第4話 「下層に潜むもの」 (中編その2)

 結局、入り口は壁に隠されていた。

 見付けるのに思わぬ時間をかけてしまったが、レイチェルもティアイエルも互いに疲労していたので、休息を取ると言う意味では良かったのかもしれない。問題のその扉は石壁と同じ模様をしていて、僅かな継ぎ目に気付いたのはサンダーであった。この功績で彼は2点獲得することとなった。

 サンダーが扉を少し開くと、その隙間から新たなカビのにおいと共に、灯りの尾が差し込んできた。

 ふと、粗雑な足音と数人の話し声が聞こえて来た。

 ティアイエルの指示でサンダーは扉を閉めた。

「アイツらが来るかもしれない。離れて。構えるのよ」

 レイチェルと、ティアイエルは間合いを取ったが、サンダーは扉に耳を押し付けて向こう側の様子を探ろうと試みていた。

「アンタ、離れなさいよ」

 ティアイエルが声を潜めて訴えると、サンダーは人差し指を唇に当ててこちらを一瞥し、再び聞き耳を立て始めた。

 それから少し経ち、サンダーが二人に向かって言った。

「行っちゃったよ。アイツらさ、もしかして扉に気付いてないんじゃない? 俺達をここで閉じ込めるだけで、最初から先回りなんてする気は無かったんじゃないの?」

「そんなことはお休み前にでも考えれば良いのよ。で、アイツらは何か言ってたの?」

「少しは聴こえたよ。俺、耳良いもんね」

 少年は得意げに歯を見せて微笑むと話しを続けた。

「たぶん、クレシェイド兄ちゃん達が何かやったんだと思うよ。向こう側にしもべの増援がどうのこうのって言ってた。それと何かを壊されたかどうかしたみたいで、随分焦ってたし、かなり怒ってる奴もいたね」

 レイチェルはクレシェイド達が迷宮の罠にでも掛かったのか焦ったが、彼らは無事で、どうやら迷宮をアジトにする何者か達と対峙することを選んだということらしい。

 そもそも、あの二人なら何でも涼しく切り抜けられそうだ。

「まぁ、アタシ達の目的は規定量のベルラゴンの苔なんだから、アンタ達くれぐれもそのことを忘れないでね」

 ティアイエルが念を押すように言うと、レイチェルとサンダーは揃って畏まって頷いていた。

 扉を開けると、まずは火の灯った燭台が見えた。それは壁に掛かっていて、左右の廊下に一定間隔で設置されていた。

「親玉までまっしぐらって感じね」

 ティアイエルが言い、レイチェルも動揺しながらそうだと思った。

 三人は、サンダーが聴いた足音がやってきた方向へ進むことに決めた。どの道、ベルラゴンの苔のために最深部を目指さなければならないのだ。奴らがサンダーの聴いたとおり、本当に増援に向かったとするなら、上を目指す確率が高いだろう。だとすれば最深部は逆方向だ。

 三人は武器を手に廊下を進んでゆく。

 やがて前方に部屋の入り口が見えてきた。扉はなく、遠目からでも赤い絨毯が敷かれているのがわかった。

 踏み入るべきか話し合うため、一行は立ち止まった。すると、部屋の入り口に人が現れた。

 相手は黒い頭巾を被り、黒い装束の上に同じ色のマントを羽織っていた。

「貴様らは……まさか、迷宮の番人スペクターから逃れたのか!?」

 男は絶句し、そして声を上げた。すっかりと余裕の失われた声であった。

「あははっ、残念。浄化したのよ」

 ティアイエルは嘲笑って見せると、魔法の詠唱を始めていた。

「ダウニー、侵入者共が! ええい、出でよしもべ達!」

 敵は部屋の中に向かって叫んだ。 

 すると、聞き覚えのある甲冑を揺らすような音が部屋の中から聴こえ始め、敵の後ろに続々と新たな人影が見え始めた。

 それは甲冑を着た人間の戦士のように思えた。と、いうのは、そいつらの顔が気味の悪い青色をしているように見えたからだ。

 そいつらは甲冑を揺らし、敵の脇を整然と通り抜けると横一列に並んだ。全部で三人いる。蜂蜜色の大きな目が二つあった。

 あれは人じゃない。

「しもべ共、かまえい!」

 列の後方に身を置き、敵が声を上げる。すると、そいつらは揃って矢を番えた弩を構えた。

「さっきのお礼させて貰うわ!」

 ティアイエルが声を上げ、空いている方の手を力強く敵に向かって突き出した。

 すると、空気中に輝く羽虫のようなものが幾つも現れた。

「矢の数本ぐらい問題なく防げるわ。敵が崩れたらアンタ達は斬り込むのよ」

 その言葉が終わらないうちに、鋭い音を立てて矢が放たれる。しかし、羽虫達の前で矢は跳ね返り地面に転がった。途端に羽虫達は、並んでいたしもべ達を襲い転倒させ、空間の中に消えていった。

「今だ!」

 サンダーが叫び、レイチェルと共に敵へ疾駆した。

 ただ一人愕然としている黒装束の男が見える。

 そして、倒れたしもべは、やはり人ではないことに気付かされた。真っ青な顔に、大きな黄色の瞳、口は大きく横に裂けた形をしていたが、極めつけはトカゲと同じ尻尾であった。

 敵の魔術師は身を翻し、部屋の中へ逃げ込んで行く。レイチェルとサンダーは後を追った。

 そこは広い部屋で、一面に赤い絨毯が敷かれている他、壁には一定の間隔で火の灯った蝋燭が掛けられ、頭上にも鎖で釣り下がった燭台が幾つかあった。次に目に入ったのは、奥にある祭壇であった。

 ティアイエルも追い付き、三人は並んで部屋を観察したが、アーサーの姿はなかった。

 隠れられるとすれば祭壇しかない。

 互いに顔を見合わせ、サンダーとティアイエルが挟み込むように左右から近付き始める。

 レイチェルは祭壇と二人の様子を見守りながら、男の逃げ足について疑問を感じていた。

 トカゲの戦士達を打ち倒し、すぐに相手は逃げた。それを追った自分とサンダーとの距離は殆ど無かったのだ。前方の祭壇まで駆け込んだならば、その背を自分達ならば確認できたのではないか。

 ガタン、ガタタタン! 突然、部屋中で激しい音が連なって響いた。

 見回すと、左右の壁が裏返り、新たなトカゲの戦士達が姿を見せた。彼らは甲冑の音を鳴らし、太い剣を抜き放つと一挙に迫り始めた。

 レイチェルは慌てて二人の下へと必死に駆けた。彼女は内心では舌打ちしていた。例え答えが出なくとも、自分の推測をもっと早く打ち明けるべきだった。

 部屋のほぼ中央で三人は背中合わせになっていた。トカゲの戦士達は素早く彼女達を取り囲み、全員が揃って切っ先を向けてきた。

 レイチェルは似たような顔をした戦士達を見回し、あることに気付いた。気のせいかもしれないが、黄色い爬虫類の目には、外見ほどの殺気が感じられない。

「若さゆえか、浅はかな奴らよ。ここは我らが地、我の聖堂だぞ! 我らに利があるのが道理!」

 トカゲらの後ろに魔術師の姿があった。黒頭巾の下には不気味で勝ち誇ったな笑みが覗いている。

 この男の一声で、自分達は串刺しにされるんだ。向けられる切っ先を見つつ、レイチェルは心が半ば折れ始めるのを感じた。

「武器を捨てて、大人しくこちらの言うことに従え」

 レイチェルとサンダーは指示を仰ぐようにティアイエルへ目を向けた。

 有翼人の少女は槍を落とした。それは床に当たって短く絶望的な音色を奏でた。

「分が悪すぎるわね」

 ティアイエルは吐き捨てるように言った。

 レイチェルは驚き、途端に悔しさと怒りとで、敵の魔術師を睨み付けた。身体中が熱く、それに有り余っている力が武器を持つ手を震わせた。

 死ねば諸共だ。しかし、そのために他の二人をも危うい目に合わせてしまう。……それは許されないことだ。

 レイチェルも鈍器を置くと、サンダーもそれに倣った。

「よし、手を頭の後ろで組め。そして跪け」

 三人は言われたとおりにした。

「扉を開けろ」

 敵の魔術師はしもべに指示を飛ばす。二匹のしもべが急ぎ足で祭壇の方へ駆け出す。そいつらは、一番奥まで来ると、それぞれ頑強そうな拳で壁を叩いた。

 壁が縦に割れる。それぞれが左右に横滑りに下がって消えていった。

 新たに現れた廊下にも真紅の絨毯が敷かれている。それは奥まで続いているようだ。

「こいつら、ホムンクルスね」

 ティアイエルが黒衣の男を振り返って言った。

「いかにも。この者達は我らが主の忠実なるしもべである」

「アンタ達の崇める神様ってのはどんな邪神なの?」

「邪神? 残念ながら、そのような非現実的な者を当てにしたりはせんよ」

 レイチェルは思わずムッとした。

「ラザロッソでしょう?」

 ティアイエルが鋭い口調で敵に尋ねると、相手の頭巾の下から覗いている口元が狂喜に歪んだ。

「ほぉ、察しがつくか。しもべ共、こやつらを連行しろ」

 トカゲ戦士達が剣を突きつけながら、三人を立たせようと迫る。

 不意に甲冑の崩れる音が周囲に聞こえ始めた。見ると、トカゲの戦士達が、次々に床に倒れ始めている。

「これは!? 一体どうしたことだ!?」

 うろたえる敵の魔術師のずっと後ろの、広間の入り口に見知った人影が見えた。

 茶色のマントに、青の魔術師の装束に身を包んでいる。

「生憎だが、眠って頂いたのさ」

 ヴァルクライムの低い声は愉快気な響きを含んでいた。

「おっちゃん!」

「ヴァルクライムさん!」

 サンダーとレイチェルは歓喜し、共にその名を呼んでいた。

 ヴァルクライムは杖の膨れたような柄先を敵に向けながら言った。

「リザードマンのホムンクルスか。こいつらの力は並はずれてはいるが、魔術の影響に対しては単純だったようだ」

「ちいっ!」

 敵の魔術師は舌打ちし、懐から杖を取り出した。

 しかし、一瞬で転倒し、その喉下にヴァルクライムが杖を突きつけていた。

 レイチェルもサンダーも唖然としていた。我らが仲間の魔術師は、駆け出す素振りも見せなかったのに、気付けば目の前にいた。首を傾げそうだった、答えは早く出た。彼は魔術師なのだ。

「これも魔術なんですね?」

 ヴァルクライムは、厳しい顔に不敵な笑みを浮かべた。

「そうだ。足が速くなる」

「殺すが良い!」

 敵の魔術師が叫んだ。

「いや、魔術師ギルドに引き渡す。お前らは冒険者達を殺し、不浄なる番人に仕立て上げた。それにホムンクルスの材料にも使ったんだろう? 生命を弄ぶ魔道実験は、魔術師と善なる全ての神殿との誓約によって、御法度になっている。それにな、そういう奴らを捕まえるのが私の仕事でもあるのさ」

 そう告げると、ヴァルクライムの杖は相手の胸を突いていた。黒装束の男は小さく悲鳴を漏らし、その場に倒れてのびてしまった。

「少年、悪いがこいつの両手と両足を縛ってくれ」

「合点、承知!」

 ヴァルクライムが短い縄を幾つか取り出すと、サンダーは、はりっきってそれを受け取り、捕縛に取り掛かった。

 レイチェルは、お礼を言おうと魔術師に駆け寄ったが、今更ながらクレシェイドの姿が無いことに気付いた。

「クレシェイドさんはどうしたんですか?」

「術に慣れてないだけだ。そろそろ来る頃だろう」

「足が速くなる魔術のことですか?」

「そうだ」

 すると、作業に取り掛かりながらサンダーが振り返って尋ねた。

「最初からその魔法使ってくれれば、楽にここまで着いたんじゃないの?」

 その問いにはティアイエルが答えた。

「足が速くなるって事が、どんなもんだか、まずは想像してみなさいよ」

 サンダーは思案するように顔を顰めた。

「はい、アンタ全力疾走中よ。途中に木、岩、槍、家、崖、おっさん、、今の全部アンタの目の前!」

「うわああっ!」

 サンダーは悲鳴を上げた。

「避けるの難しいって事なんだね?」

「それもあるわ。でも、ぶつかって下手したら、その衝撃で身体中の骨が外に飛び出る羽目になるわよ」

 ティアイエルに言われ、サンダーは表情を青褪めさせた。こっそりとレイチェルも今のことを想像し、少年に同じく自分の浅はかさを思い知った。

「それで、どうやらアンタの目的はベルラゴン苔じゃあ無かったみたいね?」

 ティアイエルが責める様な口調で魔術師に言った。

 レイチェルも先程ヴァルクライムが述べたことを思い出した。そういう奴らを捕まえるのも仕事でもある。と、彼は言っていた。

「私は魔術師ギルドに属する魔術師だが、それと共に魔術師ギルドの内務監査官でもあるのだ」

 多少は畏まったような不似合いな口調で彼は答えた。

「最近、近隣に自生するベルラゴンの苔を何者かが独占するという、魔術師の間ではちょっとした騒ぎがあってな。魔術の研究の素材なだけに、魔術師が絡んでいるのは予想はついた。あれだけのベルラゴンの苔を使うほどの研究だ。ロクでもない実験をしていると睨んだのだ」

 魔術師は言葉を続けようとしたが、ティアイエルが口を割り込ませた。

「それで、今回の依頼人は実質はアンタ自身で、調査のための同行者が欲しかったわけね?」

 ヴァルクライムは頷いた。

「冒険者ギルドのマスターは、我々魔術師ギルドが情報を提供しなかったため、この迷宮の危険度が格段に上がっていることを知らなかったようだ。可能ならば、あの男を責めないで欲しいものだが」

 やや困ったように彼は口篭った。

「その辺は勘弁してやっても良いけど、アタシ達の正式な依頼はベルラゴンの苔を持ち帰ることなのよ。これ以上、アンタの御役目の方に付き合う義理は無いわ」

「そうだな。だが、反対側の最下層には苔は無かった。そうなると、残るはその奥ということだ」

 新たに現れた廊下を見詰めてヴァルクライムは言った。

 ヴァルクライムが、違う目的を持ってここに導いたことには、正直多少の裏切りを感じた。だが、彼がその間、何食わぬ顔をしていたかと思えば、恐らくは違うと思う。幾らかクセがあろうとも彼は善人だからだ。そして彼の発する助言には励まされ、仲間同士の軋轢の仲裁にも一役買っていた。自らの任務遂行を急ぐためだったのかもしれないが、レイチェル自身はこの魔術師を好きになっていたし、畏敬の念に近いものも感じていた。彼が五人目の仲間として、今後活動してくれれば、それは今の自分達にピッタリなチームとなるだろう。

「せっかくの信頼を裏切るようですまんな。報酬は不足なく支払う。お前達はここまでで、町へ戻ると良い」

「そうさせてもらうわ」

 ティアイエルが去るために足を踏み出して行く。

 レイチェルはその背に声を掛けられず、サンダーを見るが、彼も戸惑っているようであった。

「ヴァルクライムさんはどうするんですか?」

 レイチェルは佇むだけの魔術師に尋ねた。

「奥の調査に行くさ」

 彼は普通にそう答えたのかもしれない。だが、レイチェルにはどことなく寂しげな感じに聴こえた。

「奥には何があるんだ?」

 サンダーも尋ねた。彼は周囲で寝息を立てるリザードマン達を一瞥していた。

「ここのボスがいるはずだ。外法に魅入られた愚かな魔術師達がな。そこで眠るリザードマン達のように、非道な実験で生み出されたものや、今から創られようとしているのもいるかもしれん」

「白鳥の姉ちゃんが、ほむんくるすって言ったけど?」

「そうだ。このリザードマン達がそれだ。姿形はそうだが、彼らを呼ぶならホムンクルスと呼ぶのが正しいだろう。薬草や、獣の骨や牙、他には生き物や人の血肉など様々な素材を調合し、魔術と掛け合わせて生み出された者達のことだ。そうだな、生きてるだけの人形ような存在だ。そいつらのように、異形な蛮族どもならまだ可愛いものだが、同じ方法で我々人間に似通った者達も創り出す事も可能だ」

 レイチェルの脳裏をティアイエルの呟きが脳裏を過ぎった。ラザロッソ。

「まさか、蘇る」

 レイチェルは絶句し、魔術師を見た。

「そうだ」

 相手はこちらの考えを理解したように、はっきりと答える。彼は真剣な眼差しを向けて話しを続けた。

「古に眠るはずのラザロッソを、こいつら自身の醜い私欲の象徴としてこの世に呼び戻そうとしているのだろう。個人的には断じてそれも許せなかった。何としてでも悲運で哀れで孤独な彼女に、もう一度同じ生を歩ませるような地獄を見せるわけにはいかない」

 ああ、やっぱりこの人は良い人だ。それも思っていた以上に。

 相手の決意溢れる言葉は、レイチェルの心を篤く感動させた。

 そうだよ、止めなきゃ駄目だ。報酬なんかの問題じゃない。これは今を生きる人間としての責任だ。

「俺、走ることしかできねぇけど、おっちゃんに最後まで付き合うぜ」

 サンダーが、魔術師のもとに駆け寄り、相手を見上げて訴えた。

「ちょっと、ジミー!」

 ティアイエルが慌てて呼んだが、レイチェルには殆ど聞こえていなかった。

「私もやります! これは志願です!」

 レイチェルが言うと、ティアイエルが駆け寄って来た。

「アンタ達じゃ、足手纏いだって言ってるのよ! この先にも邪悪な魔術師どもがいるかもしれないのよ。殆ど無駄死にするだけだわ!」

 神の手で生まれた命で無い以上は、神官として果たす役目もある。と、レイチェルは説得しようとしたが、開きかけた口を閉ざすこととなった。

 これから進もうとしていた、廊下の奥から、足音が一つ聞こえてきたからだ。

 他の三人もそちらに目を向けた。

 靴音は甲高くなった後、低くくぐもった音となり、近付いてきている。

「なかなか泣かせる話しだったな」

 嘲笑いとともに相手は姿を現した。

 黒衣マントを纏った男で、同じく黒の頭巾を被っている。後ろで捕縛されている男と、服装は同じだったが、体格の方はずば抜けて大きく、がっしりしていた。

「ヴァルクライム、御高名は伺っている。俺はアンタを見掛けたことは何度かあるが、アンタの方は知らないだろうな」

「そうだな」

 ヴァルクライムは口元を歪ませていたが、相手を見る眼光には鋭い冴えが宿っていた。

「俺はダウニー・バーンだ。そして無様に転がっているその男はアーサー。学術だけは役に立ったが、それ以外では使えない男だった」

 ダウニー・バーンと名乗った男は、失望の目で倒れている仲間を見ていた。すると、相手は素早い動作で、懐から杖を取り出し、その柄をこちらに向ける。

 一陣の風が、四人の間を吹き抜けた。

 背後から短い呻き声が上がる。捕縛されていた男は、発作を起こしたように身体中を激しく痙攣させた後、パタリと動かなくなった。

 レイチェルは敵を睨んでいた。仲間を簡単に殺すさまに、不快感と、それを塗り替えるほどの強烈な憤怒を覚えていた。殺された男は悪い奴だが、裏切られたのだ。今は哀れに思え、それを弄ぶ様に冷酷に処理する敵の姿が許せなかった。

「人質扱いされては迷惑だったのさ」

 ダウニー・バーンはレイチェルを見据えて鼻で笑う。

「どうして! どうしてそんなことができるんですか!」

 レイチェルは思わず叫んでいた。身体中が憎悪で震え、目の前の非情な男の顔面を叩き壊してやりたい衝動に強く駆られていた。

「挑発に乗らないで!」

 ティアイエルがレイチェルの肩を掴んだ。

 すると、後ろで薄気味悪い呻き声が上がった。

 振り返ると、死んだと思っていた縛られた男が、身体を動かしている。だが、その顔はかつての面影はなく、白い目を激しく見開き、涎を撒き散らしながら、歯を剥き出しにしている。まるで野獣のようにでも変わったようであった。

「関わった以上は、ただでは死なせるわけにはいかない。敵でも味方でもな。死して蘇り、我らの役に立て、アーサー」

 ダウニー・バーンの不快極まる声を耳で聞きながら、レイチェルは息を吹き返した男を凝視していた。

 アーサーと呼ばれていた相手は、全身の力だけで縄を破ると、転がるように俊敏に起き上がった。

 喉を獣のように唸らせ、両手の爪が血を撒きながら剣のように伸びる。そしてこちらに躍りかかって来た。

 ティアイエルが飛び出し槍を繰り出した。槍先は相手の胴体に深々と突き刺さり、宿っていた炎がその全身を包み込んだ。黒焦げになった亡骸が無造作に床に落ちた。

 レイチェルは込み上げる怒りのあまり、ついに咆哮を上げ、本当の敵を振り返っていた。そして鈍器を握り締め、破壊的な衝動と共に殴りかかった。

 黒衣の男は、背中に腕を伸ばすや、大斧を取り出した。

 レイチェルの一撃は、分厚くて広い斧の刃に阻まれた。

 すると、相手はすぐさま詠唱を口ずさみ、杖の柄先をこちらに向けた。

 眼前に大きな炎の玉が見え、レイチェルは唖然としていた。しかし、その身体を横から突き飛ばされ、彼女は背後に熱風を感じながら床に転がっていた。

 顔を振り返らせると、後ろの方で絨毯が燃え上がり、その側で剣を手にし敵に対峙しているヴァルクライムの姿が見えた。

「アンタって本当に無謀よ! この馬鹿、頭を冷やしなさい!」

 ティアイエルがレイチェルの側に駆け寄り、彼女の顔を覗き込みながら声を荒げて叱責した。

 レイチェルは慌てた。身体中を動かしていた憎悪の熱が急激に冷めてゆき、彼女は自分の行いについて自省した。

「でも、あの人は、遊び半分だったんです! そうやって仲間の命を操っていたんです!」

「無駄死にだって言ってるの! 私憤なんかで死なれたら、アタシ達がどんなに惨めな思いをするかわかってるの!? 良いアンタ? 落ち着きなさいよレイチェル。敵のど真ん中なんだから」

 宥めるような声がすぐ側から聞こえ、レイチェルは我に返った。

「話しは後、ひとまず離れるわよ! ジミー、援護して」

 ティアイエルに言われ、レイチェルは彼女と共に後ろの壁際へと駆けた。

 サンダーが後退しながら、前方で行われている戦いの様子を見ている。

 それを見てレイチェルは思わず息を呑んだ。

 剣撃の音が前方のどこからか次々と聴こてくるが、肝心のヴァルクライムと相手の姿が見当たらない。

 そしてようやく二人が姿を現した。ヴァルクライムは、茶色の霞を脱ぎ去るようにし、同じく相手も黒い影を割ったかのように姿を見せた。

「お互い加速の魔術を使ったのよ」

 壁際まで来ると、ティアイエルが言った。

 レイチェルは彼女に申し訳なく思った。これは自分には手に負えない戦いであり、彼女の忠告どおり無駄死にするだけだと思ったのだ。

「そのうち嫌でもアタシ達の出番もくるんだから、シャキッとしときなさいよ」

 相手が自分のことを気遣って言ったのかはわからなかったが、彼女のその言葉はレイチェルにいくらかの救いを与えてくれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る