第9話 「脱出」 (後編)

 レイチェルはとある一室で休息を取っていた。今や、初めて訪れたときと同じように、通路の燭台には灯かりが瞬いていた。

 彼女がいるのは、初めて入って来たときの進行方向から見て、右側の四番目の扉であった。そこは鉄の扉で閂もある。この頑強な扉は、寝込みを襲われる心配を少なからず減らすだろう。そうでなくとも、彼女が寝ぼけ眼を擦るぐらいの余裕を与えてくれるはずだ。そして表に羊皮紙の表札が

貼られており、それによると部屋の主はルーグナーという名の人物であるようだ。神官のベルハルトと同じ、個室を与えられていることから、それなりの実力者なのであろうか。悪の神官に協力した盗賊の頭か、魔術師の筆頭か、そんなところだと彼女は思った。

 部屋には引き出しのある机と寝台があった。ルーグナーという人物は、どうやらあまり部屋には戻らなかったようで、毛布と寝台はすっかりと土埃に塗れていた。それをレイチェルが汗ばんだ手で払ったため、白いシーツはたちまち茶色の染みに塗れてしまっていた。だが、さして肩を落とすことはなかった。何故なら、この寝台の下には木箱があり、パイプと共に、火を起こす道具が収められていたのだ。他の部屋で見つけた袋詰めの蝋燭を持て余してしまうものかと危ぶんでいた矢先だったので、彼女は大いに喜び、己の勘の鋭さに自画自賛していた。

 ルーグナーの部屋には古びた本や冊子が山と積まれていたが、殆どが見たことの無い文字で記され、おまけにそれは酷く潰れような文体であった。そのために彼女は解読するのを早々に諦めた。その代わりに、何も記されていない紙を見つけると、この部屋の机に置いてあったインク瓶と羽ペンで、簡単な見取り図を描いていた。

 強張った背筋を伸ばし、レイチェルは大きく息を吐き出す。そして仕上がった見取り図を見下ろした。

 通路の右と左は、それぞれ六つの扉があった。右から、奥に向かって、神官の部屋、仮眠室、倉庫、ルーグナーの部屋、倉庫、開かない木の扉。左側は、最初の食料庫から始まって、仮眠室が三つ、食堂、開かない鉄の扉となっていた。レイチェルはそれぞれの仮眠室の箇所にバツ印をつけて、見るべきところが何も無いことを示した。広めの部屋には、並んだ寝台と、テーブルに椅子が幾つかあるだけであった。ただし、神官の部屋と倉庫の間にある仮眠室だけは、テーブルの上に食べ掛けのパンやスープの残りがあった。扉も開いていたため、昨日新たに現れた亡者達は、この部屋にいたのだと彼女は結論付けた。そして、亡者への変異の原因は、やはり食べ物である説が濃厚となってきたため、空腹の彼女の意気は大きく削がれていた。ここには安全な食料は残っていないのだろうか。そして、水だ。咽はカラカラであり、彼女の心は屈する寸前で踏み止まっている状態であった。

 今日中に手に入らなければ、明日からは立つことすらもままならなくなるだろうか。閉じている部屋の扉を見据えつつ、彼女は思案した。鉄の扉には閂が挿されている。奥の二つの開かずの扉も同じ状態なのだろう。左側の鉄の扉は無理だとして、右側の木の扉なら、力付くでどうにかなるかもしれない。例えば、椅子を扉にぶつけてみてはどうだろうか。最低でも仮眠室の数だけ不要な椅子がある。彼女は頷いた。力尽きてしまう前に全力を出し切ってみよう。

 彼女は考えに耽っていたため、小突くような儚い音が外の通路を彷徨い、咽を唸らせつつ、ついにこの部屋に前に辿り着いていたことに気付けなかった。

 唐突に扉の取っ手がガチャガチャと音を立てて揺さぶられ、レイチェルは驚愕のあまり、危く椅子の上から転がり落ちそうになっていた。

 どうにか踏み止まり、恐々と扉を睨みつける。怖いことが幾つかあったし、考えすぎだったのかもしれない。しかし、やはり扉は乱暴に叩かれ、戦慄の音を響かせた。

 レイチェルは両手で口を塞ぎ、悲鳴を押し殺した。

「ルーグナー先生、アンタ、中にいるかい?」

 粗暴な男の声がそう尋ねた。レイチェルは緊張しながらも、相手の声に聞き覚えがあるような気がしていた。

「この際、先生でも誰でも良い。中にいる奴、さっさとこの扉を開けやがれ。俺は気が短いんだ」

 相手が何者なのか、レイチェルは思い出した。牢獄にいたあの脚の不自由な盗賊だ。左右の口髭が致命的名ほど不揃いのあの男だ。そいつはアネットを愚弄した。しかし、今は憎しみが湧かなかった。ただ、この男が去ってくれることを祈っていた。だが、思い出してみれば、あの男は鉄格子に縛られたままであったはずだ。ここまで来れたということは、竜の起こした地鳴りの影響で地形が歪んだのだろう。それにしても最悪だ。彼女は震えながら強くそう思った。でも、あのまま餓死してしまうのも悪者とはいえ、罰にしては悲惨過ぎるかもしれない。

「ちっ、誰もいねぇみたいだな。とっとと他を当たることにするか」

 心底残念がるように言うと、相手は手にしているであろう杖の音をコツコツと響かせて動き始めた。レイチェルは聞き耳を立てていた。地面を叩く音がゆっくりと遠ざかって行く。何やら訝しむ様な声もとても小さく聞こえた。きっと奥の扉の前にいるのだろう。レイチェルはそう判断を下した。しかし、厄介なことになったと彼女は嘆息した。これでは食べ物を探しに行くことができない。

 激しい音と共に目の前の扉が大きく軋んだ。レイチェルは不意を衝かれたため、思わず短い悲鳴を漏らしてしまっていた。

「やっぱり誰かいやがったな! 誰だ、おいこら! ついでに、こちらはデレンゴ様だ。同胞なら当然、こちらとら危害を加えるつもりはねぇ! ただ、協力しあいてぇだけよ。脱出口の鍵の在り処を知ってりゃあ、更に言うこと無しだ。と、いうわけで開けな!」

 どうすべきだろうか。レイチェルは思い悩んだ。このまま黙っていれば、部屋の中にいるのが仲間では無いことに気付いてしまう。かといって、正直に申し出ても同じ結果だ。運を天に任せ、彼女は黙することを選んだ。もしかすれば、空耳だと思い直して、放っておいてくれるかもしれない。

 扉が今一度大きく打ち鳴らされ、男が声を荒げた。

「仲間じゃないってことだな? と、いうことは、あのデカイ神官か、クソ生意気なガキか。その連れの誰かか……」

 男の声が思案気に言った。レイチェルは恫喝されるのを恐れ、身構えていた。だが、次に聞こえてきた言葉は卑しい猫撫で声であった。

「だったらむしろ好都合なのかもしれねぇな。ルーグナーの奴が食料を大量に掠め取ったとは思えねぇし、こちとら食料庫にある山ほどの食い物をチビチビ食い潰しながら、どこぞのオメェさんが餓死しちまうのを待ってりゃ良いわけだ。もっとも、出てきたところで矢で射抜かれちまうのがオチだがな」

 まさしく何もかもがその通りの展開だ。生き残るためには、どうすれば良いか、レイチェルは深く考え込もうとしたが、結局は食料の不足へと行き着いてしまうのであった。しかし、肝心の食べ物も疑わしいのが今の状況だ。二つの開かずの扉にその希望を見出すしかないが、そのためには向こう側にいる盗賊をどうにかしなければならない。不浄なる者が隠れていて、その男を襲うとか……。レイチェルは頭を振って、胸中で己を罵った。相手が幾ら悪人とはいえ、神様でもない神官が、その死を願うだなんて、傲慢極まりない、何たる罰当たりなことか!

「今、俺はパンを持ってるぞ。ああ、美味そうだな」

 パン!? レイチェルは思わず慌てた。新参者の盗賊は「毒」のことを何も知らないのだ。しかし、それを好機だと思う己の声がこう囁く。「放って置けば敵は勝手に亡者になる。そうなれば浄化の魔術で灰へとイチコロよ」

「そのパンを食べてはいけません!」

 レイチェルは、己の穢れた囁きを振り切るようにそう叫んでいた。

「その声は……芋姉ちゃん、テメェか!」

 レイチェルは返事をしなかった。その呼び名を認めるわけにはいかなかった。

「俺に鞭をくれようとしたやがったな。やれやれ、まったく恐ろしい女だ」

「それは、あなたが、私の友人を馬鹿にしたからです!」

 相手の嘲笑う口調に対し、レイチェルは苛々しながら声高に叫んだ。

「まぁ、いいや。俺は、オメェが餓死しちまうのを待たせてもらうわ。水も無いんだろうから、三日ぐらいで逝けるかもしれねぇな。ああ、長い長い。それまで退屈だぜ」

 相手は嫌味ったらしく暢気な口調を装った。レイチェルは思慮を巡らせていた。この分からず屋風な相手を、どうやってパンから引き剥がすか。もう一度、訴えてみるしかないか。

 彼女が口を開きかけたとき、不意に向こう側で苦しげな呻き声が聞こえ始めた。パンを食べたのだろうか。レイチェルは驚き呆れつつも、弾かれるように閂を外した。間に合うだろうか。浄化の旋律を口にしつつ彼女は鉄の扉を押し開いた。

 開かれた扉の向こうに、男が膝を曲げるようにして突っ伏していた。苦しみに苛まれる哀れな呻きが、乱れた黒髪の下から聞こえてきている。間に合うだろうか。浄化の光りが男の体内を回る毒を消し去れるかは不明だが、それでもレイチェルは相手に近付いて行き、白い輝きに満ちた片腕を差し向けた。

 すると、男が突然顔を上げた。赤ら顔には爛々と光った双眸があり、不揃いの口髭が勝利に歪んでいた。罠だったのだ。そう思ったときには、相手は既に身体の下から、矢の番えられた弩弓を見せていた。

「俺達は敵同士だ。相手をほっぽり出しておいて、ここを動き回るなんざ、到底できねぇ話だよな」

 脇の下で杖を抱え、それを支えに相手は立ち上がった。相手は卑しい笑みを向け、こちらを見下ろした。

「次はオメェが縛られな、芋姉ちゃん。正確には俺を置き去りにしたのはあのデカイ神官だが、オメェも同じ穴の狢ってやつだ。見捨てられた恐怖ってのを味あわせてやる。剣を捨てろ」

 冷酷な声がレイチェルの項を逆立てた。更に矢先を突き出され、レイチェルは仕方なしに鎖断ちの剣を地面に落とした。切り掛かったところで、向こうの方が早いだろう。彼女が見上げると、盗賊のデレンゴは仏頂面を見せていたが、その顔が不意に持ち上がり、視線が先の方へと注がれた。

「何だ、他にも誰か居るのか?」

 その不吉な問いが示す音が、レイチェルの耳にも聞こえてきた。もはや馴染みつつある、砂利を無造作に踏み締める音と、死者の虚ろな鳴き声が……。狙っている矢のせいで、彼女は動けなかった。しかし、死者は通路に出て着実に背後に近付きつつあった。それにしても、何処に潜んでいたのだろうか。調べられる部屋は全て隅々まで見渡したつもりでいた。

「おう、アンタはジザックだったか。ちょうど良い、縄を持ってきてくれ」

 デレンゴは気を良くして迫りつつある何者かにそう頼んだ。が、その相手がまともな返事をせず、恐らくはヨロヨロと歩む様を見て、やや表情に疑念を浮かべた。

「お前さん、ヒデェ顔色だな。そんなにフラフラで、もしや何も食ってねぇのかい?」

 ああ、亡者なのだとレイチェルは確信した。浄化の白い光りは今も彼女の右腕を包んでいる。剣を使いたいところだが、拾おうとすれば、この盗賊を下手に刺激してしまうだろう。もっとも、後ろを振り向けなければ、どうにもならないが……。

「おい、止まれよジザック先生よ。どうにも、アンタ、普通じゃないぜ。俺を、あんまり脅かさないでくれよな。食料ならこの先にたっぷりあるんだ。二人で山分けにしようや」

 そう訴えるデレンゴの顔を困惑が覆っていた。亡者が、一際大きく怨念めいた声を上げた時、盗賊は短い悲鳴を上げて、身体を震わせた。その勢いで杖の感覚を見失い、背中から倒れていた。

 その音に刺激され、死者が一挙に歩みを急がせる音が聴こえた。レイチェルが振り返ると、魔術師の亡者はまだ血色の残っている両手を突き出し、指という指を鉤型に曲げて、彼女に覆い被さろうとしていた。白く濁った双眸がすぐそこにある。

 レイチェルは悲鳴を上げて後退した。そして両腕を振り下ろした亡者が、憎憎しげに身を起こし、こちらを睨むのを見た。

「おいおい、ジザックさんよ、アンタ酔っ払ってるのかい? 最後通告だ、止まれ!」

 地面に尻を着きながら、盗賊のデレンゴが焦りを含んだ声で呼び掛けた。

「パンです!」

 レイチェルは盗賊を目の端に捉えながら言った。

「どうやら、食料庫の食べ物には毒が含まれているみたいです。同じような死んだ方々を私は浄化しました」

「俺を騙して、食料を独り占めする気かい?」

「そんな卑しいことは望んでません! 犠牲になった方々の周りには食べ掛けの物が必ず落ちていたのです! だから、私は食べ物に毒があるのではと……」

 亡者が危な気ない足取りで挑み掛かって来た。

「ちっ、いずれにせよ魔術師さんよ、余興にしちゃ趣味が悪過ぎだ! くたばりな!」

 デレンゴは弩弓を向け引き金を引いた。矢が唸りを上げて一直線に亡者へと飛来してゆく。そして首元に突き刺さったが、亡者は片側に大きく体重を取られた様子をみせただけで、飢えた顔はこちらの二人を見たままであった。

 デレンゴが驚愕の声を漏らすや、レイチェルは飛び出し、光る腕を繰り出して、亡者に刺さった矢を握り締めた。彼女が意識を集中させると、矢が白く輝いた。そして、亡者ののたうつ様な手が頭上より振り下ろされる前に、それらは彼女の前で灰となって崩れ落ちたのだった。

「こりゃ驚いたぜ。死体野郎だったとはな……。しかし、何故だ?」

 デレンゴは目を瞬かせて誰にとも無く尋ねた。

 レイチェルは振り返り、中年の男の呆けた赤ら顔を見据えつつ、彼が利害の一致で協力、あるいは休戦をしてくれるかどうか考えた。しかし、新たにいそいそと番えられた矢は、はたしてこちらに向けられていた。

「今みたいなのが、まだいるってのか?」

 盗賊は生真面目な顔をして尋ねてきた。良い兆候かもしれない。レイチェルは頷いた。

「ええ、たぶん……」

「そうかい……。死体野郎の相手に、矢は無駄か」

 ここで余計なことを言うべきではない。レイチェルは黙って相手の思案している様を見守った。デレンゴは一頻り悩んだ後、決意するように頷いた。そして彼は弩弓の狙いを彼女から外した。

「そういう点じゃ、神官は便利ってわけか。よし、外に出るまでお互い恨みは忘れて組むことにしようや」

 相手は笑みこそ無かったが、声は以前と違い多少は穏やかなものではあった。レイチェルは一安心しながら喜んで頷いた。相手が足が不自由なことに気付き、彼女は慌てて手を差し出した。

「おっと、んでも馴れ合いはごめんだぜ」

 相手は鼻先で冷笑し、自力で立ち上がって見せた。



 二



 差し当たって二人がやったことは、盗賊のデレンゴがポケットに忍ばせていたパンを捨てさせることからであった。デレンゴは半信半疑だったが、レイチェルがもう一度、亡者達の側に食べ物が転がっていたことを口に出すと、相手は押し切られるように、言に従ったのだった。

「ちっ、だったら尚更早いところ出て行かなきゃな。水も食料も当てにならねぇならよ」

 盗賊は足元に転がる食料に忌々しげな一瞥をくれて言った。レイチェルも切実にそう思っていた。

 二人は奥の扉の前に来ていた。正確には通路の先にある壁の前だ。左右には開かずの扉が二つある。その過程で、先程の死者が手近の仮眠室の寝台の下に潜んでいたことを、痕跡からデレンゴが突き止めていた。その盗賊が、何ら変哲の無い剥き出しの岩壁を注視し、なぞる様に手で触れている。不思議そうにレイチェルが見物していると、盗賊は言った。

「言ったろ、出口があるってよ。そいつがこれよ」

 廊下を真っ直ぐ奥にいった目の前の壁を、デレンゴの太い人差し指がなぞり、そこに刻まれた垂直に続く溝を現にした。しかし、レイチェルは訝しく感じていた。こんなに簡単に出口が見付かるなら、わざわざ組む必要はなかったのではないだろうか。それとも偶然に亡者が出てきたため、動揺のあまり咄嗟にそう言ってしまったのだろうか。振り返ったデレンゴは、レイチェルの視線を受けて、小さく溜息を吐いていた。

「まったく、オメェをぬか喜びさせようと思ったんだがな。お察しの通り、この扉はこのままじゃ開かねぇのよ」

「鍵が必要なんですか?」

 レイチェルが尋ねると、相手は頭を振った。

「少し違うな。その扉から地下に降りて行って、歯車を回して鎖を巻き上げるのさ。だが、オメェさんの言うとおり、その歯車を動かすのには鍵が必要だ。ルーグナーの奴が管理してたはずなんだが……。腰に年代物の短剣をぶら提げてる魔術師を見なかったか? あいつはエルフから盗んだあれをいたく気に入ってやがったんだ」

 デレンゴは右側の開かずの木の扉を一瞥して言った。

 レイチェルは首を横に振った。浄化した亡者達の残した物の中には、それらしいものは見当たらなかったはずだ。調べたわけではないが、短剣なら落ちる音で分かるだろう。でも、もしも、見落としていたら? 何せ、魔術師達の衣装に触れたわけでもないのだ。灰になったとはいえ、触るのには気が引けた。しかし、脱出がかかってるのなら、仕方が無い。彼女は正直に述べた。

「でも、詳しく調べたわけじゃありません」

「だろうよ。お前さんは寝床の下にいる死体野郎を見過ごしたんだからな」

 意地悪く冷たい口調で相手に言われ、レイチェルは心が痛んだ。

「見てきます」

 彼女は相手の答えを待たずに駆け出した。その時、背後から、扉が押し開けられる聞き覚えのある激しい音が木霊した。デレンゴが上擦った悲鳴を上げ、亡者の物悲そうな鳴き声が続いた。レイチェルが振り返ると、デレンゴがあんぐり口を上けながら、おずおずと後退し、その目の前に亡者となった魔術師が身を振り乱すようにして力強く迫りつつあった。

 デレンゴが背後の扉越しに、尻から崩れ落ちた。レイチェルは既に駆け出しながら、鎖断ちの剣を握り締め、聖なる魔術の旋律を詠んでいた。

「オメェは、ギュンターか! 寄るんじゃねぇ、死体野郎め!」

 デレンゴが罵った。僅かばかり正気を取り戻したらしく、彼は弩弓を亡者に向けて矢を放っていた。亡者は胸の辺りに矢を受け、少しばかり体勢を崩したが、ゆらりと身を立て直した。その際、頭部が乱れ、レイチェルは土気色の横顔と、不気味な白い目玉を見ていた。

「芋姉ちゃん、何やってんだ! オメェと組んだのはこれのためだろうが! ひいいいっ!」

 相手の必死な声よりも、レイチェルは亡者がこの剣を避けはしないだろうかという不安に駆られていた。何せ「鎖断ちの剣」は重かった。両手で握り、ようやく重心を安定させることができる。その屈強な刀身に聖なる光りが瞬いた。黒っぽい魔術師の衣装を羽織った亡者の横腹目掛けて、レイチェルは剣を突き出した。亡者は切っ先に抉られ、壁にぶつかるや、灰塵と化していった。

 それからレイチェルは、灰の山に埋る魔術師達の衣装を調べたが、目当ての人物の証だという年代物の短剣も、何も見付からなかった。

 報告しに戻ると、盗賊は生真面目な顔で、今し方に亡者が破壊した扉の先を凝視した後、彼女を振り返った。その最中にレイチェルは鼻腔を刺激する、紛れも無い便所のにおいを感じ、顔を背けたいの堪えて話した。

「短剣を持ってる人はいませんでした」

「そうか。だとすると、もっと地下だな。奴が生きてるか死んでるかは知らねぇが」

 デレンゴは最後に残った左手の鉄の扉を睨みながら咽を唸らせた。

「オメェさんの予想は当たってたのかもな。そこにも食い物の欠片が転がってやがったのよ」

 盗賊は反対側の部屋を振り返って言った。言うまでも無くそこは便所であった。ただ、壁に掛かった蝋燭の火は落ちていたが、狭い部屋のため、通路の灯かりの帯だけでもはっきりと中を窺うことができた。奥の壁際に広く穴が掘られている。そして齧られたパンと、半分ほど食べられたリンゴが手前に落ちていた。リンゴは既に変色していた。

「ここから飛び出してきた奴はギュンターって奴だ。仲間内では大した魔術師じゃ無かったようだが、こいつは足をやられちまった俺に肩を貸してくれた。まぁ、それだけのことよ」

 デレンゴは冷徹さを装うに鼻を鳴らすと、再び鉄の扉に向き直った。彼は鉤形の取っ手を捻ったが、扉は極僅かに前後するだけで、開くことは無かった。盗賊は舌打ちし、苛立たしげに灰色の扉を蹴飛ばした。そして彼は痛さに呻いた。

「何かで打って破るしかねぇだろうな」

 盗賊は独り言のように呟いた。

「椅子では、どうでしょうか?」

 レイチェルが提案すると、盗賊は可も無く不可も無くというように咽を唸らせた。相手は両脇に杖を抱えているので、レイチェルは率先して手近な仮眠室へと向かって行った。

 彼女が持ってきた簡素な二脚の木の椅子を、デレンゴは壁に背をつけて支えとしながら、両手で持って叩き付け始めた。椅子は脚が折れるところから始まり、瞬く間に木っ端へと成り果てた。デレンゴが合わせて六つもの椅子をお釈迦にし、七つ目を半壊させたところで、灰色の鉄の扉は痛々しい音を鋭く響かせて、蝶番の音を軋ませながら後ろへと退いていった。

 その先は暗闇であった。

「下へ続く階段があるはずだ」

 肩で息をしながらデレンゴが言った。赤ら顔は殊更朱に染まり、額から頬を伝い玉のような汗が流れて行く。それは不揃いの口髭の中に吸い込まれていった。

 盗賊は先へ行くように顎をしゃくって訴えた。レイチェルは暗闇の中へと歩んで行った。

 剣に宿った白い光を翳すと、小部屋のすぐ奥に、広めの穴が開いているのを彼女は見つけた。

「ありましたよ」

 彼女が振り返ると、そこに盗賊の姿は無かった。だが、杖が地面をゆっくりとした感覚で打つのを聞いて、相手はきっと戻って来るだろうと彼女は確信していた。もっとも、お互い逃げ場は無いわけだが……。

 穴はとても広く、岩が、階段となって下の方まで続いている。彼女は思案した。デレンゴは杖をついたままここを行けるだろうか。階段代わりの岩はただ置かれているだけだ。杖の突きどころを間違えれば、岩が転がるばかりか、デレンゴ自身も奈落の底へと後を追う羽目になるだろう。しかし、自分一人でこの先を行くというのも、恐ろしいことには違いなかった。

 彼女が悩んでいると、背後で、くぐもった重々しい音が聞こえた。

 盗賊のデレンゴは、頭陀袋を引き摺り、手にはカンテラを提げていた。

「蝋燭だ。こいつを持ってかねぇと、迷っちまうだろうよ」

「この下には何があるんですか?」

 レイチェルが尋ねた。

「魔術師どもの研究所だ」

 レイチェルが黙って見詰めていると、相手は苛々するように咳払いし、話を続けた。

「色々、得体の知れねぇもんがある。そんなもので犇めき合ってる場所だ」

 レイチェルの脳裡には、あくまで幼い時に読んだ、童話の場面が浮かんでいた。ガラスの器具に入った色々な液体を注ぎ合わせたり、そんな液体の詰まった大鍋が火にかけられてグツグツと泡と湯気を発している。ただし、今回それをやっているのは狂ったような笑顔を浮かべている老婆ではなく、魔術師の衣装に身を包んだ男達であった。彼女の頭の中で、そいつらは残酷な嘲りを浮かべていた。

 レイチェルは小部屋の燭台に蝋燭を挿し火を灯した。橙色のどこかまどろみに誘うような色が部屋を照らし出す。いよいよ準備が終わった。レイチェルは盗賊を振り返った。

「降りて行けますか?」

 盗賊の男は、力強く杖を突いて、危な気なく穴の底へ目を凝らしていた。

「格好はつかねぇが、どうにかできるだろうよ」

 相手は階段に腰を下ろし二つの杖を左脇で抱いた。レイチェルは相手の意図を察した。彼女は蝋燭の束と点火道具の一式の入った頭陀袋を背負い、剣の光りを向けながら先へと下りて行った。デレンゴは、空いたもう片腕で、火の点いていないカンテラを捧げ持ち、尻と背を使って、どうにか後に続いて来ていた。

 白い光りが揺れる度に、底無しの闇へ誘おうとする石段が、青白く浮かび上がるように照らし出された。そして聞こえるのは、デレンゴの苦心するような息遣いと、石の上を衣服が引き摺る音、そしてカンテラの取っ手の鎖が揺れる微かな音色であった。

 下の方に平たい砂利の地面が見えてきた。そして正面の壁には挿された燭台の影がある。彼女は地面に降りると、左手が行き止まりの壁で、通路は右へ続いているのを確認した。デレンゴが降りてくるのを待ちながら、警戒し、そして燭台の籠に新しい蝋燭を突き立てた。火が灯ると同時に、デレンゴも辿り着いた。

「あちこち擦り剥いちまったな」

 彼は忌々しげに吐き捨てると、両脇に杖を抱えて立ち始めた。弩弓をベルトの前に下げ、二つの矢筒は尻の方に括り付けられていた。そして右手には蝋燭の無いカンテラを持っている。レイチェルが火の灯った蝋燭を差し出すと、不満げに目を向け、それを引っ手繰るように取ったのだった。

「この先、少し行ったところだ。研究所に入ったら、注意しろよ。ルーグナーの奴は魔法使いの中の猛者だ。と、言ってもピンとこねぇだろうな。まぁ、せいぜい気を付けなってことさ。俺としては奴が死体野郎になってることを祈るがね」

 デレンゴは先に歩み始めて行く。カンテラの灯かりは広く、たちまち未知の区域の奥まで明らかにさせた。光りの帯が、行き止まりの壁と、そこに取り付けられた扉の姿を見せた。それと少し先で倒れている何者かの姿もだ。

 亡者なのだろうか。遠目で見ていたが、服装から魔術師が倒れているとしかわからなかった。

「そら、出番だぜ」

 デレンゴがぶっきら棒に促す前に、レイチェルは歩み始めていた。相手が敵意ある存在として立ち上がるかもしれない。彼女は幾分緊張を覚えながら、光る剣を両手で握り締めた。

 魔術師の男は仰向けに倒れていた。そして見下ろしながら、レイチェルは思わず息を呑んだ。丈のある黒い衣装ごと、腹部に大穴が開いていたのだ。

彼女はつい死者の顔を見てしまった。見開かれた瞳孔は虚空へ向けられ、口は絶叫したかのように大きく開かれていた。断末魔の形相のせいで老けて見えるが、よく見ればまだ若い男であった。

 レイチェルはその死に顔を無意識の内に凝視したままであった。そのため、デレンゴが隣に並ぶと、短く驚きの悲鳴を上げてしまっていた。

「見覚えのある奴だ。しかし、こいつはヒデェな」

 デレンゴは心底恐怖するように言った。

「腹を食い千切られてる。おまけに腸がまるまるねくなってる」

 そして盗賊は怯えるように周囲に視線を走らせていた。カンテラの広大な灯かりが目まぐるしく周囲を飛び交り、目をチカチカさせた。

「何もいるようには思えねぇな」

 最後に高い天井を見上げながら、デレンゴが自身を落ち着かせるように呟いていた。レイチェルは壁に燭台を見付け、蝋燭を挿した。そして扉へと歩んで行った。



 三



 一際分厚い鉄の扉には、幸いなことに鍵は下ろされていなかった。

 レイチェルは冷たい鉄の取っ手を握り締め、覚悟を決めて扉を押し開いた。剣の切っ先を突き出しながら、彼女は滑るように中へと入り込んだ。不意打ちを嫌というほど受けて来たので、慎重さと大胆さとが機先を制すものだと自然に頭が訴え、身体はそのように動いていた。レイチェルは自分がいつ足を踏み出したのか記憶に無かった。彼女の予想以上に冷静だった思考は、外敵の有無を確認した後、目の前に聳えるガラスの容器に釘付けとなっていた。

 聳える様な大きな瓶だ。彼女はそう思った。ここは竜が現れた広間と似ていて、煌々と瞬く蝋燭が、広大な空間の壁に沿いズラリと列を作っていた。そしてそれらの灯かりは部屋一帯を埋め尽くす、金属の蓋と土台に乗った、縦長の大きなガラスの容器の群れを露にさせていた。レイチェルは目の前のガラス瓶を覗いた。濁り切った緑色の液体の中心にリンゴぐらいの小さな影が浮いている。一体、どんな大それたことをやっていたのだろうか。レイチェルには見当が付かず、ただただ不穏な気配に心も頭も激しく苛まれれるだけであった。

 扉が開き、杖を突く音が近寄って来た。

「蝋燭が消えてねぇな。嫌な予感がするぜ」

 デレンゴはそういうと、佇立する容器の間を通る道を真っ直ぐに歩み始めていた。

「これは何なんですか?」

 レイチェルは、同じく濁った瓶を見回し、歩みつつ、デレンゴの背に問い掛けた。

 盗賊は足を止めてこちらを振り返った。

「兵隊だとさ。魔術師どもはそう言ってたはずだ。だが、どうやら失敗したらしいな。俺が見たときはもう少し透き通った黄色の水の中に、ちゃんとした形があったんだからよ」

「どんな形ですか?」

「人の形だ。ホムン……なんだったか」

「ホムンクルス?」

 レイチェルが言葉を引き取って尋ねると、デレンゴは曖昧に頷いた。

「神官のベルハルトの奴もそれだぜ。あいつの身体も幾つかここで眠ってるのを見たが、この分だと駄目になっちまったろうな」

 レイチェルは、魔術師達に燃やされた金色の髪の神官と、その後すぐに現れた瓜二つというより、本物だと決めていた神官の姿を思い出した。

 あの神官は邪悪なる竜を甦らせた。竜をどうするつもりだろうか。竜じゃなければできないことをやるのだろう。あの黒い巨体は多くの人間を殺戮した。

「何故、竜を甦らせたのでしょう?」

 レイチェルは盗賊に尋ねていた。しかし、期待と裏腹に相手は頭を振った。

「雇われ盗賊にわかるのはここまでだ」

 そして相手は訝しげに目を細めてこちらを見下ろした。

「ただ、ここの魔術師は狂ってる。奴らの笑い声だけで悪党どもがちびっちまう位によ」

 その時、左側の先に、透き通った黄色の液体に満たされた容器を、彼女は見付けた。それは二つ並んでいた。

 レイチェルは駆け出していた。

 黄色の液体の中に入っているのは、一糸纏わぬ姿の美しい男であった。レイチェルはそう判断したところから慌てて目を背け、見覚えのある男の眠っているような顔を仰ぎ見ていた。その男こそが、死ぬところを二度も目撃したはずの、神官ベルハルトであった。目を閉じているその安らかな顔は、沈着冷静な様を彷彿とさせ、狂気や嘲りとは無縁の人物に思わせた。

 隣の顔もベルハルトであった。いや、レイチェルは頭を振った。液体の中に広がる長い髪や、切れ長の瞳、はっきりした眉などは似ているが、その様相は少し柔らかくも感じる。そしてどこかでこの人物を見たようにも思えた。彼女は液体の中に漬かっている人物の全身を見て、初めて女だったのだと驚き確信した。ライラ。ラザ・ロッソであった。彼女のホムンクルスが他にも造られていたということだ。

 ホムンクルスに魂が定着して、初めて命と自我を持つのでは無かったのだろうか。己の妄想か、いや、ヴァルクライムあたりがそう言っていたように思える。レイチェルは自分が何を考えているのか、それを知り恐ろしさに震えた。廃棄してしまおう。これは今は、ただの入れ物だ。誰が死んだなどという大それたことにはならない。この容器を破壊してしまおう。そうすれば、ヴァンパイアのように干乾びてしまうかもしれない。

 正直で勇敢で優しい、そんな仲間の美しい顔が脳裡を過ぎって行く。彼女とは出会ったばかりだ。だけど、あんな良い人は、他にはいないと思う。そして彼女は頑張ろうとしている。レイチェルは自分が何を恐れているのか、目を凝らして己の心を見下ろした。この世界に生きるライラは仲間のあのライラ一人で良い。従って紛らわしいものは処分すべし。本当のライラの命や名誉、心を脅かすようなものを見過ごしてはならない。彼女の新たな生を翳らせるようなものを私は認めない。これの存在を知っているのはこの世界で私だけだ。

 不意にレイチェルは自分の右腕が重たいことに気付いた。彼女は「鎖断ちの剣」を振り被っていた。信じられない思いで今一度ガラスの容器へ向き直る。眠るホムンクルスが見える。しかしそれとレイチェルを隔てる透明な壁面には、怯える鬼のような醜い形相をした悪魔が禍々しい得物を振り上げて睨んでいた。丸く見開かれた目は憎悪に揺れ、顔中の筋肉が引き攣り歪み切っている。その口は牙を剥き出しながら、全力で呪うが如く奥歯を力強く噛み締めていた。一瞬の後、レイチェルは他ならぬ自分が剣を振り上げている様をガラスの表面で見詰め返していることに気付いた。しかし、彼女は「鎖断ちの剣」から何の前触れも無く霞のように聖なる光りが消え去っていたことに気付かなかった。

「ただの人形だぜ。嫉妬してんなよ」

 デレンゴが別段興味なさそうにそう声を掛けた。

「そりゃあ、オメェは確かに丸っこいさ。だが、世の中にはそういう可愛らしいのが好みだっていう野郎どもは星の数ほどいやがる。安心しろよ」

 盗賊の男は、付き合いきれないとばかりに杖を突いて歩んで行った。

 レイチェルは戸惑いの他、破壊や、殺戮に似通った黒い衝動が身の内から完全に引いてしまったのを感じた。私にはできない。無責任なのかも知れないけれど、あんなことをしてしまったら、きっとライラとも顔を合わせ辛くなる。彼女は仕える神に問い、有翼人の少女に問い、放浪の黒い戦士に問い、頼れる魔術師に問うた。これで良かったんですよね?

 彼女はデレンゴの背を追った。

「デレンゴさんの言うとおりです」

 彼女はそういうことにした。強面の男は怪訝そうな顔をして振り返った。

「芋姉ちゃんよ、オメェ、今、何て言った?」

「私、少し痩せることに決めました」

「そうかいよ」

 デレンゴはぶっきら棒に答えると、先へと歩み始めた。レイチェルには彼が少しだけ落胆したように思えた。その背を追いながら、悪の神官ベルハルトのホムンクルスも置き去りにして良いものか、己に問うた。あれで良い。彼はまだ悪いことをしていない。それに隣の彼女と並んだまま、終わりが来るまでガラスの中から出られることはないだろう。再び剣に白い光りが見え始めたが、彼女はそれに気付くことは無かった。



 四



 通路の先に岩壁に穿たれた洞穴のような広い入り口があった。その中は小部屋で、大きな鉄製の大きな箱があった。取り外せる蓋があったが、それを開けるには求めている鍵が必要であった。デレンゴは無理やり外そうとして、爪を痛めてしまっていた。

 ルーグナーという魔術師は何処に居るのだろうか。デレンゴは彼が鍵を持っていると決めていた。レイチェルが上の階をもう一度隅々まで探すことを提案したが、彼は脚の具合のために、それの提案を退け、彼女が単独で戻って調べることも譲らなかった。彼が一人になりたがらない理由を、外の通路に横たわる死体を、ああも無残なものに仕立て上げた者を恐れているのだとレイチェルは察していた。

 ならば、この聳え立つガラス容器に区切られた広い部屋で、魔術師ルーグナーを探す以外に道は無かった。何かあれば声を上げるということで、二人は左右に分かれ分かれになった。

 レイチェルは一番右側の通路から探し始めていた。ホムンクルスの一件のせいで、良くも悪くも高揚した身体が、一度落ち着くと、彼女がもっとも恐れていた、飢えと渇きを満たすように催促し始めていた。

 レイチェルは体力を使うことも構わず、小走りで通路を巡っていた。走っていれば、時間を短縮できるし、空腹を忘れることもできる。それに、デレンゴの分も手伝ってやらねばならないと強く思っていた。

 壁のように左右を挟むガラス容器は全てが緑色に濁っていた。無事なのはあの二つだけだろうと彼女も何と無くそう感じていた。三列目の通路に差し掛かったとき、少し離れた左側の方で身を萎縮させるほどの激しい音が、突如として響き渡った。ガラスの割れる音と、たくさんの水が流れ出す音であった。何の音かは、言うまでも無い。ただし、誰がそうやったのかが問題だ。

「デレンゴさん?」

 再び訪れた静寂の中で、レイチェルの問い掛けは思ったよりも大きくむしろ破壊的に響き渡った。

「おい、今のは芋姉ちゃんか!? オメェがやったのか!?」

 盗賊の声が慌てふためく音色に満ちてなくとも、その答えだけで、彼女は冷たい戦慄を覚えた。

「いいえ、私じゃありません!」

 彼女の答えの後に、今度は幾つものガラスが破損する音と、水が太い奔流となって地面を打ち付けるのを聞きつけた。

 デレンゴからは答えは無かった。レイチェルは白く輝く剣を携え、出来るだけ足音を潜ませながら通路の外に出た。向こう側から急いで杖を突きながらデレンゴが飛び出してきた。二人の視線は交錯した。そしてそれを遮るように、魔術師が呻きを上げながら列からヨロヨロと現れた。

 その新たな者も上の階の仲間同様に不浄なる者になってしまったようだ。彼女は相手の危な気ない足取りと、虚ろな声からそう判断した。そして敵へ向かって突進した。あれが探していた男ならば、ようやくここから抜け出すことが出来る。川を見つけて水を飲み、木の実を取って飢えを満たそう。それにもしかすれば、仲間の誰かが近くにいるかもしれない。

 勇躍する彼女の前で、魔術師だった男は突如、天を仰ぎ、凄まじい咆え声を上げた。声音は似ていないが、サンダーとシャロンと穴倉で過ごした時に聞いたような、激しい憎しみの籠もったような音色であった。

 思わず足を止めるレイチェルの前で、魔術師の男の身が大きく震え、そして纏っていた衣装が引き裂かれた。己が血肉を蹴散らしながら、肩口からは現れたのは長く強靭な一対の鋏みであった。

 節くれ立った左右の鋏は、水辺の甲殻類が持つようなものによく似ていた。しかし、宙を俊敏に漂う巨大な有様は、さながら双頭の竜を思わせた。その鋏が突如として頭上で止まった。不穏な気配を感じ、レイチェルは慄きつつ後退し始めた。鋏が彼女をまるで見下ろしていた。

 途端に滑空し地を穿った。重々しい音が轟き、土塊が飛散した。レイチェルが見ている前で、もう片方の鋏が空から横薙ぎに振り下ろされようとしていた。彼女は慄きながら、咄嗟にガラスの列に囲まれた通路へと飛び込んで身を伏せた。すぐ隣で幾つもの容器が薙ぎ倒され、濁った液体が洪水のように地面にばら撒かれた。それらは彼女の服にも悉く降り注がれ、服を濡らし、粘液のように肌にも張り付いた。吐き気を催す様々な臭気が集った嫌な香りであった。

 レイチェルは地面に伏せながら、半ばまで砕け散ったガラス容器越しに、歩んで来る相手の姿を見た。鋏はその頭上でグルグルと円を描くように忙しく振り回されている。風を切る音が幾度も鳴り響き、レイチェルは鞭で打たれたかのようにビクリと身を竦ませていた。

 彼女は伏せながら目を凝らしていた。二つの鋏の勢いに歩んでいる男の身体は縦横に大きく引っ張られていた。逃げ出したいほどの心境を抑えつつ、その側面を睨んでいると、レイチェルはようやく目当ての物の存在を確認することができたのだった。

 ボロボロになり、血糊に塗れた黒っぽい魔術師の衣装が一際大きくはためくと、その下に隠れていたベルトに括りつけられた短剣が姿を見せたのだった。

 鞘に収まっていて刃は確認できない。だが、太い重厚な柄の他に、握り手の両側を包むように鍔から伸びている二本の線を見ることができた。年代物かはわからないが、特徴的な短剣だ。目の前の哀れな魔術師が鍵を持っているルーグナーという人物なのだろう。

 しかし、どうやって対抗すべきだろうか。ルーグナーが通路の真正面に到達し、こちらを向いた。その頭がこちらを睨んだように思えたが、既に瞳は虚空を向き、力無く開け放たれた口からは乾き切った舌先が覗いている。別の意思に乗っ取られた様だと彼女は思ったが、その双眸がこちらへギョロリと動くのを見た。そして、突き出されてきた右手の鋏を、どうにか横っ飛びに避け、ガラス容器の間を這い進み、隣の通路へと抜け出た。

 ガラスの液体越しに魔術師の頭がこちらを向いた。長く頑強な鋏が撓りつつ、横薙ぎに襲い、再び幾つもの容器を破壊した。壁が失せ、二人は向き合っていた。レイチェルが横に動くと鋏もそれに吊られて振り子の如く追おうとする。彼女は焦りと閉塞感を覚えた。敵の間合いに嵌ったしまったのかもしれない。

 耳に馴染みつつある杖を突く音が、慌しく近付いて来ていた。弩弓を構えたデレンゴが側面の通路から現れた。

「あの短剣は! じゃあ、オメェが……」

 盗賊は怪物を凝視し、息を呑んでいた。弩弓から矢が飛び、魔術師の背中に突き立った。敵は呻くようにその身を捩じらせた。魔術師の頭部も悲鳴を漏らすかのように口を大きく開いていた。だが、すぐさま体勢を持ち直すと、両の鋏を唸らせ、旋回させた。

 レイチェルは伏せて回避したが、デレンゴの方から短い悲鳴が上がっていた。彼は倒れていた。鋏が頭上を横切って行く。レイチェルは、盗賊の身を案じながら、どうにか鋏みを避けつつ魔術師の身体の中へと飛び込めないものかと歯噛みしていた。デレンゴの矢が通用したのだ。ならば、人の身体の弱点を剣で突けば敵を仕留めることができるかもしれない。

 簡単な方法はデレンゴに囮になって貰うことだが、彼は足が不自由だ。今も生きているのかはわからないが、鋏に追い付かれ貫かれてしまうだろう。

 だが、周囲を見回しても利用できるのはガラスの容器ぐらいしかない。それも鋏みの前では壁にすらならなかった。退くべきだろうか。しかし、空腹で水も飲んでいない体力を考えれば自分達に二度目は無いだろう。

 怪物が悲鳴を上げた。デレンゴが半身を起こして弩弓に矢を番えている。振り乱される敵の背に矢がもう一本突き立っているのが見えた。

 レイチェルはこれだと思った。そして素早く外周の通路へと這い進み、デレンゴの姿を凝視した。彼もこちらを見ていた。

「おい、逃げちまうつもりか?」

 デレンゴは顔面を蒼白にして問い質した。レイチェルは頭を横に振り、相手を真っ直ぐ見詰めて答えた。

「私が囮になります! デレンゴさんは、敵の止めをお任せします!」

「何だって!? お、お、お? 俺が? こんなチンケな弓でか!?」

 相手は驚愕して叫んだ。レイチェルは諭すように言った。

「矢は二本とも通用したようです! 人の身体ならたぶん!」

 鋏みが突き出される気配を察し、レイチェルは身を転がして避けた。デレンゴを見ると、彼は矢を番えた弩弓を怪物に向けていた。赤ら顔が緊張に歪んでいる。彼が放った矢が遠くに逸れるのを目の端で捉えた。鋏みが振り下ろされ、レイチェルは横っ飛びに避け、ガラスの並んだ通路の中へと入った。

「おい! 囮はどうしちまったんだよ!」

 デレンゴの必死な声が聞こえると共に、レイチェルは砕け散った容器の上を飛び越え、盗賊に迫る変異した魔術師の側面に躍り出た。レイチェルは足元に大き目のガラスの塊を見つけると、剣を振り下ろしてそれを叩き割った。大きくは無かったが、鋭い音が俄かに響いた。しかし、敵は気付かずに鋏みを振り乱しながら盗賊の方へと迫ってゆく。レイチェルは無事なガラス容器の側に歩み寄ると、それらに次々と渾身の剣を振り下ろした。ガラスが割れ、濁った液体が音を立てて地面に溢れ出て行った。怪物が僅かにこちらを見た。レイチェルは敵目掛けて駆け出す。大声を張り上げていた。相手は完全にこちらを向いた。レイチェルはデレンゴの居る方向へと、ガラス容器の台座の中を縫うように駆けた。敵はその姿を目で追っている。

 そして、矢が立て続けに二本、変異した魔術師に突き立った。もう一本が続き、敵は大きく仰け反った。

「どうなってんだ!? 大して効いてねぇみたいだぞ!」

 デレンゴの悲鳴が木霊した。敵は身を起こすと、ゆっくりした足取りで盗賊の方へと歩んで行く。レイチェルは慌てた。自分のせいで彼が殺されてしまう。彼女はガラス容器の間を抜け、盗賊を助けるためにひたすら走り続けた。

 すると宙を蠢いていた怪物の鋏が突然落ちていった。重々しく地を叩く音が聞こえた。

「いや、やったぞ! やりやがったぞ芋姉ちゃんよ! ひゃっほー! 効いてたぜ、おい!」

 デレンゴの歓喜する声が聞こえ、レイチェルはようやく安堵の息を吐き出し、気持ちが明るくなった。



 五



 魔術師ルーグナーの亡骸のうち、左右の鋏みだけは蕩けるように液状へと化していった。その色は毒々しい赤色で、潮のような臭いと共に悪臭を蔓延させていた。二人は鼻を削ぎたいほどのにおいを前に顔を背け、無言でどちらが汚れてしまった魔術師の衣装を剥ぎ取るかで、火花を散らせていた。だが、結局は、レイチェルが折れて動いた。既にガラス容器の液体を振り被ってしまい、そう思えば更なる悪臭ぐらい受け止めてやろうと彼女は妥協して歩み寄って行った。

 亡骸の重たい腕を持ち上げ、彼女は丁寧に上着を剥ぎ取った。鋏みの開けた二つの大きな穴の他に内ポケットが幾つか縫い付けられていた。彼女は一回目で、鍵を探り当てることに成功した。

 鍵は長く、そして思ったよりも厚みがあった。その中ほどから先端にかけて、幾つかの溝が刻まれ、そして同じく複数の突起もついていた。

 レイチェルが差し出すと、デレンゴは仏頂面で頷いた。

「俺はこいつを差し込んでくる。オメェは、その短剣を貰っちまったらどうだ?」

 彼にそう言われ、今、レイチェルの手には汚れを拭い取られた短剣が握られている。大きな鞘は木製で節々の名残をとどめ、滑らかな加工が施されていた。そして短剣そのものは、奇妙な形をしていた。重みのある鉄の柄の先には、鉛色の鍔があった。最初に遠目で見たとおり、そこから手の両側を護るように厚い鉄の板が包むようにして柄の末端に到達している。そして刃は、中ほどから切っ先に掛けて先端が三叉に分かれていた。

 デレンゴが上機嫌で戻って来てきた。

「これで開いたはずだ」

 彼はそう言うと、手に握っていた短い鉄の棒を放り捨てた。その丸い棒は先端だけが四角になっていた。

「どれ、上に戻ろうぜ」

 デレンゴに促され、二人は並んで広大な研究所を後にした。去り際にホムンクルス達が気になったが、やはり運命に任せるほか無かった。

 蝋燭の照らす廊下を行った。魔術師の亡骸は同じ状態でそこにあった。

 階段を上ろうとした時に、レイチェルはふと思い出し、短剣を相手に差し出していた。だが、デレンゴは首を横に振った。

「そいつはオメェが持ってろよ。幾ら良い剣だろうが、膂力に似合わない剣に頼り過ぎてると、ひょっとした時に振り回されて迂闊を踏むぜ。かと言って、短剣の扱いも難しいが、まぁ、懐を衝かれた時に咄嗟の盾代わりにでもすりゃ良いかもな」

 出られるためか、相手が何時に無く上機嫌に言ったので、レイチェルは素直にその言葉を嬉しく思った。

 レイチェルは先行して階段を上って行った。デレンゴも苦労しながらだが、後に続いて来ている。彼女は時折足を止め、相手を気遣った。

 頭上に蝋燭の薄明かりが見えたとき、彼女の緊張は一挙に高まっていた。壁にぽっかりと黒い出口が開いている様を何度も想像し、ここから出たら食べられる木の実を探そうと考えていた。イーレに貰った赤い木の実、レッドベリーの素晴らしい味と香りを彼女は口の中で思い出していた。

 レイチェルは逸る気持ちを抑えて、デレンゴが出て来るのを待った。彼は砂利の大地に杖先を突くと、大きく溜め息を吐いていた。そしてゆっくりと立ち上がる。そして笑顔を浮かべてレイチェルに何かを言おうと口を開いていた。その双眸がレイチェルの後ろへ注がれ、驚愕に見開かれていた。

 レイチェルが振り返ると、通路の方から、大きな人影が姿を現した。

 人間なのだろうか。そいつはこちらに気付いた。筋骨隆々の体躯と、振り乱されたたてがみを見て、レイチェルはそう疑問に思っていた。

 邪悪な眼光を怒らせ、大きな人影は斧を手にこちらへ襲い掛かってきた。

 その力強い脚が一挙にレイチェルの前に到達し、彼女は物凄い衝撃を身体に受け、横の壁へと弾き飛ばされてしまった。

 そのせいで顎が上下し歯が思い切りカチリと打ち鳴らされた。肩と背を強かに壁に打たれ、レイチェルは痛みと頭の中を漂う眩暈のような浮遊感に呻いていた。その最中にもレイチェルは、力強い足が砂利を踏み締め、茶色い肌の足先がこちらを向くのを見ていた。靴を履いていない裸の足だが、屈強そうな指が生え揃っている。レイチェルは目の前で斧が振り上げられるのを見ていた。

「こいつめ! 最後の最後でこん畜生が!」

 デレンゴが雄叫びを上げ、矢を次々と怪物目掛けて放っている。それは敵の頬を、肩、脇腹、腿に突き立っていた。敵は斧を下げ、ゆっくりとデレンゴの方を向いていた。レイチェルは慌てて起き上がろうとしたが、視界が揺らめき、突っ伏してしまった。矢が二度放たれるのを聞くと、デレンゴの慌てふためく声が聞こえた。レイチェルはどうにか起き上がり、「鎖断ちの剣」に手を伸ばした。しかし、敵の背は近いはずなのに遠かった。

「ええいくそっ、くそっ! こんな時に壊れやがって!」

 重々しい風の音と、盗賊の男の悲痛な叫びが部屋中に轟いた。

 レイチェルは屈み込んでいる大きな背を愕然として見ていた。そして剣を両手に握り、抜き放つや、こちらを振り向いた蛮族の腹目掛けて切っ先を向け、突進した。

 彼女の後悔と怒り、憎悪の一撃は蛮族の堅い皮膚を深々と抉り込んでいた。そして程なくして凶暴な瞳から光りは消え去って行った。

 片足を使って剣を抜き取った。赤い血糊が刀身にベッタリと付着してようが、そんなことは気にならなかった。彼女は倒れている盗賊の男のもとへと駆け寄っていった。

 蛮族の刃は、男の上半身に致命的な傷を負わせていた。湧き出るように流れる血を見て、彼女は絶望し、しどろもどろになるだけであった。それでも心を落ち着かせ、聖なる魔術で、治癒を施そうとしたが、盗賊の腕がそれを止めたのであった。

「どうにもならねぇよ」

 赤ら顔を苦しみに歪ませるようにして彼は言い、力無く腕を下ろした。そして、力強い輝きに満ちた双眸でレイチェルを見詰めた。

「行きな、神官さん。オメェさんは、生き残ったんだ……。そいつをふいにしちまうような、高尚な真似は止しちまいやがれ……」

「デレンゴさん……」

「行け……体力が残ってるうちに……」

 レイチェルにできることは、男の名を呼ぶことだけであった。そして、相手は二度と口を開くことは無かった。生命の光りの消えた双眸をレイチェルは丁寧に手で閉じた。そして言い聞かせるように立ち上がる。彼の亡骸を置き去りにすることが悔やまれた。「行きな、神官さん」男の声が脳裡を過ぎると、レイチェルは決意し、出口へ通じる穴へと向かって行った。

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