があったりはするのか?」

 若い魔術師が興味深げに尋ねた。

「目がよく利くようになった」

 それは厳密には闇の精霊の力によるものだが、この魔術師と共に行くことを考えて、クレシェイドはあえてそう言ったのだ。

「それはありがたい。無論、敵もアンタと同じく視界に不自由はしないだろうがな。ひとまずは、奴らに見付かる前に行くべきところへ行けば良いだけだ。仲間と話したんだが、やっぱり残された望みは朝が来ることだけだと思う。それまでの間、教会へ身を隠してはどうだろうか? 聖なる加護が失われていても、聖水か、魔除けの武器があるかもしれない。もはや、そいつを駆使して対抗するしかないだろう」

 こちらに望みがあるとすれば、正にバーグソンのいうとおりであった。しかし、頭上をすっかり遮断している呪われた雲は、例え陽光でも削り通すには時間がかかるだろう。そして個人的な問題だが、教会の力が生きているとすれば、クレシェイドにとっては少々難儀なことにもなる。足を踏み入れない彼を、誰もが不審に思うだろう。その疑念が行き着く答えによっては、サグデン領内での今後の冒険を自粛することにも成りかねない。

「お前のいうとおりだ。しかし、待ってくれ。実は、このクレシェイドが既に外壁の一部を破って、外へ繋がる脱出口を拵えたのだ。仲間を助けた後は、速やかにそこから出て行こう」

「それは願っても無い幸運だ。さすがは賊将どもをバッタンバタンとやるだけのことはある」

 バーグソンは満面の笑みを浮かべた。

「さて、だとしたら急ごう。少なくとも他の仲間の奴が、村長を連れて彷徨ってるはずなんだ。この視界の悪さのせいで、お互い危険を承知で声でやり取りをするしかなかったのだが……」

 若い魔術師の言葉を聴きながら、クレシェイドは周囲に目を走らせた。大槍と大盾を構えた猛々しい神像を中心にして、道は更に、五つの方角に伸びていた。大通りの続きは北に伸びた一本で、後は西と東とそれぞれの中間に少しだけ狭まった道がある。北の通りを行けば門に行き当たり、そこを潜ればアルマンへ続く街道が伸びている。本来ならばこの大通りをハリソン・スタイナーらが進んでいるはずであった。グレンと、バーグソンは、黒のような紫色の霧のベールの先を見ようとしているたが、やはり彼らの視界は芳しくないようであった。

「先導しよう。俺にはしっかりと五本の道が見えている」

「だったら、慈愛の神の教会へ向かおう。元々、教会でやり過ごそうってのは、村長の案なんだ」

 クレシェイドは北東へ伸びる道と、その奥に列する民家の屋根を追っていった。そして鐘楼の突き出た影を彼は見つけた。

「北東に教会の屋根のようなものが見える」

「それだ」

 バーグソンは頷いた。しかし、老魔術師の方は闇を凝視しながら、深い思案に耽っている様子であった。そして彼は言った。

「我々魔術師ならば、こうして魔力を操り、皮膜として有害な闇との直接的な干渉を避けることができるが、村長はどうだろうか」

「それは、側に魔術師がいた。やらない訳がありませんよ」

「いかにもそうだろう。しかし、聖女殿とお前達が飛び出し、私はクレシェイドと門の外に出た。そして霧が覆う直前に戻ってきた訳だが、そこに村長の姿は見えなかった。彼もまた勇躍して戦列に加わったのだろう。その村長が、魔術師とどの過程で落ち合ったが気になるところだ」

 クレシェイドは、街の者達がヴァンパイアになる直前のことを思い出していた。確か冒険者の一人が、哀れな町の者達を見付けたのは、教会だと言っていた。彼らの言うところだと、そこを守護していたのはスライム達だ。恐らくは壁一面に貼りついていた連中と一緒で、体内に強烈な闇の力を蓄えているはずだ。闇の進入を許したということは、既に教会の建物からは、神聖なる加護は取り払われていたということになる。もしかすれば、村長は既に闇の者と化し、今は新たな本能と使命の下、素知らぬ顔で、その巣窟にこちらを導こうと企んでいるのかも知れない。

「教会へ行くのは危いかもしれない」

 クレシェイドが言うと、バーグソンは正気を疑うように見詰め返した。そしてクレシェイドが訳を話すと、憤慨しながら訴えた。

「西には戦神の教会もあるんだ。手遅れなのが、どっちの教会なのかは行ってみなきゃ分らんだろう。村長がいるんだ。行くしかない」

「確かに、その通りだ。探しに行こう」

 クレシェイドは半ば妥協するように早々と己の非を認めて見せた。結局は、自分自身も仲間を見捨てて行くなどは、到底できないことであった。

 彼は先行し、北東の細い道へと魔術師達を導いた。そこは閑散とした住宅街であった。偽りの静寂の下に立ち並んだ民家の影達が、人知れず目を開け、陰険な笑みを浮かべて、三人の来訪を歓迎したように見えた。

 先を行っていたクレシェイドは、ふとその足を止めた。道の真ん中にあるそれは、最初は頭陀袋が投げ出された様を思わせたが、よく見ればそれには脚があり腕があった。

 仲間も亡骸か、それともヴァンパイアの罠か、クレシェイドは様子を二人に告げると、慎重な足取りで近付いて行く。彼が目にしたのは、先行した冒険者の亡骸であった。首に噛み傷はこそ無かったが、彼らの断末魔は壮絶だったようだ。どの犠牲者も、裂けんばかりに口を開き、眼球は半ば飛び出していた。この生き地獄を物語るような死を齎したものこそ、町を満たす濃厚な闇の霧であった。

 その後も、無残な亡骸は、歩みを進める度にポツリポツリと現れた。道路の真ん中、あるいは住宅の屋根下で、彼らは倒れ事切れていた。死はまったく唐突に彼らに訪れたのだろう。中には鞘に得物を収めたままの者も見られた。

 青銅色の鐘楼を目印にしつつ彼らは進み、ようやくその正面へと辿り着いた。

 門扉には女神の清楚な横顔が描かれていた。その落ち着いた光沢のある木製の扉は、片側だけが半開きのままで放置されていた。クレシェイドは二人に向かって、自分が先に様子を窺うことを身振りで示した。

 開きかけの扉に手を触れると、それは蝶番ごとボトリと落ちた。彼は仕方なく押し開けると、蓄積されていた闇の煙が、奔流のように中から吹きつけてきた。バーグソンが後ろで小さく悲鳴を上げた。濃密な煙が去り、クレシェイドは建物の中へ目を向けた。そして己の身体が弱まる気配の無いことから、既に教会の加護が消失していることを悟った。

 左右に列せられた長椅子の間を、赤色の絨毯が真っ直ぐに伸びている。その先には祭壇が立っていた。簡素な造りをしたよく見る教会の姿であったはずだ。しかし、椅子は乱され、折れ曲がった絨毯には大小の黒っぽいシミが付着している。他には魔道実験で生み出された合成生命体達の亡骸が、何体も転がっていて、それは柔らかい泥濘の溜りのように潰れていた。

 クレシェイドは確信した。ヴァンパイアとなってしまった人々が監禁されていたのはこの場所だろう。

「内部だが、村長達がいるとは思えない状況のようだ。……魔除けの聖水も汚染されてしまっているだろう」

 バーグソンの心情に気を気を遣いながら、彼らの返事を待った。

「そうだろうな。今もって内部の様子が我々には見通すことができないほど、濃厚な闇が吹き溜まっている。それに、村長達が中にいたとしても、ここからの呼び掛けでは届くまい」

 老魔術師が応じたが、バーグソンは不満げに顔を歪めて足元を凝視していた。クレシェイドは彼の意を汲むことにした。ここでの一件を終わらせるだけで、どのような結果になろうともバーグソンの心の蟠りを解放することができるからだ。しかし、そのためには僅かな見通しすらも危い敵の巣窟に二人の魔術師を残して行かねばならない。建物の中に入れば空間は極限られてしまう。仮に二人と行動を共にしたとして、有事の際は彼らは手探りで我武者羅に逃げるしかなく、壁や障害物が何度もその脚を阻んでしまうだろう。ならば、逃げ道に恵まれた外で待たせておいた方が安全だ。

「俺に任せてくれ。建物は小さいから捜索はあっと言う間だろう」

 バーグソンは口を開きかけたが、改めて神妙な表情になって述べた。

「すまん、俺はグレン老師と待つ。よろしく頼んだ」

 クレシェイドはゆっくりと踏み入った。背後に一瞥を向けると、グレンとバーグソンがこちらを見守っていたが、彼らの視線は闇の霧に遮られているために、やや見当違いの方角を向いていた。クレシェイドは絨毯の上を進み、統一性を失った左右の長椅子へと目を走らせながら進んだ。そこで無念にも椅子の下敷きになった尼僧の姿を見つけた。彼女の死に顔からして、その原因は闇に関連するものではなさそうであった。首も調べたが、ヴァンパイアの噛み傷の痕も無かった。クレシェイドは祭壇へ進み、右の壁に入り口があるのを見つけた。扉は下に転がっていて、鉄製のノブも蝶番もボロボロに錆び果てていた。内部を覗くと、そこは倉庫であったが、書物や備品は散らばり、あるいは薙ぎ倒され、その上には闇の色に染まった数匹のスライム達が大きな紫色のナメクジのようにヌラヌラと筋をつけて蠢いていた。クレシェイドは斧を握り締めたが、迂闊に斬り殺すべきではないと考え直した。エルロイも村長も姿は無かった。グレン達の下へ戻ろうと振り返り、彼は足を止めた。背中を祭壇に預けて、ヴァンパイアの町長トラム・バーハングスが悠然とそこに待ち受けていた。血の気の失せた顔にある両眼を、真っ赤にギラギラと不敵に光らせていたが、その表情が急に憎悪に取り代わった。

「やはり私の眼光に囚われぬか。それにどうやら私の姿がはっきりと見えているようだ」

 トラム・バーハングスは左右の腕を一振りし、鋭利に伸びた爪を見せ付けた。クレシェイドは身構え、連中とのこのような対面を覚悟はしていたが内心では焦っていた。「岩崩し」で奴らを斬ろうとすれば、刃はその身体を擦り抜け、結果的にこちらが無防備な様を曝け出してしまう。そして相手もそれを知っているはずだ。どうにかして逃げねばなるまい。

 相手の肩越しに入り口を見た。魔術師の二人はこちらを覗いていたが、状況の変化には気付いていない様子であった。しかし、バーグソンの方が懐から聖水の小瓶を出し、その中身を振り巻いた。途端に彼の表情が驚愕に変わった。

「クレシェイド!」

 彼は教会の中に駆け込んできたが、椅子に躓き、そしてその場で舌打ちしながら首を右往左往させていた。

 グレンが後を追い、入り口に踏み入ろうとしたところで、その頭越しに悪意に満ちた二つの白い顔が突然ヌッと現れた。

「グレン、後ろだ!」

 クレシェイドが叫んだが、彼らを閉ざす闇の霧がこちらの声まで奪ってしまっていた。老魔術師は、バーグソンの名前を呼び、敵の脅威に気付いていなかった。クレシェイドは斧を薙ぎながら、ひたすら唯一の出口へと駆けた。刃がヴァンパイアの町長の胸を煙を上げながら、擦り抜けるのも見届けずに駆け出し、バーグソンに突進しながらその身体を片手で抱え、背後の危機に気付かず、入り口に佇む老魔術師に向かって体当たりをして、外へと弾き飛ばした。二人の魔術師は地面に投げ出されて、呻き声を上げていた。クレシェイドは必死の心境で、自分達の前に立ちはだかる六体のヴァンパイアへ睨みを向けた。教会の入り口からトラム・バーハングスが現れた。

「こいつは、不覚だったな」

 グレンが立ち上がり、左肩を押さえ苦悶の表情を浮かべた。おそらくは今の体当たりで、彼の肩が外れてしまったのだ。

「すまない、しかし……」

「いや、わかっている。私自身の失態だ」

「本当に嫌な世界だ。何もかもがもどかしいぞ」

 バーグソンも痛む顔を引っ込め、微笑みを浮かべながら合流した。二人の魔術師は闇の者達に杖を向けた。しかし、二本の杖先からは、か細い蒸気が浮かぶだけであった。町長だった男は高笑いした。

「無駄なことだ。サルバトール子爵閣下の闇が全てを制しているのだ。お前達ごときの魔術の力で凌駕できる訳が無い。そして、その戦士の斧も、我らの身体に通用せぬことを確信させてもらった。これで我らを恐れさせぬものは無くなった!」

 ヴァンパイア達が、爪を唸らせ一斉に踊りかかって来た。

 クレシェイドは前に飛び出すと両手を広げそれらを全身で受け止めた。重なり合う打撃が鎧を重く打ち鳴らした。その衝撃を感じながら彼は即座に決断を下していた。

 視界を閉ざす闇を前にし、二人の魔術師が闇の者達から生き延びられる可能性は極めて低い。しかし、自分なら別だ。目を遮られることが無い上に、堅固な鎧を身に纏っている。二人を逃がし、そのために時間を稼ぐのが先決だ。

「グレン、バーグソン、逃げ延びてくれ! 俺の鎧なら耐えられる!」

 クレシェイドは嵐のように繰り出される猛撃を受けながら、二人に向かって叫んだ。

「逃がしはしない!」

 トラム・バーハングスが滑るように駆け出したが、クレシェイドはその横面に素早く拳を繰り出した。相手は短く声を上げ、教会の壁に身体を打ち付けていた。ヴァンパイア達の手が緩み、そのうちの一人の爪をクレシェイドは掴む。蹴り上げた膝でそれを圧し折った。

「刃が見えなければどうしようもない。速やかに行動を改めるべきだ」

 今も踏み止まろうとする二人の魔術師を見て、クレシェイドは落ち着き払った声で諭した。グレンは厳しい顔を神妙なものに変えて頷いた。

「わかった、我らは行こう」

「いや、老師殿、こうも何も見えないのでは逃げようだって無い。ならば、背中を見せて奴らの手に掛かるよりは、俺は力及ばずとも正面から挑んで果てたい」

 バーグソンは悲壮な決意を固め、冷静な口調で述べた。その直向な勇敢さにクレシェイドは心を打たれつつ、困ったように視線を老魔術師に向け、彼の助けを求めた。グレンは苦笑いを浮かべていた。

「バーグソン、我らには役目がある。どうにか生き延びている者達を救うこと、そしてここから撤収し、ペトリア村に救援を求めに向かうことだ。中でも多くの神官達の助力が必要なことは、ここにいる我々にだけしか知りえないことだ。だから来い、案ずるな、私がお前を導いてみせよう」

 彼は引き摺るように後輩を促し、通りを戻るように駆け始めた。クレシェイドは敵と間合いを取りつつ、危い足取りで遠ざかって行く彼らの背中を見守った。

 その時、慌しい音が幾つも木霊し、通りを挟む民家の戸が次々と開け放たれた。中からは老若男女のヴァンパイア達が飛び出し、脇目も振らずに猛然と魔術師達の後を追った。

 絶望に囚われながら、殺到する幾つもの背を見ていると、町長のトラム・バーハングスが声を上げて笑い出した。

「愚かな、静か過ぎるとは思わなかったのか? もっとも、散らばった他のネズミ達を、お前達が呼び集めてからの手筈であったが、状況が変わってしまったのだ。お前達の多くの生き残り達は、生意気にも今も我らの同士達の手を煩わせている真っ最中なのだ。聖女エベレッタは知らんが、年老いた冒険者を筆頭に、死の闇を避けた者達は戦神の教会に立て籠もっている。そこの主エレギオン神父は、我らの策略と誘惑、恐喝とには乗らなかった。しかし、頭上を覆う闇の黒雲が晴れることは無い。つまりはお前達が当てにしている希望の朝は、ここには永遠に訪れないということだ」

 今の言葉に虚偽はないだろう。そして、少なくともハリソン・スタイナーと他にどれほどか無事な者達がいるのは確実だ。それだけでも十分過ぎる吉報に思えた。

「組み伏せろ!」

 町長の掛け声に、ヴァンパイア達は飛び掛り、あるいは足元に滑り込んできた。クレシェイドの四肢を敵は絡むように押さえつけてきた。クレシェイドは全力で抵抗し、両腕を取っている二人のヴァンパイアの顔を互いに激突させ振り払い、右足を力強く振り上げ、押さえつけているヴァンパイアを蹴り上げた。背中と左足を取る敵は、慌ててその力を強めた。

「町長、その者は形は違えど、闇の気配を帯びておるようだ」

 その声には闇の者達の裏を感じさせる声音とは違い、人間らしい落ち着きがあったが、あくまで冷ややかな響きであった。

 現れたのは神官の白い法衣を身に纏った背の高い老人であり、紛れも無い人間であった。しかし、こちらを見る冷え切った双眸は、相手の立場を手に取るように理解させたのであった。

「敵に降られたのか?」

 クレシェイドは尋ねた。愚問であったが、相手が闇と相反する聖なる役職に身を置く者ならば、その真意を問い質さずにはいられなかった。

 神官は軽く探るような目つきを向けるだけであった。細い顎の先に伸びる立派な白いヤギ髭を撫で付けている。その様子に躊躇や、それに類する心情を思わせる様子は一切なかった。神官はトラム・バーハングスに言った。

「町長、やはりこの者は闇の気配を帯びておる」

 しもべのヴァンパイア達が驚愕に目を見開いた。自分達は仲間を襲ってしまったのではないか。戸惑い気味に互いに、そのように口にし合っていた。

「しかしだ、当然、闇の者ではない。あくまで身を覆う鎧兜と、その大斧が闇の精霊の加護を受けし品であるというだけだ。つまるところ、中身は人間だ」

 抑揚の無い声で神官は述べた。クレシェイドはその答えに疑問を感じた。俺が亡者だということに気付けなかったのか、それともわざと言わなかったのか……。

「よし、ならばその鎧を引き剥がしてしまえ!」

 ヴァンパイア達は町長の命に従い、赤い目を狂気に揺らめかせて殺到してきた。彼らは鎧の継ぎ目という継ぎ目に、剣のように伸びた爪を差し込もうとしていたが、鎧はビクともせず、彼らの爪が虚しい音を立てて折れるだけであった。

「何処までも癪な人間だ」

 爪を失い当惑する、しもべ達に哀れみの一瞥を繰れながら、町長は今度は聖職者に向かって言った。

「では神父、あなたの手で、この鎧をどうにか剥がして頂きたい」

 神父は顔色を変えなかったが、答えるまでには間があった。しかし、口に出したのは答えではなく、神聖魔術の旋律であった。

 ヴァンパイア達は狼狽したが、クレシェイドの身体を押さえる力は弱まらなかった。その一方で、クレシェイドは落ち着いていた。彼の視線の先で、教会の建物が、淡く白い輝きに満ち始めたのだ。エベレッタの強大な聖なる魔術をも通用しなかったこの空間で、目の前の神父のゆったりとした袖口から伸びた掌には、浄化の光りが輝き始めていた。不思議な出来事ではあるが、建物と神父とを見ればその答えは自ずと明白であった。彼こそが慈愛の女神メイフィーナに仕える者であり、この教会の神父なのだ。教会の破れた窓という窓、裂けた隙間という隙間から、聖なる加護に打ち消された闇の煙が、沸騰した湯気のように姿を変えて白く立ち昇っている。この力を持ってすれば、現在直面している窮地を打破できるものとクレシェイドは思い、老いた神父に向かって訴えた。

「あなたの助けがいる! 敵の猛牙は全て俺が防いでみせる! だから、力を貸してくれ! 今のあなたなら勝てるぞ!」

 トラム・バーハングスは傍らの神父へ疑惑の眼差しを向けた。神父は真っ赤な眼光も、クレシェイドの言葉も意に返す様子も見せず、声を震わせ、聖なる調を詠み続けた。両腕に白い炎のように浄化の光りが盛る。クレシェイドは歯噛みする思いでそれを一瞥し、神父を強く睨み付け、訴えた。

「神父!」

 神父の顔は決然たる厳粛さのみを称えていた。

「彼の者を浄化せよ!」

 白い輝きだけが眼前を覆い尽くした。背後でヴァンパイア達の悲鳴が轟いた。その声が途絶える前にクレシェイドの身体からは闇の力が噴き出し、光りに煽られ、大きな影の竜巻となって暗黒の雲の中に吸い込まれていった。白い視界の中で、その渦の尾を見たところで彼の記憶は途絶えていた。



 二



 いつごろから見ていたのだろうかは定かではない。そこは涙の滲んだ目で見たような、ぼんやりした世界であった。全体が薄暗い中で、ただ一つだけ橙色が際立っている。それが離れた壁に掛けられた蝋燭の灯りだということに気付くまでには、随分と鈍い思慮を回らせる必要があった。

 目が半分潰れてしまったのかもしれない。一向に良くならない己の両眼に対してそう思った。無論、それを望んではいない。しかし、自分の目は死人のものであり、見える光景は闇の力によるものである事実を思い出し、その記憶を脳が流してしまう前に、苦労しながら手早く掴み取った。そして繁々と有益な情報に目を向ける最中に、彼は再び気を失ってしまった。

 すぐに目まぐるしい光景が走馬灯のような夢として頭の中に忙しげに咲き乱れ、触れる間もなく散って行く。しかし、彼は無意識の内にその中の一つだけを掻っ攫うように手に収めた。

 それは広大な平原を見下ろす馬上の男の背を映していた。男は小高い丘に居り、その眼下には雲霞の如く集結した兵団の黒々とした影が見える。男が何事か声を発すると、彼の後ろから騎兵隊が姿を見せた。男は腰の長剣を引き抜くや、大音声で従う者達に檄を飛ばした。彼が何を言っているのか、その声こそ届いては来なかったが、それは二の次、三の次である。最初から興味を引き付けていたのは、腰に佩かれ、今はその手に振るわれている長剣であった。両手持ちの屈強な断ち切りの剣クレシェイドである。彼はようやく渇望が満たされたような気分になっていた。現れ消え行く他の記憶の花々を流れるままにし、彼は大いに安堵していた。今の俺の名はクレシェイドだ。

 彼は目を覚ました。そこは再び薄暗い場所であり、やはり蝋燭の灯りも見えた。しかし視界はまだ著しい歪みに苛まれていた。

 夢を見たのだ。彼は自身にそう諭した。その間に脳裡を何かが駆けて行ったようにも思った。その帯を手繰り寄せようとしたが、それは軌跡だけを残して過ぎ去ってしまった。それらをクレシェイドは悠然と見送るままにしておいた。そして彼は、己の冷たい身体と鎧との間に、たった一粒の生命の羽ばたきを見取ったのであった。

 彼は気付いた。小さな羽が弱々しく風を起こす度に、記憶の断片が現れて再び糧となってゆくのだ。視界は戻らず、四肢もあらゆる関節も動かすことができなかったが、これ以上を望むのは強欲にも思えた。

 背中の感触から、石の床に仰向けになっているらしい。天井は暗く先が見えない。そして壁に掛かった蝋燭との間は、どうやら鉄格子で仕切られているようでその棒のような影の並びが見える。混濁しそうな意識を締め上げ思慮を深めた。つまりは、状況は最悪の類と言える。敵の手中に落ち、再び殺されるのを待つのみである。

 少しだけ苦労したが、ヴァンパイアの町長とそのしもべ達のことを思い出した。奴らは未だにこの鎧を剥がすことに執着しているのだろうか。それとも俺を瀕死の底に追い遣った神聖魔術で、確実に消しに来るつもりか。ここから助かるためにはどうするべきだろうか。動けぬのなら、誰かを頼るほか無い。グレンか、アディオスか、エベレッタか……。いや、生きているならば彼らも己のことで手一杯のはずだ。そして脳裡に浮かんだのは、敵に寝返った老神官の姿であった。唯一の人間かもしれない。彼を説得する他は無い。

「おお、クレシェイド殿、気付かれたか?」

 しわがれ声の囁きが隣から聞こえた。クレシェイドがその主の姿を思い出す前に向こう側が名乗ってくれた。

「ワシじゃ。ペトリア村のブランド・ノルケンじゃよ」

「御無事でしたか」

 クレシェイドは天井を見上げながら応えたが、その声はただの消え入るような音にしかならなかった。しかし、クレシェイドの落胆は軽いものであった。鎧の内側に残されたたった一匹の闇の精霊は、彼の記憶の戻すために、今も羽を動かしていたのだ。声などはまだまだ望むべき時ではない。

「これは、手酷く痛め付けられたようじゃな……。ならば、ワシは、奴らが戻ってくる前に、自分に起きた顛末を話すとしよう」

 そして村長は語り始めた。エベレッタの神聖魔術が、己の剣をも祝福したこと。その感激と血の騒ぎとに任せ、冒険者達と共にヴァンパイアの退治に駆け、その最中に路地で迷い、強烈な不安に駆られて薬師の家と思われる建物の中に身を潜めたこと。それからすぐに外の清らかな白い世界が闇に呑まれ、冒険者の魔術師が辛うじて自分のことを見つけ出し、闇の圧迫に対抗する魔術をこの身に施してくれたこと。二人で文字通り手探りで慈愛の神の教会へ向かう最中に、バーグソンの声を聞いたが、合流する前に、敵に包囲されたこと。

「ワシは仮にも村長だからじゃろう。奴らはひとまず人質にでも使うつもりかもしれぬ」

 そして悔やむように溜息を吐いた。

「ワシといた魔術師はワシを守るために犠牲になった。真に惨いことじゃった……」

 クレシェイドは慰めの言葉を口にしたが、声はまだ戻っていなかった。村長は再び語り始めた。

「他に、あんたの気になりそうなことと言えばなんじゃろうか。スタイナー卿らの行方も知れず、エベレッタ殿や他の者達の姿も見てはおらぬ故な……。そうじゃな、クラメント神父のことで伝えるべきことがあった」

 おそらくは敵側に着いたあの神父のことだろう。

「あんたが気を失っているときに、ここを訪れたのじゃが、どうやら既に顔を合わせてはいるようじゃな。クラメント神父は慈愛の神メイフィーナに仕える方で、この町の教会の神父様じゃ。それが闇の者に手を貸さねばならぬには当然訳がある。神父殿の孫が人質に取られておるのじゃ。居場所は何処かの地下らしい。哀れなしもべどもがそう言っていた」

 村長はやや口調を早めて言った。

「口惜しいことに、あんたの持っておった斧は、ワシの目の前で町長のトラムの奴に取り上げられた。まぁ、例え斧があったとしても、自力での脱出は不可能じゃろうとは思うが……。つまりは後にも先にも、助かる道は、もはやクラメント神父を説く以外あるまい。そうするためには、神父の孫の身の安全をどうやってか保証するしかないが……。もっとも、あんたが両脚で立てて、言葉を話せるぐらいに回復できなければどうにもなるまいが……」

 村長は苦悩に苛まれているかのように、歯切れ悪く言い終えた。

「それと、ヴァンパイアには銀じゃ。純銀であればあるほど、それは単なる魔除けでは収まらなくなるじゃろう」

 老人の言葉を聞きながら、クレシェイドは妙な胸騒ぎを感じていた。この窮地にあって、出会った頃の村長の臆病な様子が、微塵も見受けられないからだ。村長は覚悟を決めている。そして周囲の壁に高らかに足音を反響させ、その使者が訪れた。鉄格子の前にぼやけた黒い影が現れ、蝋燭の灯りが遮られた。

「村長殿、彼は既にお目覚めなのかな?」

 忘れもしない、このムジンリの町長であった者の声であった。言葉には嘲りが現れていた。

「またこの御仁の鎧を剥がそうとするつもりかね? 無駄じゃ無駄、またまた無駄のそのまた無駄じゃ」

 村長は公然と嫌みを籠めて応じた。

「サルバトール子爵閣下の御命令ならば今一度そうしよう」

「ほう、つまりは、此度の御命令は、ようやくワシを殺せと、そういうわけか」

「御明察」

 町長は愉快下に言い、こちらの視界から消え、村長の方へと歩んで行った。

「その通り。サルバトール子爵様は、人質を取る必要は無いというお考えになられた」

 クレシェイドは焦っていた。村長の命を救わなければならない。しかし、四肢は動かず、咽からは音すら出せなかった。彼はもどかしいままに己に対して怒り猛った罵りを叫んでいた。

「ワシのような年寄りの血を飲む羽目になろうとは、お主も少しばかり不運じゃったな。真に御同情するわい」

「いやいや村長、あなたは良く分かっておられるが、同時に勘違いもなさっていらっしゃる」

 ヴァンパイアの不気味な声色を聞き、クレシェイドは更に躍起になり、手足を動かし、声を上げようとしていた。村長の命数が刻一刻と尽きようとしている。このすぐ傍でだ。

「人質に興味は失せたが、見せしめは必要だと……サルバトール子爵様はそうおっしゃられた。故に、その首が我々にはどうしても必要と言うわけなのです」

 隣で鉄の扉の開く音がし、甲高い足音が続いた。そして恐らくは拘束具と思われるものが開錠される音と、鎖と鉄が石の床に落ちる音がした。

「ワシの首はそう簡単にはやらんぞ。お前達は盗賊どもをけしかけ、ワシの村を破壊しおった! ワシがここに来たのは、その憎むべくお前達が討伐されるところを、村の者達に変わって見届けるためじゃった! 見たか、ここに銀のナイフがある! 銀のナイフじゃ! まんまと隠し持っておったのじゃよ。こいつで、貴様だけでも灰に変えてみせるわ!」

 クレシェイドが声にならぬ声を上げた時、分厚い風の唸りが通り過ぎ、そして確かに銀のナイフが床に落ちる高らかな音が虚しく響いた。

 決してしまったのだ。愕然とし、クレシェイドは、心中で悔しさと不甲斐無さに呻いた。彼の隣で村長は処断されたのだ。

「微かに動いた気がした。しかし、見間違いか」

 ヴァンパイアの町長の訝る声が聞こえた。

「それで、どのような御用件を携えてお越しになられたのでしょうか?」

 ヴァンパイアの町長が誰かに尋ねた。

「子爵閣下の考えが変わったということだ。村長の身柄は、戦神の教会に篭もる者達に対して使う。奴らを誘き出すためには、よく鳴かせる必要がある。つまりは未だに生かして置く必要があることを告げに来た」

 慈愛の神に仕える神父は冷然とした態度を思わせるような口調で言った。

「クラメント神父、どうかアンタの力で……」

 村長が声を上げて訴えたが、彼はその口を噤まされてしまったようだ。

「どうしたのだバーハングス町長、ペトリアの村長を連れて教会へ向かえ。ワシは閣下の命により、この戦士の鎧を剥がねばならん。白き光りの巻き添えになりたくなければ、とっとと行くのだな」

 神父の影がこちらの真正面に移動した。

「ええ、そうしましょう」

 憎憎しげなヴァンパイアの町長の声が応じると、足音が遠ざかって行った。

 神父はこちら側へ戻る決意をしたのかと考えたが、その期待は、神聖魔術の旋律を口にする声で無常にも裏切られた。神父のぼやけた影は鉄格子の鍵を開け、扉をゆっくりと押し開いた。その右手に浄化の光りが見え始めている。今、その手で触れられれば、運良く残った最後の闇の精霊までもが消え、己を形成してきたそれらの力が全て吸い出され、打ち消され、この偽りの魂は消滅してしまう。クレシェイドはどうにか訴えようと、懸命に心の中でもがいていた。

 神父の足が止まった。

「銀のナイフか……」

 神父は感慨深気に言った。

「あの村長は肝心なところを知らぬらしい。銀をささやかな神器とするには、相応の信仰の心が必要なのだ。そうで無い者がこれを握ったところで、いかに優れた品質と誇れど、ただの銀に過ぎぬ」

 神父は屈み込み、手を伸ばした。そして手中に収まった銀のナイフは、浄化の光りを受けて煌々と輝きながら大きくなり、それは光りの長剣へと姿を変えた。

「これで初めてサルバトールを殺すことが出来るようになった」

 浄化の光りは消え失せ、神父はクレシェイドの顔を見下ろした。

「お前は純粋な闇の者ではないな。しかし、生きて行くには闇が必要か。私には鎧の内側で一粒の闇の欠片が、今も力を満たそうともがいている事がわかる。手を貸そう。地下の暗闇は偽りのものだ。精霊の糧にはならぬ」

 


 三



 クレシェイドは石段の上に座り込んでいた。

 神父はクレシェイドの両腕を持ち、苦労しながら一階へ繋がる階段の中腹まで引き摺り上げたのだ。鎧が床や石段の上をゆっくり滑る度に、擦れる音が響いた。敵が察知するものか、クレシェイドにとっては緊迫の一時であったが、ヴァンパイア達が降りてくる気配は無かった。

「ここは町で唯一独房のある場所だ。警備兵の詰所ということだ」

 クラメント神父は淡々とした口調で言った。

「しかし、上には見張りがいる。町長をまんまと外に出せたが、呪われた闇の下にいるヴァンパイア達は実に破壊的な力を得ている。しかし、ここならば、お前も、多少はその闇の帯の恩恵に授かれるだろう。お前が力を取り戻し、私の孫達を助ける手伝いをしてくれることを私は望む」

 神父の目算どおり、闇の精霊に変化がみられた。羽ばたきが起こす風が大きくなり、闇の旋風が鎧に沿いながら手足の隅々にまで届くようになっていた。クレシェイドは手の指が微かに動くのを見た。間もなく、視界がゆっくりと広がり、迷路のような石壁の溝が鮮明に見えるまで回復した。

「御孫さんは、この地下にいるのですか?」

 クレシェイドが囁き声で尋ねると、神父は厳粛そうな細い顔を少しだけ驚愕に変えた。

「いや、庁舎の地下だ。ここは町の東側、庁舎は北門への途中にある。しかし、そこにはサルバトールがいる」

 クレシェイドは頷いた。

「行こう」

「その前に、上の連中を始末せねばならん」

 クラメント神父は、銀のナイフを取り出すや、背中に隠しながら階段を上がり始めた。聖なる魔術を詠む小さな声が聞こえ、ナイフの刃が少しだけ煌いた。

 物音が聞こえぬまま、神父はすぐに姿をみせた。彼は背筋を伸ばし、悠然とこちらを見下ろしながら来るように言った。

 上に行くと、まずは窓越しに薄暗い外の通りの様子が飛び込んできた。そして降り積もった灰の塊は、椅子の上と、外へ続く扉の前に1つずつあった。狭い詰所に部屋はこれだけであった。

「闇の霧の中を歩けますか?」

 外へ出る前にクレシェイドは神父を呼び止めた。

「聖職者の衣はただの衣ではない。それを今日思い知った」

 神父は短く自嘲気味に頷くと、扉を開けた。彼は周囲の様子を覗き見、クレシェイドを促した。

「この辺りのヴァンパイア達は町長が率いて行ったはずだ。人間の時の記憶があるならば、戦神の神父エレギオンを侮れぬことがわかっているはずだからだ。それにお前の仲間の冒険者も大勢傍にいるのだからな」

 老冒険者にして指揮官のハリソン・スタイナーがその中にいる。クレシェイドはそのことを思い出した。

「その中に聖女エベレッタ殿は?」

 クラメントは頭を振った。

「彼女の聖なる術には、私も勝利を確信したがな」

 神父はそう言いつつ、足元に並んでいた植木鉢の一つを持ち上げた。花はどれもすっかり枯れ果てていたが、それが急激に訪れたことを知ったのは、茶色く萎びた花びらの一部に、かつての黄色が濃く残っていたためであった。

 クラメント神父は更に植木鉢の下にある石板を外した。そこに開いた穴からは革帯と金具の先端が飛び出していた。それを神父は手繰り寄せ始めた。程なくして姿を見せた帯には、短く尖らせた木の棒が幾つも括られていたのであった。

 全部で三十本もの木の杭を、神父は革帯ごとクレシェイドに手渡した。

「これは一体何に使うのです?」

 岩崩しの斧は取り上げられ丸腰であったが、この尖った棒切れで奴らに対抗するぐらいならば、己の拳を振るった方がまだマシだと思った。しかし、そう答えながらも、神父の威厳に満ちた顔を見れば、間違いなく役立つ代物なのだろうと考える他なかった。

「見ての通りの杭だ。きちんと、トネリコの枝で拵えてある。お前の持っていた闇の斧や、ただの鋼鉄の剣等では、奴らに傷一つつけられないであろうが、これならばあの者どもの動きを封じ、灰にこそできぬが、それと同等に悪しき魂にトドメを刺すことができる」

「そんなことが本当に?」

「大昔、まだまだ神官が乏しかった時代に、地方で編み出されたヴァンパイア退治の手段だ。吊るされたニンニクの束で奴らを遠巻きに包囲し、感覚を酔わせ、勇気ある者がその隙に突く」

 クレシェイドは老神官の横顔と言葉に魅入られながら耳を傾けていた。

「ヴァンパイアの身体は鎧のように強固故、打ち込むには力が必要だ。本来我ら非力な人々は鎚を使うものだが、お前には必要ないだろう。杭で突くのは我らと同じ心臓のある場所に限る。そうでなければトドメにはならん」

「わかった」

 二人は外壁沿いに迂回していた。大通りから庁舎を目指せば、町長達と鉢合う可能性があったからだ。そして初めて、この神官が己の存念のために村長を犠牲にしたことに気付いた。しかし、孫を助けたいという思いを聞けば、憤怒の波も弱々しく沈んでいってしまった。町長のトラム・バーハングスが虚報に掛かったことを知り、その恥辱のままに村長へ危害を加えないことを願うしかない。いや、それより早くサルバトールをこちらで倒せれば、頭上の闇も晴れよう。外には朝日が昇っているだろうか。

 不意にくぐもった物悲しい呻き声が聞こえた。聞き耳を立てる前に、前方の左手に並ぶ家屋との間から、両腕を鞭のように振り乱しながら飛び出す影が現れた。

「哀れなる徘徊者か」

 クラメント神父が颯爽と飛び出して行き、白き光りの宿る銀のナイフで影を切り裂いた。たちまちそれは灰となったのだが、クレシェイドは影が丈のある魔術師の胴衣を身に纏っているのを見たような気がした。

「ヴァンパイア達の尖兵にして、お前達の良く知る歩く死者だ。ヴァンパイアに選ばれなかった哀れな者達は、血と共に知性を吸い尽くされてしまうのだ。ヴァンパイアの数が間に合っているという証とも取れる」

 クラメント神父が言った。

「町中の人々がヴァンパイアになったということですか?」

「そうだな。しかし、実際のところ、大半の人間が最初の襲撃で殺された。盗賊どもと、悪に染まった魔術師ども、そして連中が生み出したと思われる、翼のある亜竜どもだ。生き残った者達は、町の北側へ合流し、アルマンへ使者を派遣した上で、援軍が来るまで賊どもと対峙することにした」

 神父は一度区切り、こちらが聞き入っているのを見ると、再び口を開いた。

「町は北と南とに完全に寸断され、それでも地の利を活かし町の人々は、三日、持ち応えることに成功した。そしてアルマンからの援軍が急行して着たのじゃが、彼らを迎え入れようとしたとき、突然門扉が閉ざされた。サルバトールが現れたのだ。そして門の外からも援軍の兵隊達の驚愕と悲鳴の声が聞こえた。サルバトールは恐慌する人だかりの中で、誰にも知れず、一人ずつ襲ってしもべを増やしていった。そして無事な人々がヴァンパイアに気付いた時には、既に手の付けられない状態であった。人々は闇の者の手に掛かるよりも、盗賊の軍勢の中を突き進み、南門から逃れる道を選んだ。多くの者がまた命を落とした。そして更に残った者達は家屋へ、教会へ、散り散りになり、あらゆる建物の奥へ奥へと逃げ回った。無論、彼らもまた、見つけられ追いつかれ、闇の歯牙に掛かってしまった」

 クラメント神父は終止淡々とした口調で語った。しかし、彼がまだ話していないことがあることをクレシェイドはわかっていた。彼の教会が何故、陥落したのか。彼と最初に対面したとき、その聖なる魔術の輝きに教会の加護は呼応したのだ。それなのに、冒険者達の報告によれば既に毒牙によって呪われた人々はそこに監禁されていたのだ。だが、結局のところは愚問である。この老神父は、人質に取られた孫のために、教会の護りを解いたのだろう。そして頼ってきた人々を差し出したのだ。クレシェイドは、これ以上、無益なことを考えるのを止めた。

 前方で待ち構える人影は、まさしく煙のように唐突に現れたに違いなかった。

 神父もまた弾かれたように銀のナイフを身構えた。クレシェイドはずっと先で、教会の建物が神聖なる光りに包まれ輝いているのを見た。

 スラリと背の高い人影は、瞬く間に、飛ぶ様に距離を縮めてきた。茶色の魔術師の胴衣で身を包んでいる。潜入前に鉄鎖のキライと並んで、冒険者達を煽った魔術師であった。その目は真っ赤に輝き、重々しく、身体を締め付けようとするような圧倒する力を感じさせた。

「闇の首魁よ、そちらから単身で出向いてくるとは、好都合だ」

 神父は白く輝く銀のナイフを薙いだ。まるで植物の太い蔓が千切れるような音が聞こえ、途端に身体に感じていた重圧から解放された。

「そのような手段が、今のワシに通用すると思うてか!」

 神父が怒鳴り、クレシェイドは肩に提げた帯から杭を一本取り出した。

「トネリコの杭か。懐かしくも、小賢しい手段を思いついたものだ。クラメント神父、そして異形の戦士よ」

 低く冴え渡る声が言った。それは実に魅力的な声音であった。頭の中を甘美な液体の如くトロリと駆け巡り、たちまちの内に思考を蕩かすようであった。クレシェイドにとって、相手が何を言っているのかはさして重要ではなかった。相手の声は言わば、最大に欲する命の水のようであった。ただただ声を聞き、飢えを満たしたい。そうして魅了されていたことに気付いたのは、神父がクレシェイドの前で銀のナイフを翳した時であった。

「俺としたことが……」

 聖なる輝きを受けて、彼は言わば気付けを施された。闇の精霊の力が顔の辺りから僅かに引いたが、呪われた黒雲の下では、すぐに元通りになった。

「これ以上、貴様に余計なことは喋らせん」

 神父は駆けた。聖なる白い残像が一抹の煌きと共に、流れ星のように尾を引いて消えてゆく。

 サルバトールは悠然と身構えていたが、神父が、いざ、ナイフを翳そうとしたときに、魔術師の胴衣をかなぐり捨てた。神父の一太刀は、衣を真っ二つに切り裂いた。しかし、サルバトールの姿がどこにも見えなかった。

 神父も、クレシェイドも静まり返った周囲を見回した。未だに空を漂う二つの布切れが、敵がそこに立っていたことを証明している。

「神父、注意しろ!」

 クレシェイドはそう呼び掛けた。彼が首を廻らせようとした時に、目の端に、何の前触れも無く現れた敵の姿を捉えた。ヴァンパイアは闇を身に纏い、神父の背後から頭上目掛けて大斧を振り下ろしていた。

「神父!」

 こちらの声が届く前に、クラメント神父は一声、咆哮を上げ、頭上に光り輝く両手を突き出して「岩崩し」の一撃を受け止めた。サルバトールは闇の噴煙に包まれながら、大きく後退した。

 クレシェイドが合流すると、神父は真っ黒に染まった自身の左手にナイフを近付けた。彼の手は呪いに侵されていたが、みるみるうちに肌は本来の色を取り戻し、聖なる光りが再び燃え上がったのであった。

「あの斧はお前の物だったな?」

 神父は敵を見据えながら尋ねた。

「ああ、俺のだ」

「事情は分からぬが、その特別な身体と併せれば、あれがどれほど大事なものかは理解できる。しかし、奴を討つ為には壊さねばならん」

 神父は返事を促すように横目で睨んだ。

「奴はここで仕留めるべき存在だ。わかっている」

「よし」

 サルバトールの纏っていた闇は既に失せ、相手は黒を基調とした葬儀の正装に身を包んでいた。クレシェイドは相手の顔も変貌していることに気付いた。東国風の堀の深い浅黒い顔立ちから一変し、血色の失せた青白い肌が現れた。額は広く出張り、頬コツの張り出した四角い顔立ちに変わっていた。その茶色の髪は優雅に少し気取ったように整えられる一方、眉は刺々しく逆立ち、濃い顎鬚もまた針のように迫り出して整えられていた。

「それが正体というわけか」

 神父が問うと、ヴァンパイアの身体が一回り大きくなった。

「いかにも、その通り。私が不滅の闇の神に認められし、ヴァンパイアロードが一人、サルバトール子爵だ」

 真っ赤な両眼が燃えるように明滅し、クレシェイドと神父は突風を受けたかのようによろめかされた。

「どうした、異形の戦士よ。向かっては来ないのか? この斧は我が手の内にあるが、お前もそれで良いというのか?」

 ヴァンパイアロードは、片手で斧を振り回して見せた。途端にクレシェイドの身体には激しい渇望が宿り、それは潮が満ち溢れるように、全身の隅々まで広がっていった。

 あれは俺の斧だ。彼は苛立ちながら、胸の内で呟いた。何故奴が持っている。決まっている盗んだのだ。小賢しい。盗んだに決まっている。奴はこの俺が、隙を見せるのを狙っていた。以前から虎視眈々と。奴が俺の斧を盗んだ。俺の不意を衝いた! 小癪な吸血鬼めが!

「知っての通り、これは素晴らしい斧だ。我らが世界に伝わる闇の神器に引けを取らぬほどの逸品だ。そう、正に最初から巡るべくして我が手に収まるものであったのだろう。そうは思わないかね?」

 大きく歪んだ嘲笑を受け、渇望は激しい憎悪へと変貌した。

「違う! それは俺のものだ。俺の斧だ!」

 彼は燃え滾る憎しみを吐き出すように声を荒げた。身体は怒りで震えていたが、それにすら気付けなかった。

「君の斧? ほう、しかし、見るが良い。こうして斧は私の手の中で落ち着いている。それは、どういうことかわかるかな?」

 相手の言葉は、ザラザラとクレシェイドの神経を、乱暴に、そして極めて故意に掠めているように思えた。

「単純な話が、この斧が選んだのだよ。どちらの方が実力があるのかとね」

「何っ!? 何という斧だ!」

 クレシェイドは相手の隣で佇立しているような斧を睨みつけ怒鳴った。まるで斧は新たな主に媚びている猫のように彼には見えていた。彼と過ごしてきた一時の親密な間柄など無かったかのようにである。

「尻軽の白状な斧め!」

 我を忘れ、クレシェイドが飛び出そうとしたとき、銀のナイフが目の前を横切った。その白い軌跡がクレシェイドの意識を押さえ込み、染み渡るように張り詰めたものを緩和させ、呑み込んでいった。

 夢見心地だった心の名残を感じ、意識を失っていたのではと、思いそうになった。しかし、口汚い罵りの感覚も全身に流れる意識の中に残っていたので、相手に乗せられてしまったことを悟り恥じた。クラメント神父は何も言わずに敵を見据えたままであった。

「神父め、小賢しい奴だ」

 ヴァンパイアの足元で濃い闇の影が蠢き、沈むように消えて行った。どうやら敵は罠を張っていたようだ。

「小細工はこれまでだ」

 神父は短い祈りを捧げ、銀のナイフを振るった。驚くべきことに、ナイフに宿った浄化の光りが伸び、光りの巨剣の刃となってヴァンパイアを横合いから斬り付けた。

 しかし敵もまた悠然と待ち構え、片手で光りを受け止めた。相反する二つの力が交わる中心からは、太い筋を上げて湯気が沸き立っていた。

 神父は力強い口調で祈りを続け、ヴァンパイアもそうするかの様に両眼を赤く光らせた。湯気はけたたましい音を上げて、周囲を淡く覆い始めている。その向こうでヴァンパイアの姿は徐々に薄れていったが、不気味に輝く赤い双眸だけは、はっきりと見ることができた。その目がクレシェイドに向けられた時、彼の頭の中には、深く甘美な敵の声が溶け出るように流れていた。

 我らが同胞にして、闇に生きる異形の戦士よ。闇の貴族が命ずる。汝が前に佇む、白き人間の胸を、その杭で背中から貫くのだ。

 抗い難い、魅力的な声であった。しかし、クレシェイドは全てを聞く前に己自身に激しく言い聞かせていた。

 対峙すべく敵はヴァンパイアだ。彼は呪いに満ちた見えない糸を両手で振り払うように動かし、ヴァンパイアを頑と睨み付けた。

「そう何度も掛かるものか!」

 白い霧の先で赤い双眸が、忌々しげに歪み、引っ込んだ。神父は光りの巨剣を短くした。それは、敵がその場から離れたことを意味していた。そして霧が薄れたときに、そこに敵の姿は無かった。

 クレシェイドは周囲に目を走らせた。外壁にはスライムが蠢いている。そして家々の屋根にも、後ろにも敵の姿は見えなかった。音も無く消え去ったということだ。

「庁舎へ戻ったのでしょう」

 スライム達を警戒しながら、クレシェイドは神父に言った。そしてすぐに絶好の機会を逃したことを思い出した。神父の孫達は庁舎に捕らえられているのだ。敵が戻ったとすれば、十中八九人質として利用するはずだ。

「そうだろうな」

 素っ気無い口調だったが、神父の声には落胆の色が浮き出ていた。俺は操られた以外に、突っ立っていただけだ。クレシェイドは自分を不甲斐無く思った。

「庁舎を目指すぞ」

 クラメント神父はそう言い、自らナイフの輝きを薄くした。

 途端にクレシェイドは、目の前の石畳の上を水溜りのような濃い影が、こちらへ一直線に滑るように迫って来ているのを見た。

 彼は反射的に神父の前に躍り出た。影から水底に潜む強大な怪異の如く、ヴァンパイアロードが現れ飛翔した。勝ちに歪んだ笑みを浮かべ、敵は大斧、岩崩しを振り下ろした。

 大音響が呪われた世界を震撼させた。分厚い刃は鎧を軋ませ、クレシェイドを壁に弾き飛ばした。彼は強かに背中を打ち付けた。スライムが潰れたが、そんなことには目も繰れず、素早く身を立て直した。

 神父の目の前には、ヴァンパイアの巨躯が覆い被さる様に見下ろしている。蝋のような横顔に牙が見えた。不敵な笑みが揺らぎ、敵は神父の身体を両断すべく、斧を横薙ぎに払った。

 老神父のナイフが眩い輝きを放ちながら、その刃を受け止めた。

 相手は呻くような驚きの声を上げたが、素早く斧を投げ捨てた。今や「岩崩し」の斧は浄化の光りに包まれ、そして地面に着く寸前に灰塵となって散らばった。クレシェイドは大切な得物の無残な姿に一瞥だけを向け、油断している敵の背後へ駆け、全力で杭を突き出した。

 ヴァンパイアは身体を捩じらせたが、杭はまともに敵の左腕を打った。ヴァンパイアは悲鳴を上げた。肘から先が捥ぎ取られ、傷口からは緑色の血が噴き出した。クレシェイドは用心し、奪った腕に杭を振り下ろし、石の床に突き立てた。血溜りの中で腕は苦しんでいるのか、それとも逃れようとしているのか、激しくもがき続けていた。

「小癪な裏切り者が!」

 サルバトールは激昂し、腕を振り下ろしながら鋭利な爪を伸ばして斬りつけてきた。クレシェイドは鎧の篭手で受け止め、相手の圧倒的な怒りの程を思い知った。

 サルバトールの鞭を振るうような猛撃を両手で庇いつつ、彼の目は敵の後方で祈りを捧げる神父の姿を捉えていた。

 一緒に浄化されるのは御免だ。こいつを突き飛ばし、どうにか離れなくてはならない。神父の囁くような調を詠む声が止み、冷厳な瞳はこちらを凝視した。後は自分次第なのだ。その機会は、敵が異変を察したことで訪れた。

 サルバトールは我に返り、後ろを振り返った。その身体は一瞬の迷いの後、外壁へと跳躍していた。クレシェイドは全力で民家の窓へ飛び込み、すぐさまガラスの割れた窓から外を窺った。

 サルバトールは壁に貼り付き、死に物狂いで片腕の爪を振るって、幾つものスライム達を潰していた。合成生物の死体からは、次々と濃い闇が溢れ出て、その身を覆い尽くそうとしている。クレシェイドは敵の見せた行動に唖然としたが、次の瞬間には、聖なる白い光りが地面と壁を絨毯のように走り、周囲を眩く染め尽くしていた。

 不意に背後でおぞましい声が聞こえた。

「ここは私の家よ」

 振り返ると、中年の女が立っていた。血の気の失せた青白い顔に、敵意に満ちた真っ赤な目がこちらを見据えている。口から一対の細い牙が突き出ていた。女は包丁を振り上げた。

「出てけえ!」

 女は大口を開け、憤怒の叫びを上げた。クレシェイドは革の帯から杭を取り出し、すぐさま相手との距離を詰めると、その服の上から胸に向かって杭を突き刺した。

 けたたましい悲鳴と騒音が家中に木霊する。薙ぎ倒された家具と食器の先で、ヴァンパイアの女は左胸をトネリコの杭に打ち抜かれ、背後の壁に串刺しになっていた。敵はもがき苦しんでいたが、やがて声も収まり動かなくなった。クレシェイドは再び窓を振り返った。

 浄化の光りは消えていたが、その影響の凄まじさを目の当たりにすることとなった。石畳や壁が、まるで厚く積もった埃を削ぎ落とされたかのように、そこだけくっきりと本来の姿を覗かせていたのだ。サルバトールはそんな地面の上に、崩れ落ち、壁に身体を預けながら、神父を睨みつけていた。敵の身体からは幾つかの黒い煙が細々と吹き上がり、服はボロボロで、露出している血の気の失せた肌には大量の火脹れができていた。

 ヴァンパイアは苦労するように身を立て直しながら言った。

「クラメント神父、貴様は想像を遥かに超えた力の持ち主だ。私をここまで打ちのめしたこともそうだが、何よりもこの究極の世界に印を刻むほどの歪を与えたことには驚かされた。相反する者としては敬意を表さねばなるまいな」

「見苦しい命乞いだ」

 神父は冷然と言い放った。

「勝ったつもりか、神父?」

 サルバトールは呻きながらも高笑いをしてみせた。

「しかしながら、これほどの損害を受けるならば、最初の内に破壊しておくのだった」

 ヴァンパイアは背後を仰ぎ見た。その視線のずっと先には、慈愛の神を祭る教会があり、建物は煌々とした強く白い輝きに包まれていた。ヴァンパイアはクレシェイドに一瞥をくれると、頭上の厚い黒雲に対して声を張り上げた。

「トラム! バーハングス町長よ!」

 呼び声は幾重にも木霊し、呪われた雲を伝わって町中に拡散していった。

「貴様らは今すぐに、町中の教会と、祭殿の類を取り壊せ! 人間どもから一片の慈悲をも取り上げてしまえ!」

 声が遠くに去り消えようとした時に、聞き覚えのある町長の声が木霊となって返って来た。

「閣下! しかし、我々の身体では教会に近付く事はできません! エレギオン達の始末は当初の計画通り、飢え果てるのを待つことが賢明かと思われます!」

「いいや! かつて、お前は聖なる結界を前にし、しもべ達に弓矢を射掛けさせたではなかったか!?」

「おお、確かにおっしゃられるとおり! 盾の魔術に阻まれはしましたが、聖なる魔術を貫くには至りました!」

 町長の感嘆する声が応じた。

「この世界で奴らの魔術師の力は封じられているも同然だ! 貴様の智謀を奮い立たせ、戦神の教会と共に慈愛の神の教会も破壊するのだ!」

「仰せの通りに!」

 町長の畏まった声には陰険な響きが籠められていた。

 ヴァンパイアは神父を見て、口元を不敵に歪ませた。

「クラメント神父よ、私にこうまで手傷を負わせたことを、今一度、褒め置こうではないか」

「逃がすものか、ヴァンパイア」

 神父は厳しい口調で言うと、銀のナイフを再び輝かせ、巨大な刃へと変えた。

「逃げるわけではない。しかし、神父よ、忘れたわけではあるまいな。貴様は罪深い男なのだ。さぁ、思い出せ、我々が教会を包囲したのにも関わらず、どうして貴様だけがオメオメと生きながらえているのかを。今こそ神の慈悲が求められるという時に、聖なる光りを自ら閉ざし、貴様は敬虔なる信者達を無慈悲に闇に売り渡したのだったな」

 ヴァンパイアは陰険に笑うと、片腕を掲げて指を鳴らした。厚い霧を物ともせずに、乾いた小気味良い音が高らかに響いた。

 サルバトールの背後に幾つもの影が現れた。それは、地面から浮き上がったかのようにも見えた。やがて影は、血の気の失せた闇の者達の姿を露にさせた。老若男女のかつての町の人々は、俯かせていた顔を次々と上げる。真っ赤な両眼は神父を見据え、牙の覗く口を端まで不気味に微笑ませた。

「神父様、あなたは私達を見捨てた」

 中年の女が身の毛もよだつような冷たい声で言った。

「我々は最後まで、あなたに期待し、その言葉を受け、屈せずに信徒であり続けようとした」

 老人が言い、隣に並んでいる若い女が続けた。

「しかし、私達は感謝しているのですよ。温もりを失いましたが、偉大なる闇の主が与えてくれた祝福は、遥かにそれに優るものなのです。私達は不滅の力と、絶対的な絆を手に入れました」

 彼女は表情を物悲しげに変えた。

「ですが、我らが主の更なる寵愛を望むには、あなたを殺さねばなりません」

 するとサルバトールは背を向け、靴音を響かせて彼女の傍へ来ると、愛しげに肩に手を置いた。若い女は顔をうっとりとさせた。

「ああ、サルバトール子爵閣下、あなた様にお触れ頂けるなんて、何たる光栄の極み」

「フリッカよ、そなたの身と気高き心は、夜空を統べる月も恥じるほど美しい。さぁ、綺麗な娘よ。私のためにもあの老いた神官を殺してみせるのだ」

 サルバトールの甘い囁きが終わると、フリッカは背中に手を伸ばし、似つかわしくないほどの大振りの手斧を取り出した。それが号令だったかのように、他の者達も一斉に身体に手を回し、各々の得物を手にしてみせた。包丁に、農具、鉈に、手製の短槍と、おそらく彼らが日常で嗜んでいた品々だろう。

 フリッカは形相を怒りに変え、声高に叫んだ。

「サルバトール様のために、神父を殺すのです!」

 ヴァンパイア達は武器を振り上げ、一斉に鬨の声を轟かせ、神父に猛然と迫った。

 クレシェイドはすかさず窓から飛び出し、杭を両手に握り締め、一団の横腹に突っ込んだ。

 二人の中年の男のヴァンパイアが目敏く察知し、隊列から離れてクレシェイドに向かって来た。

 凄まじい形相から振り下ろされた農具は、石の床を粉砕し、短槍は手練れているかのように、素早く咽を狙い済まして突き出された。クレシェイドはそれぞれを避け、すれ違いザマに服の上から心臓に杭を突き立てた。彼は闇の者達の偽りの魂が消滅するのを見届けずに、先を行く敵の背を追った。前方では神父が聖なる祝福を受けた銀のナイフを振るい、切っ先より大きく伸びた光りの刃が横薙ぎに闇の者達を裂き、灰塵として散らせている。

 しかし、残るヴァンパイア達は高々と跳躍し、あるいは地を滑りながら、神父の懐に飛び込んでいた。神父は光り輝く手刀でそれらを裂いた。クレシェイドは方向を転じてきた一隊の嵐のような攻撃を避けながら、巧みに帯から杭を引き抜き急所に突き刺していった。

 彼が最後に襲ってきた太った老婆を仕留めたとき、神父の周りに立っている敵はなく、二人の間にフリッカと呼ばれた女と四人組みを残すだけとなっていた。ヴァンパイア達は恨みがましく二人を交互に見やり立ち往生していた。その中でクレシェイドは、サルバトールの姿がどこにも無いこと気付いた。

「神父、サルバトールの奴はどこに?」

 クレシェイドが思わず狼狽して尋ねると、ヴァンパイア達は牙を剥き出し、蛇の様に鋭く威嚇した。

「今度こそ、庁舎に引き返したのだろう」

 神父はすぐに応じたが、声色には僅かに訝る響きがあった。

「奴は怪我を負ったのだ。我々が銘々に致命傷を負わせた」

 神父はクレシェイドを納得させるように目配せし、ヴァンパイア達に一歩近寄った。

「サルバトール様は怪我などなされない!」

 フリッカが声を荒げ、斧を手に神父に突っ込んで行った。一瞬の後に、声は脈絡も無く途切れ、光りの刃がその身体を灰へと清めていた。しかし、崩れ落ちる寸前に、その手は得物を投げ付けていた。

 刃は矢の様に唸りを上げ、一直線にクラメント神父へと向かっていた。神父は咄嗟に武器を繰り出し難を逃れたが、銀のナイフは刃の根元から木っ端微塵に吹き飛んでいた。柄を握った腕からは煙が噴き出している。凶刃の凄まじい憎悪は強力な呪いとなり、神父の手から浄化の力を拭い去ったのだ。

「閣下、今です」

 眼前でゆっくりと舞い落ちる灰の中から、フリッカと呼ばれたヴァンパイアの声が消え入る様に木霊した。

 不意に石畳の上を、水溜りのような影が、物凄い速さで過ぎって行った。それは神父の背後へ滑り込むや、その中からサルバトールの上半身と腕が飛び出した。手の指から伸びた爪が下段から神父を襲い、神父の右腕を灰となって飛散させた。

「神父!」

 クレシェイドが愕然として叫ぶと、ヴァンパイア達がこちら目掛けて一斉に襲い掛かってきた。その頭越しに、クレシェイドは、サルバトールの長い腕が、神父の身体に絡み、全身から吹き上がる蒸気の向こうで、大きく開かれた口から突き出た二本の牙が、老人の首へ近寄るのを見た。

 ヴァンパイア達は三手に分かれ、長く伸ばした爪でクレシェイドに躍り掛かった。イナゴの様に組み付く者どもを突き飛ばしながら、クレシェイドの耳には呪われた儀式が執行される声がしっかりと聞こえていた。

「さぁクラメント神父、いよいよ我々の仲間になって頂こう」

 老神官の痛々しい悲鳴が呪われた世界に響き渡った。

 クレシェイドがヴァンパイアどもに最後の杭を打った時には、敵の腕の中で神父は力無く俯いていた。

「我がしもべクラメントよ、力を抜け、我が寵愛に身を傾けよ。楽になるのだ。どのみち全身を染める我が毒牙からは、貴様はもはや逃れられぬ。他の者達同様に、すぐさまこの全てを覆い尽くす闇の肌触りが、どれほど安らかで甘美であるものか、その素晴らしさを身を持って知ることとなろう。あなたは素晴らしく勇猛だ。あなたと轡を並べて闇を行くことが、私は今から待ち遠しい」

 ヴァンパイアは神父の白い髪を労わる様に撫でながら、クレシェイドへ目を向けた。

「さて、異形の戦士よ。貴様も本来の闇の意思に従うべき時が来たと思うが、騎士の位の授与を条件にして、我が申し出を受けて頂けるかな?」

 その言葉を受け、クレシェイドの全身にはようやく煮え滾るような怒りが駆け巡ったのだった。クラメント神父は勇敢で、冷静沈着であり、彼の纏った威厳は、この絶望的な世界に、清らかな灯りの如く屈強な足跡を刻みつけていた。僅かな間だが尊敬に値する頼もしい味方であったのだ。

「ヴァンパイアよ。クラメント神父に代わって、俺がお前を滅ぼす」

 背負った革帯から杭を二本手にした。この杭のどちらかが、おおよそ神父とは掛け離れてしまった新たな敵の心臓を貫くのだろう。

 サルバトールの腕の中で神父の頭が動いた。クレシェイドは一気に緊張した。

「さぁ、お目覚めかな」

 サルバトールが愛しげに老神官の身体を、石の地面に横たえると、神父の左腕はゆっくりと探るように石畳の上を這い始めた。その手が僅かな灰の積もった中にある銀のナイフの残骸に伸ばされた時、ヴァンパイアは血相を変えてその神父の身体を乱暴に踏み付けた。

「貴様! 何を企んでいる!」

 ヴァンパイアが声を荒げると、神父はナイフの鍔に残った刃の切れ端を己の首の後ろ目掛けて振り上げた。

「重き暗闇を背負いし戦士よ……汝の行く末に光明が差さん事を!」

 顔を上げること無く、神父は苦痛に震える声でそう囁いた。そしてヴァンパイアの手が伸びるよりも一足早く、ナイフは振り下ろされていた。

 足元に斃れた老人の亡骸を見て、サルバトールは絶叫していた。神父は完全なる闇を自負する男の密やかな目論見を、寸でのところでひらりと避けるようにして挫いてみせたのだ。

 驚愕と憤りに身悶えするヴァンパイアロードの背に、ここぞとばかりクレシェイドは忍び寄っていった。

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