第7話 「潜入」 (後編)

 岸辺をすっぽり覆い隠すほどの葦の原が二人を出迎えた。

 草の隙間に僅かに見える足場を確認しつつ、更に音を立てぬよう、葦の葉を掻き分ける。と、目の前には草が踏み拉かれた真新しい跡があり、それは細い道のようになって、奥に広がる暗い森の方へと伸びていたのであった。

 敵の有無を確認した後、二人は足早に小道を辿って行った。

 程なくして森の中へと足を踏み入れた。そこは予想以上に薄気味悪いところであった。

 左右には木々が壁の如く密集し、全く見通しが利かないばかりか、頭上ではそれらの伸ばす枝が踊るように複雑に絡まり合っていて、今あるはずの夕暮れの名残さえも完全に締め出していたのである。

 まるで洞窟だ。思わず圧倒されそうになった。しかし、以前の迷宮での経験を思い出し、あの時の度重なる窮地と比較して平静を保とうと努めた。

 少し進むと、イーレが足を止めていた。彼女の視線の先を見ると、前方にぼんやりとした橙色の灯りがあることに気付いた。篝火だろうか。

 あれが人攫い達の根城だとすれば、あそこは入り口に違いない。見張りもいるはずだ。

 目を凝らして詳しく様子を窺った。灯りはやはり篝火であった。丈のある燭台のような籠の中で、丸みを帯びた炎が赤々と燃え盛っている。その背後には、迫り出した厚い岩壁が聳え立ち、黒い入り口が穿たれていた。

 見張りはいないようですね。

 緊張を吐き出したいがためか、気付けばそう口走りそうになった。

 突如イーレがこちらを振り返った。レイチェルに見えたのは、彼女の険しい表情の残像であった。イーレは振り向き様に、レイチェルの脇を矢のように駆け抜け、剣を抜くが早いか斬り付けていた。

 ガッという、くぐもった音が聞こえた。

 レイチェルは振り返る。しかし、妙であった。剣を放ったイーレの目の前には何者の姿も無く、ただの薄い闇が広がっているのみである。でも、音は聴いた。それに自分ならまだしも、イーレに限って気のせいとは考え難い。つまり、彼女は何かしらを討ったのだ。番人か、それとも自分達を食料だと思った怪物かのいずれかにだ。

 イーレは静かに剣を鞘に収めた。続いて地面に図多袋でも置くような音が明らかに聞こえた。彼女は足元を見据えて言った。

「たぶん、見えないでしょうね?」

「ええ。でも」

 レイチェルが言葉を続けようとすると、彼女は言った。

「そうよ。男を一人斬ったわ。景色と同化する魔術があるようね」

 レイチェルは合点がいかずに考えた。何て血の巡りの悪い頭なのだろうか。それってつまりは……。

「カエル?」

 レイチェルは脳裡を過ぎった生き物の姿を口に出していた。

「的を射ているわ。結局動けば判るもの」

 あの時イーレは前を向いていた。後ろを見ていたわけではない。それはつまり、物音が聞こえたということだろうか。

「私には何も聞こえなかったです」

 驚きつつそう言うと、彼女は振り返って答えた。

「私もよ。たぶんこの男はずっとこの辺りに立っていたのだと思う。私達のように、侵入者が篝火に気を取られている間に、後ろから首を掻き切るつもりだったのでしょうね」

 レイチェルは冷やりとし、思わず自分の首が繋がっているか確かめていた。

「そうだとしたら、どうして気付いたのですか?」

「におい。埃っぽい土の匂いがしたのよ。あの洞窟の中のと一緒のね」

 その返事にレイチェルは舌を撒く一方、不安にもなっていた。今後は見えない相手のことを考える必要があるからだ。思わずハッとした。

「サンダー君は、大丈夫でしょうか?」

「彼なら問題無いと……」

 イーレは口篭り、虚を衝かれたとでもいうように目を丸くした。そして彼女は焦りを抑えるように淡々と口走った。

「私達が最初にここを通ったとき、見張りの姿には気付かなかったわ。もしも、私達の姿が見られていたとすれば……」

 そう言い終わるや、イーレは篝火の方へ駆け出していた。

 レイチェルは慌てた。サンダーのこともある。しかし、イーレから平静さが失われたことに、言うなれば死に直結するような多大な危機感を覚えたのだ。

「何てこと、私ったら慢心してたの?」

 彼女の足は速かった。懸命に後を追いながら、レイチェルの耳には、イーレが彼女自身を責める苛立ちに満ちた呟きが幾つも届いていた。すぐに縦に伸びた洞窟の暗い入り口が見えた。彼女はもう篝火の間を抜けるところであった。

 不意に、視界の先にある炎に陰りを感じた。篝火は二つあるが、もう片方の赤々とした勢いに比べ、炎はまるで薄い霧にでも覆われたようにくすんでいるように思える。背筋が凍りつく感触と共に、先程の一件が素早く思い起こされた。レイチェルは戸惑う間も無く叫んでいた。

「イーレさん! 後ろ!」

 イーレがマントを翻し、こちらを振り返る。そして彼女は素早く腰の剣を抜き放った。

 鉄のぶつかる音が聞こえた。片方の篝火が倒れ、火の粉が空を舞い、燃えた木っ端が散らばった。

 イーレは間髪入れずに木片の一つを爪先で蹴り上げた。そして片方の手に受け止め、素早い動作で足元に炎を突きつけた。

 地を照らすはずの炎の灯りが陰って見えた。イーレは更に剣を向けた。すると半透明な片腕と人間の指がゆっくりと伸ばされた。

「待て! 殺さないでくれ!」

 必死に懇願する男の声が響いた。 

「扉の合言葉を教えなさい」

 イーレは冷たく捲くし立てるように応じた。躊躇うようなブツブツという独り言が聞こえたが、イーレが切っ先を更に近づけると、半透明な身体が慌てて身動ぎするのが見えた。

「あんた達は何なんだ? さっきのガキといい、お前らみたいのが何でこんな森の中に……」

「言うの? 言わないの?」

 イーレは声を鋭くした。

「それは不味い……言っても俺は死ぬし、言わなければお前に殺される」

「そんなの知ったことではないわ。私達はとても急いでいるの」

「俺は番人専門の下っ端教徒だ。つまりよ、あの扉から先に入る権限が与えられてないんだよ」

 相手は必死に口を開き、矢継ぎ早に続けた。

「そりゃ、合言葉は知ってるさ。だが、幹部どもにしてみれば俺もまだまだ部外者。体の良い使い捨てさ。合言葉は知っているが、言った途端に心臓が止まるように仕組まれているらしい」

「自分で選んで人攫いになったのでしょ? だったら、警備に突き出して、捕まって縊り殺される覚悟だって当然決めていたのでしょう?」

「それは、まぁ最初はそうさ。だが、死にたくは無い……。この怪しい教団が何をやっているか知っているか? その詳しいことを警備兵達の前で白状して、捜査に協力してやっても構わない。もちろん、身の安全と罪科との相殺を保証してくれるならだが」

 姿は見えないが、男の悲痛な訴えに、レイチェルの心は傾き始めていた。彼が出頭し、平穏な道に戻りたいと願うのなら、これが最初で最後の機会になるのではないか。彼をここで保護できるかどうか、相手にとってここが運命の分かれ道で、その鍵を握っているのは他ならぬ自分達である。

 レイチェルは意を決して歩み寄りながら言った。

「本当に詰所に出頭するんですね?」

 灯りに照らされる半透明の体に向かって尋ねた。イーレが咎めるような視線をこちらに向けたが、レイチェルはこの場は神官の務めに徹することに決めた。罪を悔い改め、改心するという者の思いを信じず無下に踏み躙る訳にはいかない。

「出頭? ああ、そうだ、出頭するとも! だから、合言葉を言うのだけは勘弁してくれ! 勿論、斬り殺されるのもだよ!」

 男の声が先程よりも鮮明になった。おそらくこちらを振り返っているのだろう。若い声であった。

「その格好、あんた神官だな? 改宗する! お、俺も、この罪を海よりも深く後悔し、山よりも高く反省するって誓う! だから是非ともアンタの神様のところに入信させてくれ!」

 その場の勢いで口から出たのだろう。神官として誇りを持って励んでいる自分にすれば、この男の言葉は実に小賢しく聞こえた。しかし、それでもこの瞬間、彼は入信すると口にしたのだ。

「獣神キアロド様の使者となり、義と愛の下、人々に救いの手を差し伸べられる、そのお手伝いをすると、おっしゃるのですね?」

 レイチェルは念を押すように尋ねた。可か否か、はっきりした答えを聴き、相手に対する自分の気持ちもここで整えるつもりであった。

「聞いた覚えの無い神様だけど、悪くはなさそうだ。入信する。義と愛と反省の下、町中の清掃でも滝に打たれるでも何だってやるさ。こんなことで死んだり、一生追われて怯えて過ごすよりはマシだ」

 姿が見えなかったため、信憑性には欠けるが、彼は確かに入信すると誓ったのだ。ならば、次にレイチェルのやることは新たな信者の罪滅ぼしに手を貸し、見守ってやる事だ。そう決意し、イーレを見た。

「それならば、情報を提供しなさい。人質は何人?」

 彼女は呆れるようにレイチェルを見た後、目の前にいるであろう男に向かって言った。

「確か、五十、いや、四十人ぐらいだったかな。ムジンリの若い女達の他に、冒険者が三人。たぶん、扉の向こうのどこかに監禁されているか、それとも、もう、材料にされているか……」

「材料?」 

 イーレが問い返した。

「きっと、ホムンクルスのことだと思います」

 レイチェルは迷宮のことを思い出してイーレに言った。

「そ、そうだが。あんた魔術師でもないだろうに、何でそれを知ってる?」

 レイチェルにとっては愚問であった。相手へ返答はせず、他に質問があるかどうか、イーレを見て目で訴えた。

「洞窟の中には、あなたの昔のお仲間は何人いるの?」

「二十人ぐらいはいたと思う。いや、俺らが船で来る前にも既にいたかもしれないが……。だけど、気を付けろ、連中は俺みたいな魔術師の端くれとは違うし、盗賊どもも荒くれたのばっかしだ。特に司祭のベルハルトは、正直色々と厄介な相手だぜ。まぁ、あの手のつけられないダウニー・バーンが居ないだけマシかもしれないが……」

 そして彼はハッとしたように声を上げた。

「いや待て! そもそもアンタらじゃ、あいつらに勝てる訳が無い! 人質は諦めてここは一度アルマンにでも向かお……」

 バシッと、痛烈な音がし、相手の声は途切れた。見れば、イーレが剣を抱えている。どうやら刀身の腹で打ち付けたようだ。

「入信したところで、この人の性根は変えられるかしらね?」

 イーレが冷ややかに言った。レイチェルは信者として、助け舟を出したかったが、上手く言葉が出なかった。教会へ行って初めて正式な信者と認められるからだ。今はレイチェルが信じるだけで、実際彼はまだ逃げられる位置にいる。意思の赴くまま、そうするのも自由であり、それもまた天の導きとも思えたのである。

 イーレがその場で屈み込んだ。彼女は土を掴み、半透明な男の身体へと塗りたくった。茶色に染まった顔の表面が空に浮かぶように露になる。イーレは草むらから蔓を切ってくると、慣れた手付きで相手の身体を縛り上げ、結局、男を木々隙間に引きずり込み、それらに括り付けたのであった。

 そして二人は洞窟の中へと踏み込んで行った。


 

 二



 洞窟の中は天然の岩壁を広く穿って刳り貫いただけの造りであった。

 暗闇を照らすように、先々には対になった燭台が、一定の間隔を置いて取り付けられている。それこそが逆に、何者かが潜んでいることを確信させ、レイチェルの身をこの上なく緊張させる一翼となっていた。

 灯りは真っ直ぐ先にそれぞれ三組だけ確認できた。しかし、それらは規則的に段々と下がっている。つまりは地の底へ向かう下り坂と言う事だ。

「さっきはありがとう」

 先に踏み出しながらイーレが言った。

「少し、先輩ぶっていたのかもしれないわね」

 続いて彼女は恥じ入るように目を軽く伏せつつ続けた。

「そんなことないですよ。いつの間にか私達がイーレさんに甘え切りだったみたいです。本当なら無関係なのに、巻き込んでしまって……」

 レイチェルが言うと、イーレは首を左右に振ってみせた。

「もう無関係ではないわよ。私はシャロンお嬢様に雇われた精霊魔術のお師匠様だもの」

 そして彼女は悪戯っぽく笑ったのだった。

「そういえば、そうでしたね」

 レイチェルは慌てて応じた。相手の笑みに思わず面食らい、作り笑いを浮かべる余裕すらなかった。綺麗な笑顔だった。

「そう。お嬢様のお願いで、攫われた人達を助けに来たのよ。あなた達と何ら変わるところは無いと思うけど?」

 相変わらずの下り坂が続いていた。蝋燭の灯りは絶えることなく左右に向かい合い、それが先へ先へと途方も無く続いている。まるで悪霊がこちらの意識を操り、彼らの生誕の地である冥府へと誘い掛けているかのようにも思えた。

 視界は殆ど当てにならないので、その分二人は耳を欹てていた。レイチェルも異なった僅かな息遣いさえ聞き漏らさぬように、片時も気を抜くことは無かった。しかし結局は何事も無く、件の扉の前へと二人は辿り着いたのであった。

 扉は頑強な鉄製で横幅めいいっぱいに鎮座していた。

 合言葉が無ければ開かないと知らされていたが、大きなこと以外は特に目立った個所の無い扉であった。鉄の棒でできたドアノブが二つ並んでいて、間には左右に開く際の裂け目がある。少々肩透かしであったが、仕掛けらしいものが無いことに対し、どう対処すべきか、その不明瞭な糸口に不安を覚えていた。

 それにしても、サンダーはどこだろうか。彼は安全な場所にいるとイーレは言ったが、結局は脇目も振らずにここまで辿り着いてしまっていた。

 レイチェルが戸惑っていると、イーレが頭上を見上げた。天井はこれまでよりも高くなっていて、蝋燭の灯りも完全には届いていなかった。

「居るの?」

 イーレはその先が見えているかのように尋ねた。

 きっとそこにサンダーが居るのだろう。しかし、今、そこからの返事は無かった。

 イーレの表情が曇り、レイチェルも緊張を覚えた。彼は敵に見つかってしまったのだろうか。無意識の内に身体から力が抜け、イーレが腕を伸ばして抱えてくれた。

「彼は捕まったのかもしれない。だけど、さっきの男が言っていたわ。奴らは攫った人を材料にすることが目的だということと、後は監禁するとも。あなたが言うには、ホムンクルスにするための材料かもしれないということだけど、いずれにせよ、魔術師の実験は薬の調合と一緒で下準備が長いものなの。さっきの男は、それを見越して監禁されているとも言ったに違いないわ」

 イーレは力強く訴えた。彼女がその後に何を言いたいのか、無論レイチェルにも分かったので自らを鞭打つように頷いた。サンダーが材料として殺されるとしても、まだ間があるとうことだ。救い出す手があるなら、急いだ方が良い。イーレは言った。

「彼が何か合言葉の手掛かりを残してくれれば良いのだけれど……」

 彼女は背負っていた弩を下ろすと、その場に屈み込んだ。そして次の瞬間、高々と跳躍し、頭上の闇の中へと消えて行った。真上から微かな足音はすぐに聞こえ出し、続いて僅かな量の砂が零れ落ちてきた。

「残念だけど彼は居ないわね。今から縄を下ろすから、燭台を一つ括り付けてくれない?」

 イーレの声は心持ち沈んでいたが、最後には思い直すようにきびきびとしたものへと変わっていった。

 レイチェルも彼女を見習うべきと気を引き締めた。そして手近の灯りのもとへと駆け寄った。

 鉄製の燭台は岩壁に埋め込まれていたが、意外にも片手でだけでも引きずり出せた。荒い網目状の籠の中では、太い蝋燭が半ほどまで溶け落ちていた。天井から縄の先が下ろされていたので、レイチェルは籠が水平になるように、網目の両端に縄を潜らせて結び付けた。

 そして灯りが上がってゆくのを見送ると、ふと気付いたことがあった。これまで蝋燭は左右の壁に向かい合って並んできていたのだ。片方だけが無い状態では、自分達が侵入したことがバレてしまうのでないだろうか。

 レイチェルはそう決めると、もう一方の燭台に手を掛け、一気に壁から引っこ抜いた。そして端っこの地面を掘り起こし、掬った土で穴の開いた壁を埋め始めた。イーレがロープを伝って降りて来た時に、俄かに行われた修繕作業もちょうど完了した。

「彼のおかげで先へ進めそうよ」

 慣れた様にロープを引っ張り下ろすとイーレが言った。しかし彼女は表情を怪訝なものに変えた。

「少し暗いわね」

 そう言い、レイチェルの手にある燭台を見て納得したような顔になった。

「合言葉を言った後に、扉を三回叩くのよ。彼に間違いないと思うけど、壁の隅に小さくそう刻まれていたわ。今から試すけど、私が駄目になったら、あなたは潔くここを諦めて、お嬢様の護衛のことにだけ専念して。術者が死んだら、精霊も消えてしまうから」

 そしてイーレは立ちはだかる鉄の扉に近付き、見上げて言った。

「ラ・マデラ・レルラ・ラダラ・オドラムラ・ゲムラム・ヌムラ」

 明瞭な声が響き渡ると、応じるように扉全体がカッと光り輝いた。途端に周囲は真っ白な光りの世界に包まれ、目を閉じているのにも関わらず眼球に強い痛みが走った。しかし、その耳に扉を叩く音が三回、確かに届いてきたのであった。

 瞼の裏が暗くなり、レイチェルはようやく目を開いた。そして我を疑った。目の前にあったはずの扉が綺麗さっぱりと消えてしまっていたのだ。

 呆然とする自分を尻目に、イーレは落ち着いた動作で弩を背負っていた。

「どうなったんですか?」

 レイチェルが尋ねると、彼女は片方の剣を抜いて答えた。

「消えたのよ。だけど、すぐに元に戻るでしょうから、急いで進むわよ。挟まれるから」

 確かにそうだとレイチェルも思い、二人は小走りで駆けた。レイチェルが後ろを振り返ると、その僅かな間に鉄の扉は以前と同じように甦っていたのであった。

「扉が」

 レイチェルが声を掛けると、イーレは足を止めた。

「あのまま扉を叩かなかったら、どうなるのかしらね。本当に心臓が止まるのかしら?」

「え?」

 しかし、イーレは薄い笑みを浮かべただけであった。しかし、レイチェルの中では些細な疑問が解決していた。部外者が合言葉を唱えれば心臓が止まるというカラクリの分かれ道は、きっと扉を叩くかどうかなのだ。外にいたあの男の人はきっと扉を叩くことを伝えられていなかった違いない。

「透明な敵に注意を払いつつ進むわよ。私達の目的は人質の救出と、サンダーと合流すること。きっと交戦は避けられないでしょうけれど、優先する順番だけは覚えておいて」

 レイチェルは頷いた。扉の向こうもこれまでと同じ風景であった。岩壁と燭台が続いている。唯一変わったところといえば、下り坂が終わり道が平坦になったことである。足音を忍ばせながら二人は進むと、行く手の前方に大きな曲がり角が現れた。先の様子は見えないが、蝋燭の灯りが漏れ、向かいの壁をオレンジ色のカーテンのように染めている。そこには揺らめく一つの人影も映し出されていた。

 二人は足を止めた。幾度目かの緊張を覚えたが、状況に馴染んできたのか、思ったよりも頭の中は冷静であった。敵が透明か否かを見極めなければならない。いざ、目の前に躍り出た際、そこに何の姿も見えなければ、その一瞬の戸惑いの間に殺されてしまう。レイチェルは改めて様子を窺った。

 黒い人影は、せせらぎの様に相変わらず壁の表面で揺れていた。選択肢は単純だ。逃げるを抜きにするなら、突撃か、誘き出すかだ。声を潜めてイーレに話しかけようとしたが、その前に彼女の方からこちらを振り返った。

「ここに居て」

 冷静な瞳を向け、彼女はそう囁くや、もう一方の剣も抜いて、姿勢を低くし、風のように駆けて行った。足音を立てずに、その身体は躊躇いも無く、奥に飛び込んだ。そして、幾つかの鈍い物音が聞こえた後、彼女は姿を覗かせた。

 安全だと言う事だろう。レイチェルは小走りになった。微かだが自らの足音が洞窟の中に響いた。しかし、幾ら苦心しようとも音を完全に消すことが出来なかった。壁に映るやや丸いような自分の影を見て、少々惨めに思いつつも、角を曲がってイーレと合流した。

 まずは地面に突き立った二つの篝火が目に入った。それらに挟まれて小さな格子窓のある扉がある。

「そこに転がっているから」

 イーレは足元を見下ろしながら言うと、布切れを取り出し刃を拭った。

 なるほど、地面には血の溜りが出来つつあった。亡骸と思われる箇所を除いて、そこを囲むように流れ出ている。

 遺体はいずれは元の姿に戻るのだろうか。レイチェルがそんなことを考えていると、イーレは金属で出来た簡素な扉の取っ手を握っていた。

「罠はないみたい」

 短く小気味の良い音を発し、扉は開いた。

 その先もまた、壁に掛かった蝋燭が続く洞穴だったが、これまでと違って縦も横もが一気に広大になっていた。

 イーレは先へ進もうとしなかった。見れば、彼女は目を閉じている。周囲の物音を聴き分けているようだ。

「はっきりとはしないけれど、嫌な気配がするわね」

 開口一番に彼女は表情を険しくさせて言った。

「きっとここが終点よ。空気が一気に禍々しくなったもの。邪法を使っているのか、元々禍々しい場所なのか……。今までの道は最近掘られたものだと思うけれど、ここだけはそれ以前に存在していたように思えるわね」

 レイチェルは固唾を呑んで、闇の先を見渡した。透明な殺戮者が足音を忍ばせ、近づいて来ているかもしれない。イーレが居なければ、一度扉を閉めて、向こう側で窓から様子を窺いたいところであった。

 ふと、先にある燭台の下に人の姿が現れた。イーレも、レイチェルも身構えた。

「遅かったじゃん」

 聞き覚えのある少年の声がした。レイチェルは耳を疑い、そして灯りに照らされながら近づいてくる人物の姿に見入っていた。そして心の底から安堵の息を吐いた。馴染みのある半袖の革のベストが見えた。レイチェルは確信した。彼は紛れも無くサンダーだ。

 嬉しくて駆け寄りたくなったが、こちらがそうする前に、少年の方から小走りで寄って来た。

「再会の挨拶は抜きにしてくれ。奴らはここからすぐ先にいるぜ」

 少年はこちらに合流すると、声を潜めながら言った。その表情はあくまで生真面目であり冷静であった。レイチェルは頷き返しながら、その一介の戦士らしい態度に大袈裟だが感銘を受けた。しかし、内面は彼が無事だったことにとても感動していた。篤く昂る気持ちを何とか押し留めて、冷静になるべくレイチェルは努めた。

「そろそろ人質がヤバイところだったんだ。ホント、ギリギリだったよ」

 サンダーはイーレに目を向けて言った。

「今からでも間に合うかしら?」

 イーレが尋ねると、サンダーは無邪気そうな笑みを見せて言った。

「ああ、たぶん大丈夫。儀式の準備だかに手間取ってるみたいだ。連中はそっちに気を取られているから、今は背後が、ガラ空きの状態だぜ」

「好機と言うわけね。……それなら一気に強襲を仕掛けましょう」

 イーレが応じると、サンダーは頼もしげな笑みを見せた。

「よし、俺が案内するよ」

 彼は先に発とうとしたが、イーレがその背を呼び止めた。

「待って。あなたの短剣じゃ、苦労すると思うから……」

 イーレはそう言うと、彼女自慢の二振りの剣の中から、レイチェルが借りた「鱗斬り」と呼ばれる片刃の剣を差し出した。

 少年は一目でその重厚な刃に魅了されていた。その口元が僅かだが、彼には似つかわしくないほど、不自然に歪んでいる様な気がした。それは一瞬の出来事だったので、確信は持てないが、まるで剣を見て何かを思い出したかのような印象を受けた。しかし、少年は再び目を溌剌とさせ、剣の柄を握り締めた。

「へぇ、良い剣だな、これ」

 少年は翳したり、覗き込んだりして、感激するような声を漏らした。

「切れ味は折り紙つきよ。私のような貧相な女でも、片手でトロルの首を刎ねた事があるわ。返す刃でもう一つもね。あなたならそれ以上に上手く使いこなせそうよ」

 イーレが沈着な光の宿る双眸を向けて、少年に言った。

「それは……ああ、そうかもしれない。返す刃でもう一つか、すげぇよな」

 サンダーは剣に目を落としながら答えた。

「さ、グズグズしてる暇は無いわよ。いらっしゃい、神官さん」

 そしてイーレはレイチェルの手を掴み、半ば強引に歩かせた。無論、レイチェルはイーレの態度に違和感を覚えた。まるでサンダーから離れようとしているかのように思える。一方、そうではなく別の思惑があるようにも感じられた。なので、案内はサンダー自身がすると先に述べたことを口に出すことが拒まれた。

 イーレは隣に並びながらも、未だに片腕をしっかりと握り締めていた。その手の平が忙しく強くなり弱くなったりしている。わざとやっていることはレイチェルにもわかった。何かを訴えたいのだ。しかし、今はイーレのこともサンダーのことも振り返ることが懸命だとは思えなかった。彼女は何かを考え、内密に実行しようとしているのだから。

 不意に、背後で乱雑な足音が響き始めた。

 追っ手!? サンダーの身を案じ、レイチェルは慌てて振り返ろうとした。しかし、イーレの手が自分の肩を力いっぱい押し退け、レイチェルは固い地面にうつ伏せに倒れ込んでしまっていた。

 足と腕に軽い痛みが走る。擦り剥いたのだろう。そう思ったときには、地を力強く蹴りつける音と、すっかり耳に馴染みつつある重たい武器を振るう風の音が耳に届いていた。

「があっ!?」

 その痛々しい呻きを聞き、レイチェルは心臓が止まるほど驚いた。それは紛れも無くサンダーの声であったのだ。

 慌てて振り返ると、そこには身を低くし、半ばすれ違うかのような体勢で、少年の懐に飛び込んでいるイーレの姿が見えた。そしてサンダーは頭を前に突き出し、身体は海老のように折れ曲がっている。その表情を見てレイチェルは悲鳴を上げそうになった。少年の両眼は飛び出しそうなほど大きく見開かれ、同じく大きく開いた口からは舌が突き出ていた。

 イーレが脇へ避けると、少年はそのまま地面に崩れ落ちた。

「黙って、お願い」

 イーレはすかさず射るような真剣な眼差しを向けてレイチェルに言った。

 レイチェルはイーレの手に握られたもう一つの剣から血が滴り落ちているのを見て、気が遠くなりかけていた。

 イーレさんが、サンダー君を。訳がわからない。

 足元がふらついた。これは幻想なのだろうかと、考えた。知らぬ間に尻餅をついていた。

「ごめんなさい。でも、レイチェル、勇気を出して。私が倒した敵の姿をもう一度しっかり見て。彼は全くサンダーじゃないことが理解できるから」

 呆気に取られ、促されるまま、レイチェルは亡骸へ目を向けた。はたしてそこに倒れていたのは、黒衣の外套と頭巾に身を固めた大人の男であった。激しい形相の中で、生気の失せた両目はどこか遥か彼方を凝視していた。

 レイチェルは目を瞬かせて、今一度確認すると、深く安心し、溜息を吐いた。

「おとなしく案内に従うフリもできたけど、相手には他にも魔術師がいることを考慮しなければならなかったから……。透明な魔術を考えれば、進んだ先で、ムザムザ挟み撃ちになる方が、当然命取りに思えたのよ」

 イーレは剣を拾い上げ鞘に収める。

 レイチェルはただ頷いて応じていた。安心したあまり、気が抜けてしまったのだ。その余韻が未だに雲のように頭の中に居座り続けていた。しかし、思考とやらは以外に早く戻って来た。

「そういえば、どうしてわかったのですか?」

 レイチェルはふと思い立った疑問を投げ掛けていた。

「彼はあんな下品な顔はしないわ。純粋無垢だもの」

 レイチェルも違和感に覚えがあったことを思い出した。あれは見間違いではなかったということだ。

 出会って少しばかりなのに、イーレが少年のことを意外なほどよく見ていたことにも驚かされた。

「もう大丈夫? 先に進むけれど?」

 彼女は手を差し伸べて尋ねた。レイチェルは頷き、手を握り返す。そして立ち上がったとき、相手の頭越しに見える遠い闇の中の一帯が、歪んだような気がした。

 透明な敵だ!

「そこに!」

 レイチェルは素早く立ち上がると、イーレの隣に並んで前方を見据えた。

「目の良い来客だな」

 嘲笑うような男の声が低く木霊した。

「しかし、はっきりとは見えぬだろう?」

 その声は言った。まるで笑みを見せているかのように思わせた。そして幾つもの別の男達の声が、聞こえ出し、それはすぐさま重なり合い、洞窟内へ暗く反響する歌唱となっていた。

 魔術の詠唱だと気付いたときには、前方の暗闇という暗闇に、無数の炎の玉が浮かび上がっていた。



 三



 主の居ない、無数の火の玉が暗い中に浮く光景とは、いかにも異質でおぞましく思えるはずだが、気持ちを正気に戻したのもまたその火の玉の突飛な動きであった。

 それらのうちの一群が蛇のように紅蓮の軌跡を残し、渦巻きながら天井へ飛翔する。そして波のようになって向かってきた。

 迫り来る火炎は二人から逃げ場を奪っていた。

 地面との僅かな隙間に頼って倒れるべきか。レイチェルの中ではこれが僅かにでも生き残れそうな最善の策に思えた。

 イーレがレイチェルを庇うように進み出た。敵を睨み、彼女は既に詠唱の調べを口ずさんでいる。そして彼女の身体をぼんやりとした蒼色の光が包んだとき、迫り来る炎が蒸気を上げ、霞となって消え失せた。

 闇に溶け込む者達から驚愕の声が上がった。

 しかし、イーレはすぐさま別の調べを詠み始めていた。ぼんやりとした蝋燭の灯りの下、前方の大地が突然ゆるゆると形を失い始めた。そしてそれらは突然意思を持ったかのように泥水となって噴き上がり、闇の向こうへと放射状に広がっていった。

 再び幾つもの敵の声が木霊したが、今度は悲鳴であった。

「仕掛けるわ! 着いて来て!」

 イーレは左右の剣を抜くと見えない敵を求めて駆け出した。レイチェルも鈍器を手に懸命に後に続いた。だが、正直困惑していた。見えない敵の間を駆け抜けると言うのだろうか。

 隼のような彼女の後を懸命に追いかけて行くと、その向こうに妙なものが現れた。一見すると地面から突き出た奇妙な岩か、像のようにも思えた。蝋燭の灯かりが照らす中、ズラリと並んだそれらは芋虫のように蠢き、小さな呻き声を上げていた。

 イーレがその一つに剣を突き立てた。それで正体が敵であることに気付いたのだった。彼女は双剣を振るい、次々と敵の間を駆け抜けて行く。彼女の剣に貫かれた多くは、佇立した泥人形として息絶えることとなった。

 不意に一方の端から男の低い声が聴こえた。他の者と違い、明瞭な声音で、刃のように鋭く、そして冷たい響き帯びていた。それが魔法を唱える調べだと気付いたときには、俄かに激しい光が洞窟の中を駆け巡り、泥に包まれていた敵達の身体を一挙に露にさせたのだった。

 イーレが動きを止める。彼女の魔術から自由になれたが、敵達の身体は透明ではなくなっていた。漆黒の魔術師の胴衣と頭巾を身に着けた者に、軽装の鎧を着た粗暴な顔をつきをした男達の二つに分かれていた。自由に戻ったことに歓喜するそれらの中に、たった一人だけ違った衣装を纏った者がいた。

 白を基調とした明らかな神官の衣装に身を包んでいる。そして手には神聖魔術の名残である淡い光りが消え去るところであった。

 このようなところに神官がいることと、敵に回っていることに、レイチェルは激しい困惑に陥りそうになった。しかし、邪悪なる神々を崇拝する神官達もいることを思い出し、この男こそが彼の存在なのだと確信し、心を静めたのだった。

「これほど高等な水の魔術を見たのは初めてだ」

 神官は嘲笑う。先程の声の主だということがわかった。黒装束の魔術師、そしてそれよりも少ない軽装の男達が正気を取り戻すや、こちらに殺到し、前方を包囲しながら壁際へと追い詰めてきた。

 イーレと隣り合わせになり、二人はジリジリと後退しながらも、背はついに岩壁に触れることとなった。

 神官が包囲の中から縫う様に歩み出てきた。

「我が名はベルハルト。無謀という名の正義感からとは思うが、結局は余計な事に首を突っ込むだけとなったな」

 神官ベルハルトは若い男であった。金色の長い髪を含めて、容姿端麗であったが、双眸と口元は邪悪な翳りに染まりきっていた。今は、その顔が軽く値踏みするようにレイチェルへ向けられている。負けじと睨み返すと、ベルハルトは満足げに冷淡な微笑みを浮かべてみせた。

「神官は良い生贄になる。信仰心の高さに、主神の寵愛ともいうべき聖なる力は比例する。言ってみれば、とても小さな神を生贄に使うことと変わりないということだ。……お前はそれまであの者達と共に生かしておいてやろう」

 そして邪悪なる神官はイーレを見た。

「生憎、手違いで供物が不足している。そちらのお前にはすぐに死んでいただかなければならないな。魔術、そして剣の冴え、共に惜しいほどの使い手だが、背に腹は変えられん。このまま捕まり、首を落とされるか、華々しく散ってみるか……あの勇敢なる姿を見た後では、尚更どちらを選ぶか興味があるな」

 包囲の中から幾つもの邪悪な眼光と下卑に歪んだ口元とが、イーレに注がれた。しかし、身動きが取れず、詠唱を口ずさもうなら敵は瞬く間に押し寄せてくるだろう。レイチェルは必死の思いで頭の中で窮地を脱出する術を考え巡らせていた。

 傍らでイーレが剣を構えた。

「血路を開いてみせるわ」

 静かだがしっかりとした声で彼女は言い、挑むようにベルハルトを睨み返した。敵の中から、からかう様な声が上がった。レイチェルはそんな声を無視し、慌ててイーレの肩を掴んでいた。どうなろうとも死んでしまう。そんな状況なのは分かっているが、それでも必死に止めていた。

「残念ね、レイチェル。こうなっては、万策尽きたわ。……人が死んで魂になると言うなら、私はそうなった後に出来るだけ早く、あなたを助けに戻るつもりよ」

 イーレが天を仰いだ。どうにもできない、まさしく終わりなのだと感じた瞬間、レイチェルは愕然とし、地面に両膝をついていた。

 こんなに傍にいるのに、イーレがとても遠くに感じられた。そして、その姿は今もまた、流れのように徐々に離れていっているように思えた。手を伸ばしたい。必死に手を伸ばして、その腕をどうにかして掴み取りたい。そして涙で歪む視界の中で、イーレが敵の群れに向かって大きく一歩踏み出した。

「本当に魂になれるのなら、やってみせる」

 イーレが双剣を構える。悲壮感が漂う背には、共に固い決意の漲りも感じた。彼女は本気だ。

 本当に魂になれるのなら……。イーレの声が思い起こされた。

 そうだ、それは私にも言えることだ。何も方法が無い状況でも、私のように非力で鈍足で、賢くも無い者が生き残るよりも、彼女が生き残る方が、ほんの隙間ほどでも、事態が好転する可能性が生まれるのではないだろうか。

 お嬢様のことを思い出す。忘れていた。二人とも死んでしまったら、彼女はどうやって家に帰れば良いのだろうか。私は森を歩くのに精一杯の役立たずだ。

 レイチェルは心を決め、立ち上がった。

 そして好奇と、嘲りの目が向けられるのも気にかけず、浄化の祈りの調べを強く口ずさんだ。

 鈍器を落とし、その右手に淡い光が宿った時、軽装の男達が表情を一変させ、慌てふためきながら曲剣を手に襲い掛かってきた。

 レイチェルはしめたと思った。今この瞬間、誰もが自分の奇行に見入っている。

「イーレさん逃げて!」

 レイチェルは叫んだ。願わくば、あなたがこちらの意図を汲み取ってくれますように!

 しかし、イーレは素早くレイチェルの前に身を置くと、双剣を振るい、殺到してきた四人ほどを瞬く間に切り伏せていた。

 レイチェルは失望を覚えそうになったが、それも仕方の無いことだと割り切った。だが、この程度の抵抗にも関わらず、敵の間に予想以上の動揺が広がっていた。

 魔術師と思われる黒装束の男達、そして軽装の男達は、驚愕に目を見開いて後ずさりしていた。しかし、神官のベルハルトだけは目こそ丸くはしているものの、その態度には多大な余裕が窺える。その身体を浄化の光に似た淡い輝きが覆った。

 次の瞬間、群れとなった敵の頭上から豪雨が降り注いだ。上を見上げていたが、魔術師達はまるで殺気を感じたかの如く、揃って洞窟の奥へと我先に駆け出していた。無言で闇に消えて行く者達を見て、激しい滴に打たれながらも、軽装の戦士達は揃って首を捻っていた。

 しかし雨粒が数人の頭を貫くと、彼らも事情を察することができた。しかし、時既に遅し、血と絶叫が辺り一面を染め上げた。雨が地面に当たって硬い響きを残して破片となったとき、レイチェルにはそれが氷であることがわかった。氷柱の雨である。

 神官の男は戦士達の死に行く様を見届けると、狂気に満ちた暗い笑みと共に振り返った。

「聖なる水の神に仕えるというラミア族か。……未知なる力を前にし、今は抗う時ではないな。ただ確実に計画を急がせねばなるまい」

 すると身を翻し、亡骸の上を走り去って暗闇の向こうへと姿を消していった。

 レイチェルの身体をドッと疲労の波が襲ってきた。そして、目を落とした先に、エメラルド色の長い尻尾があるのを見て、ようやく状況を悟ったのであった。当然だが、氷柱の雨を使ったのはイーレだ。この窮地を乗り切るために、彼女は隠している本来の姿を曝け出さなければならなかった。その事実を目の辺りにし、レイチェルは己の不甲斐無さに対して、大きな憤りと失望を感じたのだった。

 相手がゆっくりとこちらを振り返った。瞳はルビーのように真っ赤に変わっていたが、その中にある光は沈着で愛に溢れていた。

「無茶するわね、あなたは」

 呆れる様な、あるいは慈しむ様な表情を向けて彼女は言った。

「だって、お嬢様のことを一人にはできないですし……」

「すっかり忘れていたわ」

 イーレは目を丸くして言うと、苦笑して見せた。

 そして二人は顔を見合わせると、お互い承知するように闇の向こうへと足を進めて行った。

 魔術師が透明になっていようが構いやしなかった。二人はこれまでと打って変わって、洞窟中に足音が響くのも気にせずに疾走していた。お嬢様を待たせていることと、邪悪な神官ベルハルトが言っていた計画のことが不安であった。どちらのためにも急がなければならない。まだ見ぬ人質とサンダーの命も掛かっているのだ。

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