第6話 「森の脅威」 (後編)
少女は茶色の革のマントを靡かせ、草を掻き分けながら疾走していた。
彼女は時折、足を止め、後ろを振り返っていた。それはレイチェル達を気遣う傍ら、彼女の言う執念深い怪物の様子を確認しているようである。
シャロンはサンダーに背負われ、レイチェルは、初めて背中に強烈な殺気と慄きを感じる殿の位置を務めていた。
案内の少女は、沈着な面持ちと声で、言葉少なに三人を励まし続けてもいた。
ずっと後ろ方で、木の折れる音が聞こえ、レイチェルはゾッと身を震えさせながらも、自分がああいう姿をした化け物が心底苦手なのだと気付いたのであった。
「俺は、もうぜったい川で泳いだりはしねぇぜ!」
「私も!」
サンダーが悲鳴に似た声を漏らし、レイチェルも思わず応じていた。
「喋っては駄目」
案内の少女が振り返り、心持ち厳しく訴えた。再び木の折れる絶望的な音色が聞こえる。それから、しばらく走ると、目の前に岩壁が立ちはだかるのが見えた。周囲に草は生えてはいるが、レイチェルには、そこがほんの少し拓けた場所のようにも思えた。
案内の少女は岩壁の前で立ち止まった。そして彼女はこちらを振り返る。その目は追っ手の有無を確認しているようであった。
「来ない」
彼女は短くそう言うと、自分の胸の前辺りにある岩に手を掛けた。すると、岩はその部分だけ蓋のようにすっぽりと外れ、穴が姿を現した。
「お主、剛の者じゃの」
シャロンが少女を見て感心していた。
「これは岩じゃないわ」
相手は表情を変えぬまま言うと、岩の蓋をクルリと裏返した。それは木の板であり、外側だけを岩に似せて色を塗ったものであった。
「おお、なるほどのぉ」
シャロンは再び喉を唸らせ、咳き込んだ。そこでレイチェルは彼女が風邪を引いたことを思い出した。その事を口にしようとすると、案内の少女が、穴に入るように一行を促した。咳の音を怪物が耳にしてしまうのを恐れているようであった。
「入って」
彼女は短くそう告げ、入り口の脇に立った。サンダーが多少警戒するかのように、相手を眺めていた。
「お言葉に甘えさせて頂きます」
レイチェルは丁寧に述べて、先に入り口を潜っていった。
ここまで案内してくれた人だもの。それに私達を危機から救ってくれた。信じて良い人だと思う。
入り口付近は少々狭かったが、手探りで進んでゆくと穴は徐々に広くなり、すぐに一気に開けたところへ出るのを感じた。視界が順応する前に、背後からカンテラの灯りが部屋の様子を明らかにさせていた。
そこは土壁ではあるが、立派な一室という感じであった。足元には絨毯が敷かれ、片隅には机と椅子、そして物の収まった棚が幾つか並び、ベッドも置かれていた。
謎の少女はベッドの方へ歩みんで行き、毛布を軽く振り払い、シーツなどを整えた。
「その子を寝かせてあげて」
彼女はこちらを真っ直ぐ見て静かに言った。当然、シャロンのことだ。サンダーがシャロンを背負ってベッドの方へと向かった。
「調子が悪いって良くわかったな」
感心するように彼が言うと、相手は彼を見て答えた。
「顔色が良くないもの。それに寒さで震えているわ」
それから彼女は部屋の数箇所に設置してある、他のカンテラに火を灯しに動いていた。
部屋を方々から満たす灯りの中で、シャロンは初めて安らいだ顔を見せていた。
「お主らには迷惑を掛けるが、わらわは少し休ませてもらおうと思うのじゃ」
「どうか、ゆっくり休んで下さい。私達はお側にいますから」
レイチェルが言うと、お嬢様は微笑みを浮かべて見せた。
「そうだぜ。ここでしっかり休憩して、また出直せば良いんだ。遅れた分は、あの人に道を訊けば、あっと言う間に取り戻せるだろうし」
サンダーが励まし、シャロンは深々と頷いた。
謎の少女がこちらに歩み寄り、水の入ったコップをシャロンに差し出した。
「薬。風邪にも効く、熱冷ましよ。苦いから、咽らないように少しずつ呑むと良いわ」
レイチェルに手伝われ、シャロンは身を起こしてコップを受け取った。彼女はコップを一口啜り、顔を大きく顰めたが、何とか少しずつ飲み干していった。すると謎の少女は、再び手を差し出した。
握り拳から表れたのはブルーベリーに似た粒であった。
「それも呑むと良いわ」
シャロンは言われたとおりに粒を幾つか口に放り込むと、その表情を輝かせた。
「美味しいのじゃ」
「レッドベリーよ。疲労に効くわ」
そしてお嬢様は水を飲み干し、再び横になった。
「そなたには世話になったな。わらわは、シャロン・サプュルス・サグデンと申す。この二人は、わらわの護衛を務めてくれておる、冒険者のレイチェルと、サンダー・ランスじゃ。差し支えないなら、そなたの名前を聞かせて欲しいのじゃが」
「イーレよ」
謎の少女は答えた。
「イーレ殿か。きっとお礼を致すぞ」
「……眠った方が良いわ。ここもずっと平和とは限らないのだから」
イーレにたしなめられ、シャロンは大人しく言うことに従っていた。やがて彼女から寝息が聞こえると、三人はベッドから離れ、今少しお互いに踏み込んだ部分について話し合おうとしていた。
「さっきのは何だ?」
口火を切ったのはサンダーであった。
「ヒュドラよ」
イーレは落ち着き払った双眸を向けて答えた。
「この森の水源の主を自負しているわ」
「自負って? あんた、アイツの言葉がわかるのか?」
「少しは」
イーレは頷いた。
「ヒュドラの潜む場所は、水面が暗い青で濁っているわ。以前は上流に居たのだけれど、あの滝壺に移ったみたいね」
「私達が住処を荒らしたのが良くなかったのでしょうか?」
レイチェルはやや複雑な心境になって尋ねた。
「いいえ。あいつは、貴方達のように何も知らずに踏み込んできた者達を狙い済まして餌とするの。そうでなければ地上に出てただ標的を襲うだけ。大義名分を見付けるぐらい理性のある顔に見えたの?」
イーレに問われ、レイチェルは激しく被りを振っていた。
「だけど、獲物に執着するぐらいの知性はあるみたい。私も以前に数日に渡って狙われたことがあるわ」
「数日? そういや、あんたはこの森に住んでるのかい? ここ、家みたいに随分立派だしさ」
少年が尋ねた。
「いいえ。普段はムジンリの家にいるわ。売り物の薬を煎じる為の、材料を採りに来るときだけ、ここに身を置くの。今回もそう。貴方達に出会えたのはお互いに運が良かったのかもしれない」
「どういうことですか?」
「以前の場所にヒュドラが居なかったから。関わると厄介な相手だけど、居場所を知っていた方が探索する分には安心できるもの」
そう答え、彼女は入り口の方へ歩き出していた。
「薬の材料を採りに出てくるから。その間、不便だけど貴方達はここから出ない方が良いと思う」
「ヒュドラのことですか?」
「それも。この森には恐ろしい怪物が幾つも生息しているし、そんな悪意と飢えに満たされた者達は動物だけとも限らない。……私もあまり詳しくは知らないけど、この森には人や動物を溶かして食べる植物も存在するらしいわ。森の中でそいつらの見分けがつくとも思えないし、迂闊に出てあの子を悲しませるような結末にだけはすべきじゃないわ」
「あんたの方は大丈夫なのかよ? 遠くまで行かないなら恩返しに手伝ってやっても良いんだぜ?」
イーレは静かな茶色の瞳を瞬かせ、サンダーに言った。
「薬草の見分け方を知ってるの?」
「え、いや……。まぁ、教えてくれれば何とかなると思う」
サンダーは気まずそうに表情を変えて言った。
「だけど、その御好意はありがとう。あなた達も番をしながら身体を休めておくべきだわ。良かったら、水瓶の水と、棚の果物を胃に収めて、英気を養う足しにして」
イーレが行こうとすると、レイチェルは咄嗟に呼び止めていた。一つ気になることがあったのだ。
「あの! 昨日の夕方ぐらいなんですけど、怪物の物凄い叫び声を聞いたんです。もしかしたら、ヒュドラのでしょうか?」
イーレは興味を示すように少しだけ目を丸くし、レイチェルを見た。
「残念だけど、私は聞いて無いと思う。そのぐらいの時刻にはもっと先の上流にいたはずだから。だけど、ヒュドラは大きな声では鳴けない。喉の奥を震わせるように息を吐くような、声というよりも音ね。……余所から凶暴な怪物が移って来たのかもしれないわ」
彼女は洞穴から出て行った。革の頭巾と、マント、その下には幅のある屈強そうな剣が腰の左右にそれぞれ吊り下げられていた。そしてレイチェルは、思わず自分の未熟な姿と比肩し胸の内で嘆息していた。歳は近くとも、向こうにはその道のベテランの風格がある。それが眩しく羨ましく思えたのだ。
「姉ちゃんが聞いたのって、どんな声だったんだ?」
サンダーが尋ねてきた。レイチェルはどう例えたものか思案し、結局は第一印象のままにドラゴンのようだと告げた。
「ヒュドラもいるし、スキュラもいるし……早いところ森から出るべきだよね。俺ら、イーレが来なきゃたぶん死んでたと思うし、この森はそんなのばっかり住んでそうだ」
少年は表情を苦々しくして、ベッドに眠るお嬢様を見た。
「でも、子供に無理はさせらないよな」
それから二人は殆ど喋ることは無かった。サンダーがいつのまにか転寝を始めていたからである。彼は部屋の真ん中に座り込み、危なげ無く頭を上下させていた。
二つのか細い寝息を聞きながら、レイチェルもぼんやりと時を過ごしていた。
ふと、木の扉が軽く叩かれる音がし、レイチェルの身を緊張が駆け抜けた。
イーレかもしれない。しかし、わざわざ扉を叩くだろうか。
サンダーは寝ていた。彼はこれまで頑張った。できればこのまま寝かせておいてあげたい。
レイチェルは身を起こし、鈍器を握り締める。そして部屋の入り口へ歩み寄り、短い廊下の先にある木の扉を窺った。不安で心が落ち着かなかった。イーレなのか声に出して問いたかったが、それは愚かなことだ。イーレなら、入ってくるはずだ。それに、もう一度ノックするとは思えない。何者かがそこに居り、もう一度扉を叩くようなら、それは怪物だと考えるべきだ。
いや、本当にそうだろうか。人かもしれない。自分達を捜しに来た人か、迷い人、それか追っ手か。
扉が再び軽やかに叩かれ、レイチェルは身を強張らせた。
相手が扉を破ったら迎え撃とう。彼女はサンダーを呼ぶべく振り返った。
「すみません、どなたかここに居られますよね?」
遠慮がちな女性の綺麗な声が扉の向こうから聞こえてきた。
レイチェルは慌てて振り返り、それでも声は出さなかった。頭の中は混乱していた。こんなところに女の人がいるなんて場違いだ。イーレのように森に身を置き、環境を熟知しているような人でもなさそうだと思った。それに、扉は周囲の風景に見事に溶け込むほど偽装されている。
「あの、道に迷ってしまって、脚を挫いてしまいまして……どうか、助けてください」
相手は悲痛な声で懇願してきた。怪我をしている。ならば、神官なら癒しの魔術で力になれる。しかし、納得がいかなかった。
尚も黙していると、これまでと打って変わって扉が激しく叩かれた。その音はあまりに乱暴で、扉は激しく内側へ歪み、周囲からは土埃が零れ落ち、あるいは舞い上がっていた。
「サンダー君、起きて!」
身を駆ける戦慄と共にレイチェルは声を上げた。
「聞き覚えがある声だ! 憎き小娘め、見付けたぞ!」
薄気味悪く響く野太い声は殺意と怒りに満ちていた。忘るはずも無い、倒した思っていたスキュラの声である。
「あの野郎! 生きてたのか!?」
サンダーが駆け付け、レイチェルの隣に並んだ。同時に扉が内側に吹き飛んだ。
穴の先には、こちらを覗き込む若い女性の姿があった。しかし、その顔は擦り傷だらけで、髪はぐっしょりと濡れ、陰気に顔の左右に張り付いて垂れ下がっていた。
女性は呪うような笑みを向け、背中から倒れ込んで姿を消す。そして入れ替わって、足元からは大きな岩石に似た顔が現れ、そいつは真横に裂けた口を大きく広げて言った。
「貴様らは、私が喰らうのだ! さぁ、脚をもがせろ! 私の顔に熱い血の飛沫を噴き上げ歓迎せよ!」
神聖魔術で顔の中には細かな抉れが目立ち、未だに幾つかの煙が上がっていた。
五本の茶色の触手が、洞穴の地と左右の壁とを伝って、こちらへ伸ばされてくる。
レイチェルは浄化の祈りを唱えようとした。だが、口を開こうとしたところで、スキュラの触手が不可解に後退してゆくのが見えた。
スキュラが悲鳴を上げた。その身体は大きく揺れ動き、触手も引き摺られるように外へと出ていく。スキュラの身体が中に浮いた。そして重々しい音を立てて地面に落下した。まるで叩きつけられたようにも見えた。こちらを向くスキュラ本体の顔は、口を開くどころか、身動ぎの一つもしなかった。目の前の光景に2人は唖然とするばかりであった。
長い首が入り口を横切ろうとし、まるで気付いたようにこちらを振り向いた。
それはおぞましい紫と緑色に塗られた蛇の首であり、鼻先が尖ったような頭には、目らしきものが見当たらなかった。そいつは蛇と同様に、横に裂けた口から二又に分かれた真っ赤な舌先を突き出して忙しなく震えさせていた。
ヒュドラだ。更に二つの同じような首が、洞穴へ漂うように侵入してきた時、レイチェルは気が遠くなりそうになった。
「姉ちゃん、どうしたの!? 大丈夫?」
サンダーは驚いた後に、優しく問いかけてきた。
防がなきゃ。レイチェルはそう自らの心に強く訴え掛け、少年に頷いて見せた。三つの首は悠々と洞穴を潜り抜けようとしていた。
「どうしたのじゃ!?」
シャロンが背後で呼びかけた。
「姉ちゃんはお嬢さんを頼む!」
少年の言葉に従ってレイチェルはベッドまで駆けつけた。
「敵なのじゃな?」
シャロンは真剣な表情でこちらを見上げた後、ベッドから降りた。
サンダーが入り口の際に身を潜めていた。ヒュドラの首が部屋の中にまで侵入してくると、彼は横合いから短剣を振り下ろし、一本の首に深々と傷を負わせたかに見えた。
「駄目だ! 鱗が、硬い!」
彼は驚きの声を上げてヨロヨロと後退する。攻撃を受けた首はサンダーを見下ろし、口を開いたかと思うと、目にも留まらぬ速さで彼に喰らいつこうとした。少年は一目散に奥まで駆けてそれを避けていた。
三本の首は部屋の中腹まで到達した。
レイチェルはシャロンの前に出ると鈍器を身構えた。
敵の二つの頭は、真っ赤な口を開き、喉が掠れたような鳴き声を聞かせた。その時、ヌラヌラ光る口蓋の両端に、太く鋭い2つの牙があるのをレイチェルは見た。
敵は更に首を伸ばそうと躍起になっているようであり、レイチェルは勇気を振り絞ってその脳天に鈍器を振り下ろした。渾身の一撃は、ヒュドラの顎を地面に叩きつけるに至ったが、頭部もまた頑強であった。相手はすぐに鎌首を起こし、空気中のにおいを探るかのように舌をチロチロさせ、目は無いが、すかさずこちらを凝視していた。
その間、レイチェルはもう一方の首に横合いから噛み付かる寸でのところであった。彼女はシャロンを庇いながら後退し、敵と間を取ったが、気付けば背後は壁であった。
二つの首が、こちらをからかう様に、蛇腹とも言うべき薄い黄色をした長い喉下を空でくねらせていた。それは表側と違い、滑々していて、柔らかそうに見えた。
もしかすれば、傷をつけることができるかもしれない。
レイチェルは横目でサンダーを見た。彼は反対側の壁際で、三本目の首と対峙している。こちらの首も狙い定めているのか、翻弄しているつもりなのか、空中で首を左右に幅広く動かしていた。
「サンダー君! 敵の喉なら斬れるかもしれないよ!」
しかし、視界の端に映ったのはサンダーが前のめりに絨毯の上に崩れ落ちる姿であった。
レイチェルは驚愕していると、後ろでシャロンが言った。
「こやつらの動き、ひょっとすれば催眠の力があるやも知れぬぞ」
お嬢様は地面に膝をつき、ベッドに上半身を乗せていた。今にも眠りそうな表情であったが、必死に抵抗しているようだ。
だとすれば、どうすれば良いの。
レイチェルは迂闊に顔も上げられず、ただ鈍器で防御体勢を取るしかなかった。
しかし、その俯き加減な視界が恐ろしいものを捉えた。何と、三本目の首がゆっくりサンダーに、覆い被さり、そいつは口を開いて少年の肩を咥えると、器用にその身体を回すようにしてあっと言う間に飲み込んでしまったのだ。
「あああ、サンダーが!」
シャロンが悲鳴を上げた。
そしてその首はノロノロと部屋の入り口へと引っ込んでゆき、見えなくなってしまった。
レイチェルは愕然とし、そして急激に溢れ出る怒りと絶望感に気が変になりかけていた。意識がたくさん脳裏と身体中に訴え掛けてきた。サンダーを追え! 急がねば溶けてしまう! いや、出ればシャロンが一人になってしまう。それに無防備な背後を二つの首が見逃すはずが無い。
どうすれば良いの!?
「追うのじゃ! わらわなら何とか隠れてやり過ごして見せるゆえ!」
シャロンが強く訴えた。レイチェルは彼女を振り返り、その身体を抱きしめていた。
「それはできません。サンダー君だって、それを望んではいないはずです」
咄嗟に出た言葉に彼女は驚愕した。自分の本心は既に決まっていたのだ。
「じゃが! このままでは!」
驚愕と焦りとに苛まれ、少女は声を張り上げて必死に訴えた。
「私は出来る限り耐え凌ぎます。その間に何とか脱出できる作戦を考えて……」
「馬鹿を言うな! お主は何を悠長なことを! このままじゃサンダーは、胃液で溶けてしまうのじゃぞ!?」
「わかってます! でも、任を果たすことに全力を投じなければなりません」
もう残されたのは自分一人になってしまったのだ。責任を背負わなければらない。何て重いのだろうか。今まで怒りを沈め、レイチェルは敵を振り返った。
二つの首は懲りずに眠りのダンスをしている。それは余裕のあるような態度にも思え、彼女の更なる怒りに次々と火を点けて回った。憂いを断つためには、ここで敵の首を一つずつ切り落としてゆくしか方法は無いだろう。イーレという当てもあるが、待つだけではサンダーを救う時間も無駄に減って行くだけだ。
レイチェルはサンダーが戦っていた方向を見る。そこには彼の短剣が落ちていた。
鈍器では敵を裂くことはできない。どうにか、短剣を取らなければ……。お嬢さんはどうする? 一緒に駆けられる? いや、ベッドがある。
「お嬢さんはベッドの下へ潜って、隠れていて!」
「お主は、今すぐサンダー・ランスを救いに向かうのじゃ!」
「グダグダ言わないで! 言う事を聞いて!」
レイチェルは誘発しそうな怒りを懸命に胸の内で堪えたが、声は思いの他、鋭い響きを含んでいた。そのため、言った後に多少狼狽してしまった。
「私もサンダー君を助けたいです。そのためにはあの剣を拾って、一つずつ敵の首を落とし、相手にする数を減らさなければなりません」
レイチェルは目の端に映るシャロンを見て落ち着いた声で言った。シャロンは頷くとベッドの下へと潜った。
レイチェルは安心した。そして短剣の方へと一目散に駆けた。
敵の首がこちらを追い、大口開けて振り下ろされてくる頃合だろうか。彼女は無我夢中に短剣に跳び付き、壁際まで転がると、素早く立ち上がって身構えた。
二
大蛇の首はすぐ後ろにまで迫ってきている。その頭は自分の身体をも越えるほどの大きさであった。
心が脅かされ竦みそうになった。だが、サンダーのことが脳裏を霞め、危いところで正気を保たせた。
ヒュドラの胃袋はどのぐらいで人を溶かしてしまうのだろうか。いや、そうなる前でも手遅れの場合もある。それにしても、この忌々しい頭が首の裏側を見せないことには、斬り様が無い。
大蛇達の頭は、レイチェルの目線の辺りをゆらゆら漂っている。毒々しい色の肌に木目細かな鱗が並んでいるのが見える。敵は不気味な赤い舌をちらつかせ、こちらの場所を確かめているようだ。
そろそろか。そう思った。そして読みどおり、大蛇は揃って大口を開けて喰らいついてきた。
今だ!
レイチェルは脇に避け、その側面に回りこみ、蛇腹のような首を目掛けて、両手で短剣を握って力の限り突き上げた。
弾力に跳んだものを抉る感触が手に伝わって来る。熱い紫色の血がその手に付着したが、拭う暇は無い。短剣を苦労して抜き取る。憎悪の顔がこちらを振り返り、襲い掛かってきた。
その頭はこちらを顎で押し潰すべく、鉄槌の如く床に振り下ろされた。
重々しい音を立て僅かに周囲が揺れる。絨毯は裂け、穿たれた土の穴がそこから覘いていた。
今頃はペシャンコになってこうして見る事も聴くことも考えることもできなくなっていただろう。避けはしたが、呼吸の方は大きく乱れてきていた。敵を倒す前に、こちらが疲れ果て突っ伏す方が先かもしれない。
今以上に思い切ったことをやるべきだ。そう、肉を切らせて骨を断つ様なことをだ。
しかし、どうすれば良いのだろう。
二つの首は揃って鎌首を持ち上げ、目の無い顔でこちらを見下ろしている。内側の蛇腹が露になっていた。そのうちの一匹の首の中ほどには、レイチェルがつけた真新しい傷跡があった。黒っぽく、ネバネバしていそうな血液がドロリドロリとそこから垂れ落ちている。傷口は深そうだが、相手は意に返す様子がなかった。
致命傷を与えなければ……刃が通るであろう鱗が無い部分はどこだ。それも首ほどに太くない、言ってみれば敏感な部分だ。例えば目のような……。
そしてレイチェルはハッと気が付いた。
口だ。
首の一つがシャアーッと、喉を鳴らし、口内を見せて威嚇してきた。
ネメヌメしてそうな赤黒い空洞を見て、闘志が引き潮の如く、サッと失せてゆくのを感じた。
彼女は被りを振り、己を叱咤したが、すぐに疑問が浮かんだ。
もしも抗う以前に容易く呑み込まれてしまったらどうしよう。
剣がある! 牙にさえ気を付けて、内側から敵の肉を裂いて脱出すれば良い。生き残るにはそれを繰り返すだけだ。
「さぁ、私は動かないわよ! ほら! 食べられるものならやってみなさいよ!」
レイチェルは両手を掲げて嘲るように言ってみせた。そして心の底では自分が仕える神に祈りの声も上げていた。
獣神キアロド様、どうか非力な私に微笑みとお力を!
ヒュドラはこちらの挑発に乗る気配はなかった。これでは埒が明かない。レイチェルは短剣を大雑把に振るって見せた。
すると、二つの首は竦んだ後、そのうちの一方が苛立ったように大口開けて喰らい付いてきた。
目の前に赤黒い洞穴が広がった。そして身体に重い衝撃が走り、心臓と身体中の関節という関節が押されて軋むのを感じた。
ヒュドラはレイチェルの身を横から噛み付き、そのまま歯茎で噛み殺そうとしているようだ。ヒュドラが首を捻るままに、身体は大きく傾き、揺さぶれられ、足はその度に空へと浮いた。
しかし、相手の大きな顔が今は恐ろしくはなかった。驚くほど冷静であった。剣を掲げ、忙しく揺れ、圧迫される中、唯一の好機に執着し、ジッと狙いを定めていた。
そして目が馴れ、相手の動きが緩慢になったところで、力いっぱい口蓋に刃を突き刺した。
ヒュドラは痛みを感じたように頭を身動ぎしたが、こちらを咥える力は少しも緩みはしなかった。
期待外れの手応えに、レイチェルは焦った。しかし、敵の口から太い蔓のような肉厚の舌がはみ出ているのが目に留まった。彼女は空いている手ですかさず気持ちの悪いネメヌメした舌を握り締め、相手の鼻面の上に持ち上げながら刃を滑らせた。
舌からは黒く熱い血が噴きあがり、レイチェルの顔と肩にベットリと降り注いだ。魚が腐ったような悪臭を更に凝縮させたような香りがした。強烈な吐き気を催したが、その前に身体が自由になり尻から地面に落ちていた。
レイチェルの反撃を受け、ヒュドラの首は口から血を迸らせつつ、一目散に後退し、外へと消えて行った。残った首は、喉を広げ、憤怒の音を木霊させた。
しかし、今更怖くは無かった。疲れてヘトヘトだからなのかもしれない。こいつを片付けて、外へ飛び出さなきゃ。
レイチェルは眦を怒らせヒュドラを睨み上げた。
「さぁ、掛かって来い!」
レイチェルが声高に訴える。ヒュドラは襲い掛かろうとした構えを見せたが、口元を不自然に引き攣らせ、顔を洞穴の外へと振り返らせた。
「無事なの!? 返事をして!」
イーレの焦りを含んだ呼び掛けが外から聞こえてきた。
レイチェルは緊張が解けるのを感じ、荒々しい呼吸を整えながら応じた。
「無事です! でも、サンダー君がヒュドラに!」
食べられた。そう続けようとしたが、息が喘いでしまった。
「……彼を捕らえている首を確認したわ! 後は私に任せて!」
イーレの返事が聞こえ、残った首も脱兎の如く外へと出て行ってしまった。
「レイチェル! お主、大丈夫なのか!?」
ベッドの下から慌てるようにシャロンが這い出てきて尋ねた。
「私は大丈夫です。奇跡的に……」
レイチェルはそう付け加えて、自分でも無茶なことをしたものだと呆れてしまった。
「おおう、た、確かに奇跡なのじゃ! よく無事で!」
シャロンが感嘆したようこちらを見上げる。レイチェルは彼女に微笑み掛けた。
そしてイーレにだけ任せて置けないとも思い、お嬢様に言った。
「もう一度ベッドの下に隠れていてください。私はイーレさんと一緒にサンダー君を救い出します」
「わかった」
シャロンは力強く答え、身を隠し始めた。
レイチェルは小走りで外へと向かった。狭い入り口の向こうに、ヒュドラの大きな背と、各々激しく動いている幾つかの長い首が見えた。
イーレさんの足手纏いにならないかな。レイチェルはぼんやりとそう思いながら歩みを進める。
ヒュドラの背は広く、長い尻尾があった。手足は無く、巨大な胴体から九つの蛇の首が生えていた。
レイチェルが敵の側面を眺めていると、首の一つがこちらの存在に気付き、方向を変えて襲い掛かってきた。
「危ないっ!」
どこからかイーレの声が聞こえた。そして自分の前に脇から影が割り込み、左右に握った剣を振るって首を追い返した。
イーレの茶色のマントと頭巾が目の前にあり、相手はこちらを振り返った。彼女は真剣な表情をしていたが、すぐに驚愕に変わっていた。
「怪我をしてるの?」
必死な問い掛けに、レイチェルは面食らった。そして自分が返り血塗れである事に気付いた。
「これは私の血じゃないです」
「確かに、よく見れば人の血とは違うわね」
イーレは胸を撫で下ろす様に言うと、片方の剣を柄の方から差し出した。
「これは、鱗斬り。以前ワイバーンを倒すのに鍛冶師に打って貰ったものだけど、これならあの鱗にも刃を食い込ませることができるわ」
「そんな特別なものを、私がお借りしても良いのですか?」
重厚な柄と、直接その先から伸びている分厚く平たい刃に見惚れつつ尋ねた。
「深い傷を負った首を見たわ。あれをやったのがあなたなら、きっと上手く扱えるはずよ。それに時間が無いもの」
彼女は目に険しい色を浮かべて、ヒュドラを振り返る。巨大な敵は真正面を向き、空を漂う九つの首が、各々血を流しながらも、引く様子を見せずにこちらを見下ろしている。その内の一つの首に異変があった。中腹に明らかな膨らみがあった。間違いなく呑み込まれたサンダーだ。
「わかるわね。私は八つの首を引き付けるから、あなたは彼の捕まっている首を切り落とすのをお願い。大丈夫?」
イーレが気遣うように軽く振り返った。
借りた剣は重く、レイチェルは両手で握り締めていた。だが、頼もしさも感じた。その名の通り鱗を断ってくれるだろう。
「はい、わかりました」
レイチェルが頷くと、イーレは言葉を続けた。
「ヒュドラの吐く胃酸に注意して。浴びれば肌は焼け爛れて、痛さできっと気を失ってしまうわ。後は毒牙にも!」
そう告げるとイーレは再びヒュドラを振り返った。彼女は、息をか細くし、単語のように区切ると、すかさず森へ向けて走り出した。
九つの首は揃って掠れた息を鋭く響かせ、さかさず後を追うべく首を巡らせた。そして大きな身体をくねらせ、イーレを追って草木の中へと飛び込んでゆく。
イーレはきっとヒュドラの言葉で相手を愚弄したのだろう。シャロンを気遣い、この場から引き離したのだ。レイチェルは小走りで追った。
ヒュドラの大きな背と長い尻尾が見える。巨体は河のように大きくうねり、腹で踏み潰しながら藪を薙ぎ倒している。怪物の向こうには、丈のある草に隠れてイーレの肩から上が見えた。彼女はその場で足を止めると、手からロープのようなものを木に放ち、慣れた様に幹を駆け上がって行った。
ヒュドラはその下で動きを止める。九つの首は頭上を向いていて、その先にある高い木の枝には、イーレが両手でぶら下がっていたのであった。
あれこそ無茶だ。レイチェルは唖然とした。身を張って敵に捕まった自分と違うのは、九本もの首を相手にしようとしているところである。九つの首は、鼻先を漂う少女の足に喰らいつこうとしている。顎が空気を噛む音が響き始め、その度にレイチェルの背筋を冷やりとさせた。
だが、敵はイーレに気を取られている。好機だ。
レイチェルは駆けた。紫色のヒュドラの尻尾の隣を駆け抜け、太い付け根のところで足を止めると、両手をその臀部に掛ける。想像以上に硬く冷たい感触がしたが、脇目もくれずに小山のような身体へと這い上がった。
九つの首が毒々しい色をした触手のように蠢いている。その中の三つが、ふとしたようにこちらを振り返り、レイチェルは身構えた。
「頑張って」
頭上からイーレの声がし、ヒュドラ語と思われる微かな息遣いが続いた。ヒュドラの首はたちまち殺気立ち、イーレを噛もうと再び躍起になった。
サンダーと思われる膨らみは未だに首の中腹に見受けられた。剣を握り締め、怪物の背で、レイチェルは一気にそこまでの距離を詰めた。殊更太く短い首の根元から、全ての首が伸びている。根元を落とせれば、全ての首を切り落とすことになるが、そう易々とはいかないだろう。やはりサンダーを呑んでいる首を最優先に落とすことにした。
レイチェルは足を踏ん張らせ、両手で握った剣を力いっぱい薙いだ。硬い手応えがあったが、刃は信じられないほど深く肉を裂いていた。ヒュドラの首は中腹まで断たれ、赤黒い傷口からは粘り気のある黒い血が、大きな雫となって忙しく流れ出てゆく。
レイチェルは敵に減り込んだままの剣を見て思わず感心していた。鱗斬りと称されるだけの切れ味だ。彼女は剣を引き抜くと、大きく広がった傷口へ再び刃を叩き込んだ。
血が飛散し、分断された頭が重い音を立てて地面に転がった。サンダーと思われる膨らみも確認できた。
これで消化される心配は無い。レイチェルは胸を撫で下ろし、そしてハッとした。
気を抜いてしまった!
そう思ったときには、八つの蛇の頭はこちらを見下ろし、方々から一斉に襲い掛かってきていた。
緊張と底知れぬ戦慄とが身を包む。跳び下りる? いや、間に合わない!
焦りのままに剣を振るう。その一撃は一本の首の鼻面を分断する。しかし、残る首は怯む隙も見せず、奥にある毒牙を見せつけ、レイチェルに喰らいかかった。
剣を振るったが、その腕を頑強な顎に挟まれる。かつて身に感じたことの無いほどの熱と激痛が噛まれた腕から、灼熱の波のように全身を駆け抜けてゆく。僅かな後、腕には何も感じられなくなった。
蛇達は、もう一方の手と、彼女の両足にも噛み付き、磔のようにその身体を空高く掲げて見せた。
レイチェルに意識はあった。視界を廻らせ、自分の四肢を挟む頭達を見た。利き腕以外には、がっしりとした怪物達の顎と生暖かい舌の感触が伝わってきていた。しかし、熱と痛みすら感じない腕の方は肩下まですっぽりと呑み込まれている。皮も肉も奴の牙によってズタズタに削がれて、骨になってしまったのだろうか。きっとそうだろう。レイチェルは絶望したが、あっさりと諦めてもいた。残った頭が並んでこちらを見ている。もったいぶる様に食事の品定めをしているようだ。
しかし、頭上から影が降下し、同時に一つの頭が首から離れて地面に転がった。
イーレがいた。彼女は頭を失い滅茶苦茶に痙攣し始めた首から、隣の首に飛び移り、組み付くと片手に握った剣を引いた。首が裂け黒い血が溢れる。そしてイーレは更に新たな首に飛ぶと擦れ違い様に剣を振るい、地面に降下して行った。
レイチェルの目の前にあった内の、最後の一本も、力なく崩れ落ちていった。そしてレイチェルは身に起こった新たな異変に気付いた。声が出ないのだ。声を絞り出そうとしても、喉の奥へと転がってゆくようである。
「去りなさい! その娘を放して、今は水の底へと帰りなさい!」
冷ややかな怒鳴り声が、足元から聞こえた。目を向けると、イーレがこちらを見上げて立っている。しかし、彼女の姿を見てレイチェルは度肝を抜かれていた。彼女の茶色のマントの下から伸びているのは脚ではなく、エメラルド色をした長い大蛇の尾であったのだ。静かに威圧するような両眼にも、ルビーのような赤い光りが見えていた。
「こちらの言うことに従いなさい。さもなくば、更に一つの首を刎ねる!」
語気を荒げて彼女は怪物に訴えた。
ヒュドラの顎が、レイチェルの片足を放し、ゆっくりと足元の少女の方へと近寄って行く。
だが、イーレは側を動く首には一瞥もくれなかった。彼女は他の三つの首の内、レイチェルの利き腕を呑み込んでいる頭を睨んでいた。
イーレを探っていたヒュドラの頭が、その背後で突如牙を剥き出した。
しかし、剣が一閃し、その頭はゴトリと地面に落ちた。
「どうするの?」
イーレは凄むように言った。
ヒュドラがたじろいだ。そしてレイチェルの身体は自由になり落下した。だが、地面に落ちる前にヒュドラの頭がその身体を横から咥えて受け止め、驚いたことに尻から丁寧に着地させてくれたのであった。
こちらが呆然としている中、大蛇は脇目も向けずに茂みの中へと入って行き、やがて巨体が草木を揺らす音も遠くなっていった。イーレの言葉に納得したということなのだろう。
それにしても……。レイチェルは姿の変わった彼女へ目を向けた。イーレは尻尾を這わせ、こちらに近寄って来た。
その姿に今は驚くことは無かった。込み入った訳があるだろうし、何よりも彼女は命の恩人で、信じられる人だからだ。
ありがとうございます。まず、そう言おうとしたが、声は喉の奥で押さえ付けられて出て来なかった。
「声が出ないのは毒のせい」
彼女は近寄って来ると落ち着いた声でそう言った。
レイチェルは思い出して、自分の利き腕へ目を向けた。
法衣の袖はヒュドラの唾液と黒い血にぐっしょりと塗れていた。傷口はよく見えなかったが、悲惨なことになっているだろうとは覚悟した。
イーレが何事か囁いた。それは魔術の調べのようであった。
途端に、何処から湧き出したのか、レイチェルの身体を水が蠢きながら包み込んだ。しかし、息を止めようとした時には既に水は消え失せていたのであった。
何があったのだろうか。自分の身体を見て気付いたことは、法衣が洗った後の様に真っ白になっていたことであった。ヒュドラの黒い血の染みも、自分の血の痕さえもすっかり消え失せている。そして破れた袖には傷一つ無い自分の腕が姿を見せていた。
「あ」
レイチェルは思わず声を漏らし、そして自分の喉から出た言葉に耳を疑った。喉も滑らかになっていた。身体の痛みも失せていた。
「ずっと昔から、私の一族は水の神の寵愛を受けていたそうよ。その力が、こうして私が何者か自覚させてくれるの」
イーレは声を落として物悲しげに言うと、地面に落ちているヒュドラの首の方へと進んで行った。そして剣で裂き、捕らわれていたサンダーの身体を引き摺り出した。少年の身体はヒュドラの強烈に粘ついた唾液に塗れており、ところどころで糸を引いていた。
ふと、横たわっている彼を青々とした綺麗な水が包み込み、しばしその身体に沿って緩やかな波を漂わせると消えていった。
「ラミア族。それが私の種族。人々を恐れさせる姿をしながらも、人と関わり生きてゆくしか道の無い、呪われた種族、なのかもしれない」
イーレはそう呟くと剣を拾い上げた。
「ラミア族?」
聞き慣れぬ名前だったので、レイチェルは尋ね返した。エルフ族は人里離れた未開の森に、閉鎖的に各々の楽園を築いて住んでいるらしいが、イーレの話しと表情からすれば、ラミア族は本当に孤立感の漂う種族なのかもしれない。
イーレは頷き、真剣な眼差しでレイチェルを見詰めた。
「ラミアは必要があれば人の血を吸わなければならない。レイチェル、神官のあなたなら、ヴァンパイアを思い出すのではないかしら?」
レイチェルは答えに窮した。恩人で信頼できるイーレだが、彼女が人間の血を欲さねば生きられないとして、吸われた人間はどうなってしまうのだろうか。ヴァンパイアの結末と同じで、同族と化し、絶対的な種族の王の奴隷となって、その野望のための、賢しく凶悪になって、新たな奴隷を得るために人々を襲うようになるのだろうか。
「イーレよ、そなた少々意地悪が過ぎるのじゃ」
シャロンの声がし、彼女はいつの間にかレイチェルの側に来ていた。
「そのような望みの無い態度で挑んでどうする? お主がここに生きているということは、そういうことじゃろうが」
シャロンはイーレに向かって諭すと、レイチェルを見た。
「ラミア族は、人の姿に戻る際には人の血を吸わねばならぬのじゃ。じゃが、吸われた方には何ら変化は無いぞ。わらわの父と母もそうじゃからな。安心せい」
こちらが愕然とする間も与えずに、シャロンは力強く落ち着き払って言った。
レイチェルは思った。幼いながらここまでの強行軍に殆ど根を上げなかったのは、彼女の闘志の他に、ラミア族の血が影響しているのかもしれない。
「わらわは、あいにく母上のラミアの血が薄くてそちらの力は出せぬが……そうじゃ!」
シャロンは表情を輝かせてイーレに言った。
「お主、わらわの屋敷へ来い! そこで水の魔術と薬の合せ方とを教えるわらわの師になってくれれば良いのじゃ。母上も水の魔術を使えるが、わらわが言うのもなんじゃが、ちと不真面目での」
「水の魔術を行使するには、水の神ネティシアンの寵愛を受けなければならないけれど……」
「わらわには薄くともラミアの血が流れておる。それを意地でも水の神に認めさせてくれるわ」
シャロンの強い訴えに、イーレは首を縦に振った。
「うむ、よろしく頼むぞ!」
シャロンは感激し、溌剌と返事をした。そこで再び咳き込んだ。
「まだ、無理しては駄目ですよ」
レイチェルが言った途端に、シャロンの身体を水が包み込み、聖なる水は空に向かって消えるように飛んでいってしまった。
お嬢様は戸惑いの声を上げたが、それは感嘆の叫びへと変わった。顔色も良くなったばかりか、レイチェルの時と同じ、服の汚れまでしっかりと消えていたのだ。
「これは凄いのじゃ!」
自分の姿をあちこち確認しながらシャロンは舌を撒いていた。そして自らの袖を捲り上げると、イーレの方へと歩み寄って行った。彼女は腕を差し出すと言った。
「わらわの血を分けてやる故、心置きなく足しにするが良いぞ」
相手は静かな表情を驚愕に変えたが、ふと頬を緩めた。レイチェルもその訳に気付いた。恐らくは純粋な人の血が必要なのだろう。
「気持ちはありがとう」
「血ならここにあるけどさ」
イーレが優しく言いかけ様とした時に、サンダーが遠慮がちに言った。
「サンダー・ランス! お主、大丈夫なのか!?」
シャロンが歓声と共に尋ねると、少年は頷き、恥ずかしげに言った。
「どうにかね。あの蛇の踊りを思い出すだけで眠たくなるけど」
「その想像をただのロープに置き換えて御覧なさい。幻覚を引き摺るのはよくないことよ」
イーレが言った。サンダーはしばし、思案するように顔をしかめて頷いた。
「本当だ」
そして彼はイーレに近寄りながら、腕を捲くり上げていた。
「本当に、あなたの血を私にくれるの?」
イーレは念を押すように様に尋ねた。サンダーは彼女の前に来ると、その顔を見上げて答えた。
「うん、良いよ。でも俺さ、あんまり野菜食わないけど、そのせいで、そっちが調子悪くなったりはしないよね?」
サンダーは自嘲気味に言う。イーレはしばし間を置くと、口元を優しげに綻ばせた。
「私、野菜、食べてるから、大丈夫だと思う」
少々口篭らせて彼女は答えた。
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