第4話 「下層に潜むもの」 (後編)

「行け、ラザ・ロッソ! 纏めて薙ぎ払ってみせろ!」

 髑髏の戦士が叫ぶと、ラザ・ロッソは槍を引っ提げ、こちらに突っ込んできた。

「先に行くぞ」

 クレシェイドも相手に向かって飛び出し、両者の得物は激しくぶつかり合った。

 レイチェルは気持ちを落ち着け、浄化の祈りの調べを口ずさみ始めた。

 すぐに聖なる白い光りが現れると共に、腕が重くなった。

「いいか嬢ちゃん。その光りをだな、ティアの嬢ちゃんの槍先に乗せるんだ」

 レイチェルはヴァルクライムを見上げた。言っている意味がよくわからなかったのだ。

 すると、ティアイエルが槍先を差し向けてきた。

「武器に魔術の炎を宿らせたのと一緒って事ね?」

「そうだ。浄化の光りを宿した武器ならば、不浄なる者を裂いて灰にすることができるだろう」

 二人は促すようにレイチェルを見た。だが、レイチェルは困っていた。乗せるとはどういうことだろうか。もし特殊な詠唱の調べが存在しているとしたら、私は知らない。

「ちょっとした応用さ。相手に思いを託すようにするのだ」

 ヴァルクライムが言うと、レイチェルとティアイエルは互いに顔を見合わせていた。そしてティアイエルが頷く。僅かだが不安が拭い去られたような気がし、彼女は決断した。魔術を乗せる、思いを託す……。

「嬢ちゃんできるさ」

 ヴァルクライムはそう告げると、稲光の宿る剣を構えて、敵へ疾駆して行った。

 ヴァルクライムの前に髑髏の戦士ダウニー・バーンが立ち塞がり、雷の剣と、頑強な斧とが一際大きな音を立てて打ち合った。

 レイチェルはティアイエルの槍先に光り輝いている手を置いた。

 手の平に金属の冷たい感触が伝わって来る。レイチェルは手の光りと槍の刀身を見ながら、必死に心を落ち着けようと試みていた。しかし、浄化の光りが飛ばなかった一件が遠慮なく脳裏を過ぎり、彼女を動揺させた。

 集中しなくちゃ。

 レイチェルは目を瞑った。

 真っ暗な視界の中で、敵の詠む呪詛は濃い靄のように広がっている。しかし、その中でも時折聴こえる剣撃の音は高らかで、はっきりとしていた。

 レイチェルはラザ・ロッソのことを考えた。冷厳な瞳と、苦悩する顔が順繰りに浮かび上がってくる。彼女はこちらへ来たがっていたのだ。私達を信じていた。

 とても悔しい。あと少しだったのに……駄目、取り戻して見せる。

 不意に、利き手が軽くなった。

 目を開けると、槍先が白い光で輝いていた。

「できたじゃない」

 ティアイエルが言い、レイチェルは呆気に取られつつ、相手を見た。

「アンタの頑張り、絶対に無駄にしないから」

 彼女は真面目な顔で労いの言葉をかけると、翼を広げ飛翔した。

「ティアイエルさん、よろしくお願いします!」

 相手の熱い決意に、思わずレイチェルは感極まり叫んでいた。

 視線の先にはヴァルクライムと髑髏の戦士が壮絶な打ち合いを繰り広げていた。彼らは加速し、ほぼ影となっていた。時折、剣に宿る雷光が見えるだけであった。しかし、今回は相手に痛手を与えたらしく、佇み対峙する両者の姿があった。

 ティアイエルが魔術師の隣に飛び降り加勢する。しかし髑髏の戦士ダウニー・バーンは、二人掛かりを物ともせず、その身に纏う黄金色の甲冑を炎に包ませ、全身から波のように広がる火炎を放射する。

 ヴァルクライムは転がって避け、ティアイエルも飛翔して事無きを得ていた。

 髑髏の戦士は手を休めなかった。戦斧を振り翳し、瞬時にヴァルクライムとの間合いを詰めた。魔術師は再び飛び退き、重々しい必殺の一撃から逃れたのであった。

 ヴァルクライムは立ち上がり荒々しく呼吸をしていた。

 疲労困憊の魔術師を見兼ねて、クレシェイドが競り合っていたラザ・ロッソを蹴り飛ばして、髑髏の戦士に斬りかかった。

 彼の長剣は敵の不意を衝いていた。慌てて振り回された大斧を押し返し、一太刀を浴びせるところまできたが、その足元から炎が吹き上がったため後退するしかなかった。

 そして直後にはラザ・ロッソの槍が彼を襲った。重々しく素早い一撃をクレシェイドは危な気なく受け返した。

 このままではクレシェイドまで疲れきってしまう。

 レイチェルは傍らのサンダーを見る。少年は思案顔をしている。戦況を見定めているのだろう。

 中央で繰り広げられている激闘の向こうへ目を向けた。大盾を構えて前衛を固めたリザードマン達と、その肩越しに呪われた唄を唱える黒衣の人間達が見える。

 私達がやるべきことはこれらを消し去ることに他ならない。

「サンダー君」

「ああ、わかってるよ」

 サンダーは頷く。

「中央を突破して、アイツらを斬り捨てる」

「私も手伝うよ」

 レイチェルが言うと、少年はニヤリとして頷く。そして駆け足で中央突破に掛かった。

 髑髏の戦士はこちらに気付いたが、クレシェイドがその視界を遮るように戦いを挑む。ラザ・ロッソもすぐにクレシェイドに追おうとするが、こちらにはヴァルクライムが立ちはだかる。彼は気力を振り絞るようにして動いたように見えた。

「ありがとよ、兄ちゃん、おっちゃん」

 サンダーが彼らを一瞥してそう言い、レイチェルと共に一気に足を速めた。

 祭壇がはっきり見えてきた。

 サンダーは跳躍し、祭壇の上にひらりと着地した。

「始末せい!」

 敵の魔術師のうろたえる声が聞こえる。

「遅いぜ!」

 サンダーが叫ぶ。そして両腕を突き出し、敵へと斬りかかった。レイチェルも鈍器で打ち掛かった。

 魔術師達は呪詛を止め、反撃に躍り出てきたが、もたついていた。その隙を逃すはずも無く、レイチェルの鈍器と、サンダーは剣の腹で敵を次々打ち果たした。敵の魔術師達は肉弾戦の方は全く得意ではなかったようだ。倒れて気を失っている。

 レイチェルも微笑み掛けようとした時に、背後で重い金属が倒れる音が聞こえた。

 振り返ると、ラザ・ロッソが床に突っ伏していた。

「馬鹿な!」

 髑髏の戦士が驚愕の声を上げ、こちらを見た。

「小僧どもめ!」

 憎しみのたぎった怒声を張り上げ、髑髏の戦士は炎に包まれた大斧を振り回し、肉薄していたクレシェイドと、ティアイエル、ヴァルクライム達を一瞬で遠ざけた。

「しまった!」

「レイチェル!」

 クレシェイドとティアイエルの必死な声が聞こえたときには、髑髏の戦士はこちらに猛進し、そのまま両手で握った大斧を振りかざした。

 彼女の前に風と共に白い影が割り込んだ。その大きな影は得物を振るって、髑髏の戦士に向かって突っ込んで行った。

「滅べ! 邪なる者よ!」

 レイチェルを助けたのはラザ・ロッソであった。

 彼女の槍と、敵の大斧がぶつかって重い剣撃の音と火花を見せた。

「恩知らずの木偶人形が!」

 髑髏の戦士の大斧が空を切る。一瞬の隙をラザ・ロッソは見逃さない。相手の胸に渾身の槍を叩き込んでいた。

 黄金色の破片が空中に散り、相手は大きくよろめいた。

「翼のある娘よ! 今だ!」

 ティアイエルが飛翔し滑空した。彼女は擦れ違い様に浄化の力の宿った槍で敵を一閃した。

 くぐもった音がし、敵は灰に変わって飛散していた。その中から武器と甲冑が落下し、重々しくも派手な金属音を立てて高々と床の上を弾んでいた。

「正直、複雑な胸中だが」

 ラザ・ロッソは敵の遺品を見下ろしてそう呟いた。だが、その膝が揺らぎ次の瞬間には彼女は倒れていた。

 レイチェルは慌てて駆け寄った。そして彼女の顔を見て驚いた。

 ラザ・ロッソの顔は見る影も無く痩せ細り、肌も土気色に染まりつつあったのだ。

 仲間達も側に現れ、その顔を覗き込んでいた。

「斬られたのか?」

 サンダーが仲間達を見回して尋ねた。

「いいえ、急激に衰弱してる感じだわ」

 ティアイエルは倒れる彼女の額に手を当てて、深刻そうな表情を一層険しくした。

「体温が下がってるわね。このままじゃ不味いわよ」

 レイチェルは神聖魔法で治療すべきだと思ったが、彼女の身体を逆に傷つけやしないかが不安であった。話を聞く限り、彼女はホムンクルスということになるのではと考えていた。それを神聖魔法が偽りの魂だと判断してしまった場合は、灰にしてしまうかもしれない。

「彼女の身体は創られたものとはいえ完璧だ。それに魂も本物だ。レイチェル嬢ちゃん、神聖魔法を頼む」

 ヴァルクライムが言い、レイチェルはその言葉を信じた。

 彼女の側に座り込んで、相手の上半身を膝の上に乗せた。

 ティアイエルの言う通り、服越しに感じる彼女の体温は冷水のようであった。レイチェルは神聖魔法の調べを口ずさみ、淡い輝きに満ちた両手で相手の首もとを優しく抱きしめた。

「……すまないな」

 ラザは目を閉じたまま呻く様に囁いた。

「気にしないで下さい。少し時間が掛かると思います」

「……神官はこうあるべきだった。私は人々を純粋な心で癒しはいなかった。傷を治し、再び殺戮に駆り立てていたのだ……」

 レイチェルは困りつつも何とか答えようとしたが、相手がか細い寝息を立て始めたので口を噤ませた。だが、正直、胸を撫で下ろしていた。彼女に答えるには、この時代でのうのうと生きている自分には荷が重いし、そもそも資格が無いと痛感していたからである。

「さて、真に勝手な言い分だが、私は奥の調査に向かわねばならんのでな。レイチェル嬢ちゃん、すまないが彼女の面倒を頼んだぞ」

 ヴァルクライムは奥の廊下を目指して行く。

「雲隠れはさせないわよ。ここまで来たら、アタシ達にも知る権利はあるんだから」

 ティアイエルは魔術師の後を追おうとして、こちらを振り返った。

「ジミー、アンタはアタシといらっしゃい。アンタの点数はまだまだ不足してるわよ」

「ええっ!? 俺、まだ認められないかよ!? あんだけ頑張ったのにさ」

 少年が悲鳴を上げたが、レイチェルとラザを見て気遣うように口を閉じた。

「クレシェイド、アンタはここに残って。腕だけは買ったげるから」

「わかった」

 有翼人の少女の言葉に漆黒の戦士は静かに答え、ティアイエルとサンダーは奥の廊下の方へと歩んで行った。

 彼女達の足音が聞こえなくなると、本物の静寂が訪れた。きっとこの迷宮の本来あるべき姿である。だが、その静かさは妙にレイチェルの心を切なくさせた。

 壁の仕掛けを解いたこと、隠し部屋に追い詰められたり、浄化の光りの宿った二つの拳で強敵を打ち消したこと、他にも今回遭遇した出来事が断片的に脳裏を掠めてゆく。まるで今まで幻想の世界に浸っていたみたいだ。信じられないことばかりをした。

 しかし、ラザは彼女の腕の中で眠り、クレシェイドは背を向けて佇んでいる。彼らの姿が少しだけ、自分に実感を持たせてくれた。

 さぁ、後は帰るだけだ。走れないマスターに報告して、少しボリュームのあるお肉でも食べて、お風呂に入って、ベッドでぐっすり眠ろう。その前一回は野宿するけど……皆疲れてるけど、きっとその席はほのぼのと明るいだろう。

「出でよ、しもべ達!」

 威勢の良い叫び声が部屋中に木霊した。

 レイチェルもクレシェイドも我に返ったように、周囲を見回した。

 その声は、忘れもしない髑髏の戦士ダウニー・バーンの声であったからだ。

 天井に近い壁の端から端までが急激に崩れ始め、そこから幾つもの影が降り立った。同時にそれらは重々しい身体と甲冑の音を響かせた。

 リザードマンが左右の壁にズラリと並んでいる。

 レイチェルは慌てたが、ラザは眠っていた。その顔色はほんの少しだけ良くなったように思える。だからこそ、ここで治療をやめたくはなかった。もう一息だからだ。

 でも、このままではやられてしまう。

 クレシェイドは長剣を構え周囲へ目を走らせていた。

「奴の姿は無いが……」

 レイチェルも敵が残した遺品を睨んだが、それが動いたりはしなかった。いや、不意にその周囲を煙が小さな渦を巻き始め、黄金色の甲冑が吸い寄せられるように浮かび、煙は鎧を中心に人の形に姿を変えていった。

 頭と思われる部分に2つの真っ赤な光りが見える。それは横に並んでいて、まさしくあの恐ろしい両眼であった。

 煙の腕は大斧を拾い上げる。そして声高な哄笑が聞こえた。

「格が違うのだ。我が存在は、そこいらに散らばってるような安っぽい怨念どもとは違うのだ!」

「お前がこの世に執着する理由はなんだ?」

 クレシェイドが声を鋭くして尋ねた。

「そうだな。この大斧で大陸中の人間をバラバラにした後、そこに俺の強さを称える証を刻み込みたい」

「証だと?」

「そうだ。小鳥の囀りすらも聞こえない大陸に成り果てるが、そんな中にたった一つだけ聞こえる音がある。それは灼熱の炎が荒ぶる音だ。そう大陸中が不滅の炎に包まれ、この世に存在する唯一無為の煉獄と化し、他の大陸の人間どもにそう認められる様を俺は見てみたいのだ」

 レイチェルは思った。相手は一直線に狂っている。放っておけば本当にそうしてしまうだろう。

「灼熱だと? 温いな。貴様は本当の地獄を知らぬ。幻想に酔い痴れる哀れな亡者よ」

 ラザが半身を起こして相手を見据え、そして嘲笑うように冷たく言い放った。

「私の時代に生きていれば、そのような軽はずみな事は言えなかっただろうな。私は、あのような大陸の有様は二度と御免だ。だが、真の地獄に逝くことすら戸惑う臆病者よ、貴様の発言は万死に値したぞ」

「万死だと? 死に損ないがそう言えるとは笑えるな」

 相手が挑発するように応じる中、ラザはレイチェルに向かって囁いた。

「娘、礼を言う。動けるまでにはなった。……ところで、お前、武器に聖なる加護を宿すことは出来るか?」

 レイチェルは返事に窮した。それは、この人は無茶をやろうとしていることがわかるからだ。

「ここで逃すわけにはいかない。残念だが奴はやってしまうぞ。奴の理想郷を目指してな」

 ラザが険しい顔で訴える。

 浄化の祈りを口ずさみ、彼女が差し出した槍先にその光を宿した。

 ラザが立ち上がった。

「受け取れ戦士よ!」

 彼女は叫ぶと、聖なる輝きを宿した槍をクレシェイドへ放り投げた。

 クレシェイドは剣を落として槍を受け取る。だが、気のせいか、彼がほんの僅かたじろいだようにも見えた。

「雑魚は任せておけ! 娘も私が命に代えても守り抜いてみせる!」

「わかった」

 クレシェイドは答え敵に向き直る。

 敵は煙だった身体を炎に変えていた。

「しもべども、奴らを殺せ!」

 リザードマン達は揃って抜刀すると、八方から一斉にレイチェル達のもとへと突っ込んで来た。

 ラザは無言でレイチェルの鈍器を拾い、静かに身構えた。

「いいか、頭を上げるな。大丈夫、私を信じろ」

 彼女の強い眼光を下から仰ぎ見てレイチェルは頷いた。

 最初のリザードマン達が地鳴りを響かせ左右から襲い掛かってくる。

 敵が剣を突き出すと、ラザは鈍器で鋭く弾き相手を押し返す。そして他方から迫る刃にも同じ方法で柔軟に対処し、怯んだ横面をまとめて薙ぎ払って打ち倒した。

「狙いが正直だ。やはり命令に従うだけということか」

 彼女はそうボヤき、一歩も動かずに後続をあしらう。気が付けば十体以上ものリザードマンが積み重なって床に倒れていた。レイチェルはラザの無駄の無い動きに思わず感服し見惚れてもいた。彼女はとてつもなくカッコよかった。

 クレシェイドの方は苦戦しているようであった。

 炎の魔人の腕は縦横に伸び縮み、握られた戦斧は、蛇のように振るわれ彼を追い回している。

 斧が床を砕き、抉られた箇所からは真っ赤な火炎が噴き出し、その行く手を確実に塞いでいる。

 ついにクレシェイドは壁に追い詰められていた。

 敵の不気味な笑い声が轟いた。

「身体を分断されるか、鎧ごと蕩けてしまうか。どちらも惨い道だな」

 斧が頭上から襲う。クレシェイドは脇に避ける。しかし、炎の腕は鞭のように撓ってすぐに刃を振り上げ、その側面を薙いだ。

 クレシェイドはそちらに身を向け、槍を振り下ろす。

 灰が舞い、斧が床に転がる。敵の悲鳴が上がった。クレシェイドは一気に敵の本体へ疾駆した。

 だが、レイチェルは異変に気付いた。クレシェイドの身体から湯気が立ち昇っている。ラザを見ると、彼女も気付いた様子であった。

 相手が、渦巻く炎の腕を、クレシェイドに向けて掴みかかるように放った。

 クレシェイドは槍を敵目掛けて力強く投げつけた。だが、それと引き換えに炎の両腕をその身に受け、弾き飛ばされる。大きな衝撃音と共に彼の背中は壁に激突していた。

 その間も煙が彼から立ち昇っている。その量は先程と比較にならないほど多く、濃くもあった。

 彼に何か良くないことがあったのは確実であった。

「次こそは浄化する!」

 ラザが駆け出す。

 炎の魔人は黄金色の鎧ごと光りの槍に貫かれていた。その傷口からは徐々に炎が消え失せ、連れられるようにして灰塵が舞っている。

 ラザは槍を引き抜くと、敵の身体を何度も斬り付けた。

「何だ、何があった!?」

 ヴァルクライムの驚く声がし、彼ら三人が愕然とした顔を見せて廊下から現れた。

 まず彼らは手近にいるレイチェルを見た。

「奴が生きていたのだ!」

 ラザが答えた。

「今度こそは確実に葬った。だが、あの戦士がどうやら手酷い傷を負ったらしい」

 ラザが促し、魔術師とティアイエルは、クレシェイドへ視線を向けるや、血相を変えて彼のもとへ駆け出していた。その様子は明らかにただ事ではなかった。

 治療なら私が役に立てる!

 レイチェルは突然の慌しい空気に、激しい緊張を覚えながら後に続いた。

 クレシェイドは壁に崩れ落ちたまま動かなかった。そして煙も、彼の身体から強い勢いで昇っている。

「私が治療を」

 レイチェルが身を乗り出すと、ティアイエルが腕で制してきた。

 呆気に取られていると、ティアイエルが真剣な顔で告げた。

「神聖魔術とだけは相性が悪いのよ。逆に傷口を開いてしまうわ」

 ヴァルクライムが、魔術の詠唱を始め、その両手が漆黒の光りに染まった。

 レイチェルは驚いた。それは隠し部屋で戦ったアンデットが纏っていた闇の炎と似ているように思えたからだ。

 ティアイエルも詠唱を始めていた。

「友よ、すぐに助けてやるぞ」

 ヴァルクライムが甲冑の胸部に黒い光りの宿った両手の添えた。

 ティアイエルも片腕に黒い光りの塊を掲げ、それをクレシェイドの右肩に押し付けた。

 この人達は何をやっているんだろう。レイチェルは異様な光景にショックを覚えた。あんな禍々しい光りを怪我人に向けて、まるで殺そうとしているみたいだ。

「な、なぁ、2人とも何やってんだ? それ、確か闇の炎って奴なんだろう?」

 サンダーが声を絞り出すようにして尋ねた。

「アタシも、今の今まで確信は持てなかったんだけどね……でも、些細だけど色々手掛かりがあったから、そうだとは思ってのよ。信じられなかったけど」

 ティアイエルはこちらを見ずに答えた。その声は暗く沈痛な心を代弁しているかのようであった。

「何なんだよ、姉ちゃん。一体、どうしてそんなことしてるんだよ?」

 サンダーが戸惑いながら再び尋ねる。

「そうね、いいわ。もうここまで見せたら、クレシェイドも黙ってるわけにはいかないものね」

 ティアイエルは小さく呼吸を整えると言った。

「彼、死んでるのよ。出会った時からね」

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