第18話 その声は誰のもの(4)

 ほとんどジェーンのおかげで、2つのカゴはあっという間にイチジクでいっぱいになった。自分がやっていたらこうはいかなかっただろうなと思いながら、傍らの功労者を見ると彼女も自分の出来栄えに満足しているような、清々しい笑みを浮かべていた。


 木の上にいる彼女いわく、太陽もてっぺんにさしかかっているから、集合時間もまもなくだろうということだ。

 春野は、木の実がいっぱいになったカゴを試しに1つ持ってみる。重すぎてすぐに手を離した。


「これ背負えますかね」


 されどジェーンはたいして気にも留めずに「大丈夫、大丈夫!」とサムズアップを決めた。それどころか。


「春野も登ってきなよ」


 思わぬ提案に春野は反射的に伏せていた顔を上げた。


「え、でも私。木登りは」

「この木、登りやすいから大丈夫よ。それに何事も挑戦してみれば、案外できるものでしょ」


 まあたしかにそうかも? やる前から無理無理言っていたら、いつまで経ってもできやしない。

 それに、いつかは自分も彼女と同じように木に登ってイチジク採りをしなければいけないのだ。それに、木登りにはちょっとだけ興味があった。


「わかりました」


 まず、1番低い位置にある太い枝に手を置いた。


「そこに足のかけやすそうなコブがあるから」


 言われたとおりに、幹からわずかに出っ張ったコブに春野は足をかけた。


「で、次はそっちの枝」

「はい」

「そこは滑りやすいから気を付けて」

「わっ、……はい」


 ジェーンの指示に従って、春野はおっかなびっくり上へ上へと登っていく。思ったより高い位置にいたようで、彼女のもとへたどり着く頃には春野は額に汗をびっしょり浮かべていた。

 ジェーンが伸ばしてきた手を取り、ようやく春野は彼女の隣に腰かけることができた。

 すっかり火照った頬を、心地良い風が撫でてくる。思わず息を吐いた。


「結構高いんですね」


 足元を見ると地面がかなり遠い位置にあった。


「怖くない?」

「いえ、大丈夫です」


 木に登るのは初めてのことだったから、最初は尻込みしてしまったけれど。こうやって達成してみれば大したことがなくて、拍子抜けしているくらいだった。

 だが、ジェーンは春野の態度に少なからず驚いているようだった。


「春野は高いところが平気なんだね。人によっては、地面とかなり離れているからそれでビビってやめちゃうんだよ。小さい子とか特に」


 ああ、と春野は納得する。だから小さい子のほとんどは地面にいて、落ちてくる木の実を待機していたのか。

 春野は足をぶらぶらさせる。


「そうなんですね。でも私は高いところってわりと平気なんです。小さい頃に――」


 言いかけて、春野はふと口を閉ざした。

 何故、急に「小さい頃」の話なんて。だって自分には記憶がないはずなのだ。

 あるいは思い出しかけているのか。いったん目をつぶって情報を整理してみようと思うが、これといって思い出せることはない。

 うーん……と、うなる。


「集合っ!」

「わっ!」


 突然かかった号令に、春野は腰掛けていた枝から危うく落ちてしまうところだった。


「春野!」


 隣にいたジェーンが気づいて、慌てて体を支えてくれる。


「もう、気を付けてよ」

「あ、ありがとうございます……」


 2人して順番に木から降り、足元に置きっぱなしにしていたイチジクいっぱいのカゴを――やはり重たかったので、協力してなんとか背負ってから集合場所へ急いだ。


「お疲れ様、2人とも」


 迎えてくれたお母さんも、春野たちよりひと回りくらい大きなカゴに倍のイチジクを詰めて背負っていた。おそらく彼女1人で娘たち2人分の数に相当するのだろう。思わず2人して顔を見合わせてしまう。

 直後、ジェーンは「悔しい~!」と声をあげた。


「春野がいれば、勝てると思ったのに」

「でも私の分もほとんどジェーンがやってくれましたから」


 次はお母さんに勝てるように、2人で頑張ろうねと約束した。

 その頃には木登りだってきっとうまくなって見せると、心に誓って。





 門の内側へ戻って来るなり、ジェーンは空を見上げて太陽の位置を確かめた。まだ昼が始まってからそれほど時間は経っていない。隣にいる春野は、手持ち無沙汰な状態でお母さんたちの方を見ていた。

 お母さんは、周りの女性たちと一緒に今日の収穫量について満足げな様子で、いつまでもペチャクチャおしゃべりに興じていた。時折大きな笑い声さえあげている。彼女たちの足元に集められたイチジクたちは、これから市場に持って行ってお金に変えたり、あるいは明日以降の食事の席に出されたりするのだ。


 ともあれ彼女たちが解散を言い渡さない限りは、子どもたちはずっとこの場に留まったままだ。ジェーンはお母さんを呼んだ。


「どうしたの、ジェーン?」

「春野と一緒に大浴場に行ってきても良い? すごい汗だし」


 今の時間なら女の人も入れるでしょ、と付け加えるとお母さんも気付いたのか空にある太陽の位置を確かめながら「そうね」とうなずいた。


「お母さんたちはこれから市場の方に行かなきゃだから、付き添えないんだけど。2人だけで大丈夫?」

「平気よ!」


 ジェーンはそう言い置いてから、春野のもとに戻って彼女の手を引いた。何か考えに耽っていた春野は驚いたような顔を向けてくる。


「春野、お風呂行こう。お風呂!」

「え?」


 ジェーンは春野の手を引いて、輪の中からはずれた。

 周りにいた子どもたちに「じゃあね」と手を振りあって、その場をあとにする。


「あの、どこへ行くのですか?」

「だからお風呂だって」

「そんなのがあるのですか?」

「……忘れちゃったの?」


 思わず振り向いたジェーンに、春野は申し訳なく思いながらも「はい」とうなずくしかできなかった。

 本当に今の彼女は何も覚えていないのだ。ここで過ごしてきた月日も、いったい今まで何をしてきたのかも。

 どうにかしなきゃと、春野だって思っている。ジェーンが悲しそうな目を見せるたびに、春野も悲しくなった。どうにかして思い出さなきゃいけないのに、どうにもできないもどかしさで、春野のなかのモヤモヤは晴れないばかりだった。


 それから2人はしばらく、お互いに無言のまま歩き出した。先頭を歩くのはもちろんジェーン。春野は、お風呂の場所が町のどこにあるのか知らないのだから。

 春野は、朝にしたときみたいに周囲の景色をもう一度見てみる。が、やはりピンと来ないものばかりだった。そのうち、ジェーンが立ち止まった。手を引かれるまま歩いていた春野は、危うく彼女にぶつかりそうになって、前につんのめるかたちで立ち止まる。


 目の前にあったのはおそらく町中で、1、2を争うくらいに大きな建物だった。

 いったい、家の何個分に相当するのだろうか。10や20程度じゃあるまい。貴族のお屋敷か何かか。けれど出入りする者たちは、裕福な者もいれば、自分たちとそう変わらなそうな者たちもいる。性別や年齢もいっさい関係なかった。


 しばし呆然と見つめ、「これがお風呂ですか?」と聞いた。春野の問いかけにジェーンは「そうよ」とうなずいて、手を引いてきた。春野は誘われるままに先へ進む。


 これが全部お風呂なのか……。辺りを見渡してみて、どうやらそれだけではなさそうだということに気がつく。

 建物のなかには、たしかにお風呂あがりと思しき人たちが体を火照らせ、髪もしっとりと濡れている者たちばかりだったけれど、中庭に目を向ければそこで運動している者たちもいた。


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