第3話 「魔術師と迷宮」 (中編その1)

 先ほどのテーブルの前には、ティアイエルとサンダーの他にもう一人、男の姿があった。

 その男は茶色のマントを羽織り、その下に暗い青色のローブを纏っている。その男に見覚えはないが、何者かはレイチェルでもすぐにわかった。彼は魔術師だ。

「遅いよ、二人とも!」

 サンダーがこちらに手を振る。ティアイエルと、その魔術師も振り返る。男の艶やかな紫色の髪が揺れるのが見えた。

 二人が近付いて行くと、魔術師が進み出てきて片手を差し出してきた。

「お初にお目に掛かるな。私はヴァルクライムだ。本当はヴァル・クライムだが、個人的に区切りが悪いように思えてな。気兼ねなく繋げて読んでくれて構わん」

 顔は笑みこそ浮かべているが、眼光は不敵にギラつき、まるで狼にでも睨まれているような落ち着かない気分にさせた。

「今回組む事になった魔術師よ」

 ティアイエルが言うと、ヴァルクライムはレイチェルに握手を求めてきた。広い袖口から細い手首と大きな手の平が伸びてくる。一瞬、鋭い爪でも見えるかと思ったが、そうはならなかった。

 積極的な態度に面食らいつつ、彼女は握手に応じた。

「レイチェル・シルヴァンスです」

 レイチェルは握手に応じた。

「神官殿か、心強いな。ラザロッソの迷宮には、手強い不浄な連中がうろついているからな」

 漲る自信とその確信を窺わせる顔で相手は答えた。

 魔術師の視線はクレシェイドへ移った。

「その鎧、特殊な加工が施されているようだ。興味があるが」

「悪いが詳しいことは俺にもわからない。クレシェイドだ」

 二人は握手を交わした。

 それから一行は冒険へと出発した。

 ブライバスンへ向かう街道を半日以上進み、そこで一晩明かすことになった。

 パーティー初の野宿の夕食は、干し肉と保存の利く硬めのケーキであった。健康には悪そうだが、水さえあれば悪くない組み合わせだと思った。だが、クレシェイドだけは食事を遠慮し、離れた場所で剣を研ぎ始めていた。

 会話らしい会話は無かったが、焚き火を仲間達で囲むのは楽しい気分であった。

 ヴァルクライムも、最初の印象とは違い、ズケズケと他人のことを聞きたがる様なことはしなかった。

 クレシェイドと、サンダーが見張りになり、レイチェル達は仮眠に入った。

 そして交代で起こされたときは、あっと言う間だと感じた。

「異常無しだよ」

 サンダーはそう伝えると欠伸を噛み殺し、その場に横になる。クレシェイドはやや離れた木の幹の前に腰を下ろして俯いていた。

 ティアイエルはバッグから本を出して読み始め、ヴァルクライムは焚き火に見入っている様子であった。

 レイチェルは見張りの任を全うしようと、耳をそばだて、時折思い出すように周囲を見回した。

「何か聴こえたかね?」

 闇が薄れ、朝の気配が見えた頃ヴァルクライムが尋ねた。

「いいえ」

 レイチェルが答えると、ヴァルクライムは満足げに頷いた。

「気を張らなくても、聴こえるときは聴こえるものだ。だが、神官には不浄な者達の悪意を感じる力がある。経験を重ね、感覚を研ぎ澄ませば、逸早く連中を見つけることができるようになるだろう」

 彼は立ち上がる。すると、クレシェイドもそれに倣っていた。

 ティアイエルも本から顔を上げ、訝しげに二人の男を見ていた。

「少年を起こして武器を取れ。どうやら彼の寝息が、彼奴等を目覚めさせてしまったのかもしれんぞ」

 ヴァルクライムはまるで冗談混じりのような口調で言うと、不敵な笑みを浮かべて街道脇の茂みを振り返った。

 レイチェルはサンダーを起こしながら、その耳に、はっきりとした音を聴いた。何者かが草むらを掻き分ける音で、徐々に近付いてきている。

 ティアイエルが、バッグから短い鉄の棒を取り出した。彼女が一振りすると、鉄の棒が一気に長くなる。先端に短剣のような刃があり、それは伸縮する短い槍のようであった。

 ついに目の前の茂みが揺れ、レイチェルは初めて強烈な腐臭に気付いた。彼女は、草と草の間から現れた干乾びた手の平を見る前に、その正体を悟ることができた。

 現れたのは、かつては人間の男だった者であった。

 全身は土気色で干乾びており、所々にボロボロの布が纏わりついている。痩せこけた顔には、目玉が無く、黒い空洞になっていた。

「何だ何だ、コイツは!?」

 サンダーは短剣を抜きながら、見るもおぞましいその姿に悲鳴を上げた。

 歩く死者は、その後からポツリポツリと姿を見せ始めた。

 神々の与えし命とは違う偽りの生を持つ者達だ。

 レイチェルは身構えた。

 自分には目の前の屍達を、本来行くべき場所へ送る神官の責務がある。初めての不浄なる者との遭遇に、圧倒されながらも、彼女は懸命に主の加護を願い、浄化の祈りの文句を唱え始めた。

 仲間達の視線が自分に集まる。本当にできるのか? 彼らはこちらのことを心配しながらも、賭けてくれるようであった。

 レイチェルは死者達を睨みながら、利き腕から鈍器を放した。

 すると、彼女の利き手が淡い光りを帯び始め、彼女は一巡する祈りの言葉を更に力強い声音で繰り返す。

 突如、右腕全てが白く淡い光りに包まれ、同時に鈍い頭の痛みと眠気のような脱力感を覚えた。

 死者達は十体以上いるだろうか。覚束無い足取りで茂みを越え、前衛の仲間達へ近寄り始める。

 レイチェルは歯を食い縛った。崩れそうな己の意識に、踏ん張りをきかせようと努めたのだ。

 輝く右腕は岩石のように重くなっている。それを彼女は気力を振り絞り、かつて彼らと呼ばれた者達へ向けた。

 サンダーが自分の剣で応戦すべきか悩んでいる姿が目に入り、レイチェルは心を決めた。

「皆さん、下がって! 私が浄化します! これは神官の務めです!」

 叫ぶと共に懸命に心の中で祈りを唱えた。しかし彼女は浄化の光りが飛ぶものだと思っていたが、いくら懸命に祈りを唱え、そうなるように念じても右腕には何ら変化が無かった。

 祈りの力が足りないの!?

 意識が朦朧としてきた。

 その視界の中で、ティアイエルと、サンダーが、レイチェルを一瞥する。そして見切りをつけたように敵へ向かおうとしていた。

「嬢ちゃん、それ以上の祈りはただの無駄骨だ。気を失うだけだぞ」

 ヴァルクライムの声が聴こえ、レイチェルは己の無様さを意識し、思わず頭に血が上った。

 これは正真正銘の浄化の光りなのに! これさえ当たれば!

 ふと、彼女の脳裏に閃きが舞い降る。彼女は己の全てに鞭を打って敵へ疾駆した。

 擦れ違いざまにサンダーと、ティアイエルが何事かを叫ぶ。

 レイチェルは立ち塞がる屍の一体に向かって、その肩口に、光る右腕を力の限り振り下ろした。

 敵を裂いた感覚は、今までで馴染みの無い感触であった。強いていうならば、本当に朽ち果てた木を圧し折った時のようなものだろうか。

 そのようなことを考えている一瞬の間で、レイチェルの背後では灰塵が飛び散っていた。死者の姿はそこには無かった。

 その結果に彼女は驚くと、この仕業の主を見る。右腕の光りは未だに衰えていなかった。

 これならいける!

 残る死者達を見ると、彼女は彼らに向かって駆け出し、ただただ彷徨うだけの使命を与えられた哀れな命を、次々と灰に変えて行った。

 神官だ。私は神官の役目を果たせているんだ!

 最後の一体を灰として送った時に、彼女は自分の行いに満足し、悦に浸っている己に気付いた。そして激しく嫌悪した。

「そうだ。その自戒の念があればこその神官だ。更に修行を積むのだ」

 ヴァルクライムが言った。

「そうですね」

 レイチェルは魔術師の言葉に少し励まされ、彼に感謝した。

「姉ちゃん、すげぇ! カッコよかったぜ!」

「まったく。あんな無茶よくやるわよ」

 サンダーと、ティアイエルが歩み寄ってきた。

 レイチェルは脚に大きな疲労を覚え、気付いたときには地面に尻餅をついていた。

 急激に眠気が意識を侵略しようとする。まだまだ自分は見習いであったと自省した。予想以上に力を使い切っていたようだ。

「それ消さないの?」

 サンダーに指摘され、レイチェルは自分の右腕が、未だに激しい光りを帯びていることに気が付いた。

 彼女は焦り、消えるように念じた。しかし、効果は無かった。

「アンタ、まさか消えないの?」

 ティアイエルが目を見開いて尋ねてきた。

 レイチェルは、何度か真剣に挑んだ後、有翼人の少女に向かって頷いてみせた。

 このままだと気を失い、その後も身体中の力を吸い取られて死んでしまうかもしれない! 彼女は混乱し、右手を振り回して、光りを取り去ろうと躍起になった。

「レイチェル」

 ティアイエルの声がした。

「馬鹿じゃないの!?」と、有翼人の少女が続けて言うものだと思ったが、彼女はレイチェルの左肩に手を触れると、落ち着き払った顔で言った。

「ただ気を張りすぎてるだけよ。心を落ち着かせるの。そうすれば魔法も役目を終えてくれるから」

 レイチェルは、言われるがまま、努めて心を沈着に保とうとした。

「ほら消えたわよ。よかったわね」

 ティアイエルにそう言われ、レイチェルは自分の右腕が元通りであることを確認した。

 その途端、心細さと、ありがたさが突然心の中を旋回し始め、彼女の瞳から止め処ない涙を溢れさせた。

「ありがとうございます」

 湧き出る感謝の念に押し切られるまま、彼女は礼を述べた。

「このぐらいで泣かないでよね」

 ティアイエルが呆れ顔で答えた。

 そのままレイチェルは視界が急速に暗転してゆくのを感じた。

 見えるものと、聞こえる音の全てが、ぼやけた世界に陥りながら、彼女の耳を幾つかの声が通り抜けていった。

「具合が悪そうだな。まさか浄化の光りに中られたのか?」

 ヴァルクライムの声であった。

「いや、何でもない……」

 苦痛を押し殺すようなクレシェイドの声が応じた。

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