第10話 「進撃」 (前編) 

 陰惨な夜明けの下、変わり果てた姿となった村の有様を目の辺りにした日より、早くも二日が過ぎた。

 賊の放った悪意の炎は、その魔手で村中の建物を焼き尽くし倒壊させていた。クレシェイド達が一時の休息を取ったことのある広場には、ウディーウッドや、エイカー、ブライバスンからの救援隊の仮の拠点が築かれ、生き残った人々が集う一方、犠牲となった村人や冒険者達の亡骸の安置場所ともなっていた。誰もが悲観に暮れ、そこには無言の静寂だけが漂っていた。

 冒険者ギルドからは、ギルド直属の依頼として、様々な復興の支援の依頼が口頭で下されていた。各々の技量に沿った持ち場の割り振りのために、クレシェイドとティアイエルも、他の冒険者同様、パーティを解散し、与えられた場所で黙々と作業をこなしていた。

 クレシェイドはトロル退治での一件を買われたようで、街道を含む周辺の警備を命ぜられていた。林を歩き、街道を行き、背の高い草薮の中を進んんだ。その結果、建物の焦げたにおいに誘われたのか、林をひっそりと進み、側面から村を急襲しようとしていたホブゴブリンの大集団と遭遇し、辛くも百を超える妖魔達の首級を上げたのであった。その間に十四本もの剣が折れてしまったが、彼にとって、これは充分に予期できたことであった。十四の大剣と長剣の殆どが、警備兵の詰所の倉庫に眠っていた持ち主不明の剣で、それらは警備隊長のアーチボルトが村を発つ前に厚意で譲ってくれたものであった。それとは別に二本ほど顔見知りの武具屋の店主が、焼け残ったものをアーチボルト同様に厚意で授けてくれた。後者の二つは頑強であり、三十ほどの敵を打ち倒すまで持ち応えたのだが、最後には鋼の刃は大きな刃毀れを露にした後、柄元から圧し折れてしまった。今、彼の背負い籠には、その二つにも遠く及ばない鈍ら刀が、大小不揃いに放り込まれていた。

 クレシェイドは眠れぬ身体を大いに生かし、昼夜を問わず広大な持ち場を彷徨い歩いた。しかし常にその頭の中にあったのは剣のことであった。失われた「城壁の剣」ほどのものと巡り逢えなければ、マゾルクを討てないばかりか、今後の冒険者稼業にも大いに支障を来たすことになる。そして、その根源こそが鎧の内側で増えつつある闇の精霊の力によるものであった。こちらの意気に過敏に呼応するや、闇の魔力は冷たい身体に絶大な力を網のように流し張り巡らせた。足腰は岩のように不動の力に支えられ、両腕は一回りも二回りも太く強靭になったように思わせる。その手で握った剣は隼のように振られ、目標を半ば圧し折る様に粗雑な痕と共に仕留めていた。

 街道をけたたましい音と土埃を上げながら荷馬車が疾走して行った。草むらに佇んでいたこちらの姿に御者は気付きもしなかった。荷台には木材が山のように詰まれていた。縄でしっかりと固定されていたために、荷物が車輪に踊らされることはなかった。

 彼は馬車を追うように、ゆっくりと村へ歩んで行った。その手には、城壁の剣の柄と、刃がそれぞれ握られている。皮肉にも、折れた剣は、まるでそうではなかったかのように、泥濘の上に繋がり合うように置かれていた。柄から切っ先までがすらりと一直線に伸びていたのだ。当初、クレシェイドは我が目を疑ったが、結局は糠喜びする暇すらもなく、二つの間に寸断する黒い裂け目があるのを逸早く見止めたのであった。彼はもどかしい思いで折れた剣を拾い上げたのであった。新たな力に気付く一方、それを打ち出せるはずの唯一の剣を失ったからである。

 彼が口惜しい思いを堪えながら進んで行くと、前方から一騎の騎馬の影が現れ、軽やかな足取りで真っ直ぐこちらを目指してきた。

 馬上の主は、冒険者のアディオス・ルガーであった。金髪の若き中堅冒険者は、端正な顔を頼もしげに輝かせていた。

「よぉ、ウディーウッド以来だな」

 彼は親しげに言うと、馬から飛び降りた。

「元気そうだな、アディオス」

 クレシェイドは頷いた。そして彼は、相手がただ再会の挨拶のためにこちらを目指したとも思えず、その理由を軽く思案していた。おそらくアディオスは知らせを持ってきたのだろう。それもこの腕力を頼っての内容というところか。

「走る親父亭のマスターから色々とお前さん方のことを聞かせてもらったぜ。あの神官の女の子、レイチェルっていったかな? 彼女も真面目に頑張ってるみたいだな。その食欲もだが、ケルシーの奴がすっかりお気に入りでね、彼女随分寂しがってたぜ」

 アディオスは軽く世間話をし、表情を幾分、落ち着かせて新たな話題を切り出した。

「たった今、それぞれの上役達の話し合いが纏まった。サグデン伯爵のいるアルマンへの道を開くために、ムジンリ奪還へ動くことになった。伯爵閣下もアルマン自体も無事なのかは、まだ知る術はないが、ペトリアの再建のためにはムジンリの脅威を排除しなければならないというも、理由の一つらしい。ついでに言えば、俺やお前以上に、勇名を轟かせている冒険者が、偶然近隣に居合わせたというのが、決断に一役買ったみたいだ。例えば、不動不落の要塞戦士の異名を持つハリソン・スタイナーや、通称三日月刀の男と呼ばれる東方のショウハなんていう奴らがいる」

 マゾルク追跡のために、クレシェイドは大陸の人里という人里を巡って来ていた。二人の冒険者の姿こそ目にする機会は無かったが、その名声は旅先でそれぞれ聞き及んでいた。ハリソン・スタイナーは初老の戦士でありベテランの人格者で、同業者達の厚い信頼を受け、そして憧れの的となっている。東方のショウハは、一匹狼の冒険者で、多くの妖魔や猛獣を屠る一方、民を脅かす賊の集団を単身で幾つも壊滅させていた。

「他には、巡礼の旅でウディーウッドに立ち寄っていた聖女エベレッタ殿も居られる。彼女は戦神に仕える高位の神官さ」

 アディオスは茶目っ気に溢れた笑みを零した。

「そして、最後にお前と俺がいるわけだよ」

 二人は村へ向かって歩いていた。道すがら、アディオスは会議のことを話して聞かせた。総大将はペトリア村の村長ブランド・ノルケンだが、あくまで形だけであり、実際はベテラン冒険者ハリソン・スタイナーが指揮を取る。率いる軍勢は近隣各地から集結した冒険者達、百と二十名以上であった。アディオスの話に耳を傾けながら、クレシェイドはムジンリをグルリと囲む防壁のことを思い出していた。それは今ではただの大昔の戦争の名残であったが、かつては南の最重要拠点として、多くの戦士が駐屯し、防壁と相まって、攻め寄せる敵を幾度も撃退し続けるという誉れある歴史を残している。世界が統一され平和になり、南の首都がすぐ北方のアルマンと定められたときに、その壁は役目を終えたのだった。しかし、現状、修繕されずに風雨に撫で付けられるまま朽ち果てているとはいえ、厚い石壁が町を囲んでいることに変わりは無かった。賊の数がどれほどかは知れないが、町の中に入るまでに、こちらの血は想像以上に多く流れるだろう。

「少し耳には挟んだが、剣選びに苦労しているそうだな」

 アディオスが言った。クレシェイドの手にある城壁の剣と、背負い籠とに目をやり、驚き呆れているようであった。トロルに圧し折られたことを思い出し、クレシェイドは後悔と恥じる気持ちとで溜息を漏らしそうになっていた。アディオスの腰には太刀が提げられている。その鞘は美麗な細工が施され、両側の口と尻には涼やかな青色をしたサファイアのような宝玉が埋め込まれている。そのエルフの手によって作られた鞘に収まっているのが、アディオス・ルガー自慢の剣であり名をユースアルクという。鞘同様、エルフによって造られた剣であり、剣閃の下に火を走らせることができる特殊なものであった。

「城壁の剣のことは残念だったと思う」

 彼は心から哀悼の意を表明するように顔色を変えた。そしておもむろに馬の反対側へと回り込むと、鞍から太く長い棒を苦労しながら抱えて現れた。それは黒味掛かった木製の武器の柄に見えた。先端の片側には大きな出っ張りがあるらしいが、今は大きな麻袋に包まれていた。クレシェイドは考える間もなく、これは長柄の大斧だと推察した。

「その名を岩崩しというらしい」

 袋を被った斧をクレシェイドは受け取った。そして驚いた。刃の重さだけで城壁の剣を僅かばかり上回り、油断すれば刃はグルリと頭を垂れ地面を深々と穿つだろうと思えたからだ。運悪く足が刃の下にあれば、例え斧自身の気まぐれな軽い一撃でさえも、薄い鉄製の靴程度ならばそれごと足を断ち切ってしまうだろう。彼は用心した。

「お前を呼びに行くと言ったら、アーチボルト殿が、部下と三人掛かりで運んできたんだよ。先々代の警備隊長の時代に大盗賊の猛者から押収したものらしい。力自慢のお前さんでもかなり重いんじゃないか?」

「そうだな」

 クレシェイドはしみじみと応じると、袋の縄を解いた。鉄鎚の先ほどの厚さをしながらも、先端に向かって徐々に鋭利になってゆく放射状の広大な刃があった。まるで首切り役人でもなったように思えた。

 彼はまず抜群に屈強そうだと感じた。刃毀れせずに一体何匹のトロルの首を刎ねることができるだろうか。奴らの持つ、岩のような皮膚と、厚い筋肉と、丸太のような骨を想像する。もしかすれば、一生磨かれることを知らずに使い続けることができるかもしれない。しかし、問題は柄であった。これは一本の木で出来ている。見たことの無い黒い色をしている木だが、所詮は木のため、その強度はたかが知れている。新たな己の膂力を考えれば少なくとも鋼であるべきだと強く思い、新鮮な驚きと僅かばかりの期待とが忽ち萎んでいった。

「クレシェイド」

 アディオスが声を掛けるや、クレシェイドは不意に殺気が飛ぶのを感じ、斧を突き出した。

 陽を受けたユースアールの黄金色の刃が、斧の柄の両の握り拳の間にぶつかった。それは手加減こそあったが力強い一撃だった。しかし、柄は刃を阻み、驚くことに鋼のような衝突音を鳴り響かせたのだった。アディオスは剣を鞘に収めた。

「すまん。しかし、驚いたな、ただの木では無いって聞いたけど、こいつは本当らしいぞ」

 アディオスは興奮気味に言った。クレシェイドも少しは驚いていたが、その謎は解けていた。これは間違いなく黒い木だが、こちらの意思に呼応したらしい。まるで闇の精霊が自分の肉体をそうするかのようにである。木の色が闇を思わせる黒というのも偶然ではなさそうだ。ふと、本当の意味でクレシェイドは謎が解けたような気がしていた。

「ティアイエルも攻め手に加わるのか?」

「いや、彼女はうちのお姐様とここに残るよ。わかるだろ? 精霊魔術は時に数百人の戦士の剣となり、盾にもなる。俺達が抜ければ、村は警備兵達だけになる。ウディーウッドにエイカー、ブライバスンから十人前後ずつ増援として割かれても、スッカスカの状態だ。彼女達は寝る間も惜しんで、精霊達の声に耳を傾けて、招かれざる侵入者の存在を察知することに努めなければならないだろう」

 クレシェイドは半ば夢うつつの心境で彼の話を聞いていた。しかし、その脳裡を占めていたのは、有翼人の少女に対する感謝の念であった。

 それから二人はすぐに進撃の軍勢に加わった。そこでクレシェイドは初めて今を生きる偉大な冒険者ハリソン・スタイナーの、鋼の鎧に包まれた虎の様な巨躯と、威厳と親しみに溢れた信頼に足る声とを目の当たりにしたのだった。

 二人が戻った時には冒険者の大半が広場に集結し、今、正に整然と軍列を整えていた。服装こそ多種な鎧に胴衣と、目指す敵と同じにまとまりに欠けていたが、前列には得物を引っ提げた騎兵五十人が並び、続いて中ほどには二十台の大き目の荷馬車が並んでいた。四頭の馬を操る御者と荷台には数人ずつの魔術師と共に、予備の武具や防具、そして扉を破るため急遽巨木でこしらえた破城槌と、鉤付きの縄が積まれていた。馬車の左右には護衛のために騎兵隊が一列配備されている。そして残る最後尾は歩兵隊であった。大半が血気盛んな荒くれ者であり、彼らは報復に燃えながら、功名を上げることに今から胸を高鳴らせていた。徒歩の猛者達の中央には馬に跨ったペトリアの村長の姿があった。かなり老齢であったが、革に金属を縫い合わせた軽い甲冑を身に纏い、腰には小剣と短剣が提げられている。村長は緊張と困惑を隠せず終止に渡って視線を泳がせていたが、背筋だけは賞賛に値するほどしっかりと伸ばしていた。アディオスとクレシェイドは村長を挟むように左右に立った。彼らが列を掻き分けてきたことに、荒くれ者達は文句の一つも言わなかった。目も意識もすっかり野心を夢見、それに支配されていたからである。三日月刀の東方の男ショウハは、歩兵隊の最前列にいた。革の鎧と黒の薄手の外套に身を包んだ浅黒い肌の小柄な男であった。しかし、沈着な瞳には血の荒ぶる様が見え隠れしている。ショウハがこちらを振り返ったのは一度だけで、居並んだ多くの肩越しに、クレシェイドとアディオスに真っ直ぐ鋭い一瞥を投げ掛けてきた。まるで茂みから狼に見張られているようだとクレシェイドは思った。

「いざ、進軍!」

 短い演説の後に、ハリソン・スタイナーが高らかに宣言し、隊列が前から順々に動き始めた。実はこのような事を遠い昔にクレシェイドは、騎士クラッドの名の下に幾つも経験していた。殆どが勝ち戦だったが、踏んだ戦場の数が多すぎたために、その時の光景を思い出すことはできなかった。しかし、小さな高揚を足掛かりとし、その時の心境だけを浅く思い出すことは容易いものであった。

 村を発つ軍勢を多くの人々が、沿道に柵のように並んで見送っていた。広場を過ぎ、悲惨な黒焦げの瓦礫のみが残る居住区にも人々の列は途切れることなく続いている。悲しみに暮れる顔や、抑え切れない復讐の心を吐露するように檄を送る者も、老若問わず大勢いた。

 そんな見送りの人々から離れ、後方に佇む一つの影を、彼は見つけた。残念ながら背中に翼は見えなかったが、そのスラリと線の細い身体をした相手とは顔見知りであった。闇の魔力が血流のように全身を脈打ち、知らず知らずのうちに彼の視野を鮮明にさせていた。華奢な身体には丈の長い白のような薄手の衣を纏い、ゆったりとした袖口からは服の色を凌駕する純白の肌色をした二の腕が覗いている。髪は長く腰の辺りまで伸び、本来は輝く白金の色をしているが、今は陽光の煌きを受け黄金色に染まっていた。血の気の無い綺麗な細面の顔にはサファイアように輝く瞳があり、それは冷厳な光りを見せて、クレシェイドを一瞥した後は、ずっとアディオスに注がれていた。彼女の両耳は、エルフ族の特徴の通り、先が尖っていた。やがて街道へ続く村の門が見えて来た。待機していた二人の警備兵が、格子状の鉄の扉をそれぞれ左右に畏まって押し開いた。



 二



 村を抜け、太陽が夕暮れとの半ばほどに達するころには、殆どの冒険者達が出陣の緊張感から解放されていた。

 互いに冗談を言い合い、酒や個々の冒険談などを話す声が、列のあらゆるところから聞こえ始めていた。ムジンリまでの道程はまだまだ長く、敵がただの盗賊ふぜいであることが、腕自慢達の辛抱を残らず過信へと変貌させていったのだ。ハリソン・スタイナーの懸念に満ちた叱責が、前方から何度も鳴り響き、列はその度足を止めた。しかし、まるで悪戯小僧の無邪気さを感じさせるように、冒険者達は俄かな静寂に努めた後、再び雑談に花を咲かせていた。ペトリアの村長は、気弱そうな気難しい顔に、落ちつかない面持ちを浮かべ、冒険者達の乱れる有様を見回した。そして意を決して、二、三度、アディオスに叱責を飛ばすように促した。しかし彼がそこそこ名の売れた冒険者だとしても、その若い声に耳を貸すものはいなかった。沈黙を守っていたのは、二人のほかには東方三日月刀のショウハと、魔術師達、そして御者と馬達だけであった。しかし、さすがに夕闇が支配し始めると、一個一個、徐々に話し声は止んでいったのだった。

「顔無しの幽鬼でも飛び出して来なければ良いが……」

 村長のブランド・ノルケンは馬上で身を強張らせて呟いた。独り言に思えたためか、応える者はいなかった。少し時を置いてアディオスが囁くように村長に尋ねた。

「その恐ろしそうなものに何かお心当たりでも?」

「いや、何、迷信とは思うが、昔昔、ワシがまだ五つの時に、旅の神官戦士殿の一行を我が家に泊めたことがあってな。その時に、確か彼らが言っていたのじゃよ。この辺りの山奥には、決して軽々しく踏み入ってはならぬとな。いや、そうはおっしゃったが、別に強制された訳ではない。彼らもまた半信半疑じゃったのだろうな。じゃが、ひとまず彼らの申すところは、この樹が海のように広がる山奥のどこかに、呪われし者の眠る墓があるということじゃった。ああ、そうだそうだ、彼らは新生神官戦士同盟と名乗っておったな。皆が高名な神官戦士を先祖にもっているとか申されていたわい。彼らの旅の目的は、その墓場を突き止め、地図を記すことじゃった。残念ながら、何者が眠っているのかは聞けず仕舞いじゃったが……。いや、もっともそこまで話すつもりは無かったじゃろうな。これは部外者には極秘と、そんな雰囲気だった。まぁ、ワシが五つの時の話じゃよ。森に入るなよ、首を失った幽鬼が来るぞ。と、大分酒の入った神官戦士の一人が脅すようにそう言ったのじゃ」

「デュラハンか」

 アディオスは感心するように言い、村長は思案気に曖昧な顔で頷いた。

「もしも、この小戦争が無事に終わったら、冒険者ギルドに大掛かりな捜査として依頼するとしよう。勇猛な者達が揃っている今が好機故な」

「それは楽しみですね」

 アディオスは笑みを浮かべて応じた。

 灯りも点けず、月も雲に隠れていた。そんな長い夜が明けてから一行は休息を取った。白々と明ける空には、未だに厚い雲が掛かり、陽の光を覆い隠している。ハリソン・スタイナーは、三騎の騎兵を斥候として駆けさせた。その間に人通りの途絶えた街道を見て、数人の冒険者達は改めて事の重大さを悟ったような顔付きになっていた。

 斥候が戻ってくると、ハリソン・スタイナーは腰を上げた。

「この先に、賊の一団が駐屯しているとのことだ。数はおおよそ二百。斥候か、それとも蛮勇に動かされてかは知らぬが、どうにも目に見えて腑抜けておるらしい」

 老冒険者が言うと、意気盛んな数人が声を上げた。

「だったら今すぐ攻めよう! 騎兵だけで間に合うさ!」

 ハリソン・スタイナーは頷き、騎兵隊を率いて先行していった。馬蹄の跡に、残った砂煙の後を、まず半数の歩兵隊が行く。ついで馬車、残りの歩兵隊と、軍列は足早に急ぎ始めた。

 街道の先では早くもぶつかり合いの声が木霊し始めていた。馬が嘶き、鉄が打ち合い、そして方々で上がる断末魔の悲鳴、クレシェイドは殿の位置で、周囲の冒険者達が武者震いしている様を眺めていた。そして馬上で得物を振るう影が見えた時、歩兵達は辛抱たまらず突撃し、魔術師達は丈のある胴衣の裾をはためかせながら馬車から飛び降りた。

 人馬が入り乱れる戦の中から、徒歩の盗賊の一団が飛び出してきた。盗賊達は軽装であったが、その風貌もまた統一性が無く、冒険者と見紛うほどであった。しかし、連中の表情は戦場の高揚感に当たられたためか狂気に蝕まれていた。盗賊達は姿を現すや、三段の横並びになって一斉に弓矢を引き絞った。

 前衛の冒険者達は出鼻を挫かれ、あわや矢の餌食となるところであったが、感の良い魔術師達が共同で、既に魔術の詠唱を終え、盾の魔術を展開したところであった。魔法防壁に矢は阻まれ、ここでの難は逃れた。歩兵の冒険者達は、眼前に張り巡らされた、透き通った茜色の壁が矢を弾き落とす様に見惚れつつも、すぐに賊へと殺到し始めた。クレシェイドは、東方のショウハが先陣を切って疾走し、その代名詞である三日月刀が、己に射掛けられた二本の矢を、蝿の仕留めるかの如く叩き落すのを見た。その彼は一度も立ち止まらずに、狼狽する敵へと文字通り躍りかかって行った。

 その最中、クレシェイドは遠くに馬蹄の音を聞いた。彼が眼を向けると、賊の後方から、生え揃った草葉のような迫り来る騎馬の影が見えた。戦場を見渡すが、乱戦の中で気付く者はいなかった。傍らのアディオスでさえ、戦況を見定め、護衛に徹することで手一杯のようであった。そしてクレシェイドは、賊達の意気が静まり、彼らがこちらに悟られぬように防御に努め始めようとしているのを確認した。

 奴らは囮であったのだ。鼻から騎兵の増援で勝敗を付ける目算だったというわけか。彼は決意を固めた。

「村長殿、どうか私に馬をお貸し願えませんか?」

 馬上の老人は、こちらの意図を考える前に、潔く馬から降りた。クレシェイドは手綱を掴み、鞍に跨った。馬は鎧と斧の重さに呻いていた。

「敵の増援が迫っています。その数は計り知れません」

 クレシェイドは仰ぎ見る村長と、アディオスに向かって見えた事を告げた。

「確かに妙だ。賊の奴ら、最初ほど攻め立ててる気配が無いように思える」

 戦場を凝視しアディオスが答えると、村長は顔を青くしながらもクレシェイドに声を掛けた。

「しかし、それが確かだとすれば、いくら鎧尽くめとはいえ、貴殿一人では死にに行かせる様なものではないか。スタイナー卿を呼んで、体勢を立て直すべきでは……」

「時間がありません。スタイナー卿には行き掛けに私から伝えます。アディオス、ここを頼む」

 クレシェイドは馬腹を蹴った。進めば進むほど戦場の熱気が、魔手となって己を魅入らせようとしてくる。彼は斧を振り上げ、戦の中へと突き進んだ。新たな騎馬の登場に、対峙する者達が思わず顔を上げる。そして瞬く間に、賊の身体に剛刃が打ち下ろされた。そんなクレシェイドの身は、在りし日の遠い心境を取り戻していた。

 彼の冴え渡る眼光は逸早く賊という賊を識別し、斧は縦横に振るわれ、その度に敵の悲鳴が上がっていた。そして彼の過ぎ去った後には一筋の道が開いていたのであった。

 クレシェイドは鉄槌を振るう馬上の老冒険者の姿を捉えた。周囲には敵の亡骸が積み重なっていた。血の溜りに浮かぶそれらの、致命傷と思われる箇所は激しく拉げていた。

「おう、アディオスの友人か! お主は、何処へ行こうというのだ!」

 ハリソン・スタイナーがこちらの姿を見付けて大声で尋ねた。

「騎馬だ、敵の増援が迫っている! 奴らはこれで勝負するつもりだったのだ!」

「何と!?」

 老冒険者が敵の後方へ目を向けた。

「隊列を整えた方が良い!」

「おいおい、待て! お主は、死ぬつもりか!?」

 老冒険者の慌てる声を背にし、クレシェイドは笑い出したいのを堪えた。そしてそんな己をすぐに恥じた。しかし、心の中では、冷ややかで奇妙な高揚感が目まぐるしく回りながら、こう訴えていた。「あの程度の軍勢なら、俺一人で充分だ」不意に彼は興醒めした。それもそのはず、今は不死身の身体なのだから。

 道を塞ぐ賊達を踏み散らし、先へと先へと独りで飛び出していった。そして馬を止めた。視界の先に、槍を手にした荒くれどもが疾駆してくるのを見た。彼は疲労困憊の馬を励まし、斧を担いで敵の到来を待ち受けた。先頭の5騎が見る見る後方を引き離し、彼に迫って来ていた。

「血迷ったか、猪武者が! 東方大鷲の槍ヨヘキ様が、そっ首を貰い受けたわ!」

 戦場の名乗りを聞き、何とも懐かしい場面だとクレシェイドは思った。そして同時に違和感もあった。戦場での名乗りなどこの時代にはそぐわない様に感じたのである。それはどういうことか……。思案する前に彼は結論付けた。あるいは、あの敵の性質なのだろう。愉快だ! 槍の異名を名乗るだけの長槍を相手は手にしていた。他には短めの蛮刀と思われる剣を腰に下げている。身形は軽装で、頭には黄色の布を巻き頭巾としていた。

「面白い。黄色いの、俺が相手をするぞ!」

 髭面の男ヨヘキに先駆け、他の四騎が打ちかかってきた。

 クレシェイドは岩崩しを二度振るい、四人の胴を切り裂いた。腹から背から血を噴き出し、賊は揃って鞍から崩れ落ちた。槍のヨヘキは怯まず挑みかかって来ていた。堀の深い浅黒い東方の顔立ちをしている。

 不意に相手は、走る馬の背に直接両脚で立ち上がった。片手で手綱を握り、もう片方は槍先をこちら向け、投擲するように身構えていた。

 相手の驚くべき行動に、クレシェイドは魅入られていた。しかし、槍を投げ付けるつもりなのか。相手が肉薄したところでクレシェイドは斧を薙いだ。しかし、刃は空を切り、主のいない馬が駆け去って行った。クレシェイドの眼は、空高く舞い上がっている男の姿を捉えた。

「喰らえ!」

 大音声と共に、唸りを上げて長槍が放たれていた。その切っ先が寸分の狂いも無くこちらの顔を狙っていたため、クレシェイドは一瞬だけ度肝を抜かれていた。彼は斧を振り上げ、どうにか槍を払い落とした。金属が拉げ、折れ曲がる素晴らしい手応えに感激しつつ、背後に舞い降りた賊の姿を見た。何と、相手は柔軟な身のこなしで地面を転がり、何事も無かったかのように立ってみせた。その最中に、腰の蛮刀を抜き、投げ付けていた。今度も切っ先は寸分野狂いも無くこちらの鼻先を目指していた。それを今一度叩き落とすと、相手は忌々しげに顔色を歪ませ、森の中へと消えて行った。

 地面に転がった折れ曲がった槍を一瞥した。どうにも、ただの盗賊ではない。今の時代に、あれほど手練ていて素っ頓狂な賊がいるだろうか。かつて、大陸の統治が及ばなくなり、崩れかかった時代にこそ、あのような腕に覚えのある者が集い賊を名乗ったものだ。少なくとも、人の和が人の手で乱されていないこの時代には、賊といえば、略奪を主体とした威勢だけの烏合の衆が現れて消えるだけである。

 時代だと。クレシェイドは考えに耽りそうになったが、今度は大軍勢がそうはさせなかった。そしてまた一騎がぐんぐんと飛び出してきている。

「おうおうおう! このスカール様の大斧と貴様の棒切れのどちらが強いか! 白黒付けさせてもらおうじゃねぇか!」

 岩崩しを凌駕するほどの刃を掲げ、相手が迫って来ていた。

 これは、どうしたことだろうか。まるで、俺の知る時代にでも戻ってきたような……いや、連中が抜け出て来たというのか。

 振り下ろされる斧を岩崩しが迎え撃ち、相手は斧の刃と共に、己の顔を失っていた。馬上の屍は通り過ぎて行きながら、傷口から血を噴き上げた。

 血煙クラッドか。彼はそう胸の内で呟いた。猛烈な違和感が強引に脳を揺さぶり、時間の感覚を狂わせてゆくようであった。血気盛んな鬨の声が轟いた。眼前に展開する連中は、まるで大いなる野望で動いているように思えてならなかった。これは建国の戦に似ている。つまりは戦争ということか。ならば何としても出鼻を挫くべきだ。連中を動かす者の強大な野心に少しでも陰りを与えなければ、この脆弱な時代の中で、大陸南部の旗色は敵一色に染まってしまうだろう。

 重なり合う馬蹄と、盗賊達の覇気のある声とが、彼の身体に緊張を走らせた。怖じる心に驚愕しつつ、この鎧なら持ち応えるはずだと自ら言い聞かせた。ハリソン・スタイナーが後方で檄を飛ばし列を整えようとしている声が聞こえた。

「我ら先駆け強弓のトリスタン兄弟が!」

 声が轟くや軍勢から三騎が飛び出してきた。駆けながら馬上で揃って弓矢を構えている。

「貴様のその命を!」

「貰った!」

 クレシェイドは馬腹を蹴り、射掛けられた三本の矢を避けた。そしてそのまま三兄弟のど真ん中を突破し、手近の一人を斧で突き落とした。悲鳴と怒声を背にし、彼は敵陣の中へ飛び込んだ。

 斧を薙ぎ、掻くようにして、彼は肉と鎧の壁を突き破り進み続けた。憤怒の顔が、戦の熱気が、彼の高揚感に拍車を掛けた。倒れる猛者達の血が、鎧を、馬の毛を真紅に染めた。彼は血煙の中を潜っていた。それでも、方々から繰り出される敵の剣戟を完璧に裁ききることは到底不可能であった。鎧には重たい刃が走り、あるいは揺さ振られ、そして敵の肩越しから巧妙に放たれる矢が幾度と無く身を掠め、そのうち二つは兜の鼻面にまともに当たって弾かれていた。

 不意に馬がよろめいた。そう思った時には地面に投げ出され、容赦無く馬上から狙う槍先を弾き返し、どうにか身体を立たせていた。敵の騎馬の多くが、彼の脇を通り過ぎて行く。背後の様子が気になった。しかし、数人の盗賊達が代わる代わる周囲を旋回し、彼の鎧に武器を繰り出そうと虎視眈々と身構えている。

「クレシェイド!」

 戦場の騒音の中でアディオスの声が響いた。途端に周囲にいた二人の盗賊が、悲鳴を上げて、馬から転げ落ちた。もがき苦しむその顔に真っ赤な炎が燃え上がっていた。そして、また一人、炎に包まれ落馬した。

 一瞬の隙に、たまらず背後へ一瞥を向けた。敵の真っ只中を、アディオスを先頭にして、重装の冒険者達が突き進んできている。ユースアルクが、陽の光りを受け、その刃を黄金に染めるのを見た。

 アディオス達は敵陣の中で隊列を展開し、馬を疾駆させて来ている。クレシェイドは乗り手の居なくなった馬を捕まえ、急いでその背に跨った。彼は馬腹を蹴った。眼前には弓を構えた盗賊が颯爽と立ち塞がったが、次の瞬間には、その咽下には投げ付けられた短剣がグサリと突き刺さった。

「小勢の分際で生意気な! 下がれ下がれ、道を開けろ!」

 落馬する賊の隣を、隻眼の男を先頭に賊達が間に合わせの陣形を組みつつ猛然と襲い掛かってきている。そいつは挑むような鋭い眼光を見開きつつ長槍を扱いた。その切っ先が旋風を巻き起こして突き出された。並々ならぬ膂力を感じたが、気合一閃、クレシェイドは斧の腹でそれを弾いた。その勢いで相手の手から槍は放れ、空高く舞い上がった。隻眼の賊は慌てて腰の蛮刀に手を伸ばしたが、クレシェイドは容赦なく斧の刃を胸に打ち込んだ。相手の身体は街道脇にまで吹き飛んでいった。

 その様を見ても、敵の騎馬達は恐れるどころか、むしろ歩みを速めていた。不揃いの武器を掲げ、あるいは引っ提げ、重なり合った雄叫びと馬蹄が地を激震させていた。

「こりゃあ、軍隊を相手にしている感じか?」

 アディオスが隣を駆けながら言った。

「連中は俺達が請け負うような盗賊とはどうにも存在感が違う。手柄を上げて出世しようって気迫だ」

「ああ、それが正しいと思うよ」

 クレシェイドは短く応じた。岩崩しと、ユースアルクが真っ先に賊群の中へと吸い込まれ、闇の唸りと陽光の祝福とに満ちた刃は、振るわれる度に周囲に血糊の雨を降らせた。

 そして目まぐるしさが支配する中をクレシェイド達はひたすら前進し続けた。不意にその眼が、敵の身体越しに、街道の脇を、自分達と速度を合わせて続く一騎の影を見つけていた。その手にある弓矢は引き絞られ、常にこちらを狙い定めている。

 刃の林を死に物狂いで、ようやく抜け出すと、少し遅れて街道脇を追跡していた盗賊が、白日のもとにその姿を曝け出し、弓矢を構えながらアディオスの背に猛然と追い縋ってきた。

「お前は!」

 アディオスが振り返り驚きの声を上げた。

「そう、トリスタン兄弟だ! 弟達の仇、貴様は死ね!」

 叫びと共に引き絞られた大弓から太い矢が放たれ、それはアディオスの身体に突き刺さり、彼を馬上から射落としていた。

「野郎、三兄弟の死に損ないめ!」

「何てこった、アディオスを助けろ!」

 同じく軍勢の中を掻い潜ってきた冒険者達は、人望ある仲間の窮地を前にして馬の向きをその一人へと変えた。

 一方の盗賊は腰に収めた矢筒に手を伸ばす。投げ付けられた短剣を避けながら、素早く矢を番え、目前の冒険者達を忽ち六人も仕留めるという早業を見せ付けた。それは幸いにして急所を狙うまでの正確性に欠けていたが、全ての冒険者達の身体や、脚に突き刺さり、馬から射落とすほどであった。残りの冒険者達は恐れ戦き、慌てて馬首をめぐらせて距離を取った。

 クレシェイドはたまらず引き返し、アディオスの盾になろうと決めた。その最中、アディオスの生存を、人と世界を創造し見守る何者かに対し祈っていた。

 すると倒れていたアディオスが、横に飛び込みながら剣を振るった。

 火走りの剣は、文字通り灼熱の炎の塊を切っ先から、投石の岩のように打ち出した。盗賊は炎を避けたが、馬が驚き、棹立ちになった。

「ええい、くそっ! この駄馬めが!」

 盗賊が忌々しげに舌打ちをした。クレシェイドはこの期を逃さず、敵に向かって一気に向かった。しかし、盗賊は突然飛んできた鉄の塊に頭を打たれ、馬から落ちていた。

 目を向けると、東方のショウハが立っていた。彼は馬には乗っておらず、妙な塊を手で弄ぶようにしていた。

「三日月刀のショウハか。すまない、助かった」

 アディオスは呻くと立ち上がった。そして身体におぞましく突き立った、太い矢に手を掛けて苦労しながら引き抜いた。

「何とも無いのか?」

 冒険者達が驚愕に目を瞬かせながら尋ねた。

「ああ、ドワーフ作の胴鎧のおかげさ。まぁ、それでも穴が開いちまったけど」

 彼が鎧の痕を見せて苦笑いすると、冒険者達は驚き呆れて互いに顔を見合わせていた。

「おい、奴は生きているぞ」

 東方のショウハに言われ、誰もが慌てて身構えた。

 盗賊は仰向けになると、乾いた笑いを途切れがちに発して言った。

「貴様らのような、戦士の成り損ないに、烏合の衆に、どいつもこいつも、やられちまうとは……」

 そして相手は傍に転がった矢を引き掴むと、その矢先を己の咽へ向けた。

「我ら兄弟が誇る矢嵐の様を、この軟弱な大陸の中に知らしめてやりかった」

 そして一呼吸すると、相手は自分の咽に矢を振り下ろして自決した。

 クレシェイドはその光景を尻目にしながら、遠くで賊の首領と思われる一団が撤収していく様を見届けていた。



 三



 それほど時を置かずしてこの場の決着はついた。街道に佇立する騎馬と徒歩の冒険者達は、荒々しい息を整えると、周囲を埋め尽くす賊の亡骸を引き摺り一箇所に集め始めた。その亡骸の殆どは、魔術師の攻撃によるものであった。ハリソン・スタイナーは、騎兵と歩兵を壁とし、その隙間から魔術師達に攻撃をさせて軍勢を迎え撃ち撃滅したのだ。

 クレシェイドとアディオスが、遺体の搬送に手を貸そうとすると、他の冒険者と共に作業に従事しながら、巨躯の老冒険者が首を横に振ってみせた。本来の村長の護衛に徹するようにという旨だろうと、二人は納得した。

 道すがら、二人は他愛の無い話を、互いに上の空の面持ちで短く交わすだけであった。クレシェイドもそうだが、アディオスもまた、自身の鎧に開いた穴を見ながら、深々と思案に耽っている様子であった。

 時代を遡った様なあの気迫に満ちた猛者達の出現に、キナ臭さを覚えないわけが無い。長らく放浪していたが、奴らの名は、耳にしたことは無かった。腑に落ちないのは、トリスタン兄弟の言葉であった。三兄弟の長兄は、まるで先駆者のような目線で物を言っていた。

 このクラッドが「血煙」の異名を持つ以前の、遥か動乱の世に生きていたのだろう。その考えが馬鹿げているとも思えなかった。何せ、こうして何百年と放浪している己がいて、更にはホムンクルスとして甦り、今では身内となったライラのこともある。連中は、ライラと同じでホムンクルスなのだろうか。造られた肉体を器とし、黄泉路を彷徨っていた魂を呼び戻され、宿らされた存在なのだろうか。そうに違いない。クレシェイドは、ライラを甦らせた魔術師達のことを思い出していた。そういえば、奴らは上座に君臨する「主」の存在を仄めかしてはいなかっただろうか。

 街道脇には亡骸の山が幾つも並んでいた。冒険者達はようやく休息に移っている。彼は聖女エベレッタの姿を、遠巻きにだが目にすることが出来た。

 彼女は白い神官の衣装の上に、魔術師の好む、丈の長い暗い彩の胴衣を外側に纏っていた。おそらくは的にならないために誰かが気を利かせたのだろう。エベレッタの姿は多くの冒険者達の好奇の視線の的となっていた。黒髪は長く艶やかであり、頭巾の下から両側の頬に沿って流れる綺麗な小川のようであった。丁寧な物腰と口調で、彼女は負傷した冒険者達に問い掛け、そして聖なる魔術の旋律を口にし、怪我の治療に勤しんでいた。男達は、彼女に目を釘付けにしながら、行く先々で耳にした彼女に対する噂話を、囁き伝え合っていた。その結果、彼女は年齢よりも、随分若い外見をしているということがわかった。そして、それが聖女に与えられた特権だとも言う憶測の声もあった。聖なる淑女は癒しの魔術を唱えながら怪我人に治療を施し続けている。そしてようやく疲労に満ちた美しい顔を上げた。

 エベレッタの手に余る重傷者と、無念にも討ち死んだ味方の亡骸とを乗せた荷馬車を見送り、冒険者の軍勢は早々と再び歩みを進めた。戦士の数が減ったが、戦に勝ったため士気は俄然高いままであった。そう言っても、賑わいを見せている訳ではなく、その反対に誰もが無言であった。彼らは体力を温存しつつ、次なる戦ではどのように動くことが手柄に繋がるものか思案に暮れていた。

 そして太陽が沈み始める頃に、長い休息を取り、深夜になると慎重な歩みで行軍を開始した。その最中に敵の斥候と思われる馬蹄が三度ほど聞こえ、冒険者達を武者震いさせ、あるいは緊張させもした。その他、夜明けになると両脇の深い茂みの中を幾度と無く何者かが粗雑な足取りで、こちらが目指す方角へと通り過ぎたりもした。神経質な冒険者や、腕に多大な自負を誇る者達が、追撃と捕縛を命じるように訴え出たが、ハリソン・スタイナーが首を縦に振ることは無かった。荒廃したとは言え、ムジンリの防壁と、それに似つかわしいはずの門扉を破るには、大きな犠牲を払うことになるのだと、老冒険者は後輩達に諭すように言って聞かせた。ムジンリの外壁の影がうっすらと見え始めたのは、更に長い休息を挟んだ翌日の昼前であった。

 ムジンリの防壁は高い丘の上に聳え立ち、山脈の裾を思わせるように傾斜に沿って左右に長々と広がっていった。その下には退却した盗賊達が大群となって居並んでいた。街道に仕掛けられた逆茂木と、打ち立てられた乱杭とを挟んで、冒険者と対峙した。

 戦列はクレシェイドとアディオスを含めた、歩兵達が前列になり、その後ろにはピタリと魔術師がついていた。ハリソン・スタイナーは、歩兵達を一組五人に分け、速やかに障害物の撤去を命じ、その後、騎馬隊に合流するように告げた。魔術師達は各々一人で、二組の部隊に目を配り、主に敵の凶刃に対する防御に尽力することとなった。

 クレシェイドらの隊を受け持つ魔術師は初老の男であった。

「じいさん、遅れるなよ」

 二つの部隊の若い冒険者達の冷やかしが飛んだが、老魔術師は不敵な笑みを浮かべて応じた。その凶悪そうな含み笑いを受けて冒険者達は萎縮し、静かに戦場へと向き直った。クレシェイドは、頭巾の下に見える魔術師の不敵な横顔に、仲間のヴァルクライムの面影を見たような気がした。

 程なくして、ハリソン・スタイナーの大音声の下、歩兵隊が次々と進発した。誰よりも先駆けて先陣を切ったのは、東方のショウハであった。彼の脚力は魔術の援護を受けているかのように素早く、行動を共にする仲間すらも置き去りにし、坂道を駆け上って行く。そして瞬く間に逆茂木を追い抜き、聳える乱杭の先を悠々と飛び越えていってしまった。敵も味方も、この一匹狼を超える大胆不敵さに度肝を抜かれ言葉を失っていた。しかし、間もなく深々と突出したショウハに向かって、雨霰の如く矢が空を染め上げた。その隙にクレシェイド達は、悠々と障害物に取り付き、蹴倒し、張り倒した。再び東方の男の行方を見ようとしたが、眼前は既に味方の部隊が右往左往し、窺う隙間すらなかった。

 そしていよいよ、東方の男ただ一人から、敵の矢がこちらの歩兵達に狙いを変えた。魔術師達の詠唱が方々で聞こえ始め、街道には次々と、茜色の花が咲くように、魔術の盾が何処からとも無く現れ、高らかな金属的な音を立てて矢嵐を防いでいた。しかし、冒険者達は防御に甘んじてる暇は無く、彼らは危険を覚悟で、魔術の盾の脇を擦り抜け、斜面を行き、新たな障害物に挑みかかって行った。そのため、矢の犠牲になる者の悲鳴が後を絶たず、時には矢の突き立った彼らの亡骸の脇を走り抜けなければなかった。

 クレシェイドらが最後に聳える一際大きな乱杭に取り掛かろうとした頃、背後から威勢の良い老冒険者の一声が響き、重なり合った馬蹄が聞こえ始めた。そのため、徒歩の冒険者達は大慌てで重い乱杭を破壊し、魔術の盾に護られながら早足で、残骸を街道脇に放り捨てたのであった。

 歩兵達が振り返ると、ハリソン・スタイナーを先頭に、冒険者の騎兵隊が駆け抜けて行った。その脇を魔術の炎や、操られた岩が追い抜き、敵の列にぶつかってゆく。敵も弓から刀槍に持ち替え、改めて迎撃の構えを取っていた。騎馬隊の鋭角のような先端が、敵に呑み込まれるや、悲鳴と怒号に混じって、そこを中心に血煙と肉片の影が舞い上がる。その後ろで徒歩の冒険者達が乗り込んだ馬車が次々と動き始める。クレシェイドは二番目の馬車の荷台に座っていた。足元には門扉を破る槌代わりの丸太がある他、弓矢一式、幾つかの大盾と、畳まれた頑丈な縄の束がある。他の冒険者達は即座に弓を拾い、矢を番えていた。

 前方では楔形に固まった騎馬隊が敵陣深く切り込んでおり、その後ろで魔術師達は声を枯らして、盾の魔術を戦場に張り巡らせている。彼らは防壁の上から執拗に攻撃してくる弓兵に対しても、魔術の炎や、眠りの閃光で応戦していた。

 討ち漏らされた賊達は、右往左往し、やがて互いに合流し一群となって、狙いを馬車に変え始めた。連中が射掛ける矢に対し、荷台から冒険者達も応射する。

 不意に、前を行く馬車から御者が転げ落ちた。途端に馬は狂ったように身を激しく捩じらせ、物資と共に荷台に乗っていた冒険者達が地面に投げ出された。

「丸太だ! こいつらこれで門を破るつもりだ!」

 賊達が方々で声高に叫び声を上げた。不意に、騎馬隊に従っていた魔術師達が、狼狽した様子を見せた。しかし、次の瞬間、彼らは吹き飛んでいた。その先に現れたのは、真っ赤な鎧で肩を覆った巨漢であった。両手には広げた船の帆と見紛うほどの奇怪で凶悪な蛮刀が握られている。そしてそいつの周囲に散り散りになっていた賊達が続々と集結しだし、瞬く間に荷馬車と騎馬隊との間を寸断してしまった。

 凄まじい一撃を受けた魔術師達は酷い有様であった。己の鮮血の中で既に息絶えているだろう者達もいたが、大半が呻きながら弱弱しく身を捩じらせていた。

 これまで以上の猛者の出現に、クレシェイドは思わず馬車から飛び降りた。おそらくは相手を務めるべきは己なのだろう。彼の後ろに大勢が駆けつけて来た。

「凄まじい剣だな」

 アディオスが傍らで息を呑んでいた。賊達は今では中隊程度となり、分厚い壁を形成している。赤い鎧の巨漢はその中心にいた。鉄の額当ての下から、冷ややかだが、凶暴な視線を感じた。

 この睨み合いの間にも、賊達は続々と合流してきている。立っているだけでも、こちらに有益なことが起きるわけでもない。冒険者の一人の声で、彼らは一斉に敵に斬りかかった。

 ふと、敵の前衛から、不気味な赤い閃光が宙を過ぎった。クレシェイドの周りで冒険者達が次々に倒れた。昏倒の魔術に違いない。出鼻を挫かれた冒険者達に対し、赤い肩の巨漢が短く「襲え!」と命令を下した。盗賊達は抜き身の得物を手にして、嬉々として躍りかかってきた。

「迎え撃つんだ!」

 肉薄する直前に冒険者の誰かが狼狽しながら声を上げた。

 クレシェイドは大斧「岩崩し」を敵勢目掛けて一薙ぎし、鎧ごと多くの賊を屠った。だが、切れ味に改めて感銘を受ける暇すらなかった。敵は恐れ知らずの、捨て身の攻撃を仕掛けてきていたのだ。肉片が空を舞うその下を新手の白刃が迫っている有様であった。クレシェイドは自身の鎧を敵の刃が貫けるとは思っていなかった。あえて敵の剣を受け、反撃で確実に討ち取る手段もあったが、穂に飛びつく蝗のような敵の勢いはその猶予すら与えてくれなかったのだ。彼は敵の声も、戦場の音も忘れ、ひたすら斧を振るい、知らぬ間に死体の山を築いていったのだった。

 一人の賊を切り伏せた時、久々に前方の景色が目に映った。が、そこに現れたのは一団となった賊達の持つ弓矢であった。

 冒険者達がハッとした時、同時に弦が絞られる音がした。矢は並んだ軍勢の如く、もう目前に迫っていた。

 冒険者達の前に、突如、熱風と共に地面から炎の壁が聳え立った。大地を裂き、大小の土塊を散らし、吹き上がる紅蓮の炎はまさしくマグマそのものであった。ドロドロとした灼熱の壁は大きく身を反り返らせた腹で、矢を受け止め、忽ちの内に煮溶かしてしまった。

 後ろから足音が聞こえてきた。老魔術師が赤い光りに包まれた杖を天高く掲げながら、歩み寄ってきている。冒険者達は彼の魔術だと知り、通り過ぎて行くその横顔を驚愕と畏敬の眼差しで見送っていた。老魔術師は最前列のクレシェイドの隣で足を止めた。暗い茶色の胴衣と同じ色の頭巾の下で、顔中の皺が深い溝を刻むほど歯を食いしばっていたが、その目だけは爛々とし、余裕を窺わせながら、同時に不気味な笑みともなっていた。

「私は、奴が何者だかようやく思い出した」

 魔術師は誰にとも無く言ったようだが、クレシェイドにはこの自分に向けて語りかけているのだとわかった。

「ブライバスンの魔術師ギルドの大資料室。歴史的な極悪人を綴った書物の一冊だ。その中に奴のことが記されていた。それによれば、ざっと五百年前に大陸の北東一帯を俄かに制圧した、大盗賊団の頭目にして冷酷な殺戮者、通称赤い膂力のリレイガスだ」

 魔術師は燃え滾る炎の壁から目を逸らさぬまま一呼吸置いて再び口を開いた。

「私は悪い魔術師だから分かるが、この盗賊どももまた、リレイガスのかつての同胞どもだ。人造の器の中に、長い間地獄の底を漂っていたそいつらの魂を引っ掴み、宿らせたのだ。こちらがのうのうと歳を取ってゆく間に、同時に着々と、御遊戯のように大陸征伐の大軍勢を創っていた奴がいた。というわけだな」

 相手は意味深げに言った。クレシェイドは己の考えが正しかったことを知りつつも相手を訝っていた。老魔術師はこの俺に何かを問い質したいというのだろうか。訝るクレシェイドの頭の中に、ライラのことが浮かび上がってきた。この老人は盗賊達をホムンクルスだと断定している。もしや、ライラの正体にも気付き、こちらが彼女の情報を漏らすのを期待しているのではないか。クレシェイドは老人に猜疑の目を向けていた。

「そろそろ魔術を消すぞ。このまま立ち往生していては、騎馬隊を悪戯に見殺しにするだけだ」

 魔術師は冒険者達を振り返った。

「良いかお前ら、私に命を預けろ! お前達は我が指令があるまで、決して前を見るな! 心配いらん、一瞬のことだ!」

 冒険者達は疑心暗鬼の顔を互いに向け合っていた。

「大陸屈指の魔術師殿の意見に従おう!」

 そう声高に訴えたのはアディオスであった。彼は老魔術師を眺めていた。

「あいにく、アンタが誰かはわからない。が、大陸十本の指に入る魔術師には違いないだろう。信じてみる価値は充分にある」

 アディオスに促され、冒険者達は次々と顔を伏せ始めた。そして彼自身もそれに倣った。クレシェイドも顔を伏せようとしたが、老魔術師は声を掛けて留めた。

「いやいや、お前さんは昏倒の術に惑わされんだろう。我が声と共に真っ先に切り込むが良い」

 クレシェイドは首を傾げたい気持ちになっていた。この老人は俺が何者かを知っているのだろうか。ならば、先ほどの一件も、ライラのことをどうこうする訳でもなく、むしろ俺自身に対して、カマをかけただけに過ぎないということか。

 炎の壁が急激に薄くなり、それは名残も無く空間に吸い込まれるようにパッと消滅した。

 前方には杖先をこちらに向けた敵の魔術師達が勢揃いしている。突然の新手の登場に、冒険者達は度肝を抜かれていた。先程の昏倒の魔術はこいつらの仕業ということだ。

 杖先から一斉に不気味な赤い煌きが走った。しかし、呼応するかのようにこちらの前面に金色の光りの壁が激しく明滅する。次の瞬間、敵の魔術師達と、多くの盗賊達が、無造作に崩れ落ちていた。

「反射の魔術か!」

 クレシェイドは驚きと賞賛に心中で勇躍し、思わず咽を唸らせていた。老魔術師は横顔に不敵な笑みを見せ、叫んだ。

「いざ切り込め、冒険者達よ! 道を開け! 敵を殲滅せい!」

 老魔術師の叱咤激励した。突き上げた杖先から、魔術の光りが背後の冒険者達に降り注いだ。彼らは身体中に更なる力が湧くのを感じていた。 

 クレシェイドは既に一足先に敵陣へ斬り込んでいた。しかし、先陣を切ったのは一人ではなかった。左には火走りの剣を手にしたアディオスが、右には三日月刀を提げた東方のショウハが並んでいたのだ。

 慌てる賊達の中に、三人は飛び込んだ。肉片が飛び血煙が吹き上がり、刃と鎧を紅に染めた。我武者羅に大斧を振るう先に、佇立する頭目の姿があった。両肩の真っ赤な鎧は楔形をしている。相手は冷ややかにこちら凝視していたかと思うと、両手で握った怪異な巨剣を振り上げ、大きな歩幅で疾駆し、見る見るうちに距離を詰めてきた。

 ザンバラ髪を獅子のように振り乱し、血走った両眼は妖魔に魅入られたかのように白目を剥いている。長身のクレシェイドさえ見上げるような巨体から、さながらギロチンのように剣が振り下ろされるや、クレシェイドも魂で叫びと共に「岩崩し」を振るった。重く激しい衝撃が両肩から身体中を軋ませ、強く握り締めた両手には、分厚い刃が拉げる間隔が鮮明に走った。

 相手の刃は折れ曲がり、分断され、その首と共に高々と虚空を舞っていた。

 首を失った巨体は、傷口から血を飛散させながら崩れ落ち、その鮮血の溜りの中に得物と首とが音を立てて落ちてきた。クレシェイドは気持ちが高揚しているのを感じていた。それは絶えて久しい感覚であり、彼がクラッドの時を生きていた、騎士の時代の奥深くまで呼び戻し、その情景に浸らせていた。そのため、固まっていた賊が四散して行く背中も、横を徒歩の冒険者と、荷馬車達が意気揚々と通り過ぎて行くことにすら気付くことはなかった。

「奴は運命を感じさせる相手だったか?」

 老魔術師の問いは、心地よく意識を現実に引き戻していた。戦場の喧騒が遠く、そして徐々に近く聞こえてきた。

「いいや……。俺の追う者には全く及ばない。曲がりなりにも運命を感じさせる存在といえばその者だけだろう」

 クレシェイドは疲れを知らぬ身体でそう応じると、相手を見た。

「どうやら、あなたは俺が異質な存在であることに気付いているようだ」

 老魔術師はカラカラと笑い声を上げた。

「事前に申し出が無ければ、疑念のままだったろうな。闇に染まった鎧を着こなしている、風変わりな猛者だったと、今でも思っていたはずだ」

 クレシェイドは確信した。

「あなたは、ヴァルクライム縁の方か?」

「いかにも。我が名はグレン・クライム。ヴァルの伯父にして一応は育ての親だ。奴目が一足先に行く際に、お前さんのことをある程度まで話してくれた。奴は最近の出来事にどうにもキナ臭さを感じているようだが、今回の件が私にも、同様のことを予感させた。いや、半ば決定済みだな。何者かが、何百年ぶりの大戦を、今再び巻き起こそうとしている。それも、かつて名を馳せた亡者どもを、根こそぎ甦らせてという、趣味の悪さを露呈しつつだ」

 老魔術師は初めて表情を曇らせた。

「世界各地に眠る、悪名高い報復者達は数知れず……あるいは、人だけとも限らないのかもしれん。邪悪な竜デルザントなどは、あいにく名しか知らぬが、ちょうどこの辺りを騒がせていたはずだ。偶然だと思いたいが、嫌な予感しかせんよ」

 老魔術師は戦場へ目を向けたが、その視線はムジンリの聳え立つ荒廃した防壁の遥か先、いや、いかなる風景をも見ているわけではないようだった。

「差し当たって、鉢合いたくない相手といえば、かつてのマイセン王国があった時、一時的に人々の声望を一手に集めた騎士、血煙クラッドだろうな。残念ながら彼の男が、その名を轟かせたのは、本当に一瞬の間だけだったが……その後の長い歳月の間に、武働きで奴に比肩する戦士はとうとう現れなかった。今回のリレイガスも殺戮者として名は轟かせていたがな。東方のショウハはよくわからんが、お前さんの友人アディオス・ルガーでは、決定打に欠ける故、引き分けが良い所だったろう。その点、今日という歴史の中で、こちらにツキがあったわけだ」

 背後で車輪が駆ける騒々しい音が響いてきた。

 見れば、街道から五台ほどの荷馬車がこちらへ向かって来ている。クレシェイドが意識を集中して目を凝らすと、荷台には武者震いしている腕自慢の冒険者達がそれぞれ満載されていた。

「冒険者の援軍のようだ」

「うむ、我々も再び戦場に身を投じるとしよう」



 四



 戦場に響き渡っていた多くの声も、失われつつあった。ハリソン・スタイナーの騎馬隊は、深く切り込み、道を開いたつもりだが、背後を寸断され、身動きが取れなくなっていた。老冒険者は反撃しつつ堅守に努め、大きな鉄の門扉の前を最後まで維持し続けていた。その結果、壁を打ち破った歩兵隊と荷馬車が合流し、今は錆びた門扉を丸太が打ち付ける重々しい音が、戦場を蹂躙し、賊軍の士気を少しずつ着実に萎えさせていた。方々で盗賊達が逃亡を始めると、ようやくとばかりに騎馬隊が逸早くその背に向かって疾駆し、敵を各個に殲滅していった。

 クレシェイドはアディオスと共に門前で待機していた。二人は冒険者が二十人がかりで、交互に丸太を打つ様を黙って見物していた。しかし、彼らは気を抜いているわけではなかった。二人の後ろには、命知らずの猛者が五人ずつ控えている。門が破れると共に、二人は彼らと共に真っ先に中へ飛び込む役を命ぜられたのだ。

 陽が傾き、そろそろ日没が迫ってきていた。門の向こうは静まり返っている。賊は最後の反撃のために息を殺しているのか、それとも既に逃亡したのか、いずれにせよ気になるのは町の住人の安否である。多くの人間が向こう側の街道を行き、アルマンへと辿り着いていれば良いのだが……。

 冒険者達が丸太を放り出した。彼らは疲労困憊の様子で地べたに座り込んだ。かつては黒鉄色であっただろう門扉は、今では大小の無数の傷跡に沿って茶色く錆び果てている。在りし日の勇壮な姿は見る影も無くなっていたが、その頑強さは未だに健在であった。

 ハリソン・スタイナーは困り果てた様子で白髪頭を掻いていた。丁度その時、町の外周を偵察に出掛けた一隊が戻ってきた。

 報告に来た五人組の冒険者達は冴えない顔色で話し始めた。

「ハリソンのとっつぁんよ、ありゃあ、駄目だね」

 年配の冒険者はそう言うと、飄々とした様子で煙草を咥えて火をつけた。

「何だ、どう駄目だと言うんだ?」

 老冒険者が尋ねると、相手は溜息のように、ゆっくりと口から煙を吐き出した。

「どうもこうも番人の数が多過ぎるんだよ」

「盗賊の生き残りがいるのか?」

 ハリソン・スタイナーの問いには、新たに戻って来た別の一団が応じた。

「残念だが、とても左側は行けそうも無いぞ」

 こちらも一番年配の冒険者が言った。彼は仲間達の眼差しを一手に受けていることに気付き、取り乱しながら話を続けた。

「ガーゴイルだよ。霊園の墓石かと思うぐらいに、斜面一帯に突き立ってやがる。ざっと二百はあるかな。どうやっても剣がもたないね」

「そう、こっちも同じぐらいだ」

 煙草を吹かした冒険者が頷いた。

 翼のある石像に意思を宿した存在がガーゴイルの主な姿である。彼らは古の宝物の前に、決して朽ち果てることの無い護り手として鎮座させられ、外敵の存在を感知すると動き出すのだ。そして本能のように、たった一つ彼らに刻まれた言葉のまま、目標を殲滅するまで、その暴力的な動きが止まることは無い。番人達の身体は石で出来ている為、剣で傷つけることは難しかった。

 クレシェイドは掃討に名乗り出ようとしたが思い止まった。これ以上目立つ真似をしては、今後旅をするに当たって、要らぬ詮索の目を集めてしまうかもしれない。

「とっつぁん、どうするよ? こっちも人数だけはいるから、奴らを倒すことができないわけではないけどよ」

「いや、止そう。賊の生き残りがいる可能性がある限りは、この門に背を向けたくは無いのでな。触らぬ神に祟り無しじゃ」

 彼は門扉を睨むと遠ざかり、左右に続いて聳える分厚い外壁を見回した。

「ショウハ、おぬしなら、この壁を登って行けそうか? すまんが、可能ならば内側から開けに行っては貰えまいか?」

 東方の男は一人だけ戦列から離れていた。彼は岩に腰を掛け、自身の放つ静寂な空気の中で、丁寧に刃へ砥石を走らせていた。その三日月刀の刃は、夕日の名残を受けながらも紅色には染まらず、あくまで銀色の煌きのみを発していた。東方の男ショウハは手を休め、おもむろに立ち上がると、この場にいる人々の視線を一身に受けていることを気に掛ける様子も無く、ツカツカと岩壁へ歩み寄り、剣を鞘に収めた。そして壁の出っ張りに手を掛けるや、慣れた動作で、蜘蛛かトカゲのように的確に足場を探して登って行った。結局、ショウハは一度も止まる様子も無く防壁の頂上へ到達し、こちらに一瞥すら向けずに町の中へと消えて行った。

「こちらも準備だ」

 アディオスに促され、クレシェイドと猛者達が門前に陣取った。程なくして、鉄の門扉の裏側を深々と抉り去るかのような音が聞こえ、聳える扉の片側が、地面を引き摺りつつ外側へ向かって押し開かれ始めた。

 まず東方の男の浅黒く堀の深い顔立ちと、厳しく冴えた眼光が現れたのだが、同時に周囲に居た者達は、顔を背けた。彼らの中には咳き込み始める者もいた。クレシェイドにも、それが腐敗した大量の肉の、胸がむかつくほどの甘ったるい臭気だということがわかったが、彼はその香りを掠めるように嗅ぎながら、永き時を経て、自分の身体に、いつの間にやら嗅覚が戻ったことに感動を覚えていた。

「死体が転がってるんだろう。それも山のように……」

 冒険者の一人が嫌悪感を現しながら呟いた。

 ハリソン・スタイナーが言った。

「しかし、外で野営するわけにはいかん。我々が今日勝てたのは、あくまで復讐の士気の勢いと、賊どもの猛りが逆に油断と侮りへと成り代わったからに過ぎぬ。そうでなければ、あのような戦士どもを相手にこうも無事ではなかったはずだ。せっかく手に入れた此処を、疎かにするわけにはゆかぬ。夜明けまでは、この中に居座り警戒に当たろうぞ」

 そして誰もが、陽の失せ始めている空を見上げ、肩をガックリと落としていた。今日は長い夜になる。すると、冒険者達の間を魔術師の衣服を羽織った聖女エベレッタが進み出て来た。

「皆さん、どうか、お待ちになって」

 彼女は美しい顔を険しくして訴えた。男達の疲労困憊の視線を一手に浴びながら彼女は話し始めた。

「私は町中で夜を明かすのは得策ではないと思います」

 その言葉で冒険者達の半数以上が、俄かに期待を取り戻したように、聖なる淑女と、指揮官の老冒険者とに交互に視線を走らせた。

「それに、もう一度門を閉ざしてしまうべきだと私は考えます」

 冒険者達から大きな歓声が上がったが、エベレッタの言葉に反する者達が異口同音に、「寝首を掻かれ、この度の戦が無益なものに成り果てる愚を犯すことには反対だ」と、懸念する旨を述べた。彼らの中には「生存者がいるかもしれない」と、述べる者も多数おり、その言葉に考えを傾ける者達が続々と現れた。不毛な議論が、結束を踏み躙った醜いいがみ合いになる前に、老冒険者は声を上げて場を制した。

「皆の衆、静まれ静まらんか! まだエベレッタ殿の御意見は終わったわけではないぞ!」

 ハリソン・スタイナーは頷いて、エベレッタに先を促した。聖女は感謝の笑みを僅かばかり見せると、表情を引き締めて話し始めた。

「この町に漂うのは、臭気だけではありません。しかし、それをはっきりとは言い現せませんが……。そう、闇の気配、不浄なる者のにおいに似ていて、異なるものというべきでしょうか……。その気配は、陽が落ちるに連れて少しずつ、濃くなってきています」

 しかし、先ほどとは違い、彼女の言葉に耳を貸し、思慮する者は減っていた。一人の勇猛そうな顔立ちの冒険者が進み出て述べた。「鉄鎖のキライだ」と、冒険者達が少し感銘を受けるように囁き合っていた。クレシェイドには見覚えの無い相手だったことから、援軍として来た者達の一人なのだろうと納得した。鉄鎖のキライは、革鎧に身を包んだ身軽そうな男だが、腕にも脚にも服越しに鍛えられた筋肉の痕が、影として浮き出ていた。

「まず言うがね、俺は神官と旅したことがあるが、彼らの言う、闇の気配だの、不浄なる空気だの、そういう意見については反論無く百発百中のもんだと恐れ入っているのは事実だ。しかし、闇の者、不浄なる者以外に、剣で切り裂き、鎖で穿てることのできない連中などいるか? まず、いないだろう? それでだ、俺が思うに、エベレッタ殿の例えようの無い気配ってのは、申されるところの間を取って、ずばり魔法生物だろうと予測するのさ」

 すると、どこからともなく魔術師の一人が進み出て、キライの隣に並んで一同を見渡した。彼は東方のショウハに似た風貌をしていた。冷ややかな双眸を向けてその男は言った。

「このキライの言うとおりだ。私には分かる。腐り始めた肉のにおいと共に、嗅ぎ覚えのある幾つもの魔道の薬品のにおいが……」

 クレシェイドはグレン・クライムの意見を求めようと、彼の姿を探したが、おかしなことに、その姿は見当たらなかった。疲労困憊の冒険者達を思えば、町に潜む未知なる存在をわざわざ呼び起こし、すぐに訪れる夜の帳の下で対峙するには多大な不安を感じた。そのため、クレシェイドは撤退を視野に入れつつエベレッタの意見に従うべきだと考えたが、既に場の空気はそちらに覆せるものではなくなっていた。冒険者達は待ち受ける者達が自分達でも抗える相手だと決め、それぞれ邪な魔術師が生み出した生物を掃討した経験のある者は、声高に冒険譚を語り、互いに浮かれ励ましあっていた。

「クレシェイド、腹を決めよう。生存者がいるかもなんて言われたら、さすがに俺も素知らぬ顔で、外で夜明かしなんて無理な話さ」

 アディオスは己の闘志を押し殺すように、辛抱強く囁いた。

「スタイナー卿、少なくともアルマンの方がどうなっているのか、早めに偵察を出さねばならぬ。石像のせいで迂回できぬとなっては、町中から向こう側の門を目指す他は無い。そのついでに、街をあくまで軽く捜索するというのはどうじゃろうか?」

 ペトリア村長のブランド・ノルケンが、平素は穏やかそうな顔を頑なに険しく変えて申し出た。村長としては、もともと単独で動く冒険者達に出来た一種の兵隊のようなまとまりを失うことを、大いに懸念している様子でもあった。

「村長殿がおっしゃられるならば、そういたしましょう」

 老冒険者が応じると、大勢が歓声を上げ、先を争うように荷馬車の方へと殺到した。

「しかしだ、皆。くれぐれもエベレッタ殿のおっしゃったことを肝に銘じておくのだぞ! 敵は魔法生物とも限らず、闇の者や、不浄なる者に等しい存在であるかもしれん! それに見よ、もう日は暮れた! ヴァンパイアのような者が力を増し闊歩する時間帯だぞ! 今夜は向こう側へ続く大通りをほんの一往復するだけにすぎぬ! 脇道へ逸れた者は、指揮官の権限により冒険者ギルドから厳しい罰が飛ぶものと心せよ! わかったか!?」

 老冒険者は声を嗄らして、冒険者達の背中にがなり立てたが、返って来たのは、松明に火を点けながらの威勢の良い生返事であった。

 鉄鎖のキライは、一足先に燃える松明を手にし、もう片手に長い鎖を揺らしながら、挑むように東方のショウハに迫った。

「出遅れちまったが、俺はアンタ程度になら引けはとらないぜ。アディオス・ルガー、何食わぬ顔してるが、お前だってそうだ。そのエルフだかドワーフだかの剣が無きゃ、手柄も声望も上げられはしない。そうだろうが?」

 キライはアディオスを嘲りと共に睨み、そのままクレシェイドを見上げた。

「格好と腕っ節はなかなか立つようだな。アンタが討った賊の亡骸を拝ませてもらったぜ。しかし、俺の見たところ、あの類は底無しの猪突猛進野郎だと相場が決まってる。突進しか知らないその頭に、アンタは然るべき間合いで、せせら笑いながら剣を振るっただけなんだろうよ」

 キライは彼と並んでいた魔術師と共に、一足先に暗くなった町中へと踏み入った。東方のショウハは意に返す様子も無く無言で、荷馬車の方へと歩んで行った。そして、クレシェイドとアディオスの前を、準備を終えた冒険者達が、次々に横切り、町の中へと駆け込んで行く。彼らの松明は死んだような町にあって、不気味に浮き上がり揺らめく亡者の魂のようであった。

「ワシもうっかりしておったが、誰も背後の心配をせぬとは嘆かわしい」

 ハリソン・スタイナーが二人の前で足を止めた。

「悪いがアディオス、ここに残ってくれ。御友人にもよろしく頼みたい。村長殿と、エベレッタ殿、あとは負傷した者達を護っていてくれぬか?」

「引き受けよう」

 クレシェイドが応じると、アディオスも同意した。

「ハリソン、くれぐれも注意してくれよ」

「すまんな。だが、どいつもこいつもキライの自信過剰にほだされてしまっておる。ワシの目の届かぬところで、今夜は必ず一大事が起こるだろうな。じゃが、なるべくお主らの手を煩わせぬようには努めてみせたいところじゃ」

 老冒険者は疲れた顔を無理に爽やかに微笑ませた。そして偶然なのか、彼が去り始めると東方のショウハがその後に、まるで近衛兵のように追従したのだった。今更ながらクレシェイドには、闇に浮かぶ老冒険者の堂々とした背筋に只ならぬ風格を感じたのであった。

「ショウハ殿は一匹狼だと聞き及んでおりましたが……いや、私情を挟まずスタイナー卿の護りに赴かれるなら、それは心強いことじゃが」

 村長のブランド・ノルケンも、意表を衝かれた様な口調でそう漏らした。

 そして一行は、地べたに木っ端と、松明を重ねて幾つもの篝火を焚き、負傷した者達には毛布を敷いて壁際に寝かせ、更に残りの毛布を羽織らせてやった。負傷者は10名であった。そのうち7人が魔術師だが、彼らは赤鎧のリレイガスの一撃を受けたため、急所は外れていたが、目に見えて深い傷を負っていた。そのため、エベレッタの神聖魔術が途切れる気配は無かった。怪我人を前にしては、クレシェイドや他の冒険者には成す術も無く、ただ無人の建物に囲まれた暗い通りの向こうを漂う、仲間の松明の行方を呆然と見詰めているのみであった。そして、魔法生物を懸念した割りには、意外にも街は静寂に包まれたままであった。

 しかし、ハリソン・スタイナーの危惧どおり、あるいは鉄鎖のキライの言った通りにか、急に方々から悲鳴が上がり始めた。しかし、その声は五、六回程で、歓喜と勇猛な雄叫びに成り代わった。それから、前方の薄闇に次々と松明の灯りが集い始め、それが近付いて来るに連れ、彼らの話し声も鮮明に耳に飛び込んできた。

「おい、アディオス・ルガー、生存者を見つけてきたぞ。喜べ喜べ、予想していたよりは大勢生き残っていていてくれた!」

 そして冒険者達に護られながら、老若男女の街の人々が率いられてきた。先頭は若い女であった。表情に疲労の色が凄まじく、彼女の後に続く者達も足取りが覚束ない有様であった。

「さぁ、こちらへ。まずは火に当たって下さい」

 丁度怪我人の手当てが終わったのだが、エベレッタはうんざりする様子も見せず、キビキビと彼らを迎え入れ、優しく励ましの言葉を掛けて回った。そして彼女は冒険者達に外の荷馬車に積んである食料を取りに行かせた。その間に、戻ってきた同業者達は事の顛末を話し始めた。

「キライの奴がやっぱり抜け駆けをしやがったんだが、それが功を奏したわけだ。物音を聞いたのかは知らんが、あいつは中央の通りを逸れて奥にある教会に向かったんだ。そして、奴が最初に言ったように、魔法生物の群れが中にウヨウヨいるのを見つけたってわけさ」

 他の冒険者が続きを引き取った。

「で、奴さんも手に余って応援を呼んだ。そんで俺らが加勢して、怪物どもを一網打尽よ。気色の悪い、ブヨブヨしたノロマな奴……えっと? スライムだ。と言っても、みんな花瓶位の可愛い奴だがね。剣で楽々貫き倒せたさ。それで、この人達はとりあえず教会の中にいた。どうやら監禁されていたらしい」

 すると、松明が一つ駆けつけ、その冒険者は叫んだ。

「次は西通りの酒場だ! スライムと捕まってる人らがいる!」

 その声を聞くや、冒険者達は勇躍して街の中へと引き返して行った。

 クレシェイドは生存者達を見渡した。こちらの大声など何処吹く風というように、茫然自失の様子で焚き火を囲んで座っていた。彼の目は、離れた場所で焚き火に当たっている若い女を見ていた。列の先頭にいた女性だ。彼女の長い髪は火に染まっていた。その目は空ろに火を見たまま、微動だにせず、呼吸で僅かに肩が揺れているのを見止めなければ、死んでしまったのだと勘違いしてしまうほどであった。

「怪我の治療に、お湯が必要です。どなたか井戸がどこにあるのか教えていただけませんか?」

 エベレッタが声を細めて焚き火に集う人々に尋ねたが、返事も無ければ、顔を動かす者も現れなかった。一人の冒険者が手近の集団の顔を覗き込み、彼らが揃って目を閉じて寝入っている事を告げた。どうにも訝しげが空気が流れたが、クレシェイドが視線を向けた先で、少なくとも先程の女性だけは目を開いているのがわかった。

「彼女に尋ねてみてはどうだろう?」

 クレシェイドがエベレッタに言うと、聖女はゆっくりとした足取りで近寄り、相手の前で腰を落として尋ねた。

「井戸はどこにありますか?」

「そうね。私も咽が乾いたわ……」

 それはとてもか細い上に、無理やり咽から搾り出すような掠れた声であった。

「ええ、お水をすぐにお持ちしますよ。井戸がどこにあるのかご存知ですか?」

 エベレッタが優しく聞き返した時に、離れた篝火の前に座っていた男が、おもむろに立ち上がった。すると、それに連れる様に、あちこちで立ち上がる者が出始めた。更なる不穏な空気を感じたが、精も魂果てた人々の心を荒立てるような言葉を不謹慎には口に出来なかった。

 エベレッタの前で女性が、驚くほどなめらかな動作で顔を上げた。クレシェイドは驚いた。最初からそうであっただろうか、女性の顔は雪のように血の気が失せており、そのせいで火の光りを受けた唇の影が際立って見えるほどであった。そしてこちらが悩むも無く、女の双眸の中の眼球はグリグリと忙しく動き、ようやく止まると、唇に不気味な笑みをたたえて、エベレッタに言った。

「水、飲みたい。そう赤い水……お前の」

 女は身体をユラユラとさせながら、ゆっくり立ち上がった。その狡猾そうな双眸と不敵な口元はまるで蛇であった。

「これは、闇の気配! そんな、あなた方は!?」

 女はエベレッタに最後まで言わせなかった。唖然とする聖女に両手を掲げ組み付き、押し倒したのであった。

「聖女殿!」

 冒険者の一人が叫び駆け出したが、不意に焚き火の傍から立ち上がった男に、横合いから殴打された。その音は凄まじく響き渡り、鮮血の影が夜空に消え、そして石畳に広がった。冒険者は既に絶命していた。身体が胸部から分断されていた。クレシェイドは男の手の先が異様に長いことに気付き、それがナイフのように伸びた爪であることを見た。その男が振り返る。意地悪げな笑みの中で、上唇から二つの牙が覗いていた。クレシェイドは相手が何者に成り果ててしまったのかを確信した。

「赤い水! 生まれたばかりの我々には血が足らぬ!」

 男が大音声で叫び、後方で仰向けに組み伏せられているエベレッタを振り返った。彼女は女に圧し掛かられ、両手を他の若い男女のヴァンパイアと成り果てた者達に押さえ付けられていた。

「サルバトール子爵は我々に御命じになられた! 今宵の宴の始まりの合図は、人間の聖女の両手を捥ぎ取り、その絶叫を聞きながら舞い散る甘美な血を暗黒の空の下に浴び、我らが主に祈りを捧げることと! 我らは祝福を受けねばならぬのだ!」

 クレシェイドは空を見上げ、今晩は月が出ていないばかりか、妙に厚い霧が頭上一帯を覆っていることに気付いた。そして彼の中で生きる闇の精霊もまた暗黒の祝福を受けて活気付いていた。

 ヴァンパイア達は、一人、また一人と立ち上がり、恐ろしい影の群れとなり、残虐な笑みで聖女を見下ろしていた。

「トラム! お主はトラムじゃろう!?」

 ペトリア村長のブランド・ノルケンが悲鳴に近いしわがれ声を発した。

「ブランド、ブランド。これはお久しぶりですな。しかし、もはや、お互いの町と村との交流のために顔を集わせることはありますまい。あなたがこちら側に来られるなら別ですが」

 トラムと呼ばれたヴァンパイアは答えた。彼は他の者とは違い、畏まった身形をしていた。そしてニヤリとしながら、上唇の下から突き出した二つの長い牙を見せ付けた。

「おお、こんな馬鹿な!?」

 村長は驚きのあまり後退りした。

「この町はあっと言う間に支配されましたよ。我々もそれなりに、逃げ延び、抵抗をしましたが、所詮は無駄な足掻き……。しかし、今は心の底から、闇の一族の血に見初められたことを、一同、喜ばしく思っております」

 トラムは淡々と述べた後、再び笑みを浮かべた。

「誰なんです?」

 冒険者の一人が村長に尋ねた。

「このトラムは……トラム・バーハングスは、この町の町長じゃった」

 村長は消え入りそうな声で答えた。

「さあ、デレクにアンヌ、暗黒に選ばれし名誉なる者よ、我らが仇敵の、その女の腕を捥いでしまえ」

 トラム・バーハングスが言うや、クレシェイドとアディオスは闇に生きる者達の中へと飛び出していた。

「討ち取れ! 宴を汚す者を許すな!」

 その声が轟く間に、「岩崩し」の分厚い刃は忽ち三人を薙ぎ払い、道を作っていた。アディオスも隣で剣を振るっている。彼はクレシェイドを援護していた。しかし、斧にさほどの手応えは無かった。まるで風に揺らめく布を切っているようであった。事実、目の端では、倒れたヴァンパイア達は無傷で起き上がり、それを相手にアディオスが必死に応戦していたのだ。だが、アディオスの剣、火走りの剣ユースアルクの研ぎ澄まされた刃は、敵の服を裂きながらも、冷たい皮膚に阻まれ虚しい金属の音を響かせ続けた。そして、エベレッタの姿を捉えていた視界に、突如滑るように影が割り込んできた。焚き火が男の頬を照らしす。トラム・バーハングスであった。真っ赤に輝く二つの目がクレシェイドを凝視していた。クレシェイドの全身を酷い重圧が襲ったが、彼の鎧の内側で闇の精霊達が糸を手繰り寄せるようにして、得体の知れぬ重圧を貪っているのを感じた。

 トラム・バーハングスは戸惑いを見せていた。真っ赤な両眼を躍起になって今一度輝かせてみせようとしたが、その頃にはクレシェイドは強く踏み込み、そいつの首に斧を叩き付けていた。その結果に双方が驚愕していた。斧は男の身体を足元の石畳にまで切り下げていたのが、その身体に走った剣閃は黒いガス状のモヤモヤした固まりとなり、一瞬の間の後にそれが消えると、服こそ破れていたが傷一つ無い男の身体がそこにあったのだ。

「これは!? 我が身体は健在と!? これは暗黒の祝福が、サルバトール子爵様の力に私が認められた証ということか!」

 狂喜乱舞し、男は長く伸びた爪を振るって来た。その尋常ではない速さをクレシェイドは見切れず、甲冑には次々と衝撃が走った。

「お前が倒れさえすれば、この場は終わりだ。その頑丈な鎧を殴り続けて、ひしゃげさせ、最後に肉体に牙を突きたててやるわ!」

 男は狂った笑いを轟かせ、猛攻を続けた。クレシェイドの鎧はビクともしなかったが、彼の斧はその襲い掛かる腕にさえも闇に呑まれ、受け止めることができなかった。そして男は攻撃を止めた。

「サルバトール子爵がお越しになる前に処理せねばならん」

 相手は血の気無い顔を苛立ちに歪めて言葉を吐き捨てた。

「この恐ろしい私を前に、後ろを振り返る勇気があるか? 今やお前の仲間達は1人残らず、我が術中の虜となっている。声も一切の身動ぎも封ぜられたのだ」

 クレシェイドはその声音から相手が和議のような提案を望もうとしていることを聞き取った。しかし、正体は和議とは言えない代物であることも察していた。彼が振り返ると、まずはアディオスの姿が飛び込んだ。彼の両目は前方の闇の彼方に向けられ、剣を下段に構えたまま静止していた。その周囲を陰険な笑みを湛えた、老婆のヴァンパイアと、中年の男のヴァンパイアが、グルグルと回るように動いていた。そして門扉の傍では他の冒険者と村長とが武器を身構えたまま、アディオス同様に身を硬直させていた。

「これが、サルバトール子爵から私だけが授かった高貴なるヴァンパイアの力よ。貴様が魅了されぬのは、私がまだ未熟ということではあろうが……」

「お前の望みは何だ?」

 クレシェイドは相手を見据えて尋ねた。

「他ならぬお前の死だ。サルバトール子爵様の前で見苦しく動くものをお目に掛けるわけにはいかん」

「俺が死ぬ代わりに、他の者を全て逃がすと言うわけでもなさなそうだな」

「全ては無理だ。しかし、後ろで寝ている怪我人どもと、ペトリア村の村長だけは逃がしてやろう」

「聖女殿も解放しろ。そうすれば、俺は驚くほど速やかに斧を捨て、鎧を脱いでやる」

「それはできない相談だ。今宵の馳走こそが、聖女の血と肉に他ならぬからだ」

 トラム・バーハングスは頑なに拒んだが、クレシェイドも引き下がるわけにはいかなかった。そしてわざと譲歩するような姿勢だけを匂わせつつも、その心の中ではどのような条件であれ、相手に屈するつもりは毛頭無かった。彼の脳裡には石となってしまったハーフエルフの少女の姿と、怪しい仮面を被り真紅の導師服を着たマゾルクの姿とが交互に肉薄していた。彼は僅かばかりの隙か、砂粒ほどの奇跡が起きることを願いつつ、慎重な態度で時間稼ぎに手を尽くした。闇の者達は興味深げにこちらを見守っていた。その表情は人の顔がこれほど凶悪に歪むものかと思わせるほど、不気味であり、同時に彼らの嘲りに満ちた微笑みは、精神の弱い者を雁字搦めにし、光りと生を思わず捨てさせるような、冷たい恫喝の様そのものであった。

「時間が無い」

 ヴァンパイアは言った。長く伸びた爪を片手で撫でながら、相手は神経質そうな表情を見せた。サルバトール子爵とやらはよほど恐ろしい主であるということか。クレシェイドもまた、これ以上時を稼ぐことが不可能になるだろうと身構えていた。彼は気取られぬように、町の暗い通りの先を一瞥した。ハリソン・スタイナーは、東方のショウハは、どうしたのだろうか。キライと名乗った自信に溢れた冒険者も戻って来ない。クレシェイドは、彼らの名を苛立ちながら心中で呟くが、ここでもう一人の男のことを思い出していた。

 グレン・クライムは、どこへ消えたのだ。彼は焦りのまま、ついつい背後の外壁に目を走らせていた。老魔術師がそこで佇立し、機会を窺っているような気がしたのだ。しかし、その行動がヴァンパイアを深い思慮の水底から目覚めさせてしまった。

「話し合いは終わりだ。こいつを組み伏せてしまえ!」

 トラム・バーハングスの声が闇夜に木霊し、ヴァンパイア達が爪を振り上げ、牙を剥き出しにし、襲い掛かってきた。

 クレシェイドは覚悟をした。今更この屍の身がヴァンパイアにはならぬであろうが、ここで長き放浪の道のりが終わってしまうのだ。断じてそれはできない。その全てを籠めた望みの無い一撃を横薙ぎに放った。

 大斧「岩崩し」は闇の呼吸と共にヴァンパイア達の胴をまとめて分断した。黒い煙状の剣閃が見えたが、敵は動じることなく、斧を振り抜いたクレシェイドに飛び掛り、抱き付きついた。両手を取られ、頭に次々と手を掛けられ、連中はすかさず脚にも飛びついた。シュー、シューという、威嚇するような鋭く咽を鳴らす音が重なり合った。赤い目という目がクレシェイドに注がれている。彼は歯を食い縛る様に、力いっぱい身を揺さぶって連中を放り捨てた。

 ヴァンパイア達は身軽に地を転がるや、揃って方々で四つん這いになり、怒れる獣のように身構えた。

「抵抗しても良いが、お前が空振りを続けている間に、他の者を容易く殺してしまえることも忘れるな。とは言っても、交渉は決裂だったな」

 トラム・バーハングスは、エベレッタの方を振り返り、首を縦に振った。「くそっ!」クレシェイドが視線を向ける先で、ヴァンパイアの男女が、もう一人に馬乗りにされているエベレッタの両手を掴んだ。そして、そのヴァンパイアの腕が筋肉で膨張した。

 突如として方々で炎が燃え上がった。廃墟のような町と大通りとが一斉にその姿を灯りの中に曝け出した。そしてヴァンパイア達は、素早く灯りの端に逃れ、その境目で、恨めしげに咽を鳴らしていた。

 うず高く炎が伸びていたが、その正体は全て薪の火であった。それらは荒ぶる火竜の首を思わせた。

「さぁ、間一髪だったな」

 クレシェイドは背後を振り返った。開け放たれた外門の下に杖を手にした人影が佇んでいる。

「今となっては手遅れだが、遅参の言い訳はおいおい話さねばならん」

 老魔術師グレン・クライムはそう呻くと、杖先で石畳を叩いた。その甲高い音に応じるように、焚き火の炎が一際大きく燃え上がった。ヴァンパイア達は悲鳴を上げて新たに広がった灯りの外へと逃れていった。

「もう動けるはずだ」

 グレン・クライムが言うと、アディオス達が尻餅をついた。冒険者達は恐る恐る指の関節を曲げ伸ばし、繁々と眺めて、ようやく立ち上がる。誰もが安堵の息を吐き、老魔術師に礼を述べようとしたが、グレン・クライムはエベレッタの方へと既に歩んでいた。

 彼女は座り込んだままであった。

「お嬢さん、立てるかい?」

 グレン・クライムが顔を覗き込みながら穏やかな声音で質問した。

 エベレッタは苦労するように、時間を掛けて首を横に振った。

「よし、そうか。ならば、良くなるまで私が護って進ぜよう」

 老魔術師はそう言うと、身を起こし、暗闇の境に潜むヴァンパイア達を見回して口元に不敵な笑みを浮かべた。そして彼はこちらを振り返り、声高に言った。

「冒険者達よ、各々の得物を掲げよ!」

 クレシェイド、アディオス、そしてその場にいた僅かな冒険者達は、一瞬、思案する間を置きながら、半信半疑で斧を、剣を夜空に突き出した。

 途端に刃から炎が燃え上がり、それはあっと言う間に無限に燃え滾る灼熱の塊へと姿を変えた。

「聖なる力には格段に劣りはするが、火には魔除けの力がある。根気が必要だが、何度も叩き付けて、ジワジワと連中の身体を灰にするしか道は無いぞ。灯りと暗闇との境に注意しろ、僅かに足先がはみ出るだけで、そこだけが別世界だ」

 そして老魔術師はエベレッタに向かって言った。

「そういうわけだ。どの道、アンタの力が必要になる。頼りにしてるぞ、お嬢さん」

「ああ、クライムさん。あなたには本当にお礼の言葉も見付かりません」

 エベレッタは嗚咽を漏らしながら礼を述べ、覚束ない足取りで立ち上がり始めた。老魔術師は開いている手を伸ばし、彼女の腰を支えた。そして背筋を正し、聖女はしっかりとした声で冒険者達に言った。

「暗闇の祝福を受けた闇の者を滅すには、少々お時間を頂かねばなりません。皆さんには、どうぞ深追いをせぬよう、囮と迎撃の役割をよろしくお願い致します」

「引き受けました」

 アディオスが応じると、他に四人の冒険者も聖女に向かって頷いた。クレシェイドは士気が高まることに心地よさを覚えながらも、斧に宿った強力な炎が、鎧の内側にいる闇の精霊達を萎縮させていることを感じた。良く悪くも何ら問題は無い、体よく以前の俺に戻るだけだ。一方で彼は懸念を抱いていた。やがて完成するであろう、エベレッタの神聖魔術から、どうにかして身を避けるようにしなければならない。彼女は既に綺麗な声を震わせて神聖魔術の調べを詠んでいる。

「聖女を止めろ! 殺せ! その血を貪り尽くせ!」

 暗闇の何処かでトラム・バーハングスが怒鳴り声を上げた。すると、境界線に踏み止まっていたヴァンパイア達は、物怖じする様子を見せた後、灯りの中へと駆け込んできた。

「そら迎え討て!」

 グレン・クライムが声高に命じるや、アディオスが先陣を切ってヴァンパイアの集団の前へ立ち塞がった。魔術の火炎が盛るユースアルクが、忽ち四人のヴァンパイアの胴を切り裂き、連中の冷たい濁った鮮血を周囲に飛び散らせた。想像を絶する有様に、他の冒険者達も魅了され鼓舞された。彼らも聖女目掛けて雪崩れ込んで来る者達を迎え撃ち、力無く突き出される爪を打ち払い、逆に炎を突き立てた。ヴァンパイア達は断末魔の声さえ上げることなく、傷口から火を噴きながら全身を焼き尽くされ、灰となって消え去った。

 クレシェイドも大斧を振り下ろし、敵の部位を悉く分断した。斬られた者達は後退しながら身体を蝕む炎に焼かれ灰となっていた。

「ええい! 退け!」

 トラム・バーハングスの声が響く前に、残ったヴァンパイア達は跳躍しながら境目の闇の方へと逃れた。

「おいアディオス、このまま朝まで待てば良いのではないか? ヴァンパイアの天敵は陽の光りだろう?」

 冒険者の一人が言い、アディオスが頭を振った。

「火が有限であることを忘れちゃいけないよ。焚き木が燃えカスになるまでが勝負ってことさ。以前の連中の力と速さとを思い出してみてくれ。奴らの一撃は、人間の身体など吹き飛ばしてしまった。そしてこの魔術の炎の剣も、次は容易く奴らを仕留められはしないだろう」

 冒険者達は愕然とし、縋る様な一瞥を聖女に向けたが、彼女が未だに詠唱を続けているのを見て、顔色を曇らせた。ヴァンパイア達は境目から離れ、闇の中で真っ赤な目を光らせていた。トラム・バーハングスの忌々しげに咽を唸らせる野太い音が聞こえた。それは焦りと苦悩する様を察しさせたが、少なくともクレシェイドはその演技に緊張を解きはしなかった。何故なら、闇に潜む赤い眼光が、密やかに、まばらに減っていったからである。

「敵には企みがあるようだ」

 クレシェイドは仲間達へ囁いた。

「どのような?」

 冒険者の一人が尋ねたが、彼は肩をすくめるしかなかった。しかし、確実にこちらを傷つける手段を講じてくるはずだ。例えば、消息不明のハリソン・スタイナーら、冒険者達を人質にして現れるというところだろうか。

 ギシッ。左手の闇の中で木材が軋む音が一度響いた。左も右も建物が並んでいる。クレシェイドはそれら列挙する影を注視した。しかし、周囲を清める炎の灯りは、彼の視力にも制限を掛けていた。闇の精霊は、難を逃れる一心で冷たい肉体に張り付き、自身等が生き残るために進んで、炎の灯りに睨まれぬように力を落としていた。

 ならばと、クレシェイドは炎の斧を振り翳し、境目へと歩んだ。彼が斧を振るうと、舞い散る火の粉を恐れ、ヴァンパイア達は、憎憎しげに引き下がった。境目から向こう側に入ると、鎧の内側で闇の精霊が力を発揮しようと明滅し始めた。彼はしばし待った。精霊達が現状の限界点にまで力を張り巡らすのを待ったのだ。そして目を凝らした。ヴァンパイア達は建物や、植え込み、そして通りの脇に置かれた荷車や、樽の陰に身を潜めていた。

 クレシェイドは建物の屋根を見上げた。すると、赤い軌跡を残し、影が左右の屋根を密やかに移動するのを見た。続いて彼の耳は、確かに弓の弦が軋む音を聞いた。彼は愕然とした。

「矢が来るぞ!」

 クレシェイドが仲間達に向かって叫ぶや、左右から鋭く風を切る音が闇の中で次々響き、灯りの中へ飛来するや、その姿を曝し出した。壁際にいた魔術師達が、慌てて杖を振り上げるが、彼の盾の魔術が現れる前に、数人の冒険者達は複数の矢に貫かれていた。アディオスはグレン・クライムの脇に駆け込み、2人係りで聖女エベレッタを身を挺して庇った。グレン・クライムが魔術の壁を繰り出す間に、彼に迫る矢を、心眼で見抜くかのように、アディオスが剣を振るって叩き落していた。魔術師の術が完成すると生き残りの者達は慌てて茜色の防壁の中へと逃れた。

 不意に己に迫る気配を感じ、それに向かってクレシェイドは斧を薙ぎ払った。こっそりと詰め寄っていたヴァンパイアは横腹を殴打され、並んだ樽の上に背中から落下した。けたたましい音を後にし、クレシェイドは灯りの中へと駆け込んだ。その間、矢は群れた飛蝗の様に無数の細い影をちらつかせ、灯りの中に飛来し続けた。魔術の防壁が高らかな音を立ててそれらを弾き返すが、息も吐かせぬ攻撃の前に、魔力の光りには大きな亀裂が走っていた。クレシェイドは即座に駆け付け、それが破裂する前に最前列に陣取った。大きく広げた腕を、脚を、鎧の上から矢が容赦なく揺るがした。魔術師達が傍らに進み出て、グレン・クライムほど頼もしいものではないが、盾の魔術を展開する。その直後に、エベレッタの声が一際大きくなった。その唄はうねり、虚ろであったが、周囲の物という物に反響し、呪われた闇を併呑するかのごとく凛と響き渡った。

 町中の石畳が白く輝いた。それは鏡のように、頭上の月夜の姿を映し出していた。呪われた黒雲はそれ以上に強力な聖なる祈りの力により、真下から貫かれ消え去ったのだ。三日月の灯りが町をおぼろげに照らし出し、白き輝きを帯びた地面の上で、もがき苦しむヴァンパイア達の姿をまざまざと見せ付けた。

 クレシェイドは、身体中から力がすり抜けてゆくのを感じていた。頭の天辺から、闇の力が足元の白く光る石畳に容赦なく吸い込まれているようだ。意識が混濁し、闇の力と共に引き剥がされるように下へ下へと流されてゆく。両手の感覚は奪われ、「岩崩し」が滑り落ちた。しかし、その重々しい音にさえ誰も気付きはしなかった。彼らの視線は、魔術師の衣を拭い去り、その下にある純白の衣装に身を包んだ聖なる淑女に注がれていたのだ。

 エベレッタは威風堂々たる歩みで前に出ていた。彼女の両腕は分厚い篭手のように、聖なる白き光りが包んでいた。彼女は冒険者達を振り返り、鋭い声で呼んだ。

「皆さん、武器を掲げて!」

 アディオス達が素早く各々の得物を夜空に上げると、刃を覆っていた魔術の火炎は、破裂するように盛大に火の粉を散らし、それは聖なる白い炎となって新たに膨れ上がった。彼らが武器の変化に見惚れている間に、エベレッタの視線は訝しげにクレシェイドの姿を捉えていた。クレシェイドは立ち尽くしながらも、鎧の内側から黒い闇の煙が、細い筋となって、全身のいたるところから立ち昇っているのに気付いていた。

「あなたは」

 エベレッタがそう言い掛けようとした時、グレン・クライムがクレシェイドの腕を取り、聖女に頷き返した。エベレッタは前へ向き直った。

「皆さん、私に続いて! 聖なる力の祝福は、必ずや敵を裂き、霧のように浄化してしまうでしょう! いざ、やあああああっ!」

 気合の掛け声と共に、聖女の左右の手には、対の長剣を模った浄化の光りが現れた。

「さぁ、行きますよ!」

 聖女は輝く大通りを駆け、その後をアディオス達が続いた。ヴァンパイア達は、深い泥濘の中を歩くように、背を向け、迫る白い光りの刃から逃れようとしたが、聖女率いる冒険者達に追い付かれ、白い光りに裂かれ、貫かれ、瞬く間に灰塵と化し掃討されていった。

 クレシェイドは朦朧とする意識がゆっくりと正されてゆくのを感じた。間隔の戻った聴力が、傍らの老魔術師の嗄れ声の唄を聞いた。こちらの腕を掴む手には、闇の魔力の濃い紫色の輝きがあり、クレシェイドを驚かせ、そしてこれが無謀なことであることを悟って声を掛けた。

「手を離してくれ。この状況では、やがて、あなたの身が持たなくなる」

 すると老魔術師は浄化の色に染まった石畳を、建物を一瞥し、含み笑いを漏らした。

「そうだとも。エベレッタ殿の力は大したものだ。彼女の勇気と使命感が拍車を掛けているのだから尚更だ。ならばこそ、お前はその前に、一足先に外に出る必要がある」

 老魔術師は甲冑を着たクレシェイドの身体を、苦労しながらも反転させ、外へと導き始めた。入れ違いに、生き残りの魔術師達が飛び出して行き、クレシェイドは遠目で、その手から放たれた魔術の炎が、途中で白みを帯びて行くのを見た。神と教会が認めた聖女の力に彼は恐れ入った。

「ヴァロウ……ヴァルの奴はお前さんの正体を漏らしはしなかったぞ」

 門を潜り、静寂と月灯りの支配する夜の中に出ると、老魔術師がそういった。

「だが、お前さんを気に掛けろとは言った。つまりはこういうことだったのだろうな」

 老魔術師は腕を放し、疲労に満ちた溜息を吐いた。

「気分はどうだ?」

 もはや、全身の隙間という隙間に厚く濃い糊で封をされたような気分であった。その内側で闇の精霊達が忙しく飛び回っている。彼らの羽音をクレシェイドは聞いているような気分になっていた。そして礼を述べる前に、老魔術師を見て驚いた。彼は片手に「岩崩し」を提げていたのだ。

「魔術さ。こいつを持ち上げるだけにも、かなり集中しなければならなかった」

 そしてヒョイと差し出し、クレシェイドが受け取ると、グレン・クライムは表情を幾分真面目なものへと変えて言った。

「さて、俺がお前達に遅れたのは、人知れず、ある男にここで眠らされたからだ」

 魔術師は話を続けた。

「奴は三日月刀のショウハのような、東国風の顔立ちをしていた。魔術師の姿をしていたが、無論、それは変装だ。奴の赤い瞳が輝いた時、俺としたことが身体中の神経を手繰られ束縛された後だった」

 クレシェイドは門を潜る前の問答で、鉄鎖のキライの隣で言葉を発していた人物の姿を思い出した。

「そいつに心当たりがある」

「そうか。しかし、思えば、エベレッタまでもその気配に気付けなかったというのが腑に落ちないが……」

 二人は共に思案し押し黙っていた。何も思いつけず、ひとまずはクレシェイドの方から口火を切った。

「ひとまずは、それがサルバトールという奴かもしれない」

 クレシェイドが言うと、グレンは頷いた。

「ああ。奴は、その眼で知らず知らずのうちにエベレッタや他の者を魅了していたかもしれぬな。まぁ、敵が分かった以上は、そんなことはどうでも良いわけだが……」

 グレンは物憂げに町の中へ視線を向けた。

「サルバトール……憐れな町の連中のような俄かヴァンパイアようにはいかんだろうな」

「俺はもう大丈夫だ。エベレッタ殿や皆の力になってやってくれ」

「そうするか」

 グレンは頼もしげに微笑んだ。彼が門を潜り、白い輝きに満ちた世界に入ると、取り出した杖先に浄化の光りが破裂するようにして現れた。老魔術師はこちらを振り返った。

 その時、一変して街中の輝きが消滅した。暗黒の靄が空間という空間に出現し覆い被さり、グレン・クライムの姿を遮った。

「出たな、奴め! 大した力だ!」

 グレン・クライムの唖然とした声だけが聞こえたが、それはくぐもりを帯びていた。クレシェイドが慌てて踏み入ろうとすると、門扉が内側から吹き飛ばさんばかりに迫り、重々しい音を立てて閉じられた。そして彼は分厚い鉄板の向こうで錆び付いた閂が掛けられる音を確かに耳にした。

「グレン、大丈夫なのか!? グレン!?」

 そしてクレシェイドが不意に頭上を見上げると、町一帯を封するように、黒く濃い霧が大きな泡のように立ち込め月の光りを閉ざしていた。

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