第7.5話 断章2 「救援へ」 (前編)

 激闘の一夜が明け、空には朝日が昇っていた。涼やかな陽光は、無人の街道を照らしていたが、突如、その帯を掻い潜る様に、六つの騎影が足取りも荒く、疾駆して行った。

 その隊列の中には、ヴァルクライムと、ライラの姿がある。他には領主の従者であるリザードマンのロブと、アーチボルトを含めたペトリア村の警備兵が三人いる。この隊は領主の娘の救援という名目で、昨晩、慌しく結成されたのであった。

 クレシェイドと、ティアイエルも志願したのだが、村の状況も踏まえた上での話し合いの結果であった。分かれ方としては申し分ないと、ヴァルクライムは考えていた。クレシェイドは疲れを知らない戦士であり、同じく村に残る領主の従者の一人であるドワーフのアディー・バルトンとは共闘し、面識も濃くなっている。一方のティアイエルは、精霊を操り、窮地にも大掛かりな術で対応することができる。そしてヴァルクライムが見たところ、二人の相性は随分と良い方向へ変わってきているようにも思えた。いや、もしかすれば、もともと仲は悪くなかったのかもしれない。クレシェイドが浄化の光りで消滅しようとしたところへ、彼女は迷うことなく救いの手を差し伸べたのだから。ヴァルクライムは苦笑していた。おそらくティアイエルは仲間内でも一番気苦労を重ねているに違いない。未熟な後輩二人に、重き使命を帯びた孤高の闇の戦士に、そしてライラのことも彼女は大切に思っていてくれているはずだ。本来なら、最年長の自分がその役を務めるべきなのだろうが、やれやれ。そして、少々惨めに思いながら、列の殿で、ここまで誰とも擦れ違わないことに只ならぬ違和感を感じていた。

 ムジンリからの旅商人や、冒険者の一人や二人が来てもおかしくはない。ペトリアの有様を知っているのなら別だが、早朝とはいえ、こうして誰とも擦れ違わないということは、あの盗賊か、トロルかが、ムジンリにも手を伸ばしているのかもしれない。いや、そもそも誰も来ないということは、最悪、既に制圧されたか、滅ぼされたかしている可能性が高い。

 ヴァルクライムは、レイチェルとサンダーのことを思った。半人前とも言える二人だけで、更に彼女達よりも弱い者を護る事態となってしまった。

 結果的にだが、我々の中の誰もが付き添ってやれなかった。不甲斐なさと不安とで歯噛みした。これで正真正銘、保護者失格だ。

 せめて二人が冷静でいることを心から祈っていた。何事に対しても、ひたすら感情を抑え込み、器用に生き存えようとしてくれるだけで良い。何故ならば、もうすぐ命懸けで勝機を齎そうと覚悟を決めた男が合流できるのだ。

 太陽が昼との半ばほどに達したとき、前方に馬車の後ろ姿が見えた。

「御一同、あれに見覚えは?」

 一番前を行くアーチボルトが、冒険者の二人と、サグデンの従者であるリザードマンのロブを振り返って尋ねた。ヴァルクライムは遠目で馬車の小さな姿を見詰めた。しかし、自分が判別する前に、リザードマンの従者が声を上げた。

「お屋敷の馬車です。お嬢様が乗っていたものに間違いありません」

 リザードマンの若々しい声は、一見、平静を保っているようにも思えたが、その口調の端々には、抗い難い不安と焦りとが見え隠れしていた。ヴァルクライムは彼に同情し、自分もまた同じような心境であることを確信した。

 馬車は、街道脇にあり、どうやら動いている気配は無い。

「休んでいると思いたいですね」

 警備兵の支給品である鉄兜の下で、アーチボルトが丸顔を曇らせ、気遣うような一瞥を差し向けた。彼の後輩である若い二人の警備兵も交互にこちらを振り返っていた。あるいは、彼女達が襲われて、その連中が未だに居座っている可能性もある。

「私が先に行く! もしも敵がいるなら誘き出すまでだ!」

 ライラが声を上げた。彼女はそのまま隊列から抜け出すと、更に馬を加速させて、あっと言う間にこちらと差をつけた。陽を受けて銀色に煌く星のような背を、アーチボルトの命令の下、二人の警備兵が慌てて追って行く。

 ライラは街道の反対側へと大きく馬を逸れさせ、そこで足を止めていた。彼女は馬から降りると、長柄の得物を引っ提げながら、大胆に馬車の方へと歩み寄って行く。そして、馬車の前方の方へ、顔を窺わせた後、そのまま棒立ちになっていた。

 ヴァルクライムは愕然としていた。ライラは何を見下ろしているのだろうか。彼女が未だに顔を上げずに、目を奪われているものとは一体何だというのだ。しかし、答えは既に察していた。きっと、死体があるのだ。レイチェル達全員か、それともそのうちの誰かのものに違いない。

 ヴァルクライムは無力感のあまり、馬上で取り乱し、咆哮を上げる寸前であったのだが、先にそれに至ったのはリザードマンの従者の方であった。

「おおおお、お嬢様が! 何をそんな! 何をそんな馬鹿なことが!」

 前方を行くアーチボルトが、その声に驚いて馬上で危いほどに身体をよろめかせる。ロブがその横を猛然と通り過ぎるのを見計らい、ヴァルクライムはアーチボルトの隣に追い付いて、信じられないことに身体を安定させるのを手伝っていた。

 何をやっているのだ私は……。むざむざレイチェル達を死なせて置いて、どうしてこうも冷淡な態度を取っていられるのだ。

 前方では、ライラと、二人の警備兵が、馬車の向こう側を見下ろすようにしてやはり固まっている。もはや、驚きも嘆きもしなかった。ただ、どんよりとした気持ちの悪い無力感が胸中に鎮座し、肌という肌には刺すような気持ちの悪い寒さを感じていた。

「まさか!? 本当にお嬢様達は、もう!?」

 アーチボルトの声は悲鳴に近く、それがヴァルクライムの心臓を改めて冷やりと緊張させていた。

「まだ、わからんぞ」

 ヴァルクライムは己の感情を抑えてそう述べるしかなかった。今にライラか、警備兵のどちらかがこちらを振り返るだろう。そして、まるで急に頬を殴られたかのような表情を見せておぞましい結末を述べるのだ。しかし、まだ誰も何ら告げてはいないではないか。そう、今のところは。

 警備兵の一人がこちらを振り返った。ヴァルクライムは覚悟した。

「警備兵が一名、事切れております! 他には誰の姿もありません! お嬢様も、冒険者の方々も! そして、目を向ける限り、敵の姿も!」

 ヴァルクライムは耳を疑い、頭の中で警備兵の言葉を復唱した後、噛み締めるように胸を撫で下ろした。隣のアーチボルトと喜び合うように顔を見合わせ馬足を緩めた。しかし、心の蟠りは薄くなるどころか、逆に濃く、大きくなっていった。

 警備兵の死体があるとはどういうことだ。レイチェル達はどこへ消えてしまったのだ。ライラが、レイチェルとサンダーの名前を叫んで周り、リザードマンのロブも仕える主の名前を方々に顔を向けて呼び上げていた。ヴァルクライムもまた周囲に用心深い探索の目を向けた。

 二人の声を耳で聞き流しながら、木々と草薮の隙間と言う隙間を睨んでいると、いつの間にか馬車の後ろに到達してしまっていた。

 馬車を見る。綺麗な様子ではないが、それは紛れも無く自分達が護ってきたものであった。

「ヴァルクライム」

 ライラが深刻そうな表情でこちらを見ていた。

「警備兵の亡骸だが、首が綺麗に飛ばされていた。これをレイチェルとサンダーでは出来るわけが無い」

 彼女には何らかの見解が浮かんでいるようであった。ヴァルクライムは頷き、続きを促した。

「つまりは警備兵はレイチェル達の味方か、あるいは中立の立場から、そうなるまえに殺されたのだと私は思う。その警備兵が殺される前か後かは知らないが、ここに居ない以上は、ともかくその間にレイチェル達はどこかへ逃げたのではないだろうか?」

 逃げたとすれば……。ヴァルクライムは街道脇の左右の森へそれぞれ目を向けた。ライラが言った。

「ああ、街道を駆けるよりは敵の目を欺き、身を隠す道を選ぶだろう」

 まるでその声に応じるかのように、前方の茂みが軽く揺れ動いた。しかし、期待も空しく、それは警備兵の一人とアーチボルトであった。二人は、それぞれ馬を二頭ずつ手綱を引っ張って連れてきていた。その馬には見覚えがあり、いずれも馬車を引いていた馬達であることを確認した。

「これで街道を向かった可能性は無くなったな」

 ヴァルクライムがライラに言うと、彼女は困ったように応じた。

「そうだな。だが、どちらの森へ入ったのだろうか」

 二人が途方に暮れていると、ヴァルクライムの背後に大きな影が佇立した。リザードマンのロブは、その体躯を屈めて、慎重に藪と木立へ目を向けると、見下ろすように二人へ顔を向けた。

「お嬢様達はこちらへ向かったと思われます」

 ライラが進み出て、彼が見た辺りを注意深く見渡し、やがて疑うようにロブを振り返った。

「うっすらとですが、その辺りに小さな足跡があります。それは奥へ続いているようなのですが……」

 言葉の歯切れが悪くなり、ロブは黙ってしまった。蜂蜜色の大きな目と、その中にある縦長の瞳孔からは、生気が失せ、その不安げな心境を代弁していた。しかし、ロブは暗い心境を取り払うように、改めて口を開いた。

「冒険者の方々とは違う明らかな大人の足跡が三つ、後に続いているのです。これはつまり、亡くなられた警備兵の方の仲間の方が付き従ってくれているのか、それとも、野蛮な人間がお嬢様達の後を追って森へ入ったのか……ということでしょう」

 ヴァルクライムも草薮へ目を向けたが、ロブに言われてみて、踏み拉かれているような草が幾つか区別できただけであった。だが、リザードマンという種族は、もともと自然の中に住んでいる。その中での変化にはとても感が鋭いのかもしれない。

 ライラが決断を迫るべく、強い眼差しをこちらに向けてきた。つまりはロブの目と言葉を信じたということだ。

「ならば、急いで後を追おう」

 彼女は言った。ヴァルクライムも今すぐに行動に移りたかったが、ムジンリに使者として赴く警備兵達のことも気掛かりであった。相変わらず行き交う人がいない上に、その代わりに現れたのがレイチェル達を襲った何者かなのだ。つまりは、昨日の今日、ペトリア村の一件同様、今ではムジンリが無事だとは思えなかった。警備兵達には失礼だが、彼らは純粋な戦士ではなく、その力量では正直心許ない。そう一度村へ戻り、復興に取り掛かっている何人かの屈強な冒険者に改めて同行を依頼すべきだろう。

「アーチボルト殿、我々はこのまま森へ踏み入ろうと思うのだが」

 ヴァルクライムが呼び掛けると、馬車の向こうから丸顔が現れた。その表情は同情したいほどに不安の色に染まっていた。

「話はこちらにも聞こえてました。我々もシャロンお嬢様達が心配です。そうするべきだと思います」

 彼は苦労して平静を装うとしていたようだが、どうにも上手くはいかなかったようだ。そして観念した様に、溜息を一つ吐き、肩をがっくりと落とした。

「あなた方はどうする?」

 ヴァルクライムが問うと、アーチボルトは思案顔で答えた。

「そうですね。まずは、このことを報告するために、一人を村へ戻し、私ともう一人は予定通りムジンリへ使者に向かいます」

 ヴァルクライムは危惧した。彼は誰ともすれ違わなかった事を何とも思っていないのだろうか。しかし、アーチボルトは言葉を続けていた。

「ただ、遠目で様子を窺うだけになるだろうとは思いますがね。どこの街道もそうですが、空を見れば晴れてますし、そんな中でこう静かだということは極めて異常だと感じるんですよね。門番の感ってやつですかな」

 丸顔の中年の警備兵は苦笑いを浮かべていた。

 ヴァルクライムは彼の言葉を聴いて事態を飲み込んでいることを知り安心した。隣でライラが口を開いた。

「そのムジンリとかいう町について、私もどうにも嫌な予感がする。盗賊どもに、トロルの群れにと、その異常事態の後だ。用心を重ねて二人よりも三人で行くべきではないか。その方が、万が一の場合、誰かしらは生きて戻れる可能性がある」

 彼女の言葉を聞いて、アーチボルトの表情を覆っていた仮面が崩れ落ち、隠し通そうとした弱気に取り付かれた顔が現れた。彼は生真面目と、使命感に燃え、早く任を全うしたいとも思っている。その傍ら、命を失う危険性とやらが、どこで手薬煉を引いて待ち伏せているのかをとても恐れている様子だ。

「いや、しかし、お嬢様の状況と、あなた方が森へ行かれたことを知らせるためには、一人だけでも村へ戻さねばなりません。そりゃあ、正直、二人よりも三人の方が、とても心強いですがね」

 相手は幾らか気を取り戻すと、戸惑い気味に応じた。

 ヴァルクライムはライラに下がるように言おうとしたが、彼女はこちらを振り返った。そして、静かな闘志の宿る切れ長の目を向けて言った。

「書くものはあるか?」

 彼女の言うことには意味がある。ヴァルクライムは、素直に腰に下げていたバッグから羊皮紙などの一式を取り出した。彼女は受け取ると、さっそく何かを記し始める。すぐに書き終わると、彼女は彷徨っていた馬の中から一頭を選んで、手綱の根元に羊皮紙を結び付けた。

「まさか、伝書鳩じゃあるまいし、無茶ですよ」

 アーチボルトが半ば呆れ気味に言ったが、ライラは馬の両頬を手で優しく包み込むと、その目をジッと覗き込んで言った。

「お前はこのまま道を引き返すのだ。他の仲間達を率いて行け。そこで頼れそうな人間を見たら、手綱のこれを見せるんだぞ」

 他の二人の警備兵も、遠巻きにその様子を半信半疑の目で見ていた。

 ライラが馬から離れると、彼女が語り掛けた馬が顔を上げ、ゆっくり村の方へ向かって歩み始めた。そして馬はこちらを振り返って「任せろ」とばかりに低く嘶くと、それにつられるように残りの馬達も一斉に共に歩み出したのであった。

「先輩、あれを!」

 警備兵の一人が驚きの声を上げ、ムジンリの方面を指差す。脇の茂みから、更に四頭の馬が姿を現し、こちらへ歩み寄って来ていた。

「あれは、鞍がついているな。主はどうしたのだろうか」

 もう一人の警備兵が言った。

「勿論、森へ入って行ったのですよ」

 ロブが言った。彼は背後で苛立たしげに一同を見下ろしていた。

「敵か、味方かはわかりませんけどね。しかし、これ以上、ここに留まっていても、誰も出ては来ないと思いますよ」

 そしてリザードマンは茂みの中へと踏み入り始めた。一同は寡黙で忠実な従者の胸中を察し、気まずい表情を見合わせながら、それぞれ行動に移った。

「そうだ、魔術師殿、帰りはどうなさるんですか?」

 馬上でアーチボルトが振り返って尋ねた。

「心配無用さ。何とかなるとは思うが、手段が見付からなければ歩いて戻るまでだ。アーチボルト殿、お互い幸運を」

 ヴァルクライムが答えると、アーチボルトは深く頷いて、馬を走らせて先へと行った。



 二



 ロブの目は冴えていて、落ち葉が軽く押しつぶされた跡や、靴が掠めたと思われる折れ曲がった草の先などを的確に見抜いていた。ヴァルクライムとライラがその後ろで半信半疑にならなかったのは、幸いにも足跡の多くが、湿り気を帯びた土の上に判別できるほどの形として残っていたからであった。

 しかしロブは頭上の枝葉が陽光を遮ってしまうことなど意に返すこともなく、新たな手掛かりを次々と見付け、覗き込みながら、二人を導いていた。小さな足跡が三つと、その上に重なるように大人の足跡が三つというのが、現在の状況だ。前者は冒険者の二人と、サグデンのシャロンお嬢様だ。そして後者は追っ手に違いない。何故ならば、三人も大人がいながら、その連中が決して先行しようとしていないからだ。湿り気のある土に刻まれた足跡は、大きいものが後から押し潰していたからである。

 しかし、そうなると後者の三人は何者だろうか。そして街道で首を打たれて死んでいた警備兵もまたそこで何をしていたか。警備兵を殺したのはレイチェル達を追っている連中だろう。奴らの目的がお嬢様だとすれば、ペトリアを襲った盗賊との関わりがあるに違いない。そして警備兵は、ムジンリに起こった異変を知らせるべく、ペトリアへ駆ける途中だったのかもしれない。そうなると、ムジンリもまた昨晩の盗賊の一派に襲われているということだろう。ペトリアが悲惨な目に遭ったように、ムジンリもまた目を覆いたくなるような光景になっているに違いない。

 不意にロブが顔を上げた。そしてまるで身体中の神経を研ぎ澄ますように、身を硬直させた後、焦りの声を漏らした。

「何てことだ、もうすぐ雨がきますよ!」

 ヴァルクライムと、ライラが頭上を見上げると、木々の隙間の向こうには、いつの間にか太陽に変わって厚く黒い雲が立ち込めていた。それは言われるまでも無く豪雨の襲来を確信させた。

 ロブが泡を食うように、足取りも荒く、方々を忙しく見回し、必死に新たな手掛かりに食らいついていた。

「魔術で天候を抑えることなどできませんよね!?」

 ロブはこちらを見ずに皮肉っぽく尋ねた。しかし、彼の胸中を察すことは容易く、手掛かりを探せるのは彼だけであることを、ロブ自身が心得ていることを思えば、ヴァルクライムは相手に対して気を悪くすることは微塵も無かった。これから起こる豪雨は、頼りである道標を容赦なく消し去って行くだろう。

「申し訳ない。他に我々に出来ることは?」

 ヴァルクライムが心から謝ると、ロブは捜査に身を投じつつ、厳しい口調で応じた。

「既に御存知とは思われますが、こう言った場所では、人間の目はとても不向きです。それに視界が慣れるとしても、それまでに随分と時間が必要になるでしょう」

 隣でライラがムッとする気配を感じたが、彼女は賢明にもロブの大きな背に声を掛けることはなかった。ヴァルクライムも再び頭上を見上げて歯痒い思いをした。

 それから間もなくして無常にも雨は降り始めた。複雑に絡んだ枝葉を掻い潜って、まずは、小さな滴が彼の人差し指に当たって弾けた。まるでそれが狼煙でもあるかのように、幾千もの軍勢が押し寄せるが如く、雨は激しく周囲を打ち始めた。

 ロブはひたすら前へ前へと駆け出し、飛び付く様に手掛かりを追っていた。

「レイチェル達も雨に当たっているんだろうな。同じ空の下で。しかもたぶん同じ場所にいるというのに……」

 ライラが悔しそうに呻いた。彼女に短く同意の言葉を掛けようと、口を開きかけたとき、前方の木の上から、太く長い爬虫類の首がゆっくりと下がり落ちてくるのが目に入った。その身体は黒っぽい紫色を下地にし、凶悪な目のような朱色の斑模様が点々としていた。その毒々しい色こそ、己が人食い蛇だと申告しているようなものであった。

 大蛇の首は、こちらに目もくれずに、ゆっくり空間を彷徨うようにしながら、無防備なリザードマンの背へと迫った。

 ヴァルクライムは杖先を向けたが、魔術を飛ばす前に、隣でライラが飛び出し、蛇の身体を一閃した。得物の先にある両端の内のツルハシの先端が、その長い身体を絡め取り、そのまま木の幹へと挟む様に打ち込んだ。

 大蛇はすぐに我に返ったように、鎌首を擡げ、底無しの喉を最大限に広げて、こちらに向かって威嚇した。しかし、ライラが即座に得物を振るい、胴の半ばから刈り取った。細い線のような血の飛沫が上がり、分断された2つの部位は、身を踊るように痙攣をした後に、地上と木の上とでそれぞれ動かなくなっていた。

 ロブが振り返った。蜂蜜色の両目が得物を薙いだままのライラを見て、その後、地面に転がる大蛇の一部を捉えていた。

「迂闊でした。お礼を申し上げます」

 ロブは恐縮するように言い、ライラは応じた。

「いや、我々に出来ることといえば、このぐらいになってしまう。情けない話だ」

 ライラが謙虚な口調で言うと、リザードマンは軽く被りを振った。突き出た鼻先と、兜の羽飾りから雨の滴が飛散した。

「街道の時も自覚はあったのですが、どうにも気が急いてしまっていて……。度々無礼な態度を御見せしたことを謝罪致します」

 そしてロブはこちらの返事も待たずに、イソイソと捜索へ戻って行った。

 その後、雨は殊更強くなっていった。その雨音は隣同士で会話するにも、多大な支障を及ぼしていた。各々大声を上げてようやく互いの言葉の断片が聴き取れるほどであった。そして足元は瞬く間に深い水溜りとなり、落ち葉を浮かせるほどの湖となると、最後には濁流を走らせる滝へと姿を変えた。

 前方でロブが雨に打たれながら、初めて引き返して来ていた。それは手掛かりを見つけ出すのが困難になったことを当然の如く悟らせた。彼に無理ならもはや打つ手は無い。

「ひとまず、このままではあなた方は風邪を召されてしまいます! どこか、少しでも雨を凌げる場所を探しましょう!」

 彼は声を張り上げて訴えた。リザードマンは風邪を引かぬのかと、詮無き疑問を投げ掛けようとしていたが、運良く、落雷が鳴り響いてヴァルクライムの口を噤ませた。その音は雷神が鉄槌を振り下ろしたと言わんばかりに強烈な余韻を耳に残していた。リザードマンは思わず身を竦め、枝葉の向こうに広がる黒雲を恨みがましく睨みつけていた。不意に、その目が右手の方を向いた。

 その視線を辿ると、薄暗い中、木に片手を預け、立ち尽くしている人影があった。

 ロブは得物を身構えた。それは彼の豪腕を象徴するかのような分厚く広い刃を持つ屈強な手斧だ。もう片方には、背負っていた丸い鉄の盾を握っていて、手斧に劣らず、単純ながら重厚な造りしていた。

「何者だ!?」

 ライラが叫んで尋ねた。しかし、雨音のせいで届かなかっただろうと、察したように、人影の方へゆっくりと近寄って行った。ロブもその傍らに並んで続いている。ヴァルクライムは大半の魔術師がそういう役に徹するが如く、その場で目を光らせることにした。

 ライラは訝しげに相手を覗き込んでいた。当然、彼女は声を掛けているはずだ。しかし、相手は動かなかった。木の幹に片腕を置いている。顔はどちらを向いているのかはわからない。だが、背が高いことだけがわかる。幸か不幸か、それだけでもレイチェル達の三人には当て嵌まらないことを意味している。それというのも、相手はおそらく正常な状態ではないのだと感が告げていたからだ。

 ライラがすぐ隣まで近づき、手で触れようとしたがゆっくりと引っ込めた。彼女はこちらを振り返って首を横に振って見せた。

 さて、つまりは追っ手が、立ったまま絶命しているということだ。摩訶不思議なことではないか。ヴァルクライムは歩み寄って行った。

「酷い有様です」

 前を横切ると、ロブがそう告げた。

 相手は向こう側を向いていた。ロブが近くに居るからではないが、バジリスクという、人を石像に変えてしまうトカゲの怪物の仕業を疑った。しかし、警備兵の支給品に身を固めた男は、石にはなってはいなかった。その皮膚は蕩けて、ずり落ちており、白い頭蓋骨の上半分まで露にさせていた。その他、皮の手袋と鎧の袖口からもドロドロになった皮膚の名残が今も垂れ下がっていて、腕の骨はほぼ剥き出しになっている。雨に濡れそれらは薄気味悪く輝いた。

 さほど遠くない時に、彼の者は命を失い、同時に身体は蕩け落ちてしまったのだ。しかし、焦げ臭くもなく、炎に炙られ、あるいは灼熱に曝された傷痕は無い。だとすれば毒であろう。毒薬を呑んだか、浴びせられたかだ。

「しかし、この人は警備兵のようです。と、いうことは、お嬢様達を追っていたのは警備兵ということになってしまうのでは無いですか?」

 ロブが隣に現れ、雨音に負けじと声を上げながら、困惑気味に尋ねた。

「お嬢様を保護するために、入ってきたのでしょうか?」

 ヴァルクライムは被りを振った。そして、リザードマンを見上げて答えた。

「それはやはり違うと思う。そうなると、街道で殺された警備兵のことがどうにもわからなくなる。あの警備兵の首を落とせたのは誰か……。だが、あの後、鞍のついた馬が現れたことを考えれば、警備兵は少なくとも四人いたことになるな。そして嬢ちゃん達を追いかけている足跡は三人分あった」

「第三の存在の仕業と思いたいですね。そうすれば、警備兵はお嬢様の保護を目的に後を追ったことになり得る可能性も出てきます。そうなれば最低あと二人がお嬢様の御側にいるということになるわけですし……」

 リザードマンは自信なさげに言った。しかし、ヴァルクライムはその僅かな希望を打ち砕くしかなかった。

「足跡が前者の三人と、後者の三人分しかなかった。他に新参の追っ手はいないということだ」

 ライラを見ると、彼女は頷いた。

「警備兵の首は打ったのは、この死体の男と、残る二人ということになる」

 ライラが言うと、ロブは激しい衝撃を受けたようによろめき、そして力なく泥水の上に膝をついていた。

「何てことだ。まさか本当に裏切りが起こったとは……お嬢様達は、この薄汚い奴らの残りから無事に逃げおおせておられるのだろうか」

 忠実な従者は天を仰いでいた。しかし、雷鳴と、雨音の間を縫うようにして、突如として奇怪で恐ろしい雄叫びが森中を揺るがせる様に響き渡ったのであった。

 ロブは思わず立ち上がり、ライラも周囲に目を走らせていた。獣よりも人の声に近いと、ヴァルクライムは感じた。その声にはどことなく悲痛さも窺えたが、結局はその欠片すら飲み干して、暴虐な意思の糧としているようであった。そしてこの場に居る三人の救援者の闘志を吹き消してしまうほどの、不気味な音色として聞こえていた。

 警備兵の遺体が、幹に沿ってズルリと滑り落ち、飛沫と音を立てて水溜りの中へと倒れた。ライラもロブも奇襲を受けたと言わんばかりに得物と共に振り返っていた。

 二人は倒れた遺体を凝視した後、意見を求めるようにヴァルクライムへ目を向けた。あのような、叫び声が存在するのかどうか、我が耳を疑っているといったところだろうか。

「どうやら、なかなか迫力のある奴が徘徊している様だな」

 半分冗談交じりで言ったが、生真面目な二人は敵の並々ならぬ気配を確信し、険しい眼差しを見せるばかりであった。

「聞き覚えはあるか?」

 ライラがヴァルクライムに尋ねた。

 そうだな、四つ足の猛獣の咆哮というよりは、二つの足で歩く人に近い化け物に違いないとは思うが……。軽く思案し、自分が想像しているものがデーモンと言われている異次元に身を置く存在に行き当たっているものに気付いた。

 ヴァルクライムは思案していた。この並々ならぬ存在が、レイチェル達と鉢合わせてしまったら、彼女達に打つ手は無いだろう。声の主は、巨躯を持ちその飢えを満たす為だけに忠実である獰猛な生き物とは違う。ひたすら底無しの執念深さと、当人でも知らぬであろう激しい怒りや、正体のわからない怨恨によって支配され、動かされているようにも思える。それだけを踏まえれば怨霊のようにも感じるが、ヴァルクライムは、相手は肉体を持っていると確信していた。彼の存在の、内に秘めている暴虐さは、呪いや魔術のような透き通ったもので、果たされて満足できるようなものではなく、きっと己の腕力であらゆる肉体を叩き割ってこそ、その心が満たされてゆくものだと思った。クレシェイドとは違うが、殆ど疲労を感じぬ身体を持っているに違いないだろう。そして、ヴァルクライムは瞼の裏に、この森のどこかを彷徨っている二人の仲間の姿を思い浮かべていた。彼女達が何処にいるにせよ、この脅威から引き剥がしてやろうとすることが賢明なのかもしれない。

「これは、お嬢様達を一刻も早く見付けねばなりません。闇雲になってしまいますが、夜を徹して、新たな手掛かりを期待して探さねばならないと思います」

 ロブが落ち着いた声で訴えた。

「それには私も賛成だが……」

 ライラは口篭らせると、決意を固めたような表情になった。彼女はきっと勇敢なことを提案するに違いない。ヴァルクライムはそう読み取る傍ら、自分も彼女と同じ考えを持っていることを確信した。

「しかし、あの声の主を我々が討ってしまうことも、レイチェル達の助けになるだろうと思う。無論、居場所を知るには、再び奴の声を聞く必要があるが」

「それはいい考えだと思います」

 意外にもロブは自然な様で応じた。

「少し私も心を落ち着かせて自問自答してみました。当面の脅威だと思われた追っ手も、あの亡骸からすれば途中で道に迷ったか、森に潜む何らかの災厄に見舞われて散り散りになったに違いありません。そして、冒険者の御二人は、きっと常にお嬢様の傍にあって、どうにか導こうとされているでしょう。それにこの土砂降りは、一見我々の頼りを消したようにも思えますが、それは裏切り者達にとっても同じことです。そして、これから夜になり、ますます身を隠すにはもってこいの時間が訪れます。そうなると、抜きん出て気掛かりになるのは例の声の主だけということになるわけですね」

 ロブは淡々と語ると、大きく首を巡らせて、耳を欹てていた。

 だが、それっきり声は聞こえず、一行は最後の手掛かりの周辺に戻ると、これまでの足跡から直線になるように、歩み出したのであった。

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