第6話 「森の脅威」 (中編)

 サンダーと見張りを交代し、レイチェルは結局朝まで寝入っていた。

 少年が「異常無し」を告げると、二人は火を起こし、さっそくありあわせのもので朝食の準備に取り掛かる。そのうちにシャロンが起きてきたが、彼女は挨拶をする以前に激しく咳き込み始めた。

「風邪引いたか?」

 サンダーが尋ねた。

「いいや、空気が喉に刺さっただけじゃ」

 シャロンは慌てるように首を振って否定した。

「お腹が空いたのぉ」

 そう誤魔化す様に言うと、シャロンは焚き火の側へと座った。

 レイチェルはサンダーを見る。少年も、お嬢さんの意気を酌んで先を急ぐべきか困っている様子であった。

 そのまま食事が始まった。レイチェルが横目で様子を窺うと、シャロンの手は時折悩むように朝食の上を行き来し、決心するように食べ物を掴んで口に運んでいるように見えたのだった。

 シャロンは再び咳き込んだ。

「無理すんなよ、お嬢さん。駄目ならそう言ってくれ」

 見兼ねてサンダーが言った。

「少しだけ疲れておるし、昨日のお主の言うとおり、足が引き攣る様にとても痛いのじゃ。じゃが、旅をする分には問題はないぞ」

「そうは見えねぇけどな」

 サンダーが訝しげに言葉を漏らす。するとシャロンは見せ付けるように水袋を軽く呷り、しっかりとした動作で立ち上がった。

「さぁ、出発じゃ。わらわの行方が知れぬのでは、父上達に要らぬ気苦労をかけるゆえな」

 彼女の勢いに押されるように、一行は一夜のねぐらを颯爽と後にすることとなった。

 それから伸び放題の草に隠れる小川に沿って、上流を目指して歩み始めた。サンダーが先を行き、シャロンが真ん中に、レイチェルが後衛に着いた。その途上、お嬢様の細く小さな背中は、時折危うい感じに振れ動いていた。

 神聖魔術を使うべきだろうか。レイチェルは幾度もそう悩んだ。癒しの魔術で、疲労だけでも緩和させれば、足取りも多少は変わるだろう。しかし、相手の信念と誇りがそれを許さないかもしれない。迷宮で矢傷の治療を拒んだティアイエルのことを思い出した。ライラに、シャロンお嬢様、そして親友のアネット。自分の周りには勇敢な女性が多いことに気が付いたのだった。

 少し進むと、川もこちらに合わせるかのように、せせらぎは徐々に強みのある流れへとなり始めていた。そうこうしているうちに、川幅が広くなり、対岸もまた遠くなっていった。水流は塊となって蠢いていた。雨のせいで水嵩が増し、流れは泥で濁っている。昨日のおぞましい叫びの件も踏まえ、見通しの利かない水底にも、凶暴な怪物が潜んでいてもおかしくはなさそうだと思った。もしも存在するとすれば、どんな怪物だろうか。レイチェルには上手く想像することはできず、とても大きなドラゴンにような形ということで決着をつけた。

 そして川幅はついに広大といえるほどにも姿を変えていた。その水深もまた、測り知れないほどになっている。行く手の少し先には、聳えるような高い断崖があり、そこから降り注ぐ太く白い激流は、ちょっとした湖ほどの大きさのある滝壺へと落ちていた。濁流のせいで幻想的とはいかないが、久々に変化のある光景は、一行の心に一瞬の活気を齎した後、感動か、不安かをそれぞれの心に募らせた。

 レイチェルは後者であった。人気の無い森深くにある滝壺には、それこそ目覚めさせてはいけない、凶暴で大きな存在が隠れているように思えるのだ。疲れてはいたが、安心できるのはこの滝を越えてからだと思い込み始めていた。

 滝壺を一望できるところまで到達すると、そこの水は濁流に打たれながらも、その色には染まらず青色をしていた。しかし、その青も澄んでいるわけではなく、むしろ泥で濁っていた方が安心できるほど禍々しく淀みきっている印象を受けた。

 先を行くサンダーが小さく驚きの声を上げた。レイチェル達が歩みを止めると、少年は大小の岩を避けるように跳んで行き、身をかがめた。

「なぁ、これってさ」

 サンダーが片手にひらひらした物を掲げて見せた。

 レイチェル達も近付いて、彼が持っている物を眺めた。それは赤色をした女物の衣服に思えた。自分よりも少し丈が長い。服は少し土埃を被っただけで綺麗な状態であった。

「服だよね」

 レイチェルが言うと、サンダーは側の地べたを指差した。綺麗に畳まれた衣服の下と、特に変哲の無い、女物の赤色の左右の木靴が並んで置かれている。

「誰か、いるってことだよな。で、それは女の人で、泳いでるってことかい?」

 少年は、溢れんばかりの川と、近寄り難い青色をした大きな滝壺の有様を見て、納得がいかないように首を捻って言った。

 こんな危険な森の深くに女の人だなんて……。レイチェルも信じられなかったが、衣服が畳まれている様子が答えに窮させた。

「能天気な女子もいたものじゃ」

 シャロンも呆れたようにぼやいていた。レイチェルもまさしく同じ思いである。

「でもよ、その人に道を訊けるかもしれないよな」

 サンダーがそう言った時、上の方から助けを求める女の悲鳴が木霊した。

 三人は揃って驚愕し、滝壺の方へと足を急がせる。すると、激しい流れの下で、我武者羅に振られた両腕が視界に飛び込んできた。女が水面で懸命にもがいている。

「誰か! 助けて! お願い! 足が!」

 若い女のようであった。声を張り上げ必死に助けを訴えていた。

「こんなところで泳ぐなんて、俺は死んでも御免だね。気味悪いしさ」

 サンダーは革のジャケットと、短剣、荷物を素早く脱ぎ捨てると、脇目も振らずに川へと駆け寄って行った。

「姉ちゃん、頑張れ! 今行くぜ!」

 少年は掻き分けるように水へ入って行く。そして水嵩が肩の辺りまで達したところで泳ぎ始めた。

 不意に女性がもがくのを止めた。両手を力なく水の中へと垂らし、近付いてくる少年を黙って凝視していた。

 妙だ。もしかすれば、からかってるだけなのかもしれない。そうだとすれば迷惑千万、真にもって人騒がせな方だ。

「サンダー・ランス、戻るのじゃ! わらわは思い出した!」

 シャロンが声高に叫んだ。

「そやつはスキュラ! 水魔じゃ!」

「水魔!? 失礼な事を言う子ね!」

 女性が声を上げた。艶っぽい声音には、やはりどこか他人を弄ぶような余裕を感じさせた。しかし、水面全体が不穏な揺れを見せ始め、幾つもの木の根のようなものが飛沫を撥ね、水中から貫くように現れた。それはもともと醜悪な形をしていたが、水に濡れ、ヌラヌラと艶かしい光沢を放っており、それがより一層の不気味さ感じさせた。思い当たるものといえば、エイカーの港で上げられるタコやイカの触手と似ている。ただし、こちらの方は茶色をしていた。

 サンダーは異変を悟って方向を変え、岸へと泳ぎ始めていた。しかし、その身体に触手の一本が素早く振り下ろされ、水を叩きながら彼に絡みついた。

 サンダーが悲鳴を上げる。触手は少年を高々と持ち上げ、弄ぶようにその身体を揺らして見せた。すると女性の身体が背中からゆっくりと水中に倒れて行き、入れ替わるように丸い大きな岩のような塊が水面に姿を現す。その塊の中央が真横に裂け、残虐そうな赤い口内と、長い牙の並ぶ様を見せつけて話し出した。

「そうとも、人間どものいうところのスキュラとは私のことだ」

 恐ろしいほど野太い声で、怪物はせせら笑った。

「こんな辺鄙な場所で、はや、どれほど待ち侘びたことか! 久々に人の肉を喰らうことができる!」

 サンダーを掴んだ触手が、大きく開けられた口へと引き寄せられてゆく。彼は何とか逃れようと躍起になっていた。

「いかん!」

 シャロンが声を上げる。レイチェルは鈍器を手に川の中へと走るしかなかった。

「お嬢様は、離れてて下さい!」

 そう叫び、動いたものの、どうすれば良いのかはわからなかった。ただ、このままだとサンダーが食われてしまうことだけは確かである。

 太い触手が鞭のように唸りを上げ、レイチェルを真横から引っ叩こうとし、彼女は慌てて身を屈めた。尋常ではない空気の太い振動を感じた。当たっていたら、一溜まりもなかっただろう。

「姉ちゃん駄目だ、分が悪い! お嬢さんを連れて逃げろ!」

 サンダーが声を上げて訴えた。

「俺はどうしようもねぇ! 諦めてくれ!」

 少年の悲壮な決意に対し、スキュラは不快な声で笑ってみせた。

「逃すわけがないだろう! 久々の人の感触が、我が手に伝わる貴様の肌触りが、私の腹をすっかりと空にさせた!」

 触手が次々と矢のようにレイチェル目掛けて突き出された。一つを避けたが、肩に激しい衝撃を受け、続いて腹と、足にも重い一撃がぶつかり、体勢が崩れた。身体中には鈍い痛みが走っている。そして動かそうとすると、痛みは身体を切り裂かれるような激しいものとして全身を走った。

「レイチェル!」

 シャロンが後ろで呼んだ。

「来ちゃ駄目!」

 レイチェルはそれだけ叫んだ。

 触手はからかうように、その先っぽを頭上で漂わせている。しかし、この機を無駄にはできない。彼女は逆転の手段を考えるべく、頭の中で慌しく思慮を巡らせていた。

 動いても捕まる。水の中では進めない。そもそも攻撃が届かない。

 彼女は閃いた。手段が一つだけ残されている。本当はできるはずなのだが、未だに成功した試しは無い。しかし、彼女は心を落ち着かせ祈りの言葉を口にし始めた。

 空いている方の手に重みを感じる。白い浄化の光りが手を包み込んでいた。

 脇から触手が襲い掛かってきた。レイチェルは反射的に光りの宿った手を突き出していた。身体は大きく揺らいだが、敵の触手を受け止めていた。光りが衝撃の殆どを吸収するのを感じた。

 スキュラは叫び声を漏らした。見ると、触手に小さな焼け焦げた痕と火脹れがあり、そこから細い煙が立ち昇っている。それが示すことは、敵は不浄なる者、あるいは邪悪なる者ということだ。だが、ゾンビとは違い灰にはならなかった。格が違うということだろう。

 だけど!

 レイチェルは水面のスキュラの顔目掛けて、光りの宿った腕を突き出した。

 光りよ、お願い、飛んで! 彼女は懇願した。

 触手が襲来する。駆けて避けた。背後で重々しい音が幾つも響き、地面が小さく震えた。

 やはり飛ばない。飛ばせない! レイチェルは悔しさに奥歯を噛み締め、光り輝く手に忌々しい一瞥を向けた。ただ飛ばせば良いだけ、この手から離れてくれれば良いだけなのに。

 ふと、武器に浄化の光りを宿したときのことを思い出した。ヴァルクライムが言っていた。「ちょっとした応用。相手に思いを託す」しかし、この場合は思いを託す相手がいない。前回とは使い方と使い道が根本的に違うのだ。

 いや。レイチェルは被りを振った。思いを託せる。

 サンダーを見た。強欲なスキュラは彼の存在を忘れ、こちらを捕まえることだけに気が向いている。今なら彼を救える。今を置いて他には無い!

 突き出した腕から、一筋の細い光りが水上を走った。

 スキュラが身を捩じらせ悲鳴を上げる。水魔がたじろぎ水面に大きな波紋が幾重にも広がった。光りはスキュラの顔を貫通し、軌跡と共に小さな煙を残した。

 飛んだ。細くて、小さいけど。レイチェルは唖然とし、自分の手を見ていた。浄化の光りの表面には、時折、針のようなものが見え隠れしている。これまでとは違い、脈打っているかのようだ。こちらの気持ちに応えているのだろうか。

 レイチェルは、再び光に向かって祈った。

 聖なる光りよ、飛んで!

 細い光りが矢のように飛び出し、敵の顔を射抜いた。スキュラが悶え苦しんでいる。

 よし。レイチェルは水を掻き分けながら進み、次々と手の平から光りの矢を放ち続けた。

 敵が退くように蠢く度、サンダーを絡めている触手も緩慢になっていた。少年は上半身を引き抜き、掴まれている下半身を両手で必死に引き抜こうとしている。

 もう少しだ。レイチェルはしっかりと足で水底の岩を探りつつ歩み続けた。淀んだ青い水は胸の辺りまで達していた。身体は冷たさに凍えていた。

 敵の顔は焦げた小さな窪みと穴だらけになっていた。その数だけ煙も舞い上がっている。

 サンダーが、ここぞとばかりに敵の手から逃れ、水中へと落ちた。彼はすぐに顔を出し、こちらへ向かって夢中になって泳ぎ始めた。

 このまま、陸へ上がろう。レイチェルは攻撃を浴びせつつ後退することにした。

 しかし、不意に身体が重くなった。

 魔術の使い過ぎかと思ったが、そうではないことに気付いた。手から滴り落ちている水滴は、青黒くなり、そして腐り果てた肉のように無数の細かい糸を引いている。川の水も、泥のように変化し、身体中にへばり付いて動きを阻まもうとしていた。

「何だこりゃ!?」

 傍らでサンダーが叫んだ。

「逃さぬと言ったはずだ!」

 スキュラが声を荒げた。レイチェルは水の変化と共に攻撃を止めていた。慌てて祈りの力が宿る手を向けようとしたが、刺されるような無数の痛みを身体中に感じ、思わず呻き声を上げた。

「ただの泥水じゃねぇな!」

 苦痛に顔を歪ませながらサンダーが吐き捨てるように言った。

 確かに針先でいっぱいのベッドにでも潜ったような感じだ。そして全身の力と気力とが、無数の傷口から、血と共に流れ出てしまっているようであった。意識もまた急激に低下してきていた。

 きっと毒だ。

「レイチェル!」

 ずっと後ろの方で、シャロンの呼ぶ声が聞こえたような気がした。

 来ちゃ駄目。逃げて。声は喉の中腹辺りで止まり、奥へと沈み消えていった。もはや足先がどこかもわからない状況であった。そもそもまだ足はまだあるのだろうか。

 終わってしまうのだ。何もかも。後はその身と心が訴えるままに任せ、レイチェルは静かに目を閉じた。瞼の裏にある黒か白かの世界が見えたような気がする。

 途端に不自然なほど身体が軽くなり、同時によろめいたような気がした。これが死だと思った。しかし、顔が落ちた先は水中であり、両耳がくぐもった水の音で満たされる中に、泡の沸き立つ微細な音も聞こえ、鼻腔にも水が通り抜ける鋭い激痛が走った。

 レイチェルは驚き、弾かれるように顔を上げた。

 口の中の生臭い水を吐き出す。そして今度は息が吐き出された。それは忙しなく乱暴な呼吸であり、心臓の早鐘と一直線に繋がり呼応していた。

 周囲を包んでいたはずの泥は、元の青く淀んだ水に戻っていた。

「姉ちゃん! 陸へ! 急いで!」

 隣でサンダーの声がした。そして腕を強く掴まれ、そのまま身体を引き摺られた。レイチェルは足先を慌てて動かし、川底の足場を探り当てる。視界の様子は一瞬、見覚えのない場所に思えたが、それは気のせいであった。今の今まで居た場所と何一つ変わりない。スキュラはまだ居た。真横に広く裂けた、おぞましい口を開き、人と掛け離れたような野太い声で苦悶し絶叫していた。

「レイチェル! サンダー!」

 シャロンの驚きと嬉しさに溢れるような声が聞こえた。

 お嬢様は岸辺で、サンダーの短剣を左右に振り、こちらを大いに歓迎している様子だ。しかし、彼女の隣には見知らぬ人影があった。

 その人は川岸で屈み込み、両手で棒のようなものを握って水中に突き刺している。顔は俯いていて見えなかった。

「あの人が助けてくれたみたいだよ」

 サンダーが言った。近付くにつれ、少しずつ相手の様子が明らかになった。

 まず、両手で握っているのは柄のようである。先には剣の刀身かと思われる一部が見え、突き刺した辺りの水面は煌びやかな金色に染まっている。

 相手は焦げ茶色の外套に身を包み、同じ色の頭巾を被っていた。

 その人物がこちらを見た。

「急いで! ここは奴の住処よ!」

 それは冴え渡るような女性の声であり、危惧を促した。

「急ごう、姉ちゃん」

 サンダーも状況を察したらしく、真剣な面持ちで訴える。二人は忙しなく飛沫を上げながら水中を蹴るように走った。

 相手はレイチェルと同い年ぐらいの少女であった。短めの黒髪で、青い目をしている。その眼光は落ち着き払った様子を見せ、川の中で苦しみに喘いでいる怪物を注視していた。彼女は二人が通り過ぎても脇目もくれなかった。

「お主達、大丈夫なのか!?」

 シャロンが表情を輝かせ、レイチェルとサンダーに向かって飛び付いた。

「おう、心配かけたな」

 サンダーが恥ずかしそうに答えた。レイチェルはお嬢さんの相手を彼に任せ、謎の助っ人の背を眺めていた。

 彼女が突き刺した剣から、スキュラに向かって眩い金色の線が走っているが、これは魔術なのだろうか。

 スキュラの声が止んだ。その身体は水中へと没していった。

 黒髪の少女は剣を抜き取った。それは猟師が好みそうな分厚くて広い刃のある剣であった。柄を握る手は細くて雪の様に白い。得物と比べ互いに似つかわしくはないように思えるが、その双眸と合わせれば、分相応であり、彼女が一流の戦士であることも想像させた。

 相手が振り向く。茶色の頭巾の下で切り揃えられた前髪が左右に振れた。

「気を抜いては駄目。今は走るのよ」

 だが、レイチェルの目は少女の頭を越え、広い滝壺に起こった新たな異変へ引き付けられていた。

 奥にある滝の流れ落ちる辺りから、一本の細長い岩か木のような影が、ゆっくりと水上へと伸び始めたのだ。その周りにも一つずつ、同じ影が飛び出してきていた。

「音を立てないで」

 頭巾の少女が三人に向かって殆ど息遣いだけの声で囁いた。

 水上に伸びた得体の知れない影は全部で九つあるようだ。それは、突き立ったままであり一見無害に思えた。世にも珍しい特性を持つ水草が存在し、それが日の光りを求めて、ただ葉先を伸ばしたとも思えなくもなかった。レイチェルのこの森に対する偏見は、それほど摩訶不思議なものとして刻まれつつあった。

 そう、珍しい植物があってとしてもおかしくはない。

 だが、影は大きく揺らいだ。その中の幾つかが、空中で蛇が這うような動き方をしてみせた。その途端レイチェルは身体に寒気を感じ、同時に多大な恐怖と戦慄を齎した。それは彼女の意識を一瞬遠退かせるまでに至ったのであった。

 しかし、彼女は精神を踏ん張らせた。助っ人の少女の言葉を、頼みの綱のように胸の内で信じて崇め、その成果として到底抗えぬであろう怪物が、再び水底に沈んでゆくのを大いに期待していた。

 しかし背後でシャロンが小さく咳き込み、レイチェルは思わず絶望の悲鳴を漏らしそうになった。

 水上に伸びた影は、それぞれの方角を探るようにグネグネと気味悪く動いている。そして全ての首が動きを止め、恐ろしいことに一斉にこちらを向いた。

「ついてきて」

 少女は鋭くそう言い、背後の草薮へ向かって駆け込んで行く。しかし、レイチェル達は水を波のように押して掻き分けて迫る、巨大な影から、目を放すことができなかった。大きな胴体の一部が見え、そこから9つの長い首が生えている。相手がこちらに近付くに連れ、毒々しい紫色と暗い緑色の混ざった身体が露になり、首が予想よりも遥か太いことまで明らかになってしまった。

 そこまで見て、ようやくレイチェルは我に返った。サンダーとシャロンは呆けたように未だに怪物を見詰めている。

「サンダー君! お嬢さん!」

 レイチェルが呼び掛けて二人は慌てて視線を敵から逸らした。茂みを揺らし、少女が顔を覗かせた。

「急いで。あいつはスキュラよりも遥かに執念深いわ」

 三人は少女の後に続いて茂みに飛び込んだ。

 その背中に怪物が起こした波が岸を蹂躙する音が、はっきりと届いてきた。

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