第6話 「森の脅威」 (前編)

 長い夜が去り、空にはぼんやりと朝日に輝き始めていた。

 馬車は夜通し街道を駆け続けた。レイチェルもサンダーも必死だった。しかし、彼女達の願いとは裏腹に、最大限に研ぎ澄まされていた神経は、抗う隙すら与えずに、夜明けと共に緩慢になってゆき、それに代わって疲労と眠気とが、弱り果てた身体も心も蝕むべく躍起になっていた。

 ウディーウッドからの強行軍のため、馬達もすっかり弱りきっている。二人は追っ手や不審者などがいないことを見て、いったん馬車を止めることにした。

 サンダーが御者席から降りた。馬の様子を確かめに行ったのだ。レイチェルも続いた。そして、そっと窓を振り返る。シャロンは、長椅子の上に横になっていた。すっかり寝入っているようにも見える。この女の子にはかなり厳しい一日だったはずだ。それは冒険者になって日が浅い自分にも言えることでもあったが……。

 頑張らなきゃ。気をしっかり持って、依頼を達成させるの!

「馬の奴ら、さすがに水が欲しいみたいだね」

 サンダーが前方から声を掛けてきた。しかし、周囲は深い森と茂みであり、その先に水が流れていたとしても、馬を連れて行くのは難儀そうに思えた。後方の安全が分からぬため、猶予が無いと見るべきであり、更には森に踏み入ったために無駄に迷う可能性もあるからだ。お嬢様のために一人が残り、もう一人が馬を連れて行くことになるが、戦力を分散させるのも今は憚られる事態であった。

 二人は顔を見合わせ途方に暮れた。早朝のためか、街道は静かなものである。しかし、それがまた不気味に感じた。盗賊達の仲間が潜んでいて、音も発てずに何処からか覗き見ているかもしれない。そう考えるだけで気持ちが焦り、気が狂いそうになる。ペトリア村での一件はとても目まぐるしい記憶として、未だに脳裡に余韻を残している。背の高い無法者達の高笑いと、爛々と怪しく輝く眼光は、ただ思い出すだけでも背中に冷やりとした緊張を走らせた。

 このぐらいで余裕を失っては駄目だ。レイチェルはシャロンの寝顔を見て、心を強引に落ち着けた。

 彼女を護るのが仕事よ。そう強く訴えかけ、レイチェルはひとまず荷物をまとめることにした。馬の体力がどうにもならない以上、徒歩で旅を続ける可能性も考えて置くべきだ。

「わらわ達は無事なのじゃな?」

 シャロンが目覚めていた。眠気を払うかのように懸命に寝ぼけ眼を擦っていた。

「はい」

 レイチェルは「おはよう」と言い掛けそうだったのを抑えて答えた。彼女は小さいながらも依頼人だからだ。正直、少々良心が痛んでいた。彼女に独りぼっちじゃないことを親身になって伝えたい心境に駆られていた。

 レイチェルは座席に滑り込み、床に転がっていた得物の鈍器を手に取った。その姿を見てシャロンの表情が真剣なものに変わった。

「追っ手は来るじゃろうか?」

「それはわかりません。でも、いつでも逃げられる準備をしておかないと」

 レイチェルの言葉は、サンダーの訝しげな声によって遮られた。

 彼は颯爽と御者席に飛び乗り、レイチェルも直ちにその隣へ登った。

「どうしたの?」

 サンダーに尋ねる。周囲を見回したが特に異変はなかった。しかし、少年は緊迫した面持ちで正面の遥か先を見詰めている。

「間違いねぇ、馬の足音だ」

 彼は緊迫した面持ちで答えた。

 ムジンリの方角ならば、行商など一般の人々が来るかもしれない。つまりは助けに応じてくれる可能性がある。しかし、油断はできない。盗賊は神出鬼没で、奴らはシャロンに執着しているかもしれないのだ。

 遥か前方に複数の人馬の影が見えてきた。足元には砂煙が勢い良く立ち昇っている。やけに急いでいる気がした。

「盗賊かもしれない」

 サンダーは鞭を持ち上げていた。

「そこの馬車止まれ! こちらはムジンリ所属の警備隊だ!」

 遠くから若々しい男の呼び掛けが木霊した。

「姉ちゃん、どう思う?」

 サンダーに問われ、レイチェルは軽く考えた。相手の声を思い出す。まず実直そうな印象があった。それ以外には判断の材料はない。本当に警備隊ならば、ペトリア村の出来事を話せば、増援に赴いてくれるかもしれない。一夜明けて村はきっと目を背けたくなるぐらい悲惨な光景を見せているだろう。

「私は相手を警備隊だと信じてみたいかな。お馬さんも上手く動けないしね」

 レイチェルが応じると、サンダーは決心するように頷く。少年は御者席から相手に向かって大きく両手を振ってみせた。

「了解したぜ!」

 そして彼は地面に飛び降り、前に進み出て行く。抵抗の意思の無いことを示すべく、手の平を見せて軽く掲げている。

 相手は四人いた。全員が軽装の統一された鎧姿で、手には短槍を握っていた。その中の一人が馬から降りた。

「まさか、君が馬を操ってるのかい?」

 歩み寄ってきた一人が、サンダーの前で驚いたように言った。その声は先程呼びかけた男に違いなかった。

「いや、もしや冒険者かい?」

「ああ、そうだよ。俺は、サンダー・ランス。で、後ろに仲間の姉ちゃんがいる」

 警備兵がこちらを凝視したので、レイチェルは戸惑いながら一礼した。

「おや、あのお嬢さんは神官の方のようだね。ならば、君らは特別怪しくはなさそうだ。私はムジンリ警備隊のワインザックという。馬車の方角からして、君らの行き先はムジンリか、アルマンになるのかな?」

 ワインザックは、態度を和らげ質問した。

「ああ、目的の場所はアルマンだけど」

 サンダーは口篭りつつ答え、こちらを振り返った。彼はシャロンの事を打ち明けるべきか困っているようであった。

 すると、レイチェルの後ろで馬車の扉が開き、シャロンが地面に降り立っていた。

「おや、見たところ随分小さな子のようだけど……」

 ワインザックは困惑した口調で言いながらも、訝しげに目を細めた。

「わらわは、領主スコンティヌウンス・サグデンが娘、シャロンである」

 シャロンが声高に呼び掛けた。衣服は多少汚れ、皺も目立っていたが、その態度には重職である父を持つ身としての、威厳が、はっきりと感じられた。彼女はズンズンと警備兵のもとへ歩み始めたので、レイチェルも急いで御者席から飛び降り、彼女の側に並んで従った。

 ワインザックは背が高く、がっしりとした体付きをしているが、顔つきは穏やかで、年下の自分が言うのもなんだが、純朴そうであった。

 彼は当惑したような顔を見せていた。少し離れた場所で成り行きを見守っている仲間の警備兵達も、馬上で顔を見合わせていた。

「信じられぬも無理はあるまい。証拠の品を見せれば納得するじゃろう」

 シャロンは淡々と言うと、懐から何かを取り出してワインザックに差し出した。

 それは彼女の手の平ほどの広さのある、銀色の金属の板であった。そして朝の日差しが、板に描かれていたものを照らし出した。勇壮な馬の横顔が正面に、そして囲むように星に似た四方に尖りのある紋様が四隅に配置されている。

 ワインザックは思案顔をし、板とシャロンとを見比べていた。

「信じましょう。シャロン様」

 ワインザックは何故か表情を曇らせて答えた。

「ですが、今、この先に道は無いのです」

 こちらが驚く前に相手は話を続けた。

「少し前ですが、盗賊がムジンリを襲いました。現在、奴らは町の半分を占拠してしいます。アルマン方面の町の一部と街道とは、冒険者と、伯爵様の兵隊で確保しておりますが、敵は町のこちらの方角を完全に掌握してきっています」

「父上と、母上は戻られたか?」

 シャロンは動揺を隠すように、しっかりした声で尋ねていた。

「御無事です。森歩きに秀でた兵隊と、屈強な騎士達が護衛についておられます。それで我々は敵の目を掻い潜って、ペトリアや、ウディーウッド、エイカーへの増援願いの使者として派遣されたのですが……」

 ワインザックは今気付いたというように、目を瞬かせ、三人を順繰りに見回した。

「他の護衛の方々は?」

「ペトリアも襲われたのさ」

 サンダーが肩を落として答えた。

「何と! それではこれでは袋のネズミに!?」

 警備兵が大きく狼狽したので、レイチェルは慌てて宥めた。

「私達の仲間と、お嬢様の従者の方々が戦っています。勿論、村の方々も同じです」

 そう言って、ふと言葉を飲み込んだ。だからと言って、盗賊を打ち負かしたかどうかはわからない。自分達は結末を見ずに飛び出してきたのだ。

「まぁ、町にいた冒険者も多かったみたいだし、ちゃんと率先して救助と退治とをしてから、何とかなってるんじゃないかな。ただ、村が奴らに燃やされちまった……。かなり大変な感じになってると思う」

 サンダーがワインザックに言った。

 若い警備兵は落ち着いた声で告げた。

「ひとまず、ここは敵地のようなものです。お嬢様はアルマンへお戻りになられたいでしょうが、道がない以上は、ペトリアへ向かって、従者の方々と、あなた方のお仲間達と合流された方が良いと私は思います。村までは我々も護衛の方に当たらせて頂きますので」

 ワインザックが真剣な面持ちを浮かべて、後ろを振り返ると、警備兵達は頷き返した。

「道がないのでは、仕方がない」

 シャロンは思案顔の後、冒険者の二人に目を向けた。

「うむ、決めた。この者の言う通り、わらわ達はペトリアへ戻ろう」

 レイチェルもサンダーも素直に従った。同意する旨を伝えると、ワインザックは言った。

「では、お嬢様は馬車へお願いします。冒険者のお二人は馬車を操れますか?」

 ワインザックと話していると、控えていた三人の警備兵が馬を進めて来た。全員若かく、ワインザックと同い年位だと思えた。

「ワインザック、君が先行すると良い。我々は馬車の横と後ろに就こう」

 切れ長の目を静かに微笑ませ、細面の警備兵が言った。

「わかった」

 ワインザックは頷き、馬に跨ろうとした。不意に、その背に槍先が突き立った。

 レイチェルは我を疑った。細面の警備兵が自らの槍で、ワインザックを刺している。

「君は賛同で出来ないだろうからな。排除することにした」

 警備兵は冷ややかに相手を見下ろしていた。ワインザックは大きく目を見開き、そして痛みを堪えるように歯を食い縛って、後ろを振り返った。彼の背中の皮鎧に、真っ赤な深い裂け目があるのをレイチェルは見た。震える彼の手から、短槍が落下した。

「貴様らは、盗賊に降ったのか!?」

 ワインザックが力を振り絞るように抜刀し、同僚達を怒鳴り付けた。

 三人の警備兵は悪魔のような薄ら笑いを浮かべていた。

「どういうことなのじゃ!?」

 シャロンが声を荒げた。

「このサグデンの地に終焉が訪れたのだよ。我々はあの方の力を目の当たりにし、抗うことは一切無意味なのだと確信するしかなかった」

 細面の警備兵が、眦を鋭くして答えた。

「馬鹿な、貴様らは盗賊に故郷を売ったのか! アーベル!?」

「結果は違えど、どのみち、そうなったさ。ならば早々と保身を考えて当然ではないか。ん?」

 細面の男、アーベルは、冷笑を浮かべて言った。その背後で、他の二人の警備兵達もこちらに敵対することを示すように槍を構えた。

 希望が一気に絶望へと急落していった。だが、疲労のためか、思っていたよりも心は冷めていた。レイチェルはいつでもシャロンを庇える体勢をとった。

サンダーの方はワインザックを庇うか、それともこちらへ合流すべきか、その間で揺れているようであった。

「サグデンのお嬢様、どうか我々と御同道願いたい。この場を円満に解決なさりたいのなら、是非ともそうすべきではありませんか?」

 アーベルがシャロンに言った。シャロンは武器を持った馬上の大人を前にしても、怯む様子を見せなかった。むしろ彼女は小さな身体を震わせ、二つの目に怒りの色を露にさせていた。しかし、彼女は感情を懸命に押し殺すように、はっきりとした声で尋ねた。

「わらわが行けば、そこの警備兵の者と、この冒険者二人に手出しはせぬと誓えるか?」

「抜け目がないな。よくできたお嬢さんだ」

 そう答えたのはアーベルの後ろにいる二人のどちらかであった。

「誓いましょう」

 アーベルはやや間を置いて応じた。

「よし、ならば……」

 シャロンが進み出ようとし、レイチェルは慌てて手で制した。

「よせ、こいつら当てにならねぇ! 約束を破るに決まってるぜ!」

 サンダーが大声でシャロンを振り返って言うと、彼女は表情を激しくさせ怒喝した。

「わらわは自分だけが助かりたいとは思わぬ! わらわは領主の娘ぞ! この身で一人でも領民が助かるならば、それはまさしく本望そのものじゃ!」

 サンダーも、レイチェルもその勢いにビクリと身を震わせた。

 ワインザックがゆっくりと背筋を正した。彼は軽くこちらを振り返った。

「決心しました。シャロン様、私は、この命に代えてでも、あなた様の未来を守りたい!」

 そしてワインザックはアーベルに斬りかかった。鉄の得物同士がぶつかり、大きな音を響かせた。

「少年、どうか、お嬢様を頼む! 森に紛れて、さぁ行けい!」

 ワインザックが傷付いた身を奮い起こし、吼えるように言った。そして力の乗った剣を、憎き裏切り者に振るい続けた。文字通り身を削る猛攻であり、アーベルに手を出させる隙さえ与えさせなかった。

 サンダーがこちらへ駆け寄って真剣な表情で訴えた。

「森へ!」

「しかし!」

 シャロンがワインザックの背を見て渋った。

「来て!」

 サンダーは少女の手を力強く引っ張り、引きずり込むようにして森へ駆け込んで行く。レイチェルも木々の隙間に飛び込み、そして背後を振り返った。

 ワインザックは剣で押し返し、アーベルを落馬させていた。その憎き敵にとどめをくれようとしたところで、他の二人の裏切り者が馬を寄せ、その胸を一つの槍が貫いていた。

 レイチェルは息を呑んだ。目頭が熱くなり、嗚咽を漏らしそうになるのを必死に堪えた。ワインザックを思っていた。出会ったばかりだが、彼は善良であり高潔な人であった。

 あなたの御好意、私はこの先一生忘れません。さようなら! どうか安らかに!

 涙が次々と零れ落ち、その頬を止め処なく濡らしていた。アーベルが立ち上がり、殺人者どもが揃ってこちらを見ている。

 レイチェルはそいつらを呪うように強く一瞥し、森の中を不慣れな足取りで行く仲間達の背を追った。





 不規則に並んだ木々を蛇のように行きながら、三人はひたすら奥へ奥へと逃れていた。

 後ろを見ている暇はなかった。枝を踏み折り、茂みを揺らしたりと、自分達が一歩踏み出すだけで、肝を潰すような音を響かせていたからだ。

 どれぐらい駆けただろうか。ようやくサンダーが歩みを止めた。心臓が飛び出しそうなほど荒い呼吸をしたかったが、耳を欹てなければならない。レイチェルは口に手を当て、必死に荒く吐き出されてくる呼吸を殺そうとしていた。

 シャロンの方は落ち葉の上にへたり込んでいた。彼女は顔を真っ赤にし、ぜえぜえと激しい呼吸をしている。依頼人であり、まだ幼い女の子でもある。無茶をさせる結果となり、彼女に対して申し訳ない気持ちになった。しかし、その脚力と体力については冷静に感心している自分もいる。幼いとは言っても必死になればこんなものなのかもしれない。だけど、緊張の糸も切れてしまったので、少なくとも今日はこれきりだろう。

 周囲は木と丈のある藪とに隙間なく囲まれていた。日も遮られ、敵の目を欺くには格好の場所に思える。

 サンダーがすぐに身を伏せるように指示を出した。

 しばらくそうしていると、遠くで野鳥のけたたましい声が聞こえた。それが本当に野鳥なら良いのだが、レイチェルは巨大で暴力的な怪物のような鳥の姿を空想し、一人で身震いしていた。

 この森の中にもゴブリンやトロルなどがいる可能性もある。場合によってはまだ見ぬ怪物だって潜んでいるだろう。だけど、狡猾でもなく、ただ血肉に飢えているだけなら、盗賊よりはマシだと彼女は思った。あいつらは欲を満たすために残酷なことを選んでみせる。ワインザックのこと、炎に焼かれたペトリア村のこと、あんなことをして心が壊れたりはしないのだろうか。

 似ている。ふと、レイチェルの脳裏を、昔の忌まわしい思い出が駆け巡った。嘲笑する黒髪の女の子、彼女の前には小さな自分がいる。身を裂くような罪悪感だけが、あの一瞬、全てを忘れさせたのを覚えている。

「方角がよくわからねぇ」

 サンダーがレイチェルの側に来て小声で囁く。レイチェルは我に返った。少し離れたところで茂みが揺れる音がし、少年は身を強張らせ、周囲に目を走らせた。片手は速やかに短剣の柄へと伸ばされている。しかし、一時してもそれ以上音は聴こえなかったため、サンダーは異常無しと判断するように溜息を吐いた。シャロンがこちらを見ていた。

「あの警備兵、ワインザックとかいったが、大丈夫じゃろうか」

 先程よりも顔色が良くないように思えた。疲労するのは身体だけではない。激昂するも、悲観にくれるも、どちらも心への負担は押し潰さんばかりに多大なものだ。ほんの僅かの時とはいえ、頼もしい味方として現れた大人の姿は神々しくも映っていただろう。それ故、事実を知ったときに彼女の心が持ち堪えられるかどうかが不安であった。結局レイチェルは勇気を持って嘘を伝えた。

「私達が森へ飛び込んだ後、何とか馬に乗ってました。きっとまた会えますよ」

 罪悪感を感じた。嘘を吐くのは久しぶりだし、これほど辛く感じるのも同様であった。

 シャロンは安心するように頷いた。少なくともレイチェルにはそう見えた。

 サンダーが高い木を見上げていた。

「あれに登れば方角がわかるかもしれねぇな」

 彼はそう呟くと手近な枝に手を掛け、慣れた動作で木に登り始めた。

「姉ちゃん、ちょっとお嬢さんのこと頼むわ」

 サンダーはズイズイと登って行く。

「あれはまさしく猿に似てるのじゃ」

 シャロンが小声で漏らし、二人は声を潜めて明るく微笑みあった。サンダーには悪いが、おかげで少々元気を取り戻せた。もしかすればシャロンは自分を元気付けるために、冗談を言ってみせたのかもしれない。

 サンダーが降りてきたが、表情から察すると成果は芳しくない様子であった。

「この辺りは窪んでるみたいだ。だから遠くまでは見えなかったよ」

 振り返ってみて気付いたが、背後はなだらかだが長い上り坂が続いていた。

 サンダーはシャロンへ目を向けた。

「お嬢さん、足疲れてないか?」

「心配には及ばぬ」

 シャロンはこちらを説き伏せるかのように、落ち着いた声で答えた。

 三人はしばし休息を取り、それからは、なだらかな斜面を下ることに決め、行動した。上り坂を行く元気もないし、敵と鉢合う可能性も避けられると考えたのだ。それに下には川も流れているかもしれない。水袋の中身は残り僅かであった。

 どこまでも静かな緑と茶色に覆われた地に、ようやく水源が見つかったのは、それから大分後であった。しかし、そこはまるで未踏の地であった。葦の葉などの雑草が広く生い茂り、せせらぎの姿をすっかり隠してしまっていたのだ。

 サンダーが短剣を振るって刈り取ると、そこにはようやく緩やかな川が姿を現した。水位は浅く、木漏れ日が透き通った流れを照らし出している。底にある大小の丸い岩はまるで宝石のようにピカピカに輝いていた。

 サンダーが水を掬って飲む。彼は味を確かめるように口の中に水を含ませたまま思案顔を浮かべると、喉を鳴らして飲み込んだ。

「飲めるぜ。だけど、まだ歩くから飲み過ぎちゃ駄目だ」

 レイチェルは流れに袋を突っ込んだ。冷やりとする自然の熱が、指先から身体中に不思議な活力を与えるのを感じた。渇き気味だった喉は、水を大いに欲しがったが、ここはサンダーの言葉に従った。シャロンも喉を潤し満足そうであった。

「さて、下流に向かうか。それとも上流に行くかい?」

 サンダーがレイチェルに尋ねる。下流はペトリア方面になるだろう。ムジンリに行くよりは近く、そして仲間達もいる可能性もある。故郷のエイカーと、ウディーウッドもそちら側にあるのも心強い。

「下流に行った方が、安全かもしれないね」

「いや、待つのじゃ」

 レイチェルが答えると、シャロンが被りを振った。二人が驚いてお嬢様を見ると、神妙な面持ちで相手は話し始めた。

「このまま川に沿って、森の中を行けば盗賊にも見つからずに、ムジンリの反対側へ回れるのではないか?」

 そうだった。私達は任務を完了させなきゃならない。心身ともに疲弊し、つい弱気に陥っていたようだ。

「サンダー君、どうかな? 行けそうだと思う?」

「まぁ、お嬢さんの言うとおりだとは思うけどさ。今ので山道が急だって解ったろ? それで、アンタの足と体力が俺は気になるんだけど」

 シャロンは強い眼差しと共に言い返そうとしたが、結局は口をパクパクさせて視線を暗くしていた。

「確かに、お主の言う通りじゃ。わらわは不慣れ故、正直を申すと足がとても痛くて歩くのが辛いぐらいじゃ。しかし、わらわが戻らねば、領主たる父にも余計な心配を掛け、それが盗賊の者達に弱みとして利用されるやもしれぬ。幸いというべきか、娘一人のために領地を売るような父上ではないが、それでもわらわがいない事につけこまれる隙を見せるのは嫌なのじゃ」

 サンダーは生真面目な視線で相手を凝視した後、不意に腰を落としてみせた。

「背中に乗りなよ。言っておくけど、明日の朝は足が酷く痛むからな。今のうちに根性、溜めときな」

 シャロンは呆然として相手の背と横顔を見ていた。それがあまりにも長いので、レイチェルは彼女が立ったまま気を失ったのではとも思い始めた。

「何だ? 俺の背中、汚いか?」

 サンダーが訝しげに尋ねると、相手は素早く首を横に振り、その背に飛び乗っていた。

「すまぬな」

 サンダーがゆっくり身を起こすと、頭の後ろでシャロンが申し訳なさそうに囁いた。

「気にすんなって。俺らは雇われてるし、それに小さい子には本当に厳しい道のりだったからな。ついでだから少し眠っておくのも良い考えだと思うぜ」

 少年は諭すように優しく語ると、ゆっくりと歩き始めた。

 シャロンは迷うようにレイチェルを振り返った。こちらが頷き返すと、彼女はサンダーの背に頬を当て、やがて静かな寝息を立て始めた。

 それからも二人は草を掻き分け、ひたすら道なき道を行った。頭上にある太陽の姿は殆ど枝葉に遮られ、その陽光が昼近くの姿に変わった頃、空には急に黒く厚い雲が目立ち始めていた。

 間も無く強烈な俄か雨が降るだろうか。そんな心配をしたが、何故か口には出せなかった。足が棒になり果て、尽き掛けた気力を頼みに、半ば呆けながら歩んでいたからだろうか。しかし、二人は疲れた視線を周囲に走らせ、野宿と雨宿りができる場所を、無意識の内に探していたようであった。

 しばらく歩くと、偶然にも、小高い斜面に穿たれた大きな洞穴を見つけていた。細い木が密集するように入り口の前に伸びていて、視界を遮っていたが、サンダーが目敏く視界の端に入り口を捉えたのであった。

 しかし、当然二人はまず訝しんだ。何かの巣穴という可能性が高いからだ。トロルが入るには小さかったが、大きなゴブリンや、クマなどの猛獣ならば悠々と潜り込める幅と高さがあった。だが、ゴブリンやクマがここを登るには、這うようにして行くしかなかった。無論、レイチェル達も両手を使って進むしか方法はないが、怪物や猛獣達が、そんな不便な場所を寝床に選ぶものか疑問ではあった。

 小さな雨粒が頬に滴り落ちてきた。空は夕暮れまで余裕がある時刻だと思ったが、そうとは感じさせないほど雲に埋まり真っ暗になっていた。

「川も近いから、色々便利かもしれねぇぜ。もしも増水してもあそこまでは届かないと思うし」

 サンダーがレイチェルに訴えかけた。少年の表情も、隠し様が無いほど疲労の色に満ちていた。あそこで休めるなら、そうすべきかもしれない。この先上手く安全な洞穴があるとも限らない。

「そうだね」

 レイチェルが答えると、サンダーは背中のシャロンを振り返った。彼女はぐっすりと眠っていた。

「上見てくるから、姉ちゃんはお嬢さんをお願い」

 しかしレイチェルは被りを振った。正直、森の中の洞穴は怖いが、年長者として務めも果たしたいと思ったのだ。それにサンダーは率先してよくやっている。自分達女の子を気に掛けてくれる心強い騎士だ。だけど、今は自分だって一人の女の子を護る神官である。彼の生真面目で優しい好意に甘んじているだけではいけない。

「お嬢さんを起こすのは可哀想だよ。大丈夫、私が見てくるから」

「いや、でも怪物と鉢合わせしたらさ、前にも後ろにも逃げ場が無いんだぜ?」

「良いから、私に任せて」

 サンダーは渋ったが、レイチェルは微笑んで半ば強引に、茂みに入って行き、洞穴の下まで進んだ。

 斜面を見ると、大小の岩が草の間に無数に突き出ている。レイチェルは手近に蔓を見つけると、これを引き千切って、胴に回し、鈍器を背中にしっかりと挟んで蔓の両端を結んだ。そして斜面の岩にゆっくりと安全を確かめながら足を乗せ、手では丈夫そうな草を選んで掴み、慎重に穴までの距離を縮めて行った。そして穴の入り口に手を入れ、その身を一気に滑り込ませる。例え穴に怪物が居ても、襲われるよりは、ここから落ちる方が心配だと判断したのだ。蔓を切って、鈍器を手にした。

「姉ちゃん、松明必要でしょ?」

 サンダーが足元から見上げて呼び掛けた。レイチェルもいざ闇の巣窟の前に来てから必要であることに気付いた。サンダーは松明を顎で挟むと、両手で火打ち石を鳴らして火を灯す。そして放り投げて寄越した。

 レイチェルはしっかり受け取った。幸い火は消えなかった。そして幾分緊張しながら闇の先へと刺し込んだ。

 オレンジ色の光りは、洞穴の見える範囲を隅々まで見せていた。壁は硬そうな土でできており、大小の木の根がそれを突き破り四方からはみ出ていた。音は特に聴こえず、ネズミやコウモリも這い出ては来なかった。そしてどうやら先は緩やかな曲がり角になっているらしい。

 外の雨音が大きくなってきた。レイチェルは二人を思い、洞窟を突き進む。曲がり角の前では、多少の勇気が必要であった。しかし、行き止まりを告げる土壁は、思いの他近くに立ちはだかっていた。

 多少拍子抜けしていた。怪物がいなくとも、穴だけはもっと続くものだと覚悟していたらしい。ともかく素晴らしいことだ。脅威も、先に続く不穏な闇すらも無い。レイチェルは駆け戻って二人を呼んだ。

 シャロンは目覚め、サンダーの隣に並んでこちらを見上げていた。斜面は極端に急というわけはないが、シャロンの手足が、上手く足場や、手摺り代わりの草まで届くかが心配であった。

「落ちたら俺が受け止める」

 サンダーが言った。しかし、心配は杞憂に終わった。シャロンは手間取ったが、何とか登り終えていた。

 三人が洞穴を潜ると、待ち構えたように雨は一気に激しさを増した。それから三人は、干し肉と、硬いケーキ、そして干した果物というなけなしの食事を取った。先行きがわからないので、レイチェルと、サンダーは、こっそりと自分の分を切り詰めることにした。

 曲がり角の向こうを寝床とし、まずはシャロンとサンダーがそちらで休むことになった。

 レイチェルは入り口の辺りで腰を下ろし、夜までの見張りに就いた。

 雨は相変わらずの勢いであった。静寂に包まれた森と、川に大きな雫を次々と散らせている。他に見るものが無かったからかもしれない。レイチェルは呆ける様に、その様だけを眺めて過ごしていた。そしていつしか不覚にもうとうとし始めた。

 遥か遠くから木の折れるような音が聴こえた気がした。レイチェルはゆっくりと目を開いた。多少頭がぼんやりする。眠ってしまったが、それが一瞬の間だったと確信し、安堵の息を吐いた。

 離れた場所でカエルが鳴き始めた。その音色はコロコロと軽快で驚くほど耳に心地良かった。

 再び木の折れる音が聞こえた。古木でも倒れたのだろう。しかし、それは霞のようでありながらも立て続けに聞こえてきていた。

 レイチェルは警戒した。トロルだろうか。と、いってもトロルぐらいしか大きな怪物を知らなかったのだ。そいつは、行く手を遮る木々を乱暴に薙ぎ倒しているのだろうか。祈る思いで音が去ってゆくのを待った。

 ややあって、凶暴な雄叫びが聞こえた。その声は、まるでこの世の全てに敵対し、呪っているかのような極めて異質な音色であった。

 トロルの声とは違うように思える。奴らのような鼻の詰まった間抜けそうな声ではない。言ってみれば、ドラゴンならこんな声を発するかもしれない。

 恐ろしいが、一つ言える事があるとすれば、そいつはずっと遠くを彷徨っているらしい。しかし、長居は無用だ。

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